2003 2月前半                 

芸術発表会 2003/2/15/(土)
 生徒A
「俺サンタ。”クローバークラブ”のクリスマス会ではお世話したっす。
 今日、会場でゆめちゃんに会いました。ゆめちゃんは覚えてくれているのかいないのか、よだれだらけの手で何度も何度も顔をなでてくれたっす。
 ゆめちゃん、相変わらずよだれだらけっすね〜〜〜〜〜」

 生徒B
「何々先生の子〜〜?かわい〜〜〜。なんさい?ねえなんさいでちゅか〜〜〜〜〜?」←ゆめは大挙して押しかけたじょしこーせーに驚き、バイバイを繰り返す。何回「ゆめ何歳?」と聞いても言うこと聞かないので、僕は無言でバイバイしているゆめの手を指さした。
「ん?5さいでちゅか〜〜〜〜〜」←すまん。実は4才だ・・・。

 生徒C
「先生にどことなく似てるね〜〜〜〜〜芸能人になれるんじゃないの〜〜」←『ああ、健常児ならモー娘に出しても良いかな』
「それって、かなり親ばかですよ、せんせ」
↑この間、生徒に向かって足を投げ出し触らせるは、頭をばしばし叩くは、結構不遜な態度のゆめ。女王様か、お前は?『足でもお触りって』感じか?

 生徒D
「抱っこしても良いですか?」←『ええ?重いぜ、いいの?』
「大丈夫〜〜。あ、軽いじゃ〜〜ん」←結局30分くらい抱いていた。きっとセイラー服や顔によだれをたっぷりつけたんだろうな〜〜〜、スマンね〜〜

反省 2003/2/13/(木)
 俺、左脳。エリックと呼んでくれ。
 さて、この頃俺の演算能力は、もっぱら学校のことに使われてるぜ。今日は3年生の登校日だったし、身装指導なんかも卒業式に向けてあったから、その心配事でメモリーは一杯さ。それでなければ明日に迫った芸術発表会の搬入・展示の準備か。

 でも、秘密を言えば、ゆめのことはずっとはじっこの方にあったぜ。シナプスが分離されて、同じところをぐるぐる回された回路に閉じこめられてたけどな。
 右脳のスティーブンの奴にDRT繋いでみると、どうも以前にゆめをひどく叱ったことを気に病んでるらしい座標軸だね。

 ゆめはDVDをパソコンで見ていた。俺としてはやたらといじりたがるのを何とかやめさせようと必死なんだが、スティーブンの奴はタバコでボーとしてやがる。そのうち俺の方まで意識が緩くなって、ちょっと目の奴に出す指令を間違えてよそ見したすきに、ゆめはシャープペンで液晶に落書き始めたんだな。
 これにはさすがにスティーブン共々激昂しちまって、思わずハンス(口)とケント(右手)に”しかりつける”指令をだしちまったよ。
 あまりの激しい叱責に、ゆめはどうして良いか判らなくなったらしくて、思わず笑い出してたな。わかるよう〜〜、きっとゆめの左脳のやつ、回路がショートしてたんだろうな。右脳は機能停止状態だろう。

 その後サー、スティーブンの奴が色々な回路に接続しまくりやがって、ろくでもない想像ばっかりしてやンの。
 でもよー、こっちの短信音波を理解するなら良いけど、出来ないなら他の方法で教えるしかないじゃん。身振り手振りで理解させようとケントやネッツ(左手)に指令出したけど、思わず力はっちゃっても仕方ないよな〜〜。スティーブンの奴は度胸がなさ過ぎだっつーの。少し情緒回路の反応、強すぎだぜ。
 でもそれ以来、ゆめの奴、割とおとなしく見るようになったじゃん。しっかり押さえるとこは押さえないとイカンってことよね。

福祉 2003/2/8/(土)
 吉田いつこさん。
 バリアフリーピアノコンサートを開き、奇声・奇行、様々な理由から普段コンサートなどに出向くことなど出来ない障害を持った子供達のために芸術を提供し続ける方。
 我々は過去2回ほどこのコンサートを聞く機会に恵まれたのだが、どちらも活用できなかった。1回目は行くに行ったが、本気で聞きに来ている方も多い普通のコンサートで、ぐずるゆめを気にしてすぐにおいとました。いくら事前に「大丈夫よ」といわれていても、やはりにらまれるとびびってしまう。欧米では、しっかり聞けない子供などを連れて行くのはタブーだって言うし、仕方ないよな。2回目は風邪ひいちまっって、行けなかった。
 今回は「わくわく土曜サロン」のボランティアの一環で、家族参加オッケーということだったので、ママに話してフィアンセのもっくん一家と一緒に参加したのだ。僕は先に会場入りして働いたけどね。
 いつこさんとは今日会場で初めてしっかりあったが、最初誰か判らなくて、非常にジモティーな会話をしてしまった。その直後、リハーサルでめちゃくちゃ上手にピアノを弾き始め、まさか?改めて確かめたら、やっぱり!いつこさんだよ・・・「親しそうだから、知り合いかと思いましたよ」と、そばにいた父兄の方に言われてしまった。
 
 会場は袋井養護学校の生徒でいっぱい。ステキなホールでその名も「ウサギホール」。
 
 前半、プログラム通りじゃなかったんじゃ・・・?いつこさんは、曲が終わるたびに空を眺めて何か考えていたような・・。即興も入れてくれてるんじゃないかなあ。それとも僕の勘違いか?
 後半、主催者の、お世話になってる山崎先生(旧・袋井高校の副校長、現・天竜養護学校校長。ボランティア養成講座の発案者。今日知ったが、美術が専門だそうな。道理で影絵やポスターが素人離れしてると思ったよ)お得意のOHPを使った影絵あり、フルート・サックス・木琴鉄琴・バイオリンとのアンサンブル有りと盛りだくさん。 影絵の内容は、たぶん「ウサギホール」にちなんでだと思うが、”「動物の音楽会」で、ミミの長い動物が一匹足りない、な〜んだ?”みたいなお話しを、ピアノの旋律とアンサンブルだけで聞かせるものだった。山崎先生の影絵が味があってまた良い。
 会場はうっとり聞き入る・見入る子供達でいっぱいだった。

 ゆめは、大喜び(会場に興奮)→絶叫(始まる直前の暗闇)→呆然(始まった直後・初めてのピアノコンサート)→うっとり・大はしゃぎ・拍手・「おーい!」の繰り返し。とても楽しかった様子。「楽しかった?」との問いかけには何回でも「はーい!!」と答え、帰りの車の中ではぐっすりだった。

福祉 2003/2/6/(木)
 今日は1年生が福祉体験で、養護学校・作業所・病院が一体となった複合施設に出掛けた。そこの学校の校長先生は、ボランティアでお世話になっている方で、顔見知りだ。といっても私が行ったわけではないが。(私は3年の担任ね)
 生徒のほとんどは、今日初めて障害を持った方々に接する。中には一緒にボランティアに参加したことのある生徒もいるが、ほとんどは初めての経験だ。帰ってきてから部活に来た生徒に感想を若干聞いてみたところ、やはり大半は吃驚していた。普段接する機会が少ないからだね。

 こんな話を思い出す。何かの記事で読んだ。
 全盲の方がドイツに旅行に行ったときのこと、ホテルから駅に向かおうとしたところ、別段困っていたわけではないが、ホテルから出たとたんに何人もの道行く人に行く先を聞かれ、案内を申し出られたそうだ。何人か断ったが最後には案内してもらったそうな。その紳士はそれが当然という風情だったらしい。
 「手を貸す」
 という行為がもはや当たり前なんだろう。
 そうかと思えば、こんな話もある。
 読売新聞2月4日の高校生の投稿記事。
 ベンチに座り、歩行補助器を前に置き、左手に包帯を巻いたおじいさんと話していたとき。反対側に中学生が来た。携帯で話をしている。その中で、あろう事か「隣に変なのがいるから話づらいよ」と言ったと。同じ若者として非常に恥ずかしかったと。

 この差は一体なんだ?ものが溢れ、物欲は満たされてもその精神は全く貧困。使い古された言い方だが、現に今がそうなのだ。その貧困な精神が故に起こる様々なくだらない現象・犯罪数知れず・・・。大人も子供もだ。
 別段私自身が高潔な人間であるわけもなく、身の程知らずなことばかりをこの日記でも書いてきているが、少なくとも上のようなバカ中学生のようなことは、死んでも出来ない。”やらない”のではなく”出来ない”よ。

 私は、一教員として、自分に当てはめて、こんな当たり前の感覚すらも教えられていないかもしれないことが悲しい。こんな連中に未来を託すことになることが悲しい。

 もっと自分に、何かできることはないか。
 今以上にやれることはないか、と考えてしまう。

 せめて自分の受け持つ生徒達には、教科・HRの別に関係なく、たとえ今すぐには生徒の心に届かなくても、自分が考える”人としての正義”や、”正しいありよう”を語りかけ続けようと改めて思う。将来何かの布石になってくれればいい。たとえ専門の美術で教えた何もかもを忘れたとしても、語ったことが何かの拍子にふっと思い出されることがあればいいと思う。
 そのためにも、もっと自分を鍛えねば。
母子分離 2003/2/4/(火)
 ママの目下の目標は、今通っている幼稚園にママなしで通わせることだ。で、”母子分離”を実現することだ。
 何故ママなしで通わせたいか。”母子分離”したいのか。

 ”母子分離”
 ママは独立独歩の源を作るための”自立の芽”=”母子分離”と使っているようだが、私は文字通り”分離した状態”をさして言いたい。”時間的・空間的母子分離”だ。決して”精神的母子分離”(子供への愛情減衰)ではない。
 ママは、筋ジスは進行性の病気なので、将来在宅で訪問看護やボランティアを頼むことになる。家族以外に世話をされることに対する耐性をつけたいと考えている。 私は、人間的に成長するためには、多くの人との様々な状況での関わりを経験させる必要があると考えている。

 子供に対する愛情の大きさは、子供に接している時間の長さに関係ない。子供が豊かな愛情を感じるには、長く一緒にいることが絶対的条件というわけではない。生徒を見ていて思うのだが、時間が割と余裕ある家庭の子が愛情不足であったり、逆に片親であったり、両親とも忙しく働いているはずの家庭の子どもが、多くの愛情の中で育っていることもある。これは親の愛情が子供に届いているかどうかの問題だ。たかだか幼稚園に通う数時間、親が子供と離れようとしたからと言って、それが子供に対して愛情がないことにはならない。まして、ママが楽をしたいからと言うことでなど、あるわけがない。
 また、子供の成長には色々な”経験”が必要だ。親から与えられるばかりではなく、親と離れて得る・知る経験もある。実際、親がいるときといないときでは違う子供同士の関わりがある。ママは今、交流保育で園に通っているが、そういう出来事を日々見ている。いじわるされたり危険な目にあったり、すごく嬉しいことがあったり・・。そういったものを経験させる必要は絶対にある。それをすべて親が与えられるわけではない。(ママが園にいるといないでは、子供達のゆめに対する反応も違うのだ。ゆめ自身も反応が違うし)
 多様な価値観・考え方の中で、自分というものが育てられていく。一元的な考え(例えば親のみ、園のみ、自分のみの考え方)ではあまりよい”自分”は育つまいよ。

 私は、ゆめを障害を持っているからといって世の中との接点を閉ざし、経験不足な大人にするつもりはない。実際、普通幼稚園で得る刺激は、ゆめの成長に絶大な効果をもたらしている。障害を持つ子供達が通う”のぞみ”とはまた別種の刺激・成長だ。無論愛情は注ぐ。一緒にいるときにしっかりと。成長も見守るよ。だが、一緒にいないときにしかできない経験もさせたいのだ。それが私が言う”時間的な母子分離”だ。

 ”母子分離”に反対されることがある。しかし、我々夫婦がこういった考えでそれを望んでいることを十分理解した上で反対しているのか、はなはだ疑問だ。
 「(母子分離は)お母さんが楽したいだけなんでは?」
 一般的な社会現象では、そういう面もあるだろう。虐待事件や親の遊侠のために起きた不幸な事故など後を絶たないが、これなどまさに”精神的母子分離”の帰結だろうと思う。そんな中で声高に”母子分離”を唱えれば、誤解されても仕方ないかもしれない。でも、そんな狭い了見で言っているんじゃないんだ。ゆめの成長過程で、今の年齢はまたとないチャンスである。この後は筋肉が衰える一方で、今この時期に肉体的・精神的成長をすることが肝要だから言っているのだ。

 ゆめが障害を持っている事実は曲がらない。出来ないことも多い。しかし、そこを考慮しつつも、人間的な成長をさせるためには手段を選ぶつもりはない。無論相手があってのことなので、無理強いは出来ないが、とにもかくにもいちいちこんなことを考えなくても、温かく見守ってくれる世の中、本当にモラルある健やかな世の中になって欲しいものだ。

ゆめの悪行と言うほどでもないが 2003/2/3/(月)
 ゆめはねるのが嫌い。もっと遊びたいの。でも、午後10時をすぎると、嫌でも何でも強制的に寝かされる。羽交い締めにして手を握って、一緒に寝たふりをする。
 「ぐ〜〜〜、ぐお〜〜〜」
 ゆめのいびき・・・そろそろ良いかと、そう〜〜〜と目を開けてみてみると・・・・ゆめと目が合う。
 何故?
 最初は本当にだまされた。嘘っこいびきとは思えないほど本物そっくりのいびき。なかなか役者だのう・・・。

 ゆめ風邪引き。何かというと額に手をやる。
 「ゆめちゃん、お熱あるの?」
 「は〜〜〜いい・・・」
 計っても熱があることは滅多にない。
 まだまだだのう・・・。

 ゆめ風邪引き。咳が出てる。
 「ごほごほ」
 なんか変な咳だなと思ったら、嘘っこせき。
 一瞬だまされた。
 ま、2度目はないな。


ゆめは見た☆パパは見たい 2003/2/2/(日)
 ゆめ、4才と5ヶ月。あたしは見た。昨日見た。
 
パパ、33才8ヶ月。俺は見たい。すぐにでも見たい。

 
最初それは、何だか分からないものだった。はしごにぶら下がり、四肢をだら〜〜〜んとさせて、まるで首つり死体みたいだった。
 パパに押されて近づいてみた。
 背中から回って正面に来ると、お腹の中が・・・・ない。
 内蔵が何もない。

 
最初それは、タダの偶然だった。たまたまゆめが買ってもらった1本のビデオテープ。既に過ぎた過去のものだったはずだ。
 でも、ゆめと見ているうち・・・・気づいた。
 これは恋・・・かもしれない。


 
前足の付け根の脇腹あたりに穴一つ。きっと心臓に届いてるわ。それが致命傷だったのかも。すぐ脇の犬小屋には雑種の痩せてあばらが浮き出た犬が一匹。お腹が減っているのか寒いのか、初対面のあたしにもなつっこく何かねだってくる・・・。痩せているのは獲物を追うときに全力を出させるため?
 俺の胸に空いた空虚な穴一つ。テレビをつけても、既に彼女は映らない。まぶたを閉じれば、ステキな笑顔がよみがえってくる。こんなにせつないのは、NHKの陰謀?

 
ぶらさっがてるそれは、大きい、とても大きい。ぴーんと伸ばした足に、触る気も起こらなかった。何かついてきそうで、怖かった。
 目が、あたしをじっと見てる。大きなうつろな目が、あたしをじっと見てる。
 あたしじゃない。あたしがやったんじゃない。あたしは、たまたま見つけただけ。
 恨んでるの?悲しいの?怒ってるの?
 あたしじゃない。あたしじゃないわ!
 そんな目で見ないで!

 この気持ちは大きい。押さえきれないくらい大きい。
 「ふ、古いお母さんと一緒の歌のパーティーのビデオを買おうよ。タコやイカの衣装着てるって。」
 「ふ〜ん買えばぁ〜。あゆみお姉さんのコスプレ、見たいんでしょ。」
 「え?怒ってるの?
 妬いてるの?
 ち、ちがうよ!
 歌が聴きたいんだよ!」
 「じゃ、CD買ってあげるよ。歌が聴きたいんでしょ?」
 「え?だって、あ、う〜〜〜ん・・・」
 

 猟師さんにも狩猟犬さんにも、今日から感謝してご飯を食べるわ。もうはき出したりしないわ。
 ああ、
鹿さんとってもおいちい・・・。
 う〜〜ん
 う〜〜ん
 ビデオがいいです・・・。

節分草 2003/2/1/(土)
 佐久間には、珍しい山野草が群生している。片栗の花は有名だが、節分草なんてのも生えている。丈は高くても3〜5cmほど。白い星のような形のかわいらしい花を咲かせる。
 浜松筋ジスの会での知り合い、Mさんご夫婦。山野草求めてどこへでもお出かけになる。Mさんから佐久間で節分草が群生している場所を教えてほしいと言われたときは、恥ずかしながらその花の存在すら知らなかったが、調べてみたら、確かに群生している場所が数カ所。
 本日は、その場所を実際に検証しがてらドライブに出掛けた。なにせ、車いすで見に行かれるから、入れないような場所を教えても仕方ないし、トイレの心配もある。どこへでも行くなら運転は大丈夫だろうけど、一応道もチェック。
 
 最初の場所は愛知県東栄町は東栄温泉のすぐ近く。
 道は狭くて通りにくいが、一応舗装されている。滅多に車は通るまい。通りのすぐ近くで、車を止めるスペースも十分ある。群生地帯はすぐ近くだが、地面が柔らかいので、車いすの車輪が埋まらなければいいが。ここは片栗の花も群生している。トイレは東栄温泉まで行けばいい。車いす用のトイレがある。
 ちなみにこの東栄温泉には、福祉風呂がある。見せてもらったが、日陰でロケイションはいまいちな場所だが、確かに広めの脱衣所が占有できて、湯船も一人用だ。惜しむらくは普通の風呂と同様の作りなので、介護者がいたとしても、抱えて湯船に入れてあげなければならない。若者ならいざ知らず、ご年配の方では無理かも。
 一つ提案させて頂ければ、湯船の縁と床が同じ高さなら入れやすいかなあと思う。もっとも、風呂から上がるときは問題あるかもしれないが。あと、立って着替えが出来ないから、ちょっとしたベットがあれば寝たまま着替えられて良いんだけどな。
 続いては、愛知県は鳳来町のうめの湯の近く。
 駐車場はしっかりあるし、看板も出ている。しかも、なんともう咲いている。
 通常は「節分草」と言うくらいだから、咲くのは2月半ばくらいなんだが、ここは早めだね。
 
 さて、本当に佐久間の群生地と言えば、たった一カ所しかなかった。あれたあぜ道を行かなければならないので、車いすではちょっと行きにくいかもしれない。

 本日、ドライブがてら出掛けた東栄温泉。お風呂には入らなかったが食事してきた。ゆめはずいぶん気に入ったらしくて、風邪引きだったのだが、喜んでご飯を食べた。
 夕方は、熱は出ないが、だるいようで寝てばかり。でも、昼間出掛けたのは正解だったようだ。気分転換になったようで、ずいぶんと機嫌が良いぞ。
 今日は早く寝かせよう。

 おお、今日は本当に日記みたいだ。