そのとき俺は、仲間とともに寂れた鉱山町にいた。裏切り者を始末するために、仲間数人とともに、これからやつのねぐらに殴り込む。獲物は棍棒。仲間が持っているものは鉈に鎌。大して違わないな。
 物音を立てないように薄暗い石段を進み、いざねぐらに飛び込むと、すでに室内はもぬけの殻。裏口からあわてて逃げ出すやつの後ろ姿がちらっと見えた瞬間に、すでに俺は仲間十とともに外へ飛び出し、挟み撃ちにするために散った。まるで映画みたいだなんて考えていた俺の目の前に飛び込んできたのは、すでに息絶えたやつの骸。直接手を下さなくて住んだことに安堵したのはつかの間、今度はこちらが官憲に追われる番だ。逃げ回っているうち遠くでベルが聞こえた。
 ベル?いったい何の?
 電話の音か?


 はっと目覚めた僕は、すぐに夕べ目覚ましをセットしておいたことを思い出した。確か目覚ましであってモーニングコールじゃなかったよな、なんてことを0.0037秒で考えながらも、手にはすでに受話器を握っていた。聞こえてきたのは添乗員さんの声。
「おはようございます。朝食はすでにお済みですか?」
 へ?今何時よ?
 あわてて時計をみるとすでに8時過ぎ。
 おかしい。確かに7時すぎにセットしたはずなのに・・・・・。なんていぶかしんでいる暇はない。急いでゆめとママを起こして10分後には朝食をとった。
 それにしてもおかしいな〜〜目覚まし止めた形跡はないから確かになってないはずだが・・・
 

 よくよく目覚ましを見た僕の目に飛び込んできたのは、”7:10 PM”の文字・・・。
 午後じゃないか!!
 確かに確かめなかったのは悪いと思うけどさ、ビジネスホテルの目覚ましが、まさか午後にセットされてるなんて思わないじゃないか。時間もちょうどいいからそのまま”ON”にしたのに〜何で午前じゃないのよ〜〜
 その理由はおそらくこうだな。
 
 とある事情で人目をはばかる関係の二人。互いの体を欲しながらも、地位やプライド、あるいは後ろめたさがじゃまして・・・・・おいそれとラブホテルに行くほどには落ちぶれていないと思っている。あるいは如何にも体だけが目当てといった感のあるラブホには抵抗があるのか。
 ”愛”か・・・
 つぶやいてみる。
 守るべき家族がありながらほかの女を欲する自分に、果たして愛などというものが意味のあるものなのか・・。ただただ肉欲の奴隷に落ちぶれてしまっているのではないか。忙しい日常からの逃避ではないのか。妻よりも自分を理解してくれていると勘違いしているだけではないのか・・・。一言も離婚をほのめかさない女の真意はわからん。呼べば会い、体を重ねる・・。都合がいいと言えばいえなくもないが、従順すぎる女の態度にうっとおしいものも感じている・・。
 向かう先はいつものオリックスブルーウェーブホテル。小洒落たビニネスホテルだ。8階の窓からは夕闇の迫った浅草寺が見える。女の使うシャワーの音がかすかに聞こえる部屋で、男はたばこを吸いながら、いつまでこの関係が続くのかと思う。
 そういえば、今日はこれから重役会議だ。年度末決算期を迎え殺気立っている幹部連中・・・。今期は赤字決済から逃れられないだろう。いつまでも会社の金が自由になる訳じゃない。その意味からもそろそろ潮時かもしれないと思う。
 ふと目に止まったデジタル時計。いくら何でも今日の会議は遅刻するわけにはゆくまい。この時間からではタクシーは使い物にならない。地下鉄を使うにしても7時には出なければならんか。
 男の手はゆっくりとアラームをセットする。
 ”7:10 PM”と・・・・

 なんてな。

世間ではもう文化の秋だっていってるってのに、俺はやっと遅い夏休みだ。彼女と二人めったに会う機会はないけど、こうやって時々休みが合えば、初めてであった場所、ここへ来てしまう。
 ・・・本当は本場スペインはマドリードで会ったのだが、そうそう海外旅行などできるわけない。忙しい仕事の合間、つかの間の休息と出会った頃の気持ちを確かめたくて、こうして少しでも日常から離れ、あの日の景色に近いここへ来てしまうんだ。
 『パルケエスパーニャ』・・・

 午後5時。今彼女はパルケエスパーニャを一回りした後で、日頃の疲れが出たのかすっかり寝入っている・・。
 今日は彼女と初めて会ったあの日からちょうど2年。少し奮発してパルケエスパーニャの横にある『ホテル伊勢志摩スペイン村』に泊まることにした。迷路のように入り組んだホテル内は、まるで本物のスペインの町中を彷彿とさせる。少しきれいすぎるきらいはあるけれども・・。

 「次に会うまで、待つ時間がが楽しい」・・・彼女はよく言う。

 彼女と出会ったとき、俺は海外取引で部長のお供。日暮れまで腹のさぐり合いに終始する会食を続けることに疲れた俺は、口直しに公園で一人たたずんでいた。彼女も・・何故か一人で歩いていた。理由は未だに知らない。彼女は話したがらないし、無理強いして関係が危うくなるのも怖い。
 「日本から来たんですか?ご旅行で?」
 「いえ・・・・取引・・仕事です。」
 このごろの女性は自分から積極的に話しかけてくるのか・・。海外の開放感か、それとも日本語に飢えていたのか・・。少し会話しただけで別れたが、日本でまた再会することになるとは・・。
 まるで三文小説のようだが、1億以上の人口を誇る日本の都市の片隅で、彼女と偶然に再会したのは病院だった。
 情けない話、仕事に疲れ胃を壊し、入院したK病院に彼女は看護士として勤務していた。
 「良く、すぐに僕だってわかったね。」
 「あなたのその声・・。」
 「え?」
 「ほら、その少しとまどったような声、わたしが病状を聞いたときの声があの時と同じだったから。」
 声でね・・・。そういう記憶の仕方もあるのだな。

 パルケエスパーニャではもうクリスマスのリースや飾りを売っていた。気の早い話だと思うのだが、彼女にいわせれば楽しみに待つ時間は長いほどいいそうだ。
 午後8時から花火が上がるという。夜のパレードもあるのかな。ホテルを出る1時間も前に起こせば、身だしなみを整える時間を考えても十分間に合うだろう。花火を見たら、今夜は遅くまで彼女とすごそう。ゆっくりと。
 俺も少し寝ておこうか・・。
 ベットサイドの時計を、俺は『7:00pm』にセットした・・・。


『俺が初めて鎌倉へ行ったのは、10年も昔の、5月の気持ちの良い風が吹く晴れた日曜日だった。俺と一緒に走りたくて中型免許を取った彼女、まだ長距離ツーリングは無理だから、その日は彼女の愛車を俺が運転し、彼女はハンドルの代わりに俺の背中を抱く。

 こんな休日は必ず渋滞する、鎌倉の海岸道路。俺のバイクよりもほんの少し幅がある彼女のハーフアメリカンバイクは、渋滞を横目にすいすいとすり抜けてゆく。

 市営駐車場では、ガレージセールが開かれていた。
 バイクを停め、彼女と一緒にしばらく歩いた。


 俺は時計をしていない。腕にはめるのが何となく嫌なのだ。その代わり、懐中時計を愛用している。その時ちょうど故障中で、良いものがあれば買い換えても良いなと思っていた。

 いくつめかの店で、なかなか見目の良い懐中時計を見つけた。渋めの色合いにシンプルなスタイリング、デザインの良い文字盤、10kg気圧防水。こういう店にしては値段はやや張るが、新品なら仕方ないかなという程度だ。

 その日のデート代にと持っていた現金をすべて使ってしまう値段だが、彼女は快く承諾し、俺は晴れて、その懐中時計を手に入れた。


 それ以来、俺はその懐中時計をずっと愛用していた。日本中を野宿旅行するときも、一緒に旅して回った。バイトで商品を納めに行くときも、時間を教えてくれた。そして、その彼女と別れる瞬間も、俺と一緒に記憶を刻んだ。


 その時計は、今はもうない。
 数年後に結婚した今の妻が、新婚間もなくGパンと一緒に洗濯したのだ。さしもの10kg気圧防水も、年月と共に痛んでいたシーリングは洗濯の水流に負け、ついに永遠に時を刻むことをやめた。別段、そのときの彼女を引きずってはいなかったし、妻もその時計の由来など知らなかったのだが、何となく一つ何かが終わった気がした。

 
 その後、ついに腕時計を買った。社会人としては時計を持っていないことは不便だし、懐中時計はまた洗われてはかなわないしで、悩んだ末に腕時計にしたのだ。
 しかし、結局今はその腕時計もしていない。電池が切れた時を境に、はめるのをやめてしまった。

 やっぱり俺には腕時計はむかない。

 また新しい懐中時計を探そうかな。』



これは実話だ。
 外資系の大手企業。全国的にフランチャイズ店舗を展開している。
 ある人、仮にFさんとしよう。そのFさんの家の近所に大手フランチャイズの店舗がやってきた。Fさんは最初は喜んだ。田舎だと思っていた我が地域にもついに大手の進出がなったと。その店は立地条件が良かったのか、地域で一番の売り上げを誇るまでになった。
 同時に、Fさんに災難も降りかかった。
 自営業を営むFさんは、駐車場とは別に目の前の道路を挟んだ向かいの歩道に車を止めていた。店の従業員のワゴン車だ。また、遠くに住む子供達も帰省の際にはその歩道に止めることも多かった。その歩道、幅が10m位あり、車を止めても何ら支障がない上に、大きな松並木もあり、その間に止める分にはどうせ死角となる場所なだけに、Fさんが店を開いてこの方50年近く、苦情がでるどころか警察すら黙認していた。
 さて、事件は件の大手店舗が開店した5年ほど前にさかのぼる。たまたま駐車場への入り口の一つが、Fさん達が昼間車を止めている場所の横5m程のところにある。Fさん達が車を止めるとちょうど駐車場の入り口を案内する看板が見にくくなるらしい。(実際にはたいして見にくくないらしいのだが)
 最初はFさんが車を止めている場所のすぐ目の前の家(この家の人にすらじゃまになっていないのだ!)の人から、件の店の店長から「この車を止めているのは誰ですか」と問い合わせがあったと教えられた。また、Fさんの従業員も「迷惑だ」と言われた。それでもこちらも商売なんだとどこ吹く風でいたFさん宅に「建設省から車をどかすように通達を受けたからどかして欲しい」と件の店から電話が入った。そんな話があるだろうか?建設省が、何でうちにじゃなくてそっちに電話するのよ?また、別の日には、Fさんとこの従業員が車をおけないようにとその店舗の登り旗をおかれたり、バイトの子のモノらしい自転車を置かれたりと、その妨害は日に日にエスカレートしていった。
 年月がたち、妨害もなりを潜めたある日、たまたま県外で働くFさん宅の子供が帰省し、問題の場所に駐車すると、すぐに警察がやってきて駐車禁止の鎖をつけだした。たまたまその様子を見つけた子供さんがすぐさま飛んでいくと、「匿名で電話があった。通報されたんではどうしようもない」と、抗議むなしく違反切符を切られたそうな。こんな事は50年のうちで初めて。その店舗が出来てからの5年ほどのうちでも初めてだ。一体誰が通報などする?近所の人でないことは確か。駐車して迷惑だと言ってる奴は・・・件の店舗しかいない。これまでの経緯を考えても他にいないだろう。怒ったのはFさんとその子供達。だいたいFさんは、その店舗が出来たおかげで道路の渋滞がひどくなり、店の運営にも支障が出だしたと言うこともあり、他に店を移している。でもお互い客商売だからと文句の一つも言っていないのだ。従業員だって店を移動したからもはや停めるのは子供達だけ。その帰省したときに止めている子供達だって何ヶ月も毎日止めっぱなしにしているわけではない。時々帰ってきたときに止めているだけで、普段は誰も停めていないのだ。しかもそもそも件の店は直接Fさんと話し合おうとしたことは一度もない。そこへ持ってきてしかも県外から年に数回しか帰ってこない子供が違反切符を切られたのだから怒って当然だろう。これが天下の大企業の営業方針なのか!?その店の敷地内だとか、入り口をふさいでいるとでもいうならともかく・・・・。その夜Fさんは、息子に頼んですぐに件の店舗の大本締めの会社へメールを打った。
 事実をありのままに。
 法律上、歩道に車を止めていること自体の非は認めつつも、場所は決してじゃまになっているとは言い難いのに一度も話し合いの場がないまま意地悪をされ、挙げ句にいきなりの最終手段に出た暴挙を、一利用客として残念だと言う思いを込めて、決して非難や中傷にならないように。
 まあ、金曜日のことでもあるし、月曜日くらいに返信があるだろう程度に思っていたFさんだったが、そこは大手、やることが早い。次の日の午後には親会社のえらい人らしき人物と件の店の店長が、Fさん宅を訪れた。
 「メールの内容と事実が違う部分があるので訂正します。通報したのはうちではありません。車は長期間でなければ止めてもらっても結構です。」
 店長さんはふるえながらメールのコピーを手渡していった。
 それだけ。
 他に一言もなし。
 新しく開店するに当たって、すぐ隣と言っても過言ではない場所の老舗に対して開店の挨拶に来るでもなし、地元の昔から住む人に対して自分のとこの利益だけでいろいろしてくれた挙げ句の果てがこれ?まさか本社に報告されるとは夢にも思ってなかったと言わんばかりの反応。本当に違ったんならふるえる必要あるまいに・・・。これまでの経緯を考えれば他に通報などする人がいるもんですか。おそらく店長の一存でやったことでしょう。確かに「(その店舗としては)うちじゃない」んでしょうね。
 でもね、やはり地元と仲良くやるって言う姿勢は大切だと思いますよ。
 そう言えばこんな話もある。
 ある町の新任の警察署長。成り立てで張り切っていた。その町の中学校の脇の道では、父兄会があるたびに路上駐車があふれかえる。別段じゃまになってるわけでもないたんぼ道らしいのだが、規制に燃える署長は部下の反対を押し切って取り締まった。
 結果は、怒りに燃えた地元父兄や婦人会の反発に会い、署長はあっけなく移動。
 何というのかな、昔からそうしてきたんだからと言う考え方や有り様は、一概に正しいとは言えない状況はあるし、時代の流れでそう言うモノも取り締まりの対象にはなりえるのだろうが、規則とかモラルとかを超えて、人として超えてはいけないやり方ってモノもあるような気がする。実力行使に出る前に、まずは通達や警告や話し合いでしょう。
 じゃまならじゃまで、店のオーナーと話し合えばいいし、父兄会の時は駐車場を確保しなさいって中学校に言えば良かったんじゃないのかな。いきなり実力行使はあんまりに人情がない。やっぱ話し合うって大事だよな。顔を見ながらじっくり話し合って、気持ちを伝えて、お互いに妥協しあう。現代社会はその点がとても希薄だと思うよ。実際我々だって幼稚園のことではいろいろあったけど、顔を見ながら話し合ったことでお互いに分かり合えた部分は多い。言葉通りに受け取れば、園長先生だって「顔を見て話し合ってよく理解できた」って言ってたし。今の担任の先生だって非常によくしてくれている。顔見ながら状況を話し、実際にゆめと交流している結果じゃないかと思う。今の幼稚園の有り様は、全国的に見ても希有な例だと思う。いずれそのことは報告したいと考える。どこの幼稚園、どこの地域でも、ゆめの通うこの幼稚園やこの地域と同じようにしてくれれば、障害者にとってこの上なく住みよい日本となるだろうし、これこそユニバーサルデザインだと胸を張って言いたい。今我々はこの地域に住んで、本当に幸せだ。
 顔を見ながら腹を割って話す。絶対に大切なことだ。



今日は5連ちゃんの授業で大変に疲れた。いや、単純に5連ちゃんの授業なだけならそんなものは慣れっこだ。今日は放課後に面接もあったし、新入生が見学に来ていることもあって、部活も気合いが入っていたし、カリキュラムの編成にミスがあったらしくてその対応にも追われた。とにかく忙しかったのだ。9時頃帰ってきてからもずっと明日の「総合学習」で見せるビデオの編集作業をしていたし、クラス通信も書いたし、進路希望調査の集計もした。くたくたになりながらも仕事は途中だが一息入れるために疲れた体を、新聞の紹介記事で見てすぐに書店に注文し、今日やっと手に入れた「まれに見るバカ」洋泉社刊・720円を手に湯船に浸し、1日で一番のリラックスを楽しもうとしていた矢先、午後11時、そう今まさにこの日記を付けている今、私は失意のどん底にいる。
 もう、思いっきり素に戻ってる。
 何があったかって?・・・・・・
 
 どうも変だと思ったんだよね。なんかクサイのさ。でもまさかあいつがここにいるわけないし。でも、どう記憶の糸をたぐっても、該当するのはたった一つ。
 このニオイの元は・・・・・・・・
 『カメムシ』ただ一つ・・・・・・。
 あわてて湯船の中を探したら・・・・・・いたよ。しっかり茹で上がってひっくり返り、6本の肢を内側にきゅっと曲げ、黒っぽくなった腹を見せながらお風呂ジェットの水流に翻弄されてくるくる回っている1匹のカメムシが・・・・・・・・・。
 僕は知らずに5分ほどカメムシと一緒に入浴してしまったというわけ。そしてあわてて飛び出し、濡れた体を拭くのもそこそこに急いでお湯を流し、この哀れな体験を、この羞恥に耐えない経験を、カメムシエキスたっぷりのアロマ風呂に入ったという一生の恥を、記録に残すべくぶつけどころのない怒りと悲しみとともに、この神聖にして不可侵の、ゆめの聖域ともいうべき「つれづれゆめ日記」の紙面に事実をぶちまけているというわけ。
 あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜もう!
 くそカメムシ!
 バカカメムシ!
 カメムシなんか、大っきらいだ!!!
 今までは、かわいそうだし、クサイの出されたらやだし、「一寸の虫にも五分の魂」と思って、見つけてもそっと逃がしてやってたけど、もう勘弁しないぞ!
 次からは見つけ出し次第踏みつぶして、ぺしゃんこにして、ぐちゅぐちゅにして・・・・・・・・・
 出来るモンならそうしてやりたいよーーーーーーーーーーーーー!!!!!!

 おっ?地震だ!
 まさか東海沖地震じゃないだろうな?!
 いやだぞ〜〜〜〜
 今、素っ裸にガウン羽織って風呂を入れ替えてる真っ最中なんだからな〜〜〜〜。


 誰か、「これは夢だ」といってくれ=============

『男は誰もみな無口な戦士 笑って死ねる人生それさえあればいい・・・』

何もかも終わった後、思わずそうつぶやいちゃったなあ。
健さん…

公用車で搬出に向かったとき、確かに車内には俺ひとりだった。
アクトシティー浜松で搬出作業を終え、作品を積んで出発するまで約40分。その間公用車の鍵は開いたままで、搬出入フロアになっている地下2Fの駐車場に止めていた。
3列シートタイプのバンのセカンドシートに荷物を積み、薄暗い地下駐車場を後にして、快晴の空のもとへ走り出て5分ほどたったときにそれは起こった。

目の端に黒っぽい影が走った。

車の流れも落ち着いている午前11時だが、それでもそうそうよそ見しながら走れるほど安全な町じゃない。気のせいかもと思い直して前方の信号に注意を向けたとき、突然俺の目をふさぐように影が差した。

「うわーーーーーーーーーーー」

運転中に目隠しだなんて!
影が差したのは一瞬だったが、その一瞬で俺はそいつの正体を悟った。
目の端を走る”黒”。
ホントは最初から気が付いてたんだ。でも、認めたくなかったんだ。
あいつと2人、この”車”という密室に二人っきりだなんて、耐えられないじゃないか。
でも、認めざるを得ない。
いまや奴は、白昼堂々とその裸体を曝しているのだ。
見たくなくても見てしまう。
見たくないと思うほど目が引き寄せられる。

奴がまた動いた。まるで俺の視界にわざと入ってこようとしているみたいに。
俺は悲鳴を上げた。冗談じゃなく、密室なのを良いことに、運転中で他人に顔を見られる心配がないのを良いことに、精一杯でかい悲鳴を上げた。

奴は悲鳴にひるむわけもなく、今度はまっすぐ俺の方へ向かってきた。狭い車内だ、あっという間にここまで来てしまう。
俺はまたしても叫んだ。不覚にも、あまりの恐怖に泣き出しそうになってしまった。

いっそのこと車を停めて降りてもらえばいいのだが、パニクってテンパっている頭には、そんな考えは浮かばなかった。

そしてついにその瞬間はやってきた。
徐々ににじり寄って来ていたはずが、いつの間にか見える範囲にいなくなった。姿が見えなくとも車内にいるのは間違いない。姿がなければないでかえって恐怖感が募る。
どこにいるのだろう、どこへ隠れたんだろうとびくびくしながら運転していた俺の目の前に、奴はいきなり現れた。
奴は頭上から降りてきた。
いきなり俺の右まぶたの上に飛び乗った。
俺は叫んだ!
俺は叫んだ!
俺は叫んだ!

ハンドルを握る手がすべっっった!
急ブレーキを踏んだ!
怖くて目が開けられない!
前が見えない!

幸いにもそれは、既に郊外へ出て車の流れも途絶えがちな道の、信号で停車しようとしていた最中に起こった。スピードもほとんど死んでおり、多少の蛇行で車は止まった。そのまま横のコンビニに車を突っ込んで、あわててはたき落とし、あまりの恐怖に半狂乱になりながら何度も何度も踏みつけた。
こんな恐怖を味あわせてくれた奴には、俺の人生から一生涯ご退場願うしかないじゃないか。

『男は誰もみな無口な戦士 笑って死ねる人生それさえあればいい・・・』

黒白になって平べったくなった奴が、そう言ってる気がした…。
いま思えばぎこちがなく、キレのない動きから察するに、長いこと食料もない車の中に閉じこめられていたのだろう。気力体力共に尽きかけていた奴の、これが最後の一花だったのかもしれない。


妊娠中で料理が不都合だったママが、めずらしく張り切って料理をしようと思い立った。何を作るのか知らないが、買い物に出かけてまもなくの午後5時32分、ゆめは久々にオマルに座った。
たっぷり15分かけてすべて出し切ったゆめは、

「ふ〜〜」なんていいながら、とても満足げだ。
それではと小さな体を抱えてのぞいてみると結構手強そう。ちょうど手近にあったおしり拭きを大量に用意し、きっちり拭き上げ、おむつでパッキングを完了した。
今まさに、惨劇の幕は静かに上がった…
オマルの中身を捨てようとトイレに向かって、はたと気づいた。
『チョット待てよ、これって流せるナップだったか?』
あわてて確認すると、残念ながら水に溶けないタイプのおしり拭きだ。
『ということは、このまま便器には捨てられないぞ。溶けずに詰まっちゃうよなぁ。かといって、ぶつはちょっと”びち”はいってるからナップもすっかりぐしょぐしょだ。新聞紙にくるんで捨てるってわけにもいかないし…っていうか、うちは新聞とってないし…困ったな……』
片手にオマルのバケツを持ったまま、2分間ほど廊下に突っ立って思案に暮れた。オマルの中身は匂い立っている。外は夕日がまぶしい。明日もきっと良い天気だろう。窓から斜めに差し込む太陽の最後の輝きが、暗い廊下に立つ俺を赤く照らし出す。傍らの姿見鏡には、片手にオマルバケツを抱えた、情けない30男の姿が映っている。その鏡に映った自分の背後、洗面台を見たとき…洗面台…シャワー…

ひらめいた♪
俺はすぐさま行動を開始した。
主戦場は台所だ。『流しなら、排水溝には生ゴミ溜めがはまってるじゃん。あそこに一気に流し込めばいいんだ。うまくすればナップ以外全部溶けて流れてくれるかも。うっしっし』
台所の興亡、この一戦にあり。リミットは、ママが帰ってくるまでの間だ。残り時間は少ない。俺は素早く現状を確認した。手持ちの駒の中で、いま展開できる部隊は、オマル特戦隊、換気扇隊、付近の住民誘導隊、最終兵器・アルカリイオン湯砲だ。
「ジッ 各部隊、配置完了したか 送れ。」
「こちらイオン砲、お湯の温度良好です。すぐにでも最高温度にまで持っていけます。いつでも放射可能。」
「換気扇隊、回転始めました。」
「付近の住民、避難完了!」
「よし、カウントダウン開始する。5・4・3・2・1・今!
                       オマル隊、全機突入ーー!!」
一斉に雪崩を打って生ゴミだめに突入したオマルの中身は、しかし予想に反して、生ゴミ溜めに溜まったままだ。意外にも初期の部分は堅さがあるようで、そのままでは流れそうにない。
「よし!第2ステージだ!イオン砲、最高温度で放射!」
「放射開始しました!湯量充分!…  
 !だ、だめです、蛇口の長さが足りなくて排水溝まで届きません。このままでは直撃できませんんん!」
「アラート!アラート!細菌兵器、はじける水流で飛び散ってます!排水溝から飛び出してます!汚染拡大中!」
「食器乾燥機、外壁に被弾!このままでは住民にも被害が!防護カバーおろせ!急げぇー!!」
「わ!しずくが手に!手が!」
「状況・ガス!!お湯の温度が高すぎます!有毒ガス発生!!匂い立ってます!!付近に漏出中!!た、隊長ーーーー」
「ひるむな!換気扇隊、最大戦速!!全力で、回せぇーーーー」

10分後、敵の制圧に成功した我が部隊は、予想外に多い捕虜のすべてをしっかり水切りした後、三重のビニールでコーティングし、ゴミ箱へ移送を完了した。若干の被弾痕が残っていた食器乾燥機の外壁は、むしろ美しく磨き上げられ、生ごみためも隅々まで洗って排水溝へはめ直し、”来たときよりも美しく”じゃないが、流しの周りはすっかり輝いている。
何もかもうまくいった。戦闘の痕跡はどこにもない…

ほどなくママが帰ってきた。
「ただいまー。なんかいつもより臭うねー。ゆめうんこした?」
「あ、う うん。したよ。大量に。」
「そ。よかったねーゆめ。」
ママは、るんるんで久しぶりの料理を始めた。
言えない。まさにそこで、さっきまで激しい戦闘が行われていたなんて、口が裂けてもママには言えない…
今日の料理はじゃーじゃー麺だ、みそが強いぞ。よりにもよってこんな日に。
うっぷ。

 何歳の頃だったか判らないくらい遠い昔、確か幼稚園か小学校に入りたてくらいの頃だったと思う。おやじがどう見ても浮浪者にしか見えない父親と幼い男の子の二人連れを連れて現場から戻ってきた。聴けば畳職人のおやじが現場に出ていた際に見かけて連れてきたのだという。
 その父親が訥々と語るには、四国の方で小さな会社を経営していたが倒産し、あとには借金だけが残った。母親はその子どもがまだ赤ん坊の頃に苦労の中で亡くなり、家も何もかも借金のかたに取られ、以来あちこちを放浪している。今は東京に住む親戚を訪ねる途中だという。
 自慢じゃないが当時の我が家もまだ若いおやじが一本立ちし、畳職人として店を構えて間がなかった。親方仕込みの綺麗だけれども頑固な仕事なだけが取り柄のおやじと目先の利くお袋とで、けんか腰で翌日の仕事の段取りなど付けながら夜遅くまで残業していたような状態だった。決して余裕があった分けじゃない。でもお袋はおやじが二人を連れてきてすぐ機械を止めた。仕事の手を休めてその父子を風呂に入れた。食事を取らせながら身の上を聞き、残ったご飯でにぎりめしを持たせ、数千円を旅の足しにと手渡した。父子は涙ながらに礼を言い、東京に着いたら必ず連絡しますと言い残して行ったという。私は不思議な気持ちでその一部始終を見ていた。洗濯をしてやり、私の服までその子どもに着せたのは、幼心になんだかとてもイヤだった。ちょうどそういう人たちに対して色々と感じる年頃でもあったので。
 その後、その父子から連絡が来たという話は聞かない。
 数年がたち、小学生になった私はある時ふとそのことを思い出し、お袋にその後どうなったかを聴いてみた。お袋は、
 「本当の話かどうか判らないし、本当だったとしても連絡なんかしてこなくても良いのよ。困ってるときはお互い様だから。」
と答えたきり、それ以上何も話してくれなかった。私は、約束したのにヘンなのっと思った。
 いま二児の父親となり、やはりこのことを時々思い出すが、私もやはり本当でも本当でなくても構わないなと思う。あの時の父親は、幼い子どものためにがむしゃらに生きていたと思う。何十回と同じ話をし、ほんの何人かに優しさを分けてもらいながら、精一杯生きていたんだと思う。その優しさを分けた人たちも、みなお袋と同じ気持ちでいたのだろう。

 あの時交わした約束は、暗黙の了解のもとでの挨拶のようなモノ、他の言葉では表現できない感謝の気持ちの表れだったのだろう。
 励まし合い、助け合う、そんなことが当たり前のように行われていた最後の時代だったのかなあと、今は思う。奉仕の心だとかボランティアだとか、そんな言葉をわざわざ当てる必要もないような、本当に助け合って生きていくという活きた道徳の教科書みたいな出来事だった。
 自分のことばっかりで汲々としている現代だけれども、こんなおやじやお袋を見てきた私は、もし今この父子が目の前に現れたら同じことが出来るかもしれない。いや、是非そうしたい。そうすることがあの時の父子に代わっておやじとお袋にお礼をすることになると思う。
 だから、私が代わって約束したい。あなた達と同じように、私が必ず優しさを分かち合うよと。

僕の通った多摩美術大学の大学院は世田谷区上野毛にある。多摩川のすぐ近くに建っており、僕はバイトのない日は自転車で、バイトのある日(バイト先は青梅だったり横浜だったり…自転車では間に合わないのだ)はさかな丸で、府中のアパートから多摩川沿いを毎日通った。
その大学院の近くに、院の2年間だけ毎週土曜日に保育のバイトに通った保育園がある。
そこは、園庭の2方がそこへ通う園児や保母さんの住む3F建ての共同団地、1方が園舎、南側だけが開けて日当たりの良いちょっと変わった作りの保育園だった。あまり詳しくは聞けない雰囲気だったが、知る限りでは共同団地に住む人々はみな片親だったようだ。

ある日、学校の掲示板を何気に眺めていたら目についたのが、毎週土曜日だけの子ども相手の保育者募集の張り紙だった。この時既に横浜の看板屋、府中と青梅のお絵かき教室の助手、家庭教師(お絵かき、これは世田谷なので学校の近所)、デモンストレーター、警備員とかなりの数のバイトをしていたのだが、警備員と看板屋のアルバイトがメインの収入で、これはほとんど作品制作の材料費に消えていたし、働く期間は課題の少ない期間に集中し月割りで限定していた。デモンストレーターは長期休みだけだし趣味のようなモノ、お絵かき先生2種は合計で週3〜4回と回数的には多かったが完全に自分の勉強だった。ここでもう1つ増えても別段苦しくもなかったし、土曜日は休みの日だし、かなり興味深くもあってすぐに応募した。

園長先生はかなり年配のおおらかな先生だった。その説明を聞くと、土曜日というのは既に卒園した子ども達も集まって園児は朝から、卒園した小学生は午後から合流して一緒に遊ぶモノだった。特に技術や注意事項があるわけではなく、子どもと一緒にのびのび遊んで欲しいというモノで、非常に気が楽だった。

ここには本当にいろいろな子ども達がいた。今でいうネグレクト、多動、自閉etc…別段意識してなかったけど。毎回さかな丸か自転車で通っていたのだが、大きな音がするさかな丸は注目の的で、僕は『おーとばいのお兄ちゃん』と呼ばれていた。

天気の良い日はよく近所の等々力渓谷まで散歩に行った。
初めて行ったときには、東京にこんな緑の多い場所があったのかとかなり驚いた。深い緑の重なりは環状線の喧噪も遮るので本当に静かで、まるで森の中にいるかのようだった。渓谷の中は川が流れていて、笹舟などを流しては遊んだ。
四季折々の表情を見せる木々の葉っぱを拾っては、園に戻ってからお面や虫を作って遊んだ。

おやつの後で絵本を読む。絵本は上手な先生がいるので太刀打ちできない。僕はかなりトリッキーな読み方、声音で子ども達を楽しませた。
お絵かきをすることもある。
そのすぐ後でお昼寝なのだがなかなか寝ない子もいるので、大人の悪い癖で
「ちゃんとおねんねするなら描いてあげる」
などと姑息な手段を用いたりもしたっけ。

寝かしつけはなかなかくせ者で、こちらも眠くなってしまうので、よく一緒に寝てしまい、保母さんにたたき起こされたりもした。

2年間、あっという間にすぎてしまい、いよいよ静岡に帰るのでもう最後というときには、園長先生から
「出来るなら、もっと続けて欲しかった」
と直々にお別れをいただいた。
僕も可能なら続けたかったですよ。

ここで仲良くなった男の子とは数年前まで年賀状のやりとりをしていた。喪中のごたごたで途絶えてしまったが、最後の時はまだ園児だった下の子の康介君がもう小学6年生になっていた。

康介君は、最後まで年賀状の字が汚かった。