〜考察U〜
 もし希望が通れば、この春から養護学校へ3年間の期限付きで移管となる。それに際して、この問題も自分の中で一応の決着というか、考えをまとめておいた方が良いような気がする。

 以前、出生前診断をして、病気を持っていたために一人おろしたこと、今回の診断では健常であったために妊娠を継続すること、これは夫婦で話し合った末の結論。もちろん、この結論を出すまでには、現在の社会状況やゆめを育てた経験、家庭環境、俺たちの両親の状況まで含めている。その上で我々夫婦の考え方や良識にてらして決定した。
 現在、法律上の問題、倫理的な問題、様々な方向から議論がもたれている。個人的には賛同できない主張もあるが、人の命に関わることなので、もっともっと多くの議論がなされてもいいと思う。
 ただ、法律でどのように守られ(あるいは規制され)ても、出生前診断によってもよらなくても、どんな理由であれ、おろしたのであれば事実は一つ。『我が子となるはずの命を一つ殺した。』これにつきる。
 「病気を持ってたからおろした」という言葉の中に、俺はしっかり「俺は人を殺したんだ」という事実を入れて使っているつもりだ。その事実を胸に抱いて、今もこの文章を書いている。


 さて、俺自身の考えを書けば、
1,胎児の状況による、「親の産む産まないの選択」については、基本的には大反対
2,最終的にどうするかは親が判断すべきことである
3,「障害の有無による産み分けは、障害者の差別につながる」という意見には大反対

 これについての詳しい考え・理由は述べない。どう言い方を変えても、失われた命の側から見たら詭弁でしかないからね。ただ、3,については、必ずしもそうではないと言うことを、俺自身の生き方で証明しようと思う。(っていうか、その必要もないことのような気もするけど。。)  
 俺は、「障害を持っていること」がイコール「不幸」だとは全然思わない。それは当の生まれてくる本人が生まれてから判断することで、本人に幸せだと感じてもらえるような人生を歩ませられるかどうかは親の責任大だと考えている。その考えに基づき、俺自身、障害を持っているかどうかで他人を差別しない。皆が皆そうではないだろうが、少なくとも間違いなく1人、いや、ママを入れれば2人、そういう考えをしている人間が現にここいる。



 俺の希望は、ただ一つ。
 障害を持っているか持っていないかで、産むか産まないか迷わなくてもすむ社会になって欲しいということ。それだけだ。
 問題の根本はここでしょ。生きにくいと感ずる社会だから産むか産まないか迷う。産んでも平気だと思える社会なら、誰も迷わない。


 

 もし、診断結果によってどうするかを相談されたら、俺は、「しっかり悩んで、ご夫婦で結論を出してください」と答えるだろう。あるいは診断を受けるかどうしようかを相談されたとしても、同じく夫婦で結論を出すように言うだろう。
 社会の趨勢がどうであれ、これはあくまで家庭の事情だ。他人(国家権力含む)がどうこうしろというべき事じゃない。


 俺は養護学校で、生活に密着した美術、もっとわかりやすくいえば、生きていく手段になり得る美術・生きていく中で活かせる美術を教えたいと思っている。これは今までも普通高校で目指していたものだ。今回は養護学校でやってみる。
 残念ながら、養護学校教諭としての専門知識は全く持っていない。その養成課程でどんな教育をされて養護学校の先生たちができあがっているのかも知らない。それであえて養護学校へ行こうというのだから、無謀といってもいいのかもしれない。でも、俺には、中学卒業から高校教諭になるまでの14年間で得た美術の専門知識・技術がある。ボランティアやスカウト隊の経験など役に立たないだろうから養護教諭としては木偶の坊だろうが、美術の先生としての視線で何かの役に立つはずだ。
 何とか自分自身勉強して、磨いて、生徒たちの役に立つ授業をやりたいものだが、どうんなもんだろうなあ。