ブラッドファイト 
 
『蒼血殲滅機関』戦闘録

 分割2

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 相模原市。
 人口七十万人を数え、神奈川県三大都市の一つとも呼ばれるこの都市は、いくつもの米軍基地を抱える「基地の町」でもある。
 たとえばJR横浜線沿いに細長く伸びている「アメリカ陸軍・相模総合補給廠」。実に二百万平方メートルに及ぶ敷地を持ち、小銃や食料をはじめとする多量の補給物資を備蓄している。
 だが電車内から基地を見たものは首をかしげることが多い。
 フェンス越しに見える基地には、確かに戦車が入りそうな巨大倉庫が何十と並んではいるが、倉庫と倉庫の間には何十メートルも隙間があるのだ。しかも三分の一ほどが、建物すらない草ぼうぼうの空き地だ。
 土地を無駄に使っているのではないか。
 交通の妨げにならないよう、一部だけでも日本に土地を返還するべきだ。
 そう主張する者も多い。
 だが、返還が実現することはあるまい。
 ここの地下いっぱいに、人類の砦・殲滅機関日本支部が築かれているのだから。

 4

 2007年12月29日
 殲滅機関日本支部

 日本支部の下士官食堂に、敬介は入ってきた。
 午後七時。自主トレーニングを終えて、飯でも食おうかと思っているのだ。
 地下ゆえの圧迫感を感じさせない、天井の高い食堂を歩いていく。
 食堂のテーブルは「勤務服」と呼ばれるグレイの開襟ジャケットを着た隊員で七割がた埋まっている。夕食だけでなく、コーヒーカップを前に談笑する人々も多い。ここは談話室や喫茶店の役目も兼ねているのだ。
 だが、みんな敬介が前を通ると黙ってしまう。冷たい目線を敬介に浴びせる。
 大ベテランで知られる初老の軍曹など、あからさまに蔑みの目で睨んできた。
「なにか?」と問う気はしない。すでにわかっている。エルメセリオン=凛々子と出会ってから一週間、さんざん同僚に言われて、もう理由を理解している。
 ……敵を招き入れやがって……!
 ……たらしこまれたか、こいつ!?
 そんな目だ。敬介はたった数時間の取調べを受け、その中でエルメセリオンの必要性を述べただけなのだが、いつのまにか話に尾鰭が付いて「涙ながらにあの女を弁護した」ことにされている。
 そうではない、と最初は反論したが、敬介は普段から同僚とコミュニケーションをとらない。自分の考えや気持ちを言葉で伝えることに慣れていない。どう言えばわかってもらえるのか困り、もう反論を諦めてしまっていた。
 セルフサービスのカウンターに行って、ビーフシチューとパンと牛乳とサラダを取る。「今週の新メニュー」と2ヶ国語で書かれている張り紙に一瞬目をやる が、すぐに目をそらして、機械的な動作で席を探す。はっきり言って料理には興味がない。栄養のバランスが取れていればいい。訓練をより効果的にしてくれれ ば尚いい。味を楽しむなど、自分には関係ない世界の出来事だ。
 座って食べ始めると、「ここ、いいか?」と声。
 顔を上げると、身長百七十以上ある大柄な身体を訓練で鍛え上げた、黒髪でベリーショートカットの女性。
 「隊長」だ。あの五年前の運命の日、家に突入してきた隊長、影山サキ。いまは曹長になっている。
 反射的に身体が動いた。立ち上がり、踵を揃えて敬礼。
「どうぞ、曹長」
 単に上官だから、という理由ではない。敬介にとってこの隊長だけは別格だった。姉を救ってくれた恩人でもあり、殲滅機関へと招いてくれた人物でもある。訓練期間中には教官として教えを受けることもあった。この人なくして自分はない、と身体が覚えている。
「ありがとう」
 サキはそう言って、コーヒーだけを持って敬介の前に座る。そのあとようやく敬介が「失礼します」と着席した。
「相変わらず堅苦しいな」
「上官ですから」
「他の隊員を見てみろ、もっとずっとフランクだ。メシ食ってるときは階級など気にしてないぞ」
「他の隊員は他の隊員、私は私です」
「何も一人称まで変えなくても。いつになく不機嫌そうだな? あの噂が嫌なのか?」
「当たり前です。俺はただ、軍事的合理性を。フェイズ5を手駒として使えたら戦術の幅が広がるという、それだけの考えです。私情などありません」
「私もそう思うよ、君が美少女のウインクで考えを変えるとも思えない。自分のやったことに自信があるなら胸を張っていればいいさ」
 そこで隊長はコーヒーカップを置き、切れ長の目で敬介をじっと見つめた。口元にいらずらっぽい笑みが浮かんでいる。
「それとも図星なのか? ああいう娘がタイプ?」
 動揺で、むせ返った。鼻から牛乳が出てしまった。
「ゲフッグフッ……あ、あ、ありえません!」
「そこまで取り乱すか。面白いヤツだな。でも、実際、そのくらいの人間味があってくれたらと思う」
 腕組みして、眉間にしわを寄せる。
「どの隊員にきいても、君の評価は一つだ。『訓練バカ』。若いのに、酒に誘われても女遊びに誘われても全部断って、同僚と口もきかずに訓練訓練……」
「他の隊員がどうかしているのです。雑誌の女の裸を俺に見せたがるんです。子供じゃあるまいし。そんなことやってる暇があったら、一本でも走り込みを、一 発でも射撃訓練を。それを実践してきたから、俺は良い成績を出せました。実戦部隊配属から一年で、スコア二十。悪くない成績だと思っています。俺の誇りで す」
「一年で二十体撃破は、驚異的な好成績だ。私も、君のようなのが理想の隊員だと思っていた。だが脆いよ。そういうのは」
「脆い?」
「ああ。私が殲滅機関に入った経緯は知っているな?」
「はい。俺と同じだと。蒼血に襲われているときに助けられて、入れてくれと懇願したと」
「そうなんだ。その時、私の無茶なお願いを聞いてくれた男が……首藤剛曹長。知っているよな」
「撃墜王……というか、蒼血撃破記録を残している人ですよね」
「そうだ。通算撃破記録三百五体は、日本支部のナンバーワンだ。彼と、彼の率いる第五十一小隊は伝説だ。彼はまさしく蒼血を倒すためだけに生きてきた。趣 味も持たず、女とも触れ合わず、ただ人生の全てで己を磨き上げて、蒼血を狩った。信じられるか? 十年前、まだシルバーメイルが未開発の時代に、生身で十 九体のフェイズ3に囲まれて、全部倒して帰ってきたんだぞ? 彼の口癖は、『俺は機械でいい』だった。人間であることをやめるくらい訓練に打ち込まない と、奴らには勝てないんだと。
 彼が偉大な隊員であることは疑いない。今でも彼を尊敬している。彼にめぐり合ったこと、彼の部下として戦えたことを幸福に思う。
 だが彼は脆かった。知っているな、彼の最期を」
「いいえ」
「知らないのか! そりゃ教本には載ってないが、隊員同士で話題にのぼるだろう?」
「俺は無駄話をしませんので」
 サキは大げさに肩をすくめた。
「首藤曹長が士官になれなかったのはコミュニケーション能力を疑われたからだが……君は彼以上だな! まあいい。彼は自殺したんだよ。あの無敵の首藤が、 ある日突然。それも任務中に、おおぜいの部下の目の前で、銃で自分の頭を……異様な自殺だった。原因などわからない。彼には親しい友はいなかった。日記も 遺書も残されていない。彼がいなくなって初めて、軍人として以外の彼を、彼の心の中で起こっていたか、誰も知らないと気づいた」
 そこで言葉を切り、敬介と目を合わせる。
「それが、『俺は機械でいい』という人間の末路だ。何かの拍子に、心がポキリと折れる」
 尊敬する隊長の言葉とはいえ、聞き捨てならない。敬介は座ったまま背筋を伸ばし、強い口調で言う。
「俺は自殺などしません。絶対にしてはならない理由があります」
「姉を悲しませたくないから、だろう? だが首藤の自殺だって、まさかと言われたさ。
 純粋な人間はな、脆いんだ。たった一つのことだけで心を染め上げているから。心棒が一本しかないから。首藤曹長だけじゃない。優秀だったのに突然不調に なる、戦えなくなる、自殺してしまう、そんな隊員を何人も見てきた。我々も結局、人間なんだ。だから、隊員は酒を食らい、女を抱くんだ。趣味を持ったって いい。私はこれだ」
 胸のポケットから掌に収まるほど小さなハーモニカを出して、神妙な表情で吹き始める。澄んだ細い音色があたりに広がってゆく。悲しげな曲だと思った。談笑のざわめきが少しずつ小さくなっていく。周囲の人々が耳を傾けているのだ。
「どうだ?」
「え……その。綺麗な曲だと思いました」
 音楽鑑賞の趣味は全くない。クラシックを聞いた経験は中学校の授業が最後で、いま流行しているポップスのバンド名を尋ねられてもろくに答えられないだろう。だから曖昧なことしか言えなかった。
 サキは苦笑した。
「興味がない人間の典型的な答えだな。だが、ありがとう」
 その時サキの背後から黄色い声が叩きつけられた。
「すごいすごい! かっこいい! 今のもう一回やって!」
 敬介が目を丸くする。いつの間にか、サキのすぐ後ろに、食事のトレイを持った凛々子が立っていた。
 サイズが大きすぎるグレイの開襟ジャケットを羽織り、その下にはワイシャツとネクタイ。殲滅機関の隊員が非戦闘時に着用する、勤務服と呼ばれるものだ。 身長百五十センチの凛々子は一般的な軍隊には入隊できない体格のため、サイズの合う服が用意されていないのだろう。トレイを持つ手が袖に半分隠れてしまっ ている。そのおかげか、やけに子供っぽく見える。
「構わないが……」
「ここ、いいよね?」
 凛々子も同じテーブルについた。敬介のはす向かいだ。
「訊いてから座れよ……」
 無礼な奴だと、胸の中に不快感が広がる。
「それより、お前なんでここにいるんだ。拘束具は? 檻は?」
 敬介の聞いた話だと、エルメセリオン=凛々子は、出撃命令が下っていないときは厳重に拘束されているはずだ。
 疑問をぶつけられて、凛々子は明るい笑顔を作った。手をぱんと叩いて、
「それがね、もう拘束具いらないって! ちゃっちゃっと六体倒したら、実績が認められたんだよー! この基地の中に部屋まで貰っちゃった! 意外と物分りいいよね、殲滅機関の人。キミのおかげもあると思うよ。ありがと。ホントだよ」
 身を乗り出して、敬介に向かって深々と頭を下げる。
 胸の中の不快感が数倍になり、背中にも悪寒が広がる。まわりの連中からどんな目で見られるか。
「ば、バカ、よせ。誤解されるだろうが、俺は感謝されることなんて何もやってない。お前と仲がいい、とか思われたら迷惑だ!」
「それにしても……」
 サキが顎に手を当てて首をかしげる。
「拘束なしとは、よく信用したものだな」
 凛々子はサキに向かって頭を下げる。
「あっ、影山曹長ですね。はじめまして、えーと……エルメセリオンの人間のほうですっ。氷上(ひかみ)凛々子と申しますっ。うーん……信用……信用は、たぶん、されてないです」
 そういって頭をめぐらせ、サキに後頭部を見せる。
 首の少し上、延髄の辺りが大きく盛り上がっていた。
「……手術か?」
 サキが眉をいよいよひそめて問う。
「そうなんです。これ爆弾なんですよ」
「なっ……」
 敬介は呻いた。だがサキは驚きもしない。凛々子はほっそりとした白い手で延髄の膨らみを摩りながら、
「拘束具のかわりなんです。ボクが上官の命令に背いたり、殲滅機関を裏切ったら。即座に遠隔操作でドーン」
 握った手を、パッと開いてみせる。
「TNT爆薬二百グラムだそうです」
 米軍の一般的な手榴弾・M26と同じ程度だ。「蒼血」の寄生体はガスコンロで炙っただけで死んでしまう脆弱な生き物だ。間違いなく頭蓋骨ごと粉砕されるだろう。
「逃げることもできないんです。これタイマーがついてて、二十四時間ごとに特別な設備でリセットしないと、やっぱりドーン」
「寄生体だけ脱出するのは?」
「それもダメらしいです。電極が寄生体にくっついてて、寄生体が頭蓋骨の中から移動したら爆発」
「それは……」
 敬介は顔をしかめて凛々子を見つめた。
 凛々子は言葉の深刻さとは裏腹に明るい表情だ。
「どうしたの? あ、いただきます」
 手を合わせて食事を始めた。せわしなく箸を動かして、鮭と味噌汁の定食を平らげていく。「おいしい!」という喜びが伝わってくる食べっぷりだ。爆弾より美味しいご飯の方がずっと重大とでもいうかのようだ。
 その無邪気な振る舞いを見ていると、胸に苦々しい気持ちが広がる。哀れみと似ているが、違うような気もする。この気持ちの理由が分からない。こいつは蒼血だ、敵性生物だと分かっているのに。
 敬介はパンの塊を食いちぎり、ミルクで飲み下すが、味がわからない。
「あ、もしかして同情してくれるの?」
「誰が同情するか。お前なんか信用されないのは当然だ」
 口ではそう答えたが、凛々子と目をあわせることができない。
「まあね。これくらいのことは覚悟してたよ。ところでさ、デートしよ」
 敬介はまたむせかえった。スプーンをトレイに叩きつけて、
「お、お前は何の話をしてるんだよっ! 脈絡が、ぜんぜんわからん!」
「敬介くんって非番はいつ? ボク明日」
「俺も明日だが……なんでお前なんかと。絶対に嫌だ、冗談じゃない、お前と喋ってるだけで俺がどんな目で……」
 そういって周囲に目を走らせる。
 あからさまに敵意の目でにらんでいる屈強な黒人がいる。口の端を卑しく歪めて冷ややかに眺める日本人がいる。サキだけは蔑みではなく、興味深そうな笑みを浮かべてテーブルに頬杖をついている。
「曹長、なんとか言ってやってください……」
「オフの男女交際までは干渉できないなあ。ごちそうさま」
 コーヒーを飲み終え、カップを持って立ち上がる。
「いや、待ってくださいって」
「私の意見は先ほど言ったとおりだ。軍務一辺倒の人生は危険だ、女の子とデートくらいしてみるのもいいだろう。健闘を祈る。では」
「あ……」
「ねえねえ、どこ行こうか? このへん本屋あるよね? まずガイドブックとか買ってきて二人で検討……」
 身を乗り出してくる凛々子。敬介は無言で立ち上がって、食べかけのビーフシチューが載ったままのトレイを持って歩き出す。足早に歩いて返却口に勢いよく叩きつけ、一瞬も止まらず、そのまま食堂を出る。
「あれもう食べないの? もったいないよー。体の具合でも悪いのかな?」
「お前のせいで胃袋に大穴が開きそうだよ。って言うか、付いて来るなっ!」
 振り向いて、大げさなに「しっしっ」という仕草をする。
「ねえ、なんでダメなのかな?」
「お前、自分の立場わかってないだろ!?」
「裏切りの可能性? でも、ボクいま爆弾つけてるよ。絶対裏切れっこない」
 更衣室に飛び込んだ。勤務服のまま外には出られないことになっているので、ここで着替える必要がある。あいつもそうだろう。女は俺より時間がかかるは ず。ここで引き離せる。 鼻歌を歌っている初老の隊員を押し退ける勢いで自分のロッカーに到着。上下の勤務服を脱いで私服を身に付ける。私服はジーンズに ポロシャツ、安物のセーターに、千円で叩き売られていた薄手のジャンパーだ。焦げ茶色のあか抜けないデザインだが、ファッションには興味がないので、問題 を感じない。あとはマフラーを無造作に巻いて、鏡も見ずに更衣室を出た。
 と、廊下には、着替え終わった凛々子が待っていた。
「なっ」
「遅かったね」
 我が目を疑って、凛々子の服装を見る。
 空から降ってきたときと同じ、薄手のパーカーとショートパンツ。パーカーの下はセーター一枚なく、とても冬の服装とは思えない。あの夜と違うのは、ニーソックスと運動靴を履いていることか。
「そうだよな……お前は普通の人間じゃないよな……」
 銃弾を手で払える超人がなぜ着替えるスピードだけは人間並みなどと思ってしまったのだろう。
 ため息をついた敬介は早足で歩き出した。
 地上に出るための大型エレベーターにたどり着いた。エレベーターのドアの側にあるセンサーに掌を押し当てる。
 エレベーターには普段着に着替えた隊員たちが十人は乗っていた。肩がぶつかりあうほどに混んでいる。
「ついてくるなって」
「ボクとデートするの嫌? なんで? 理由を教えてよ?」
 デートという言葉に反応したのか、まわりの隊員が好奇の目を向ける。
「バカ、おまえっ、変なこと言うんじゃないっ!」 
「えー?」
 目を見開いて小首をかしげる凛々子。すぐに納得の表情になって両手をパンと叩く。
「あ、わかった。デートはじめてなんでしょ? オンナノコと付き合ったことないんだよね?」
「どうだっていいだろうが、そんなこと」
 敬介の両手をとり、小さな手で包み込むように握って、ぴったりと寄り添った。
「大丈夫、凛々子さんがぜんぶ教えてあげまーす」
「だから、ひとの話をきけっ」
 エレベーターが停止した。他の隊員とともにエレベーターから出る。
 そこは大きな薄暗い倉庫の中だ。鉄骨がむき出しになった天井は、一軒家が入るほど高い。
 外に出た。もう真っ暗で、周囲二、三百メートルは街灯すらない。同じような三角屋根の巨大倉庫が薄闇に溶け込むように並んでいる。倉庫の窓からも明かり は漏れておらず、とにかく暗い。だが敬介にとっては何百回も歩いた道だ。芝生を踏みしめて、迷いなく歩いていく。向かっているのは、この基地のゲートだ。
「ねえねえ、どんなとこに行くのが好き?」
「うるさいなあっ……」
 なんでこの女は自分なんかに付きまとうのか、さっぱり分からない。
 思い切って聞いてみることにした。
「なあ、なんで俺なんだ? 会ったのは一週間前で、ほとんど喋ったこともないよな?」
 そう言われた凛々子は小さな顎に手を当てて目をしばたたかせる。
「うーん……理由はいろいろあるけど。たとえば、若い隊員は敬介くん以外ほとんどいない。おじさんばっかり」
「そりゃまあな、普通はある程度経験のある軍人がスカウトされるわけだし。っていうか、お前、敬介くんって何だよ、もう友達気分か」
「ダメなの? ボクのことも凛々子でいいよ。リリコって、発音すると口の中で転がるみたいで、すごく良い名前だと思うんだよねー。あ、それから他の理由だ けど、もちろんキミに助けてもらったってことが大きい。ホントだよ? すっごく助かったんだから! もう敬介くんに保証してもらえなかったら入れなかった よー」
「関係ないだろう、一兵卒の保証なんて。だいたい、俺は女なんかといちゃついてる場合じゃないんだ」
「あ! もしかして他の誰か好きな人がいるとか! それなら仕方ないよね、でもどんな人?」
「人の話を聞けっ。好きな人というか……家族だ。もう拘束されてないっていうんなら、他の隊員と喋るだろ? 俺のこと、噂で聞かないか? 俺には姉がいる んだ。親代わりに俺を育ててくれた人なんだけど、俺にとってはとても大切な家族なんだ。自分の好きなことも、夢も、趣味も、友達も……何もかも捨てて働い て……一生懸命だったんだ。でも五年前、蒼血に寄生されてとんでもない目に遭った」
 喋っているうち、自らの言葉の熱量に浮かされて喋りのペースが速くなってくる。声も大きくなっていく。
「その時の蒼血は倒したけど、姉さんはひどく傷ついた。なんでも脳の中で蒼血が暴れたから障害が残ったんだと。いまでも杖を突いているよ。だから俺は殲滅 機関に入った。姉さんが大切だから。姉さんを傷つけた蒼血を、叩き潰すためだ。だから他のことなんてしちゃいけないんだ。それは姉さんを裏切ったことにな る。休みの日だって、ずっと姉さんの面倒を見るために使う。俺は姉さんのために生きる」
 知り合いですらない凛々子に、ここまで喋ってしまっていいのか、と恥ずかしくなった。
 だが、ここまではっきり言えばわかってもらえるだろう。
「うーん?」
 凛々子は眉間にしわを寄せて首をかしげる。
「姉さんが大切だから……? 蒼血を叩き潰す? なんだそれ……? やっぱり敬介君、ボクとデートしないとダメだよ!」
「なんでそうなる! 俺の話聞いてたのかよ!」
 などと喋りながら、補給廠の出入り口にたどり着く。
 コンクリート製の小さな検問所があり、検問所の屋根には回店灯が毒々しいまでの赤い光を放っている。銃を持った兵士が歩哨に立っている。
 検問の向こうには踏切と病院があって、その踏切の向こうはもう相模原駅の駅前だ。居酒屋やファーストフードのネオン看板が見える。
 迷彩服の兵士を載せたままのジープが検問所前で停まり、カードを見せて通過した。あとに続いて軍人達が出て行く。
 敬介たちも検問所に並んだ。
「パスを」
 サングラスをかけた無表情な検問係が要求する。敬介は財布の中から無言でパスカードを取り出して渡した。もちろん、パスカードに殲滅機関云々は書かれていない。表向き、敬介は運送業者の人間ということになっている。
「はいっ」
 あくまで明るい声で凛々子がパスを出し、検問所を通り抜けた。
 検問を出たとたん、一人の若い女性が踏み切りを渡って近づいてきた。
 敬介は目を見張った。
 杖を突いている。不健康なまでに痩せて、肌は夜の暗がりの中でもわかるほど青ざめている。「病人」という強烈な印象が、整った顔立ちを台無しにしている。黒髪を柔らかそうな三つ編みにしてメガネをかけている。
 愛美だ。
「け い す け。」
 甲高い、途切れ途切れの声が愛美の喉から漏れた。抑揚などなにもない、昔の合成音声のようだった。いまや愛美はこんな風にしか喋ることが出来ない
「あ……ねえさん、なぜここに?」
「夢 を み た の。け い す け が。ころされて しまう おそろしい夢。だから。 嫌な予感が して。 いても たっても、いられなくて。ずっと まって いたの」
 そう言って、敬介の手を握る。冷たい手だ。
「そうか……」
 夢を見た、と言われてしまうと敬介としては何もいえない。姉がもっとも深く傷ついているのは精神だ。記憶消去しても拭いきれない恐怖の残滓が、悪夢となって姉を襲っているのだ。
 だから。姉はこんなに苦しんでいるのだから。俺が守らないといけないんだから。
 女と遊びほうけるなど持っての外。わずかでも多くの訓練を、一匹でも多くの敵を倒す。
「ところで、そのかたは どなた?」
 凛々子の存在に気付いた姉が尋ねる。
 敬介は凛々子を睨んだ。「おい、ふざけて答えるなよ」とメッセージを答えたつもりだった。 
 ところが敬介の視線など全く気にもかけず、凛々子は薄い胸を張って答えた。
「ボクですか、ボクは氷上凛々子といいます。敬介くんのカノジョ候補ですっ。はじめましてっ」
 驚愕する敬介。あわてて訂正を試みる。
「ち、違うって姉さん。こいつはただの……」
 上ずった調子で言おうとするが、凛々子が彼の口を掌で素早くふさいで、明るい調子で喋りだす。
「一緒の職場で働いてるんです。さっきも二人でご飯を食べてきたんです。でも、彼が煮えきらなくて。ボクのほうからデートに誘っても、なんだか渋って。ひどいよ敬介くん、キスまでしたじゃないか! あの日の熱い口づけを忘れないよ!」
 敬介は今度こそ絶句した。凛々子の両肩をつかんで睨み付ける。ご丁寧にも凛々子は瞳を潤ませていた。フェイズ5なら涙くらい自在に流せるのだろう。
「違うだろう、アレはキスじゃない! キスじゃなくて……」
 そこで口ごもってしまう。唇の柔らかい感触を克明に蘇ったのだ。その瞬間に自分が覚えた当惑。痺れるような快感。そういえば確かに、女性と唇を重ねるな ど初めてのことだ。アレはやはりキスの一種だったのだろうか。たとえその目的が骨折の治療だとしても。キスのあとに滑り込んできた脈打つ物体が少女の舌で はなく『蒼血』だったとしても。
「その時、敬介くんは言ったじゃないか、『君が必要なんだ、一緒にいよう』って。それなのにデートが嫌だなんて! ひどいよ、あれは嘘だったの? ボクとっても感動したのに! キミがいなければ、ボクはここにはいなかったのに!」
「いや、お前、それはだな……」
 自分の顔が赤くなり、冷や汗が吹き出していることを感じる。恥ずかしさと怒りで、身体が震えてきた。メチャクチャもいいところだ。『君が必要だ』は殲滅機関の戦闘員として必要なだけだ。断じて口説き文句ではない。
 言葉に詰まり、凛々子を睨んだ。
 だが、怒りを込めて睨み付けても凛々子はまるで臆した様子もなく、くりくりと大きな吊り目に喜びの光を浮かべ、頬と口許にいたずらっぽい笑みを浮かべている。からかって楽しんでいるのだ。抗弁すればするほどエスカレートして敬介を翻弄するだろう。
 だから、敬介はため息をついて、
「わかった。付き合うよ。明日でいいんだな。細かいことは任せる」
「やったー! 敬介くん大好き!」
 内心、苦々しく思っていた。
 せっかくの非番、俺は姉さんの面倒をみたいのに。姉さんを一人にしておくのは心配だし。うわついて女とイチャついてるところなんて見られたくない。姉さんだって俺のことを軽蔑するだろう。
 胃袋に、鉛を飲み込んだような冷たく重い感触が広がってゆく。
 ところが敬介の耳に、鈴の転がるような可愛らしい声のクスクス笑いが飛び込んできた。
 え? と当惑して横を見ると、愛美が笑っていた。折れそうに細い手を口許に当てて笑っていた。笑い声はしだいに大きくなって、もはやクスクス笑いとは言えない。華奢な肩を震わせている。
 目と耳を同時に疑った。姉さんが笑っている。声をあげて! こんなの何年ぶりだろう。そう、蒼血に襲われたあの日以来だ! あれから五年も姉は塞ぎこん で、テレビのコメディドラマを見せてもうっすらと笑みを浮かべるだけだったのに。貧しくとも明るかった姉に戻って欲しくて様々な努力を重ね、しかし姉の表 情から憂いは消えなかったのに。
「姉さん?」
 戸惑って尋ねると、愛美は口元から手を離した。
「よかった けいすけ が そんな ふつうの おとこのこ みたいに なって」
「え……意味がよく……わからない」
 そのとき、足の甲に痛みが走った。靴を凛々子に踏まれたのだ。
「なんだよっ」
 凛々子のほうに振り向くと、彼女は敬介を引きずって姉から数メートル離れ、電信柱の後ろに隠れて、耳元に口を寄せて囁いた。
「あのさ、敬介くん。キミさ、ものすっごい勘違いしてるよ。ずっと付きっきりで手取り足とりするのが本当にいいことだと思う? そんなことされて本当に嬉しいと思う?」
 横目で見ると、凛々子の眉は持ち上がり、口調は強い。先程の冗談めかした態度とは打って変わった、真剣な怒りの表情だ。
 なぜ怒られるんだ?
 とまどいながらも敬介は反論を試みる。
「いや、でもよ、姉さんは見ての通りの体だから、一人で家に置いておくのは危険だし、俺はたった一人の家族で……」
「二十四時間の介護が必要なの? そんな重い障害には見えなかったよ? お医者さんはなんて言ってる?」
「いや、介護しろとはいってないが。でもやっぱり不安だし……」
 そこで敬介は言葉を切った。自分の気持ちを一言で表すような言葉が見つかったのだ。
「つまり。裏切ったような気がするんだよ。姉さんのそばから離れると。俺は姉さんを一生守らなければいけないんだ」
「ふうん。つまり自己満足かあ」
「お前、何いって……!」
 敬介は声を荒げる。
「ちょっと立場を逆にして考えてみて。敬介くんが怪我とか病気で車椅子に乗ることになって、お姉さんが介護してくれて。なんでも代わりにやってくれて。最 初は嬉しいと思う。でも五年たっても十年たってもそのままだったら。一生、人生を君の介護のために犠牲にしたら。君はある程度なら身の回りのことだってで きるのに。どう思う?」
「あ……」
 言葉に詰まった。心臓が激しく跳ねて、額を冷や汗が流れる。
 それは確かに、辛い。
 俺のことなんかいい。姉さんは自分のやりたいことをやってくれ。きっとそんな気持ちで胸が張り裂けそうだろう。姉を大切だと思えば思うほど。だが相手の好意がわかっているだけに「やめてくれ」と言うこともできず、ひとりで悶々と苦しむだろう。
 敬介の表情を見た凛々子は小さくうなずいた。笑顔に戻っている。
「だよね、それが当たり前だと思うよ。自分の大切な人が、自分のために頑張って、頑張りすぎて……それは嬉しいけど、辛いんだ。この人を縛っている自分が 恥ずかしくて、負担になっているようで。だから、もっと好き勝手に遊ぶのがいいよ。お姉さんのことは放っておいて、のびのびと。それが結局、一番喜んでも らえるよ」
「そうなんだろうか」
 今までの人生での前提が覆された。衝撃的で、認めたくない。
 だが、姉がここ数年で初めて笑ったという事実は揺らがない。
 敬介は凛々子から一歩離れた。そして頭を下げる。
「言うとおりにするよ。明日はお前と……どこかに遊びに行こう。明日、明日だけは、姉さんのことは忘れる。お前を信じる」
 デートという言葉を口にするのは気がひけた。言葉を変えても、まだ恥ずかしい。
「けいすけ なにを はなしてるの?」
 愛美に声をかけられ、慌てて向き直る。
「いや、何でもないよ、明日のデートの詳しい打ち合わせ!」
「そう たのしんで きてね。ひかみ、さん。けいすけを よろしく おねがいします」
 凛々子は自信満々、敬介と腕を組んで、
「ええ、まかせて下さい。彼、なんか女の子とか慣れてないみたいですけど、もう周りの人が嫉妬しちゃうくらいイチャイチャして、人生観変えますから!」
「いや、それは勘弁してくれ! もっと初心者向けなのでいいから!」
 その言い回しがおかしかったのか、また愛美が口を押さえて笑う。
 と、野太い男の笑い声が聞こえてきて、そちらを見て敬介は絶句した。
 基地の入り口の検問所にいる軍服姿の男が、笑っていた。
 そうだ、姉に気を取られてすっかり失念していたが、自分が今いるのは、毎日通う基地のゲート前。
 あたりを見回すと、基地を出て行く軍人、基地に入る軍人、通行人、その半分がニヤニヤ笑いを浮かべている。残りの半分は、目を反らすようにして足早に去っていく。
「あ……」
 こんなに大勢に人に見られた。笑っているということは会話の内容も聞かれたのだろう。ニヤニヤ笑いながら基地に入ってゆく男達の中に知った顔を見つけて 絶望した。あの目が細い東洋系の男は戦闘局のリー軍曹、敬介は彼の指揮下で戦ったこともある。兵士達は噂好きだ。休み明けにはすっかり広まっているだろ う。
 訓練一筋のイメージは、もう微塵もない。
 エルメセリオンにたらしこまれた、などと揶揄されてもまったく言い返せない。
 どうすればいいのやら。またも冷や汗をかきながら凛々子を睨む。
 やはり凛々子は明るく笑って、
「いいじゃん。堂々とやろうよ、隠すことじゃないよ。明るいダンジョコーサイ、嫌い?」
 まったく悪びれない笑顔を見ていると、怒る気が失せた。無責任に見えるこの態度が、結局は姉を一番楽にするというなら。
「そうだな……」
 敬介も笑うことにした。むりやり笑顔をつくった。

 5

 2007年12月30日
 JR町田駅

 翌日の午前十時過ぎ。敬介はJR横浜線の町田駅改札を出たところで待っていた。
 町田駅は一日に何万人もの人々が利用する、この沿線では二番めに客数の多い駅だ。
 年末ということもあってか、リュックやカバンを手にしたラフな格好の人々が、ずらりと十八台も並んだ自動改札をひっきりなしに抜けていく。改札の向こう、階段の下でブレーキ音がして電車が停まると、そのたびに数百人もの人間がまとめて改札から吐き出されてくる。
 敬介はもう三十分以上もここで待ち続けていた。姉が言ったのだ。『女の子を待たせたら失礼だから早く出なさい』。
 五分前に到着するくらいでいいんじゃないか? と思った敬介だが、姉は楽しげに指を一本立てて、『氷上さんが早く来るかもしれないでしょう』と言うの だ。他にも髪型や服のシワにチェックを入れられ、どこかで聞きかじった『初デートのノウハウ』とやらを語ってくれた。挙げ句の果てには『恋が実る御守り』 までネットからプリントアウトして渡してくれたのだ。困惑したが、普段とは逆の立場になって敬介の世話を焼く姉は、とても楽しそうで。だから結局敬介は、 笑顔で御守りを受け取ったのだ。
 それにしても遅いな。
 腕時計を見た。すでに待ち合わせの時刻を十分過ぎている。
 どうしたものか。
 凛々子は普通の携帯電話と衛星携帯電話を持っていて、その番号も聞いている。だから普通の常識からすると連絡するべきなのだ。殲滅機関戦闘局員としての敬介は、ポケットに手を突っ込んで自分の携帯を引っ張り出した。
 だが、電話をかけることができずに、液晶画面を見つめるだけだ。
 つい昨日まで眠っていた『普通の男としての部分』が抵抗するのだ。
 今電話かけたら、急かしているみたいで悪いなあと。
 しかし、かけた方がいいんじゃないかという気もする。もしかするとアイツが待ち合わせの時刻を間違えているのかもしれないし。俺が間違えているのかも、いやまさか、携帯のメモで記録してあるし……
 どうしたものかと悩んで、ちらりちらりとあたりを見る。
 頭上には大型モニター。列車の遅延情報が表示されている。だが映っているのは、この路線とは関係ない路線のことばかり。凛々子が来ない理由とは関係なさそうだ。
 時計を見て、十五分たっていることに気付いた。
 よし、と決意を固めて、生唾を呑み込み、携帯のボタンを押して凛々子の番号を出す。
 さあ、かけるぞ、かけるぞ、と自分に言い聞かせる。
 突然、凛々子の声が浴びせられた。
「電話するだけでそんな顔にならなくても」
「あ……」
 いつの間にか、凛々子が目の前に立っている。
「お前なあ! 遅いよ! あと遅れるんなら電話を一本入れろよ!」
 思わず大声を出してしまった。これは照れ隠しで怒っているんだと自分でも分かっていた。
「ごめんごめん。これを選んでいたんだ」
 自分の足を指さす。
 今日の凛々子は服を一新していた。上半身はピーコートに、かわいらしいデザインの小さなリュック、下半身はチェックのショートパンツ。すらりと伸びた一片の贅肉もない足を、縞々のロングソックスが覆っていた。
「その靴下がどうかしたのか。昨日の服とあんまり変わらないように見えるが。足が寒くないのか、という感じで」
「ひっどいなあ。このソックスのキュートさがわからないんだあ。女の子が『どーお?』と言ったらお世辞でも誉めておくもんだよ?」
「そうか?」
 敬介はごくりと唾を呑み込んで、凛々子のほっそりとした腿を凝視する。こんなに細く引き締まった足、きめ細かで白い肌を敬介は見たことがなかった。数え 切れないほどの戦いを乗り越えてきたとは信じられない肢体だ。フェイズ5の持つ完璧な再生能力の賜物だろう。抜けるような白い肌の中に、一筋の青を見つけ た。太腿の側面に細い静脈が通って、膝の裏側に回りこみながらロングソックスの中に消えていた。その僅かな青が、ますます肌の白さを際立たせていた。
「あ、足がスラリと見えて、いいと思う……」
 凛々子は噴き出した。
「それじゃただのセクハラだよっ。真剣な顔がなおさら怖いよ。なんか違うんだよねー」
 そこでバンドの細い繊細なデザインの腕時計に目をやる。
「うわ。もう時間がないよ。来ちゃうよ。早くいこ!」
 敬介の手を強引につかんで、早足で歩き出す。
 JR町田駅から数百メートル歩いた場所に、小田急線町田駅がある。新宿にも箱根方面にも通じる巨大なターミナル駅だ。
 手を引いたまま、敬介と凛々子がホームに上がってきたその時、列車がやってきた。
 美しい列車だった。他の線に並んでいる、クリーム色の箱に青線を引いただけの通勤列車とは違う。
 柔らかな曲面を帯びた、高貴さすら感じさせる真珠色のボディ。ボディ横に並ぶ窓はとてつもなく長く大きい。窓の下には鮮やかな朱色のラインが引かれ、冷 たい印象に暖かさを添えている。車両の先頭は西洋騎士の兜とも猛禽類の頭部ともつかない独特の流線型を描き、巨大な曲面の展望窓があって、その中には座席 が並んでいた。フルフェイスヘルメットを思わせるほどに巨大な展望窓だ。運転席は展望窓の上、二階部分にある。
「間に合ったー! はい、これ特急券」
 凛々子が一枚の切符を渡してくる。
「んー、6号車だからもっと後ろのほうだね。ごめんね、もう展望席は売り切れだったんだよ」
 また敬介の手を比いて歩き出す凛々子。
「この電車に乗りたかったのか? わざわざ予約までして? なんでまた?」
 そう言われると凛々子は不満げに頬を膨らませた。
「だってこれVSEだよ? 小田急ロマンスカーの頂点と言われた夢の列車だよ? しかも普段VSEは小田原行き列車にしか使われないんだよ? 江ノ島方面でVSEに乗れる機会はほとんどなくて……」
 列車のドアが開いて、待っていた乗客が乗り込み始める。凛々子は走って、近くのドアから車内に飛び込む。
「あ、待ってくださーい!」 
 まだまだ発車する気配はないのに何を慌ててるんだ? と思いながら敬介が後を追う。
 いち早く座席に座った凛々子が手を振って、
「早く早く。窓際だよ!」
 敬介が隣に座ると、凛々子は満面の笑みを浮かべて天井を刺す。
「すごいよね、この天井!」
 なるほど、アーチ状の緩やかな曲面を描いてぼんやりと内部から発光している。普通の電車より高級感があると言えるかもしれない、と敬介は思った。
「まあな」
「カトリックの大聖堂みたいに荘厳だよね、非日常的空間だよね! トランペットの調べが天空から降り注ぐよ!」
「大げさすぎる! っていうか」
 そこで敬介は立ち上がり、荷物のリュックを荷棚に置いて、ため息をついて凛々子を見下ろす。
「お前、鉄道マニアなの?」
 電車の種類やら内装やらで興奮する凛々子にさっぱり共感できない。女でもマニアはいる、と聞きかじってはいたが。
「えー? マニアはこの程度じゃないよ。ただ、鉄道に強烈な憧れがあることは確かだよ」
「はあ? なんで?」
「だってボク、ふだん鉄道に乗れないし。日本に来てから半年間、一度も乗ってない。外国を転々としてる時も、よっぽどの急用じゃないと乗らなかった」
「だから、なんでだよ?」
「決まってるじゃない。駅にアレがあるから、君達に見つかっちゃうからだよ」
「あ……」
 そうだ。日本の大きな鉄道駅、空港、港などには必ず『エコーシステム』がある。通り過ぎる人々に超音波を照射して、蒼血の寄生体を発見する装置。この壁 は妙に分厚いなあ、という壁。なんで改札の目の前に作るんだよと評判の悪い柱。そんな場所にはたいてい、エコーシステムが埋め込まれているのだ。日本以外 の先進国でも状況は大差ない。
「電車に乗ったら、すぐに見つかって追いかけられちゃうから。だから今やっと、安心して乗れるんだ。線路沿いとかを歩いてて、電車を見るたび羨ましかったんだ。いつか思う存分のりたいなーって」
「なんていうか、お前……」
 敬介はまだ言葉に詰まった。こいつはとんでもない世界で生きてきたのだな、と改めて思う。自分にとって電車は毎日乗るもの、自分の足の次に身近な移動手 段だった。それに乗ることもできない生活など。こいつも蒼血なのだから当然だと頭で分かっていても、どうしても胸の奥にモヤモヤが広がる。凛々子のあどけ ない姿を見ていると。
「どしたの? 座りなよ」
 言われた通り座ると、列車が動き出す。音もなく衝撃もなく、高級リムジンのように滑らかな発車だ。
「凄い凄い、動いた動いた!」
「窓際のほうがいいよな。席変わろうか?」
「子供みたいに言わないでよ!」
 そわそわと腰を浮かしながら言われても説得力がなかった。
 話題を変えようと思った敬介は、
「ところでさ、どこに行くの? 江ノ島方面ってことは海なんだと思うけど……真冬になんで海?」
 すると偉そうに腕を組んでふんぞり返り、
「よくぞ聞いてくださいました! 今日のメインは新江ノ島水族館です。デート初心者の敬介くんにはうってつけです」
「はあ……?」
 水族館ときいてもまったく興味がわかない。小学校の頃に遠足で訪れたが、楽しい場所ではなかった。サメを見ては怖いと泣き出し、イルカやペンギンを見て可愛いとはしゃぐ女子達がうざったかった、という記憶しかない。
「あ、その目、疑ってるなー。でもホント、初心者にはお勧めのスポットだよ。映画はつまんなくても二時間ずっと座ってなきゃいけないから気まずくなるし、 ショッピングはどっちかがボーッと待ってることになりがちだし……動物園だとけっこう長距離を歩き回るからうんざりする人もいるんだよ。獣の臭いを嫌がる 人、多いし。そのてん水族館は屋内だし、決まった展示ルートどおりに歩くだけだし」
「遊園地じゃダメなのか? よく学生とかのカップルが行くじゃないか」
「遊園地はボクがいやなのっ」
 なんで? と尋ねるまでもなく、指を一本立てて理由を言った。
「だってさ、ジェットコースターとかは恐怖を楽しむものだよ? 頭では安全だと分かっていても、身体が、うぎゃー落ちるー、死んじゃうー、って危機感を感じるから楽しいんだよ?」
 そこから先は言わなくともわかった。敬介の頭の中に、凛々子と出会ったあの夜のことが鮮明に蘇る。蒼血を薙ぎ倒し、銃弾を片手で払いのけた、あの超絶的な運動能力。あんな立ち回りに慣れていれば、遊園地の絶叫マシンにいくら乗ったところで恐怖はないだろう。
 なるほど、と思ったが、凛々子の言う事に少しだけ疑問を憶えた。
「初心者向けをやけに強調するけど、お前もこういうの初心者だったりするの?」
 凛々子の反応は思いもかけないものだった。その言葉をぶつけられたとたんに笑顔が凍りつき、たっぷり二、三秒は沈黙した後に、
「え……あ……う……?」 
 意味不明な声を発して、大きく瞬き。
 胸の前で片手を振って、大声で否定した。
「や、や、やだなあそんなこと! あるわけないでしょ? ボクが何年生きてると思ってるのさ! 大ベテランだよ! 男をさんざん手玉にとっときたさ! と くに戦前とか戦後すぐの時代は簡単だったよ、男尊女卑の時代で男はみんな女をナメてたから。でもキミが初心者だから、あんまり大人向けの渋いコースじゃつ いてこれないと思ってさ! ほ、本当だからね!? ボク大ベテランだよ! 女の子を疑うのはよくないよッ!」
 凛々子の声がうるさすぎたらしく、前列の座席から中年女性が顔を出した。
 肥満して、厚化粧した顔面は巨大で、髪の毛を短くしてパーマをかけた、いかにも押しの強そうな女性だ。
「うるさいわねあんたたち!うちの子が迷惑するじゃない!」
 敬介と凛々子は顔を見合わせ、すぐに謝った。
「ごめんなさい」「すいません……」
 しかし中年女性の怒りはおさまらず、椅子の背もたれから身を乗り出して敬介と凛々子を眺め回し、嫌味な口調で毒づく。
「まったくねえ、あんたたちねえ。高校生くらい? 初心者とか言ってたけど、初デート? そうでしょ?」
「ボク……」
 何か言おうとする凛々子を片手で制して、敬介がたどだとしく答える。
「え、あ。まあ、そのようなもので」
 中年女性は大きくうなずいて、早口でまくしたてはじめた。
「気持ちは分かんないでもないわけよ、そういう年頃だしねー。ドキドキしちゃうわよね。あたしだってそういう年頃はあったわけよ? でもね、そういう時だ からこそ踏み外して欲しくない、人間としてしっかりしないとダメなわけよ。ほら、電車の中って公共の場所でしょ? そういうところで一時の情欲にかられて イチャイチャするようなカップルはね、どうなると思う?」
 敬介たちが答える暇もなく続きを喋り始めた。
「子供よ、子供を作っちゃうのよ! あとのことなんて何も考えずにね! 犬や猫と同じで、ポコポコ作っちゃうの! うちの近所にもそういう若い子がいて ね、まだハタチそこそこなのに同棲しててね、あたしは最初からダメだと思ってたんだけどね、ほらやっぱりって感じで子供作っちゃって。彼氏なんて男だか女 だかわかんないカッコして、働いてるって言ったってねバイトでね、まあヒキコモリになるよりマシかもしれないけどね、うちの子の教育が……とにかく若いう ちは礼節をわきまえた男女交際をしないとね……」
 喋るうちに声は甲高く大きくなり、わめき声になっていく。凛々子よりも明らかに迷惑だ。
「すいません、わかりましたから、気をつけますっ」
 凛々子が手を合わせて頭を下げると、中年女性は言葉を切って、さも満足そうな笑顔を作る。
「あらそう、わかればいいのよ、わかればね」
 頭を引っ込めた。
 敬介と凛々子は顔を見合わせる。
 肩がごつんとぶつかってしまって、慌てて飛びのいて座りなおす凛々子。表情は羞恥にこわばっていた。たぶん自分も同じ表情だと敬介は思った。
 当然じゃないか、こいつが女だということも気にしないくらいで、軽い感じでしゃべってきたのに、大声で赤ちゃんできるとか、そんなことを言われたら……
 意識しざるを得なくなる。こいつが女だということを。今までは何も考えずに軽口を叩けたのに。大きな凛々子の瞳が、優美な曲線を描く頬が、緊張に引き結ばれた小さな口が、その美しさが敬介の目を惹きつけて、視線を反らすことができない。初めて出会った、あの夜のように。
 何を言えばいいのか分からない。だが何かを言わなければいけないと思った。ただ焦りだけが膨らんでくる。頭の中がグルグル、というのはまさにこういう心境だろう。口の中が乾いて、汗が額を伝った。
 凛々子のほうから口を開き、乾いた声で言った。
「なにか飲みたい。もってない?」
「ああ! それならある。水筒が……」
 ありがたいと思った。この気まずい空気を変えるために助け舟を出してくれたと思った。敬介は立ち上がって、荷物棚からリュックを下ろした。この中の水筒 にはハーブティーが入っている。ハーブティーを選んだのは姉のアドバイスの結果だ。「お砂糖が入ってると太るのを気にする子もいるし、カフェインが入って いるとおトイレが近くなるから」。姉は本当に気を配ってくれた。
「この水筒が……」
 そう言いながらリュックを開けたが、慌てていたためか取り落としてしまった。
 勢いよく床に落ちたリュックから、掌に載るほど小さな紙袋が飛び出した。袋の口を止めてあるテープが破れて、もっと小さな箱が滑り出す。
「やば……」「あっ……」
 敬介と凛々子の視線が箱に集中した。
 うっとりと目を細める女性のイラスト。女性の周囲を乱舞する蝶。箱に書かれている文字は、『女性にやさしい たっぷりジェル』『一段コケシ型で脱落防止』『うすうすコンドーム』。
 たっぷり数秒間の沈黙ののち、冷たい声で凛々子が言う。
「……ねえ敬介君、これなあに?」
「え、衛生器具、であります、サー」
 なぜ兵隊言葉になってしまったのか自分でも分からない。
「嫌がってたのに。一日つきあうだけだって言ってたのに。こんなのを用意して……? じゃあ、さっきのおばさんの言葉じゃないけど、ほんとうにそういうつもりで……?」
「違う違う違う!」
 凛々子の声を遮って敬介は叫び、コンドームの箱を引っつかんでリュック深くに押し込んで、凛々子の顔を真正面から見つめる。
「違うって。誤解だって。俺は別に……こんなものを必要だなんて……ただ遊びに行くだけで……」
 すると凛々子はすぐさま視線を外して、
「いや、ボクべつに責めてるわけじゃないんだよ。うん、そうだよね、エチケットだよね」
「勝手に納得しないで俺の話を聞いてくれ! 俺はな、ただの友達だからこんなの絶対必要ないって言ったんだよ。でもな、姉さんがな、万が一のこともあるし 女の子の方からは言い出せないって、訳の分からないことを……その、ほら、姉さんに切々と訴えられて、嫌だって言えるわけないだろ? ……他意はない、他 意はないんだっ……」
「そうだよね、うんうん、そういうことをオープンに話し合える家族っていいよね」
 目を反らして、相変わらず冷たい声の凛々子。
「だから、そういうんじゃないってー! 俺は決して、いやらしい意味で!」
 大声をロマンスカー車内に轟かせてしまった。
 前席から先ほどの中年女性。後席から白髪の老人。二人いっぺんに顔を出して、怒りの声を降らせた。
「うるさいって言ってるでしょっ!」
「やかましいわい!」
 敬介と凛々子は身体を縮こまらせて、かぼそい声で、
「すいません……」「ごめんなさい……」 
 
 6

 午前10時40分
 新江ノ島水族館

 水族館入り口。窓口に並んでいるのは家族連ればかりで、落ち着きなく周囲を見回している子供が特に目立つ。
「はい、大人二人」
 敬介が窓口でチケットを買った。チケットとパンフレットを凛々子に渡すときに手と手が触れてしまい、電流でも流されたかのように身体を震わせた。
 自意識過剰すぎるだろ、と自分を恥ずかしく思う。だが気になるものは気になるのだ。
 なぜだろう。こいつが彼女だというのは姉さんの誤解だ、そのはずなのだ。俺はこいつのことなんて何とも思ってない。ただの同じ組織の戦闘局員だ。会ったのは一週間前、こいつのことなんて何も知らない。友達ですらないはずだ。
 そのはずなのに……こいつに誤解されてるのが恥ずかしいとか、どういう態度を取ればいいんだろうとか、そんなことばかり考えている。考えているときの、息がつまるような、それでいて身体にエネルギーが有り余ってくるような不思議な感覚は一体なんだというのだ。
「ん。早く行こうよ?」
 いっぽう凛々子はもう混乱から立ち直っていた。敬介の心の迷走に気付いていないかのように朗らかな笑顔で、チケットを持ったままの手を差し伸べる。
「あ。ああ……」
 早く終わらせよう。そして、ちゃっちゃっと早く帰るんだ。姉さんと過ごす「いつもの休日」に、早く戻ろう。映画じゃないんだ、つまんなかったらいくらでも早いペースで回れる。時間なんてかかりはしない。
 だが、館内に入ったとたん、敬介は圧倒的な光景に立ちすくんだ。
 水族館入り口は二階で、入ってからほんの三十秒も歩かないところに大きな吹き抜けがあった。一階と二階をぶち抜いて、映画館のスクリーンほどもある巨大 な水槽があって青く輝き、その中では無数の魚が思い思いの軌跡で泳いでいた。二階も一階も、水槽の前に多くの客が立ち止まって眺めている。
 小さな、銀色にきらめく魚が数百も数千も集まり、軍隊のように一糸乱れぬ隊列をつくって水槽の端から端まで泳いでいた。その下には黒い菱形の身体をはた めかせ、巨大なエイが悠々と進む。そのエイに貼り付いている小さな尖った魚は、もしかすると子供のころに図鑑で見たコバンザメか。黄色やオレンジの派手な 色彩の魚もゆったりと泳いでいた。そればかりか、水槽の中に積み上げられた岩石から、黒く太い蛇のようなもの……ウツボが鎌首をもたげた。
「なんだ……これ……」
「おおーう。すっごーい」
 隣の凛々子も感嘆の声を発して、先ほど受け取ったパンフレットを開く。
「あ、これだよ、『相模湾大水槽』。江ノ島近辺の海を再現してるみたいだよ?」
「へえ。エイなんてこのへんにいるのか」
 大海原の真ん中まで出かけないと巡りあえない生き物だと思っていた。
「あの銀色の大群はイワシだって! すっごいねえ。ボク焼いたイワシしか知らないよ。あんな綺麗に泳ぐものなんだ。壮観だね! 銀河系! とかそういう感 じ。あとねー。エイもいいよ。みて、あれ。身体をぐわんぐわんって羽ばたかせて、すうっと上がっていって……宇宙船みたいだよ。ぎゅーん! かっこいいな あ」
 ぷっ、と敬介は噴いてしまった。
「子供だな。それも男子小学生の好みだ。ほら、あの子とか」
 そういって敬介が指さすのは、一階で大水槽の前に張り付くようにして見ている小学生低学年ほどの少年だ。とくにエイがお気に入りのようで、目の前を通過するたびにガラスを叩いたり手を振ったり大はしゃぎだ。
「好みが男っぽくてもいいじゃない。じゃあ敬介は何が好きなの?」
「いや、ここには特に……みんなすごいとは思うが……」
 敬介が感嘆したのは特定の魚ではなく、これほどたくさんの魚が入り乱れて生命力たっぷりに活動している、「豊穣な生態系」そのものだ。
「そっか。じゃあ次いこっか? 入り口からこれだもん、期待しちゃうよ」
 凛々子に引きずられるようにして館内を巡った。
 不気味な深海生物の展示があった。長い足をもつ、一抱えもある蟹の展示があった。川魚が模造の河を跳ねていく展示があった。
 蛸壺にはまっている蛸までいて、凛々子が指を指して笑った。
「これっ、おかしいよねっ」
「なにが面白いんだ? ぐにゃぐにゃして薄気味悪いだろ」
「壷にはまってるのを見たら、ボクの笑いのツボにはまったんだよ!」
「くだらない! やっぱり子供だよ」
「うるさいなあ」
 その次の部屋は一味違った。円柱型の水槽が室内にいくつも立ち、ライトの淡い光で照らされていた。わずかに青みがかった光を放っていた。
 そして円柱水槽の中には、水に溶け込こんでしまいそうに透明性の高い小さな生き物が何十となく、その傘型の身体を躍動させて泳いでいた。
「これ……」
 クラゲだ。頭ではわかっていた。だが動いている現物を見たのは初めてだ。これほど幻想的で、ガラス細工のように繊細な美しさをもつ生き物だとは想像だにしていなかった。
 これは。この世の、いきものでは、ない。
「あ、けっこう綺麗だね。……どうしたの?」
 立ちすくむ敬介に、凛々子が首をかしげる。敬介の肩を小突いて、からかう口調で、
「あー。もしかしてクラゲ好き? 癒されちゃった? こういう綺麗でフワフワしてるのが好きなの? そっちこそ女の子みたいだね?」
 凛々子の声は聞こえていなかった。フラフラ歩き出して室内を見て回った。
 見れば見るほど綺麗だ。ガラスのように透明で、まるで身体の内部構造が感じられないものが泳ぐ姿は、新鮮だった。とても清浄なものだと思った。よく見る と水槽ごとに違う種類のクラゲがいるではないか。指先より小さなもの、逆さになっているもの。子供の顔面ほどもあるもの。
 見ていると、心が落ち着く。ここは地上の汚れが排除された異界だ。そうとすら思った。
「あのー。敬介くん?」
 肩を叩かれて、ようやく我にかえった。
「ん?」
「そんなに好きだったら写真とか撮る? 使い捨てカメラ売ってたよ? びっくりしちゃったよー。魂とられちゃった? みたいな」
「いや、いいんだ……それより。さっきは悪かったな。男っぽいとかいって。男も女もない、いいものはいいんだ」
 凛々子は一瞬きょとんとした顔になって、すぐに微笑んだ。
「そう。いいものはいい」
 それから館内をめぐるうち、二人の好みの差は明確になっていった。凛々子は動きの激しい、怪獣のような外見の生き物を見て大喜びする。小学生男子と一緒 になってきらきらした瞳で見つめる。いっぽう敬介は綺麗なもの、可愛らしいものがゆったり動くのを見て、ぼんやりと癒されるのが好き。
 もうお互い何の文句も言わず、好きなものを見た。凛々子が目を輝かせてアザラシのエネルギッシュな泳ぎを見つめていると、なぜだか敬介もあたたかい気持ちになった。
 最後は土産物屋に出た。水族館の生き物をかたどった置物が、キーホルダーが、お菓子類が、所せましと置かれている。
「商売うまいねー。必ずここを通るようになってるんだね」
 子供に頼まれて、ついつい買ってしまう親が多いようだ。いまもレジでは、ペンギンの形をしたヌイグルミを小さな女の子が買ってもらっていた。
「欲しいでしょ? 買ってあげようか?」
「いくらなんだってそこまで女の子っぽくはないぞ!」
「見たかったなあ、ヌイグルミ買って、電車の中で急に恥ずかしくなる敬介くん」
 水族館から出たところは海辺だ。すぐ右手が砂浜になっていて激しい波が押し寄せ、沖合いにはサーファーたちが数十人も波風と格闘していた。見上げれば雲一つない澄んだ青空に、トンビがくるくると旋回していた。
 空を見てぼうっとしていると凛々子がぽんと肩を叩いた。
「どうしたの?」
「いや……なんていうかさ。すごく景色が綺麗に見えてさ。おかしいよな、こんなの水族館に入る前にも見たのにな。ぜんぜん違って見えるんだ」
「ん、それは当然のことだよ。受けとる側の心が変わったんだ。入る前はとても景色を楽しむような気分じゃなかったでしょ?いまはとってもリラックスしてるから、綺麗な世界を素直に受け取れるんだよ」
「リラックスか」
 そう言って敬介はまた天を仰ぎ、ため息をついた。
 リラックスは、だらけているだけだと思っていた。己を磨くことに全てを捧げられない怠け者の、単なる言い訳だと思っていた。
 でも違ったんだな。余計なものを脱ぎ捨てたような軽やかな気分だ。
「ところでさ、お腹すかない? どっかでご飯食べない?」
「え、今か?」
 時計を見たら、十二時半だ。
「混んでるだろ、今は。観光地の昼飯時だぞ?駅前にコンビニあったからそこで弁当買って」
「それじゃ楽しくないでしょ、もうっ。もっと楽しもうよ」
「ああ、そうだな。任せるよ」

 7

 13時10分
 小田急線車内

 食事が終わって駅へと向かった。
 帰りには特急ではなく普通の電車を使った。
 ホームに停車してドアが開くや否や凛々子は駆け込み、身体がバウンドするほどの勢いでシートに飛び乗って、「早く早く!」
「子供か……」
 と苦笑しながら敬介が隣に腰を下ろす。
 電車はゆっくりと街中を進んでいく。帰宅には早い時間のため車内は空いている。
 二人は水筒を出して、紙コップでハーブティーを飲み始めた。
「これ、美味いな」
「うん……」
 凛々子はなぜか生返事だ。
「楽しかったな……」
 まだ帰るのは早いんじゃないか? 町田でもう少し遊ぼう。そんなことすら考えていた。どうやって言い出そうか……
「うん」
 凛々子はまた、敬介の顔も見ないで生返事。不審に思って顔を見ると、憂いの表情を浮かべている。
「どうしたんだ?」
「あのさ。ちょっと考えてたんだけど……うーん、これ言っていいのかな……怒られそうだなあ。うん、今だから言うね。今なら聞いてもらえる」
 よほど大事なことなのか、神妙な顔つきになって、深呼吸を一つ。
「昨日さ、ボクが誘ったら、敬介くんは言ったじゃない。『俺には姉さんがいるから遊べない』って。『姉さんが大切だから、蒼血殲滅に全てを捧げる』って」
「言ったけど……」
 せっかくの楽しい気分だったのに、急に気持ちが醒めてくる。日常である「蒼血」の話題を浴びせられたからだ。
「あれってね。変だと思うんだ。落ち着いて聞いてね」
 そんな話を今するなよ、という不快感が込み上げてきたが、間近で見る凛々子の表情があまりに厳粛なものだったので言葉を失った。今日はじめて浮かべる表情だ。むしろ蒼血と戦っていた時の表情に近い。
「だって、キミのお姉さんを酷い目にあわせた蒼血は、その場で殲滅されたんでしょ。つまり犯人は死刑になったんだ。それなのに、関係無い別の蒼血を、蒼血 という生き物自体を、仇として憎んでいる。例えば中国人犯罪者の被害を受けたからって、中国人をぜんぶ憎むのって変じゃないかな?」
「お前……」
 不快感に加え、不信感までもが急激に膨れ上がった。
「弁護するつもりか? 蒼血がたくさんの人間を殺しているのは事実だろうが。悪を憎んで何が悪い」
「『悪だから憎んでいる』なら、そう言えばいい。でもそれはお姉さんとは関係無いよね。『姉を大切に思っているから蒼血を滅ぼす』というのは理屈が通らない。敬介くんが蒼血を倒したからって、お姉さんの幸せにどう繋がるの?」
「なっ……」
 敬介はあえいだ。
 今日一日かけて育まれた凛々子への好意も、友好的な気分も吹き飛んだ。胸の内の聖域に土足で踏み込れたからだ。
 睨みつけ、唸るような低い声を叩きつけた。
「何が言いたいんだ、はっきり言ってみろ」
 凛々子は動じない。大きな瞳でまっすぐに敬介を見詰めたまま、小さな顎に手を当てて喋りだす。
「あのね、ボクは昔、作家志望の男の人と知り合ったの。その人はね、子供のころ学校でひどくイジメられていたんだって。だから復讐のために小説を書いているんだって。
 『ベストセラー作家になって相手より偉くなってやる、みたいな感じ?』ってボクが訊くと、その人は自分に酔っている感じで微笑んで、『そんな単純なものじゃない』って。
『自分が本当に憎んでいるのはイジメを容認している空気そのもので、その空気を一掃しなければ勝ったことにはならない』んだって。『だから僕は小説を書い て世の中に広めて、イジメを容認する空気をなくして世の中を優しくするんだ』って。『それが僕の戦いなんだ』って。どう思う」?
「どう思うって、そりゃお前。訳が分からない。ツッコミどころだらけで」
「うん。ボクもさっぱりわからなかった。イジメた奴に直接仕返しする訳じゃない。世の中を変えたいなら政治家になればいいのにそんなことは目指さない。 言ってる事とやってる事が矛盾しすぎて。でもボク変わった考えって好きだから、『それどういうことですか?』っていろいろ訊いたの。でも彼は何一つまとも に答えられなかったよ。しまいには涙目で怒り出しちゃった」
 そこで言葉を切って、
「たぶん自分を騙してる、ほんとの気持ちを隠してるんだと思うよ。ほんとはとっくの昔に仕返しをすることなんて諦めているのに、諦めてるって認めるのが嫌 だから、『自分は今でも戦っている』って思い込もうとしてる……自分に言い聞かせてるんだと思う。でもそれは本当にやりたいことじゃないから、彼はきっと ずっと、満たされない気持ちを抱えたまま生きていくことになると思う。その後会ってないから、わからないけど」
「そんなの、そいつが甘ったれっていうだけの話だろ? さっさとやり返すことも、潔く諦めることもできないからだ。なんでそんな話を?」
 そこで敬介は気付き、語気荒く詰め寄る。
「俺に似てるって言うのか、その甘ったれが!?」
「似てるよ。敬介君の心理は、彼ほど屈折してないと思うけど……理屈が通ってないという点では一緒。たぶん敬介君の場合は、『吊り橋効果』の一種じゃない かな。吊り橋効果って知ってるよね。吊り橋みたいに危険な場所に男女がいると危険のドキドキを恋のドキドキと勘違いして好きになっちゃうんだって。たぶん 敬介君は、蒼血に襲われた時の恐怖のドキドキと、お姉さんを大事だと思う気持ちがごっちゃになってしまったんだよ」
「何が言いたい? 蒼血を憎むなっていうのか!? 戦いをやめろって言うのか!?」
 唾がかかるほどの至近距離で、乱暴に言葉を叩きつける。
 車内の他の乗客たちが驚いて敬介を見る。非難の目を向けるものもいた。
 だが知ったことじゃない。
「そうは言わないけど。考えて。自分は本当は何がやりたいのか。お姉さんにとって本当に幸せなのは何か。ちゃんと考えておかないと、きっといつか破綻しちゃうよ」
「余計なお世話だ! まさか、今日のことはこれが目的だったのか。俺に説教するのが目的で。そうなんだな!?」
 唇を噛み締めて目を背ける凛々子。敬介は確信した。やはりそうなのだと。
 顔が上気するのがわかった。胃袋がストレスでぎゅっと縮んだ。紙コップを持った手が震えた。
 ……傷ついた。あんなに楽しかったのに。日常を忘れるほどに。この新しい世界に踏み出してもいいと思っていたのに。
 こいつにとっては、ただの作戦だったのだ。俺を懐柔するための計略!
「……ごめん、ね。半分は、ほんとにデートしたかったんだよ。楽しかったのは、ほんとだよ?」
「ふざけるなよ!」
 胸のうちで膨れ上がる怒りが、敬介を動かした。ハーブティーの紙コップを握りしめたまま勢いよく立ち上がる。
 コップの中のハーブティーが空中に舞って、凛々子に頭からぶちまけられた。
「あっ……」
 敬介と凛々子が同時に声を上げる。液体が凛々子のつややかな髪を濡らし、小さく尖った鼻を、柔らかそうな白い頬を伝っていく。彼女は大きな目をますます大きく見開き、頬は震えて、泣き出す寸前の子供のようだった。
 さすがに敬介は罪悪感を覚えた。凛々子の潤んだ瞳が胸をかきむしる。もちろん事故だ。だが凛々子は、「わざとだ」「それほど怒っていた」と受け取っただろう。
 謝ろうと思った。だが口を開けて凛々子を見おろしたものの、たった一言の謝罪が口から出てこない。かわりに、いがらっぽい喉からざらついた声で、一つの言葉が吐き出された。
「あ……謝らないからな」
 なんで自分はこんなことを言ってしまったのだろう。言った瞬間に後悔が胸を衝いた。
 訂正するより早く、顔を伏せたままの凛々子が消え入りそうな声で答えた。
「……うん。わかってる。ごめんね」
 ふたつの感情が敬介の中で荒れ狂った。
 ……なんでお前が謝るんだ、俺を責めてくれ。 
 ……そうだ、お前は俺を傷つけたから当然だ。
 二つの感情の衝突には決着がつかず、敬介はいかなる言葉も発することができなかった。胸の中に冷たい鉛が詰まったような苦しみを抱えたまま、敬介はゆっくりと腰を下ろした。
 二人は喋らない。列車の揺れる音がやけに大きく聞こえる。
 何かを言わなければ、と思って凛々子の横顔をのぞき見る。凛々子はハンカチで顔を拭ったものの、泣きそうな表情のままだ。こんな凛々子は見たことがな かった。明るくおどける凛々子、敵と戦う勇ましい凛々子、あわてふためく凛々子……いつだって凛々子の中にはある種の強さがあったのに。こんなにも脆い一 面があったとは。
 どれほど長く横顔を見つめ続けていただろう。ぎりぎりと胸を締めつける罪悪感が、凛々子への怒りを上回った。
 謝ろう。少なくともこの件については俺が悪い。
 手の中でクシャクシャになっている紙コップをさらに強く握りしめ、息をひとつ吸い込んで、
「……凛々子」
「え?」
 凛々子が顔を上げる。暗い顔のままだ。
 だが、その瞬間。凛々子の抱えるリュックから電話のベルが鳴り響く。敬介のポケットの中でも携帯電話が着信メロディを発する。敬介は音楽にこだわりがないので、買ったときのままだ。
 ふたりに同時に電話がかかってくるなど、用件は一つしか考えられない。
 敬介は携帯を耳に当てる。
「……殲滅機関です。作戦局員・天野敬介に緊急招集指令を発します」
「はい、天野です」
「都内にて第一種蒼血事件が発生しました。ただちに日本支部へと集合してください。所要時間は?」
「了解。所要時間は……」
 そこで言葉に詰まった。敬介はそもそも遊びにいくこと自体がないので、いま電車がどのあたりを走っているのか分からず、時間など予測できない。
 目の前の凛々子を見ると、彼女も電話を取って、張り詰めた表情で会話している。
「現在、藤沢市内を町田方面に移動中。列車乗り換え時間含め、相模補給廠到着まで三十分。はい。はい。ヘリ送迎は必要ありません」
 そのまま真似して言うことにした。
「到着まで三十分程度です」
 電話を切ってポケットに戻した。
 凛々子と目が合う。彼女は爽やかな微笑を浮かべていた。先ほどまでの、涙をこらえる表情は消えていた。口元は引き締まり、目には決意と誇りの光があった。
「指令、入っちゃったね? 残念。でも、行かなかったからボーンとやられちゃうし」
 ボーン、のところで掌をパッと開いた。
 デートの最初のような、明るくおどけた仕草。
「……ああ」
「第一種ってことは、戦闘局員が大量投入されるかもね。ボクの足、引っ張らないでよ?」
 そうだ、彼女は強いんだ。その心も。
 八十年間、年を取ることもなく、蒼血と殲滅機関の両方を敵に回して戦い抜いてきた戦士。「裏切りの騎士」エルメセリオンだ。
 敬介を苛んでいた「謝らなければ」という気持ちが急速にしぼんでいった。
 ……謝るタイミングは完全に逸してしまったけど……
 いいよな……
 自分に納得させる。
 窓の外を流れていくアパートや一軒家の連なりが、やけに遅く感じられた。三十分? もっと早く着かないものか。


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