親の気持ち

その1 30年前《弟編》
 あの日のことは今でも鮮明に覚えている。今思えば、すべてはあの日に始まったような気がする。
 そのとき私は5歳、幼稚園の年中組。弟は3歳、同じ幼稚園の年少組だった。
 当時私の家では畳屋を営んでおり、仕事場兼住居の裏手には、木戸とタタキを挟んで、畳の土台部分、床(とこ)を作る仕事場があった。12畳ほどの古い木造2階建て住居を丸々工場に当てたもので、黒ずんだ太い柱や梁がむき出しになり、裸電球と蛍光灯の明かりだけでは薄暗く、どことなく薄気味悪いものを感じる。
 一階部分には床を覆い尽くすほどの大きさの、床(とこ)を作る機械がおかれていた。2階部分ははしごで登れるようになっており、今風にいえばロフトになっていて、材料のわらが整然と積み上げられている。そこから1階を見下ろすと、ちょうどできあがった床(とこ)が機械から出てくる部分が見えた。その機械の傍らには不要になったわらを細かく裁断する機械も置かれていて、長いわらをその中に入れると細かいくずになってはき出される。私と弟はそれでよく遊んだものだ。
 運命の日の朝、私は幼稚園に行く準備を終えて、台所で祖母と何かを話していた。たぶん幼稚園に行きたくないとか何かでぐずっていたような気がする。
 そのとき、祖父が勢い込んで裏の木戸から台所に飛び込んできた。
 そこから先の記憶は、音の無い世界だ。
 祖父はたぶん弟を抱いていた。でも、私の目に飛び込んできたのは、弟ではなく、弟の右腕の先、記憶を正確にたどるなら、私が見たのは、弟の右手の先にあった見慣れない白い綿と赤い液体だ。その時は弟の泣き叫ぶ声で私の耳はそれ以外の音を全く聞き取れない状態だった。わずかに聞き取れたのは祖父の、
「手ぬぐい持ってこい!!」
という叫び声だけだった。
 弟の右手は、手首から先がなかった。そこにあるはずの指はすべて無く、ただ赤い液体と、妙に白い綿のようなものが見えていただけだ。幼心にも非常に切迫した緊張感に包まれ、逃げるように幼稚園に行ったような気がするが、今となっては実際にいったかどうかは定かではない。弟は祖父に抱かれたまま、近所の整形外科医に行ったのだろう。何もかも黄色がかった記憶の世界の中で、その白い綿(くずのようになった骨)と赤い液体(血)だけが鮮やかな色彩を帯び、音のない世界の中で、叫び声すらもどんな声だったか思い出せない。
「手ぬぐい持ってこい!!」といわれた祖母は、ただ右往左往するだけで、全く役に立っていなかった。

その2 30年前〜現在《弟編》
 春先の出来事から数ヶ月がたち、弟は名古屋にある大きな病院で手の手術をすることになった。結局弟の右手は、薬指の半分と小指を残してほぼすべてが切断された。今回の手術では残った小指を活かし、さらには幸運にもわずかに残った親指の付け根にさらに骨と肉を足して、せめてものをつかめるような形に整形することが目的だ。弟と母親は入院のため、約1年間家を空けることとなった。しかしこれは私の主観的な時間で、実際はほんの1ヶ月ほどの入院であったようだ。時々祖父に連れられてお見舞いに行ったが、駅の雑踏を祖父と手をつないで歩いている場面や、病室でおもちゃで遊ぶ弟を、非常によく覚えている。そのときの祖父の心境はいかばかりであったか。
 事故の日は両親とも仕事に出かけており不在で、帰ってきた後にことの顛末を知ったと、ずっと後から聞かされた。祖父はその10年後に、自分のせいで弟が手を無くしたと自分を責めながら、ガンで65年の生涯を閉じたのだ。
 この後小学校、中学校、高校と、私たち兄弟はずっと同じ学校で過ごした。小学校の頃はよく
「手なしの兄ちゃん」
といわれたりしたし、弟も泣いてばかりいる母に
「何でそんなに泣くの?つらいのは僕なのに」
といったりしたそうだ。残念ながら我々はそのことは全く記憶していないが。
 弟は元々なのか事故のせいなのか、血液型Aとは思えないほど陽気で明るく、慎重すぎるほど慎重な血液型Bの僕とかなり対照的だった。負けん気も強く、手の不自由さはみじんも見せなかった。それは果たして母への思いやりからなのか、あるいは自分自身の防衛本能なのか、ともかくもやれば何でもできるという自覚を持たせるような母の教育(自分のことは自分でさせ、できることは絶対に自分でやらせる)とあいまって、私自身、弟が障害者だと意識することすらなく過ごした。この間、弟は好きな電車で一人旅をしたり、空手を習ったりと、活動的な青春時代を過ごしたのだ。
 一つ記憶にあるエピソードしては、こんなことがあった。
 空手の道場では決して人に技を使ってはいけないと教える。当然。
 小学生の時、上級生とけんかした弟は、相手の親に怒鳴り込まれた。どうやら(手のことで)からかわれたことが腹に据えかねた弟が、相手が1発殴ってくる間に5発殴ったらしい。空手をやっていれば至極当然だろう。
「障害を持っているからひがんでるんじゃないのか!!」
と、相手の親は言ったものだ。
 母は悔し涙をぐっとこらえて反論しなかった。相手である上級生は、許す代わりに5発殴らせろといった。母は黙って5発殴らせた。弟も耐えた。
 母はおそらくこのとき何かを決意したのではないかと思う。
 今弟は旅行社に勤め、かなり優秀な添乗・企画員として活躍している。結婚して子供にも恵まれ、幸せだと思う。もちろん、これまでになるには私には想像できないような辛苦もなめてきたであろうが、それを我々にあえて話すことはしない。
 しかし、弟の存在は間違いなく、私が一般的に障害を持っていると定義される存在と接する最初のきっかけであり、同時に人の生き方について深く考える第一歩であったのだ。

その3 《スカウト編》
 小学3年生の時、校門のところにおじさんがいた。おじさんは
「カブスカウトにはいらないかい?」
と言った。
 カブスカウトというのは、ボーイスカウトの年少版。ボーイスカウトが小学校高学年から入隊するのに対して、カブスカウトは低学年のうちに入隊するのだ。チラシをもらった私は、それを握りしめて家に帰った。
 私の学校では小学5年生から部活にはいることになっている。3年生の私は特に部活には入っていない。時間はある。そのとき妙にカブスカウトが気になり、活動内容を聞いた記憶はない(絶対に説明を受けているはずなのだが)が、一も二もなく入隊したい旨を母親に伝えた。両親とも賛成してくれて、晴れて入隊となったのだ。
 これがカブスカウトから始まりボーイスカウトまで、足かけ6年間のスカウト生活が始まった瞬間だった。
 私の所属していた隊は、今思うとよその隊と比べるとあまりたいした活動はしていなかったのではないだろうか。記憶の中にもあまりたいした活躍をした覚えはない。でもそれなりに思い出はある。
 
 (赤い羽根募金活動) 
 駅にたち、家々を回り、必死に募金を募った。
 ある年のこと、訪れた家で言われた一言が忘れられない。
「偽善者ぶりやがって、おまえたちは募金しているのか!?」
 私は、はっとした。
 確かに自分では募金していなかった。健気な子供に対してこんなことを言う大人もどうかと思うのだが、たぶん虫の居所が悪かったのだろう。それ以上に自分が募金していなかったことに、自分自身がびっくりしてしまった。

 (車いす体験)
 何のイベントだったのか定かではないが、御老体の乗る車いすを押したことがあった。御老体は歩けはするらしいのだが、車いすも疲れると使うという感じだった。その方に車いすの押し方を丁寧に教わった。同時に車いすというものがいかに乗りにくい(座っていずらい)かもしつこく教えられた。

 (初恋)
 全然関係ないのだが・・・。
 ある時参加したイベントは、浜松地区のすべてのカブ・ボーイ・ガールスカウトが一堂に会する2日間のイベントだった。体の不自由な子供たち(といっても自分と大して年齢差はないのだが)と一緒に紙飛行機を作ったり体操したりした。
 初日、そのイベントに参加していたあるガールスカウトの子に、私は恋をしたのだ。
 翌日の参加は非常に楽しみだった。残念ながらただ一緒にボランティアしただけで、そのままおしまい。は〜〜〜、おしまいだったなあ。今となっては顔すら思い出せない。

 さて、いろいろな場面で体の不自由な方々に接してきたのだが、私の感想はたった一つ。今の私からは自分でも信じられないのだが、
”自分の子供は障害を持っていてほしくない”
だった。
  ませた子供、いやそれ以前になんと不謹慎な子供であろうか。これでは「偽善者」と言われても仕方ない。しかし、これは本心だった。
 それは、私が同じように手足に障害を持っていたら、自分自身が耐えられないから。そう思っていたからだ。
 身体に障害を持っている人たち、その誰に対しても別段いやな感情を持っていたわけではない。かわいそうとも思っていない。なぜなら、弟を始め、誰もが普通に生きているように見えたから。そりゃ、いろいろ大変なのは、弟を見ていてわかってる。私も周りからいろいろと言われた。でもそんなこと全然平気だ。それより肝心なのは、身体の障害が私自身に起こったことじゃないってこと。もし自分の手がなかったら、足が動かなかったら、目が見えなかったら、耳が聞こえなかったら・・・私にはみんなと同じように生きられる自信がなかった。(結局他人事だからと言うのとは違う。そんな単純なものじゃなかった。)
 弟は気丈だ。でも、私は怖かった。自分自身に置き換えたとき、耐え難く怖かった。弟が(少なくとも表面上は)平気な顔して生活していること、何でも自分でできてしまうことを見るにつけ、私にはまねできない、絶対に同じにはできない、そう思わずにはいられなかった。

 今自分は五体満足。であるならば、これから生まれてくる自分の子供が障害を持っていませんように・・・。そう願ってやまなかった・・・。私は、そんな自分がとてもいやだった。今の私には絶対にできない発想なのだが、これが子供の残虐性なのだろう。しかし自分の子供が障害を持っているなどという事実は、これはもう人生の皮肉としかいいようがない・・・・。でも、むしろ・・・、今思えばそれは予感だったのかもしれない・・・。


その4 《人否人》
 小学校低学年の頃、「すてきなヘルメット」と言う歌がテレビで紹介された。目の見えない女の子が、すてきなヘルメットのおかげで目が見えるようになると言う願いを歌ったものだ。その歌を聴き、その子のプロフィールを見た私の感想は、
「目が見えないままで生きていくなんて僕にはできない。きっと死んでしまった方がましだ」
だった。
 当時の私にとっては、目が見えない、光のない世界は全くの異次元。非現実的だった。プラモデル少年だった僕にとって、目が見えないということはプラモデルが作れないことであり、それは三度の飯よりプラモが好きな少年にとってはとうていあり得ない世界だ。「死んでしまった方がまし」というのは、つまりプラモが作れないなら何の楽しみもなく生きていてもつまらないと言う考えから発したものだと思う。子供らしい何とも狭量な考え方。守るものの何もない人間の、浅はかで無責任な考えだ。
 このことを今でもよく覚えている理由は、たぶん自分でもなんて怖い考えだと自分自身が怖くなったからだと思う。弟を見てまねできない自分を卑下していた私には、何ともぴったりな情けない発想だ。
 その後のことはあまり覚えていないが、その後に同じような考えを持ったことは、少なくとも記憶のうちにはない。おそらく自分なりに反省したのだろう。
 今は・・今はこんな風に考える。
 
 高校を美術科に選び、以来14年美術一本に生きてきた私。プラモ歴、工作歴を入れればものつくりの歴史は実に29年になる。この間、ひたすらに磨き続けてきたのは自分自身の腕前だ。工作技術、デザイン技術、染織技術、工芸技術、木工技術と形を変えてきてはいるが、一貫して自分の腕一本にかけるという姿勢は変わっていない。これは親父の畳職人としての気概に影響されたものだろう。その私にとって、自分の体の一部でも思い通りに動かないと言うことは、もう生きている意味を失うことと同義と言える。バイクで事故など起こすとよく考えることが、まさにそれを象徴しているのだが、すなわち、「足ならともかくこの右腕が無くなるようなことがあったら、もう自分は生きていけない」だ。
 実際に私の右腕が無くなったら、じゃあ自殺でもするのかと言われれば、もちろんそんなことはしない。そんなことはしないが、まあ、言ってみればそのくらい右腕に象徴されているものが私にはかけがえ無いと言うことだ。
 しかし、今の私にはこうした思いは、私の中で以前ほどの重みを持ってはいない。右腕に蓄積してきた年月は、確かにかけがえのないものではあるが、それは命に比べれば遙かに軽いものだ。いまなら、それがわかる。単に年齢を重ねたからではない。
 
 いま、もしヘルメットの彼女の歌を初めて聴いたら、全然違う反応だろう。それはまあ当然だ。でも、それは私にゆめがいるから、ゆめのおかげで世界が広がったからではないだろうか。もしゆめがいなかったら、職人に影響される世界に生きてきた私は、もしかしたら今でも全く同じ考え方をしているのではないかと思う。私はゆめや、さらにはゆめのおかげで広がった世界に生きる人たちから受けた影響によって、狭い考え方から脱出できたような気がする。

その5 《帰結》
 僕はママと1996年8月14日に、母校の裏山で出会った。だからといってママが山菜を取りに来て迷子になった近所の農家の若娘だったり、僕が山へ芝刈りに行っていて、たまたまであった物の怪のたぐいがママだったとか言う話では、もちろんない。
 詳しい話は昔話”出会った頃”に書いてあるのではしょる。
 翌年のバレンタインには入籍したが、ゆめが出来たのは1998年に入ってからだ。おなかに子供が居ると知ったときの感想は、「障害持っていませんように」だった。
 実は高校生の頃から当時の彼女の影響で”月刊ハロウィン”なんか読んでいて、霊の世界にやや傾倒し、大学入学したてでその筋の者にたたられ大けが入院。先輩には前世は牧師だと言われ、誰にも言ってなかったのに(実は教職を目指していた)今世では教師か警察官、弁護士が運命と言われ、以来その筋の世界をすっかり信じていた僕は、なぜにこのように障害について敏感になっているのかを自分なりに分析したりした。
 答えは、前世でよほど障害を持った方々に悪いことをしていて、今世では障害を持った方々と近い間柄になるのが自分の業なのではないか、確かに養護学校勤務ってことにも違和感感じないしなあ。(←このとき大学1年生)だった。
 無事ゆめが生まれ、しばらくは表面上は何事もなく過ごしていたが、心中ではずっと「障害持ってないだろうなあ」と思い続けていた。我ながらかなりしつこいと思う。
 これまで非常勤を4年もやってきた自分だが、いい加減30歳にもなるし、ゆめも生まれたし、今回受からなかったら横浜の社長(大学院時代にずっとバイトをしていた看板屋の社長・・・と言っても僕と社長の二人しかいなかったのだが)のところへみんなで行こう。先生なんか辞めてこっちへ来いってずっと言われてたしという覚悟で臨んだ4回目の県立高校美術教諭の教員採用試験。こういうときに受かるんだよね。それまでのことが嘘みたいにばっちり合格。倍率70倍か・・。受かっちまえば1倍よ。
 そんなこんなで翌年は佐久間高校へ赴任。1年が過ぎた頃、異変が起こった。
 「ゆめに発達の遅れあり」
 スパイからもたらされた情報に右往左往。検査の結果、筋ジスと判明。

 「ああ、そうか。すべてはこのためだったんだ。スカウト隊でボランティアにいそしんだのも、自分でも変だと思うくらい障害に対して敏感になってたのも、すべてはここにつながってたんだ。僕があんな小さいときから、ゆめは僕の元に生まれるって決まってたんだ。ゆめが障害持って生まれてくるってことは、僕が小さいときから決まってたんだ。僕はそれを知ってたんだ・・・。」
 自分自身、非常に冷静な思考をしたことに驚いた。これはこじつけか?いや、そんなんじゃない。何かすごく大きなものの意志を感じた。
 「やっぱり」
 それが一番ぴったりくる言葉だった。
 
 ショックだったはずだ。でも、筋ジスのことを告げるママの電話の声が、僕にショックを受け入れさせなかった。病気のことを考える前に、僕はこいつらを一生守って行かねばならないんだって思った。でも実は軽い恐慌をきたし、思わず、しかもなぜか、教頭先生に相談してしまった。これは今もって謎だ。

 5月に入り、杉江先生から筋生検の写真を見せられはっきり筋ジス福山型と告げられた後のある晴れた昼。昼食を買いに出た帰り道、ゆめのこれから、自分たちのこれからを思い、自分自身やっとゆめの病気を受け入れられたのか、初めて涙が出た。 学校へ続く川沿いの道ばたにしゃがみ込んで、後から後から出てくる涙と感情を止められなかった。
 なぜゆめなのか?
 なぜよりにもよって筋ジスなのか?
 もう歩けない、もうしゃべれない。もうお嫁にも行けない。
 そんなにひどいことを僕はしてきたか?
 これが僕の運命なのか?
 障害を持ってうまれにゃならんどんなことをゆめがしたんだ?
 あんなに障害持ってませんようにって祈ってきたのに、何で聞き入れてくれない?
 初めての子供なんだぞ。
 ずっと子供が好きで、待ちに待ってた我が子なんだ!
 それが何で病気なんだ!!
 そして誓った。
 「二度と泣くまい。(病気に)なっちまったものは仕方ない。泣いても直らないなら泣かん。泣くより精一杯仕事して、あいつらを養わなければ。」
 梅雨に入る前のとても暖かな日差しの中、僕たちの行く末を暗示する何ものもない、ただゆるゆると時間が過ぎていくような、風一つ吹かない穏やかな午後だった。ドラマティックなこともない。現実なんてこんなものだ。何の前触れもなく、イヤ実際には人生の約3分の1をかけて予告された、これが現実だった。

 でも実は、もう一回だけ泣いちゃったな。
 あれはゆめの病気が判った年の冬。学校で幼稚園に生徒が出向いて保育体験をするという行事の説明会の時だった。説明を聞いているうち、ゆめが園服を着ることも、同年代のお友達と遊ぶこともない。まして毎年行われるこの行事の時に、ゆめは園にいないって考えたらたまらなくなっちゃって、副担の先生に後を任せて、出払ってて少ししか先生が残って居ない職員室へ逃げ帰ったっけ。でも途中でたまらず廊下にうずくまって泣いてしまった。技能員の方に見られて、少しだけ職員室で心配されたけど、教頭は何もかも知っていたから何も聞かなかったな。
 その後は泣いてない。たぶん・・・。だよな?
 


その6 《養護学校》
 正直言って、養護学校には全然関心がなかった。教職1年目の初任者研修で行った施設では、やはりいつものように、生まれたばかりのゆめ(採用試験に受かった年にゆめが生まれたのだ)が、こういった施設にくるようなことがなければいいと願ってはみたが、それ以上の考えには及ばなかった。
 そんな僕が、養護学校に興味を持ち始めたのは、ゆめの病気が判り、いずれはそういった学校にお世話になる日が来ると決まってから。
 さらにボランティア養成講座に始まり、今では名前を変えて「わくわく土曜サロン」となった、土曜日を児童生徒が有意義に活用するための研究会に参加するようになったきっかけは、実に些細なことだった。

 ゆめの病気が判った6月から時間がたち、やや気持ちの整理がついたつもりでいた夏休み直前、職員室の回覧の中に一枚の紙切れが混じっていた。ともすれば見落としそうな目立たない紙切れには、袋井養護学校で第2回のボランティア養成講座が行われ、ボランティアを募っていると書いてあった。それを一目見て、一も二もなく参加を決め、すぐに申し込みをすませてしまった。以来4年目となる今年まで、講座を通していろいろと考えさせられるばかりだった。
 だいたい最初に参加しようと思ったのは、いずれゆめがお世話になる養護学校という所を見たいということだったのだが、今では参加することが当然という感覚になってきた。そのうちボランティアさんのお世話になるからその前に、僕が誰かの役に立ち、先にお礼をしておく。言うなれば宇宙貯金だな。それにいざボランティアを頼む際にも、自分が頼まれる立場に立っておけばどんな風に頼めば相手がとまどわないかも判るし。確かに最初のうちはとまどいもあったし、何よりゆめの行く末を見るようで不安な面もあった。だが今は毎回の参加を楽しんでいる。
 この違いは何だ?

 以前ママがこんなことを言っていた。
 「パパたちが、特に障害を持った子供の子育てに参加したがらないのは、障害に対するとまどいが大きいんじゃないのか」と。
 ママたちは施設に通い、同じような境遇の子供たちやママと接し、心強い仲間を得たような気持ちにもなり、適切な指導方針も学んでいける。確かに苦労や批判の矢面にも立つだろうが、障害というモノが得体の知れないモノではなく、何度も医者先生と話すうちに科学的にこういうモノだと納得でき、それを抱えた自分の子供も丸ごと受け入れることが出来やすいのかな。逆にパパたちは、当然仕事を抱え、ともすれば仕事に逃げ込むことが出来る。ただでさえ子育てはママに任せっきりという状況になりやすいのに、まして障害という得体の知れないものまで抱えた我が子、それが何であるのか、どう接していけばいいのかという情報も(ママからの報告だけでは)少ない。そんな中でいくら父親だとは言え、状況を適切に認識し、ママと一緒に協力していこうと力強く決心するまでには相当な覚悟が要るのだろうと思う。
 まして施設の保護者交流会なんかに参加するなんて、イヤだろうね。僕もゆめの障害は受け入れたつもりになってはいたけど、最初の2年くらいはなんだかんだ理由をつけては交流会も会合にも参加しなかった。
 怖いんだ。だって参加したらそこにはいろんな障害を持った子供たちがいるじゃないか。その中がゆめの居場所なんだろ?
 怖いんだよ、頭では判っていても、現実を見せられるのが。
 だが、果たしてこんな状態で、こんな心持ちで、子供を障害ごと受け入れたって言えるのか?

 それがまるで180°変わったのは、おそらく養成講座を通して養護学校に行くようになったからだと思う。そこにはゆめなんかよりも遙かに重度の子供たちもいる。同じ病気でも全然普通(厳密には普通じゃないが)に生活している子もいる。誤解を受けることは承知で書くが、実は障害の中でも特にダウン症の子が耐えられなかった(見られないんだ、本当に理由なんて無い。だめなんだ、どうしても。)のに、今では全然平気。言葉通り全然平気になってしまった。まあ確かに養護学校は、総体的に見てゆめの行く末をまんま見せられているようで苦痛な時期もあったが、今は違う。
 慣れた。と言ってしまえばそれまでだが、そんな単純じゃないだろう。
「障害を持っていても一人の人間だと、本当に納得した」
という言い方が、僕の場合にはいいのかな。失礼な言い方だろうか?でも、本当に
「完全に受け入れた」
という感じなんだと思う。健常の子とは反応の仕方が違うだけで、障害持ってたって何ら違わないじゃんか。
 僕の場合はラッキーだった。養護を見ることで、ママたちとは違う形で子供の障害を冷静に考えるすべを見つけられた。職業柄、養護の子供たちを違う角度から見ることも出来た(それについては後述する)。そんなモノ無くても十分受け入れられる人もいるのだろうが、僕の場合は養護学校という場に行かなかったら、きっと本当に受け入れるまで何年もかかったろうし、自分が偽りの気持ちでいること、ゆめを受け入れているような気でいるだけだってことにすらなかなか気づかなかったろう。
 僕は、間違いなくラッキーだった。だが、そのラッキーをつかめたのも、人生に対する僕自身の働きかけであったと思う。

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