P→’s Cafe

〜学生編〜

 夏の盛りの炎天下、緑のGTと赤のGTが樹木のアーチを抜けてくる。僕はその光景を高校のアトリエから見ていた。
 高校2年の夏、2回目の夏休みは、やはり2回目の美術科主催夏期講習会に明け暮れていた。僕は美術科のある高校でデザインを専攻し、大学進学を目指していたのだ。
 そのGTから降りてきたのは、夏休みの講師を務める先生。ああしてバイクで自由に走り回るのはさぞかし気持ちの良いものだろうなあと、籠の鳥の僕は心から思った。
 そういえば、初めてバイクを意識して見たのは、小学3年生の時の通学路に止めてあったスズキカタナが最初だった。かっこよかった。今でも覚えている。あの時いつか自分もバイクに乗ろうと思ったっけ、純粋にそのスタイリングにあこがれて。あれから10年近くがすぎ、改めてバイクに乗りたいと思った。今度は自由を手に入れるために。

 ”自由”を手にしたのは、受験に失敗し、予備校に通い始めた5月だった。春休みにバイトで貯めた金で買ったのは、ヤマハDT50。人呼んで(自称)青い稲妻。何でも持ち物に名前を付ける癖は、このころから始まったようだ。
 DT50は、僕の無茶な要求に実によく答えてくれた。
 ある時はベニヤ板を抱えて20kmも離れたホームセンターから帰り、ある時は真冬に酔った勢いで素っ裸になった3人の若者を乗せて走った。
 そんな青い稲妻は、僕の元から1年を待たずに去っていった。
 無事大学に合格した4月の学校帰り、交差点を曲がろうとした僕は、次の瞬間地面に倒れていた。
 ”事故った!”
すぐに体をチェックしても、特に痛みはない。しかし、よく見ると、左太股のジーンズが裂けている。
 ”少し切ったかな”
と思い、確認した僕の目に飛び込んできたのは、例えて言うなら鶏のささみ、しかもさばいて間もないもの・・・。僕の筋肉だ。
 結局信号待ちしていた高校生が救急車を呼んでくれて病院へ行ったが、30針近く縫う大けがだった。
 ”青い稲妻”は・・・・ガードレールを飛び越え、畑を突っ切り、はるか遠くへ。永遠に僕の手の届かない遠くへ行ってしまった。
 その後、神経が戻らず、リハビリを経てもなかなか満足に曲がりもしない左足を懲りずにバイクにまたがせるのは、その年の夏休みだった。

 事故で青い稲妻が大破。退院後やっと学校に通い始めたはいいが、バスに座ることもできない。まだ足は両方とも曲がらない。左足はもちろんのこと、右足もバイクのタンクと地面に挟まれた衝撃で、筋肉がずいぶんとイカレタらしい。
 立ったまま眺める町並みを追う目は・・・・町なんか見てやしない。
 見ているのはバイク。しかも、中古で買えそうなバイクだ。
 まだ免許は原付のみ。いつか限定解除をと夢見つつ、今探すのは50cc・・・。
 こんな青年を天は見放さなかった。

 たまたまバスに乗らずに歩く商店街。ふと見ると自転車屋の店先に”ヤマハメイト50”が。
 早速交渉、諸経費込みで2万円なり。距離計すら動かないほどのぼろだが、まだまだ走るぞ、こいつは。
 


 やっと両足を曲げることが出来るようになったその年の夏、あの事故3ヶ月が過ぎた。
 まだ町が目覚めない午前4時。僕はメイト50に乗り、小田原の海へ続く国道を走る。そこから国道一号線で、目指すは浜松。僕の実家だ。海沿いの道をひたすら行く。
 冷たい風が何とも気持ちいい。
 早朝の朝なんて高校生の頃、毎朝始発電車に乗るために走った地元の町で経験済みのはずなのに、何かが違う。
 なんだろう・・・・。
 きっと、これは僕が今まで経験したことのないスピードが感じさせているんだ。ほほをなぞる風は、自転車のように優しくない。もっと鋭い。
 腰を上ってくる振動も、これまで感じたことがないものだ。
 目に飛び込む景色はあっという間に迫り、あっという間にすぎていく。
 僕の日常感覚以上のスピードで通り過ぎる何もかもが、僕を非日常へと誘う。
 これが僕が求めていたものだ。
 受験から解放され、気ままな旅に出る今だから感じられる開放感だ。この感覚は青い稲妻では感じたことなかった。いや、もしあのまま乗り続けていれば、この感覚を与えてくれたのは青い稲妻だったのだろう。そう思うとあいつに悪いことしたなと思う。
 
 時間と昇り始めた太陽の角度とともに、次第に目覚め始める町並み。現実感のない世界が、太陽に与えられる明るさとともに急速に現実味を帯びてくる。
 僕の、僕だけの世界は終わりを告げようとしている。ここからは僕はただ、小さなバイクに大きな荷物をくくりつけて、排気ガスと汗でですすけた顔でただ道を行くバイク乗りの一人にすぎなくなる。
 世界の幕が上がる。僕が立つべきじゃない舞台の幕。
 僕はまだこの世界の一員じゃない。こんな普通の日にのんきにバイクで旅するなんて、社会に受け入れられていない半人前のやることだって気がする。
 だから、昇ってくる朝日から逃れるようにひたすら西を目指す。かなうわけないのに。

 親父はバイクで帰ると言ったとき、がんとして承知しなかった。
 理由は”危ない”から。
 ここで言うとおりにすればいつもの僕なのだが、既に自由を手に入れた僕に、親父の声はもう届かない。
 ”自立”
 そうなのかな?
 年齢のせいじゃない。状況のせいでもない。それは何かのきっかけで芽生えるものだ。
 僕の場合、きっかけはバイクだった。ただそれだけだ。
 それにしてもよかったなあと思うのは、自由と暴力を同義にして、しかも大勢でつるんで走り回る連中と志を異にしていることだな。
 自由をバイクに求め、手に入れた自由を暴力の発現に使用し、自己顕示欲の虜になり、ただただ自己満足のために他者をはねのける。マスターベーションを見せられているようで不快な連中。
 彼らはバイクをねじ伏せる。力と金でねじ伏せ、不格好なスタイリングに不相応な排気音をまとわせる。
 そうすることで、いったい何を手に入れるのだ?他者をねじ伏せて手に入れたいものが君らの自由なのか?そんなものが本当の自由なのか?

 メイトに座った僕の背丈ほども高さがあるタイヤが、すぐ横を追い抜いていく。気を抜けば吸い込まれそうなほどの風圧。確かに危ないかもしれない。しかし、何が危ないのかを教えてくれているのも、このバイクなんだぜ、親父。

 その日の夜、家に着いた僕を迎えてくれたのは、無口な親父の背中だった。いつもより飲んでいるみたいだ。
 僕は「ただいま」とだけ告げて、黙ってビールをついだ。
 元々無口な職人だ。何も言わないがあんな大事故の後だもの、僕の無事な帰宅を内心では喜んでいるのだろう。それ以上に独立独歩を腹立たしくも思っているのだろうが。だいたい見舞いにも来なかったし。
 黙ってビールを飲む横顔が、僕はこの親父の息子なのだなあと改めて思わせてくれる。
 その夜、僕は初めて親父と飲んだ。

 初めてのツーリングで学んだことは2つ。
 すなわち、日本の道路標識がいかに難解かということと、愛車”さかな丸”がじゃじゃ馬だということだ。

 高校2年の春休み、僕は1ヶ月だけのショートホームステイでアメリカを訪れた。ステイ先の家ではいろいろな場所へ連れ出してくれたが、移動はいつも車。僕は地図を一枚手に入れて、道案内してもらいながら遊び回った。そのときはさほど気にしなかったが、思い返すといつでも道路標識が正しく我々を導いてくれていた。
 いつか見たテレビでもタレントが同じようなことを言っていた。
 「日本ほど道路標識が当てにならない国はない」
 実際バイクで初めての道を走ってみて、その言葉が実感できる。
 今何号線を走っているのか、この道がどこに続いているのか、本当にわかりにくい。山の中など特にそうだ。
 ”落石注意”
 ”制限スピード”
 ”カーブ多し”
 こんな標識は実に多いが、どれも役には立つまいよ。
 ”落石注意”って、どう注意すればいいの?
 ”制限スピード”もわかるけど、この道で40km?って、追突されるぞ。
 ”カーブ多し”は走ってりゃわかる。それよりカーブミラーを増やしてくれ。それ以前にミラーが壊れてるわ木の枝で見えないわ、役に立ってない。
 思うに日本のお役人は、実際走りもしないで標識をたて、しかもたてっぱなしでいるんではないだろうか。一度太平洋側から日本海側まで、高速道路を通らずに山中を走り抜けてみることをおすすめする。

 この旅は最終目的地が実家だったのだが、ゴールまで残り約70kmといったところで、僕の左腕は既にぱんぱんだった。肩も足腰もがたがただ。
 異様に重たいクラッチ。ちょっとやそっとでは止まらないドラムブレーキ。まだコントロールがうまくいかないアクセル。どれもが乗り手を選ぶかのように言うことを聞かない。
 実際中古で買ったこのマシンには、元のオーナーの癖が染みついている。それを一枚一枚ぬぐい取りながら、ゆっくりと僕の癖をなじませていく。決して力任せでは言うことを聞いてはくれない。癖をつかみ、解放することで、僕の意をくんで動き出す。
 きっと最新型のマシンなら、もっと乗り手に従順なのだろうが、僕のマシンは1978年に誕生して以来、頑固なまでに変わらない姿で居続けている。スタイリングが頑固ならその走りも頑固だ。
 でもいいのだ。一時の安穏を求める者が、鋭い牙を持ったオオカミに乗る必要はない。駄馬で十分。駄馬に乗るのもそれなりに資格(気持ち)が要るし、、駄馬には駄馬の走り方があるのだから。
 

 「ほかに好きな人ができたの。二またかけようと思ったんだけど、あなたがあんまりにもあたしのことを好きだから、黙っていられない・・・。」
 大学2年の2月、まだまだ寒さ厳しい日が続くこの時期に、まるで雪山にでも裸で投げ出されたような気分になった。

 その年の暦年、すなわち大学3年の1年間は、ひたすらに制作に打ち込み、女などには目もくれなかった。来る日も来る日もひたすら作品に情熱を傾け、新しい技術の修得に明け暮れた。
 12月になり、何となく重苦しい雰囲気だった町がクリスマス気分に盛り上がりだし、イルミネーションやショウウインドウに華やかさが加わった頃、僕は一つの計画を立てた。
 ”こんなちゃらちゃら華やいだ町にいられるか。ストイックに生きる身にはストイックな状況がふさわしい。旅に出よう。クリスマスイブに。”
 僕は計画通りクリスマスを目前に控えたある日、荷物をまとめてフェリーに乗った。目的地は九州の日向。これから年末まで、僕はバイクと地図だけを頼りに野宿の旅に出る。女に振られた腹いせじゃない、新しい生き方を見つけるためだ。
 ”この世に僕の思い通りに動くものは、バイクだけだ。”
これが、バイク歴わずか4年の僕の持論だ。一昨年の夏に免許を取り、2度目のロングツーリングに連れ出す相棒の、それが僕の評価でもある。
 同時に、これが”分割日本一周”の始まりだった。

 初めてのロング野宿ツーリングで、僕が学んだことは2つ。
 すなわち、野宿をする場所に適した場所の選び方と、官憲の横暴さだ。

 当時はまだ道の駅がそれほど整備さておらず、道の駅があるような道もあまり通らなかったこともあって、野宿する場所はもっぱら公園や神社、お墓なんかにも寝た。一番多かったのは閉店後の店先、ガソリンスタンドだ。今思えばかなり冒険野郎だった。
 公園は良いとして、神社やお墓は今なら絶対に泊まらない。店先やガソリンスタンドというのも、そこに泊まれると言うことは、それだけ遅くまで走り回っていたということだ。それでいて起きるのは早朝5時くらい。これでは疲れはとれない。
 こんな旅ができたのも、ひとえに若さ故だろう。

 官憲の横暴さは、職務質問のやり方に集約される。今回の旅は10日あまりに及んだのだが、その間職務質問を受けること5回。2日に1回受けていたことになる。それもすべて夜中、もう寝てからだ。まあ、寝てる場所が場所だから仕方なかったといえるが、それでも寝てる人間をたたき起こしてするほどのことだろうか・・。

 九州行きの冬のフェリー乗り場は、何となく閑散としていて、郷里に帰る家族連れにも明るさはあまり見られなかった。待合室のテレビはBS放送で、チェリッシュの特番が流れていた。
「いつも仲がよろしいですよねえ」
「いいえぇ、そんなこと無いですよ。昨日もけんかしたし・・・」
そのせりふが妙に印象に残った。
 そうか、仲が悪かったんだ・・・・。それにしたって、何もわざわざ公共電波を使って夫婦仲の悪さを暴露する必要はないだろうに・・・。

 整備に手間取り、午後7時頃出航したフェリーは、横浜ベイブリッジの下をくぐる。僕は夜気の寒さが厳しい分、星の輝きがとても美しい甲板に出て、星の輝き以上に明るく瞬く、車の波と橋のイルミネーションを見上げていた。
 これからゆく場所は、僕の知らない場所。身のうちの深い場所から感動がわき上がってきた。
 明日、僕は誰も僕を知らない場所で、たった一人で数日間を生きる。たった数日間だが、それは自分と相棒のさかな丸しか頼るもののない、孤独な旅だ。待ち望んでいた自由がそこにある。
 ”今日の宿泊地”に縛られもせず、行きたいところまで走り、止まりたいところで立ち止まる。見たいものを見、食べたいものを食べる。お仕着せの観光じゃない。必要なものを自分で見つける旅。
 期待と不安とが交錯する。
 出立準備の時に感じたわくわくした気持ち。ありきたりの言い方だが、遠足の前日に感じるあの感じが、また僕の全身を包む。初めての彼女、大学合格、それ以上の感動が僕をいつまでもふるわせ続けた。
 ベイブリッジは既に遙か後方に下がり、行く手には何も見えない真っ暗な海原が広がっていた。



 あれから2年と3ヶ月、大学院の昇級制作に合格した僕は、久しぶりに晴れ晴れとした気分で、しかし、実は2度目の傷心旅行で四国行きのフェリーに乗っていた。
 「ほかに好きな人ができたの。二またかけようと思ったんだけど、あなたがあんまりにもあたしのことを好きだから、黙っていられない・・・。」
 こんな、しかも一字一句違わないせりふを、まさか違う女性から2度も聞く羽目になるとは・・・。

 ツーリング雑誌を読んでいて、忘れられない一文を見つけたのが3年前だ。
「目的地を定めず、ただ走り回るだけなら、それは単なる走行会と変わりない。走り回りたいだけならサーキットにでも行けばいい。」
 この一文は、その後もずっと僕の頭から離れず、僕のツーリングのやり方に一石を投じ続けることになる。
 今回の旅でもこの一文を自問自答し続けたことは間違いない。
”はたして、僕の旅は旅ではないのか”

 僕は目的地を定めない。いや、正確に言えば目的地はある。ただ、今日はどこそこの方角という感じで、かなり漠然としているので、どこそこの町のどこかの宿という具合に具体的ではない。出立前に地図とにらめっこして、一応こことここと・・・・を見よう、ここは行こうと決めるし、実際一つの目的地を見終われば次はどこそこへ行って何を見るとその都度決めてはいるが、この日はここへ泊まり、次の日はここまで行くというように細かく決めたりはしない。まだロングツーリング4回目と経験が浅く、1日でどのくらいいけるものなのか想像できないと言うこともあるが、それ以上に、これは僕の性格だろう。
 目的地を決めたくないのだ。
 目的地を決め、宿を予約したら、間違いなくそこまで行かねばならない。それ以上進みたくても進むわけにはいかない。それがいやなのだ。
 束縛。
 束縛されたくないのだ。
 スケジュールとか、1日の予定とかを決められるのが大嫌いな人間が、まさか自由に走り回る鉄馬を手に入れたのに、わざわざ自分で自分を縛れるわけがない。
 ただひたすらに知らない道を行く。この先のカーブの先には何があるのか、ここを曲がるとどこへ行くのか。この道はどこにつながっているのか、その先にどんな景色が広がっているのか。
 ”知りたい”という気持ちだけが僕を突き動かす。

 でも、やはり気になるのはあの一文だ。
 僕の旅は走行会にすぎないのか?

 それを考えながら、今日も走る。


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