ブラッドファイト 『蒼血殲滅機関』戦闘録 分割3 8 闇の中で、ふたつの超生命が会話していた。 幾百年もの時を生き抜いたフェイズ5の蒼血。 『神なき国の神』ヤークフィースと、『魔軍の統率者』ゾルダルートだ。 二体の間を飛び交うイオン濃度信号のパルスを、人間の言葉に翻訳したならばこんな風になるだろう。 『時が来ました。目を覚まして下さい、ゾルダルート』 『本当にやるのか、ヤークフィースよ?』 『おや、怖じ気づきましたか? もしや久々の文明国が恐いですか? 日本には殲滅機関の大拠点がありますからね』 『ほざけ、小僧。儂がアフリカや中東を転々としておったのは戦が多いからに過ぎん。この日本で本当に戦など起こせるのか、と言っているのだ。儂とて歴史くらいは調べた。もう半世紀もの間、小競り合いすら起こっておらんぬるま湯の国ではないか』 『ご心配なく。日本は必ず戦火に包まれます。それも日本の歴史上有数の大戦争がね。神の戦によってこの国は焼き滅ぼされ、瓦礫の中から誕生するのです。このわたしに統治された理想の国家が!』 『やれやれ、また人形遊びか。ソ連邦を半世紀も弄んで、まだ満足できんのか?』 『当然ではありませんか。わたしは人類の救済を決して諦めませんよ。楽園の創造を、すべての争いや苦しみの除去を。ソビエトは楽園の器として不完全だったのです。この国ならば、世界への楔となり得る』 『まあ良い、人形遊びに興味はないわい。思う存分戦えればそれでよい』 『存分に腕をお振るい下さい。エルメセリオンと殲滅機関が力を合わせた今、わたしでは力不足。ゾルダルート殿の武勇が必要です』 『おうとも、任せておけ。だが頭を使うのはお前の仕事だ。失望はさせるなよ?』 『愚問ですな。必ずや成功させます。ソビエトより放逐されて十数年、すべてをかけてこの計画を練り上げてきたのですから。この国の人々の心に大きな穴が開 いていることはすでに把握しています。この姿を選んだのも、この場所を選んだのも、少女神というイコンを効果的にするため。いま神が降り立ちます。そして 生まれるのです、黄金なる世界が!』 9 12月30日昼 東京都江東区・東京ビッグサイト 敬介と凛々子が水族館で魚やクラゲに目を輝かせていたころ、愛美は東京のシーサイド、有明の東京ビッグサイトにいた。 十年ぶりにコミケ会場を訪れていた。 愛美はかつてアニメを観るのが好きだった。マンガを描くのが好きだった。中学生の時に入った美術部が熱烈なアニメファンの集まりだったことがきっかけ だった。中学卒業の頃には友達と一緒にアニメパロディの同人誌を作っていた。高校や大学に進むに連れて趣味はますます濃く、同人誌は立派な体裁になって いった。プロのクリエイターになるつもりはなかったが、同好の士と一緒にオタク趣味の世界を漂うのが何よりも楽しかった。ずっとこんな日々が続けばいいと 思っていた。まだ幼い弟の敬介にアニメのLDを見せて少しずつ洗脳しつつあった。美少年キャラのコスプレをさせて会場で見せびらかすんだ、などと夢見てい た。 生活に不自由がなかった、遠い昔の話だ。 ……1997年の暮れ、両親が事故で亡くなった日、そんな幸福な人生が終わった。 彼女が一家の大黒柱になった。大学をやめて働いた。派遣社員の給料だけでは足りずに土日にはアルバイトを入れた。眠い目をこすり、自分の頬を叩いて活を 入れながら働いた。それでも収入は両親の稼いでいた額には遠く及ばなかった。弟と二人で、瓦葺の老朽化したアパートに転居した。そんな状況で趣味を続けら れるはずもなかった。観ているだけで辛くなるので、同人誌もアニメLDもすべて処分した。それでも電車に乗って、車内の人間がマンガの単行本を読んでいる のを見かけるだけで胸が締め付けられた。 ああいう贅沢な世界はもう自分には関係ないんだと、自分に言い聞かせた。できるだけ仕事を入れて忙しくして、何も考えないようにして、ただ自分は弟を養 うために生きているんだと、家族を支えるために動く機械でいいんだと、そう自分を納得させた。もちろん弟の前では笑顔の仮面を被り続けた。 それから十年の間にいろいろあって。変質者に襲われて働けない体になったり、生活資金の援助を受けてなんとか生きてこれたり。敬介が就職してくれて、やっと金銭の余裕ができたり。 だが暇になっても、敬介がたくさん給料をもらって貧乏から解放されても、オタク趣味を再開しなかった。 敬介に悪いから。 敬介はどんな仕事をしているのか詳しく話してくれないが、高い給料からしてよほど過酷な仕事なのだろう。そんな仕事に身を投じて、自分の趣味など一切持たずに、驚くほど安物の服を着て……まだ十九歳なのに、自分の全てを姉のために捧げて。 それなのに自分だけ、家でのんびりくつろいで趣味の世界に戻るなど、できるわけがない。 だが昨日、驚くべき光景を目にした。 敬介が可愛らしい女の子とじゃれあっていた。敬介は照れていたが、勘で分かる。あれは二人とも相思相愛だ。 やっと自分の楽しみを、自分の幸せを見つけてくれた。 だったら、自分も戻ってみようか? 十年も封印してきた気持ちが沸き起こってきた。今朝、デートに出かける敬介を見送った。そわそわしつつも楽しそうな敬介の様子を見ているうちに、いてもたってもいられなくなった。 ネットで調べてみたら、ちょうど今日が冬コミケの最終日だった。そして、十年前に仲良くつきあっていたサークルが、今でも同じ名前で参加していることが分かった。 自分は身体が弱ってるじゃないか、あんな人ごみに耐えられないよ、と何度も自制を考えたが、気がついたら電車に乗って都心を目指していた。 不安もあったが、会場が近づくにつれて期待が不安を圧倒した。 ……だいじょうぶ。ちゃんと調べた。いまの会場は身体障害者の来場にも対応してる。 ゆっくり歩けばいいし、お昼過ぎに行けば、立ちっぱなしにならずにスムーズに入れる。 その通りだった。りんかい線のホームから地上に上がってわずか十五分そこそこで、会場内に入ることができた。 サークルのカタログはもう売っていなかったので、ネットのページをプリントアウトしたものを持って進んで、会場に入った。 東京ビッグサイトと呼ばれる巨大な逆ピラミッド型構造物の奥にある、会場は。 エネルギーの坩堝だった。無数の人と、そして美少女のイラストに満ち溢れた空間だった。 コンクリートの柱が何十本も立ち並ぶ、四角い箱状の会場だ。横に百メートル、縦には三百メートルは軽くあるだろうか、しかも天井を見上げればボールを投げても届かないほどに高い。そんな広大な空間に、机が縦に数十、横に数十と並んでいる。 机の列には売り子がずらりと座って、色も形も様々な本を売っていた。 「新刊くださいっ」 勢いこんで若い女性が売り子に話しかける。 「新刊はコレですが……うちの本けっこうモロな描写あるけど大丈夫ですか?」 「気にしません」 若い女性は笑顔で答えて、同じ本を三冊も買っていった。 歩きながら眺めると、やはり同人誌の印象は十年前から変わっていない。表紙がカラーの薄い本で、表紙はたいがい女の子。変わったのは女の子の服装くらいだ。昔はメイドなんてものは流行っていなかった。 列の間を人が歩き回って、ときどき立ち止まっては本を手にとって読んでいた。売る側も美少女イラストの看板を立て、あるいはスケッチブックを開いてい た。看板が宙でふらふら動いているものもあった。よく見ると長い列ができていて、列の最後尾がその看板を持っているのだ。その看板の目の前を通り過ぎた。 看板には目のくりくりと大きな絵柄でメイド姿の娘が描かれ、娘は「ここが最後尾ですっ」と叫んでいた。最後尾のさらに後に次から次へと人が並んで行き、看 板が手渡されていく。 そういう売れっ子サークルがあったかと思えば、机の上にコピーで作った小冊子を本の数冊だけ置いて、なんの宣伝もしていない売る気ゼロのサークルもあっ た。そのサークルの机には地味目の格好の女の子がふたり座って、マグカップを傾けながら楽しそうにアニメの話をしていた。 みんな幸福そうだった。売れているサークルもそうでないサークルも、そして買いに来た人も。 見ているだけで心が温かくなってくる。 ……そうだ、自分はずっとここに帰ってきたかった。帰っていい、もう帰っていいんだ。 そう思うと心が浮き立った。杖を突きながらゆっくりとしか歩けないことがもどかしい。もっと早くと自分に叱咤しながら、目当てのサークルを目指した。 と、その時。目の前を大きな列が遮った。男性向けというか、ロリを強調しているサークルらしく、列の最後尾プラカードは裸の幼女が恥ずかしがっている姿。並んでいる客達はやや老けた男性客ばかりで、手に提げている紙袋はことごとく美少女イラスト入りだ。 温かい気持ちが少しだけしぼんだ。 こんな通行の妨げになるような列の作り方、マナー悪いなあ、と思った。 でも、どうやってどいてもらおう。自分はゆっくりとしか喋れないから、通じないかも知れないし。 一瞬の逡巡のうちに、愛美のとなりを歩いていた若い男性が、同じことを思ったらしく列の連中を怒鳴りつけた。 「おい! これじゃ邪魔だろう、列どけてくれよ。常識考えてくれよ」 だがロリコンサークルの列に並ぶ中年男性たちは動かない。白髪交じりの頭をさも不快そうに掻きむしり、苦々しい顔を青年に向けて、毒づいた。 「あ? 何が常識だ。おれたちゃ晴海のガメラ館の時代から並んでるんだ。ガキが勝手に常識とか作ってんじゃない」 青年も即座に反発する。 「何年やってようが偉くもなんともないだろ。お前らみたいな奴がいるからコミケが誤解されんだよ」 次の瞬間、ロリコンサークルに並ぶ男たちの顔が怒りと屈辱にひきつった。即座に彼らは列から飛び出し、青年に殴りかかった。 「なっ……?」 青年は吹っ飛んだ。少年漫画風のイラストを展示している机に激突し、机を薙ぎ倒した。同人誌とスケッチブックが宙を舞う。その机に向かっていた人たちが 怒気もあらわに立ち上がった。その両脇のサークルの人たちも立ち上がった。彼らはみな若い男で、ロリコンサークルに並んでいる男達より小奇麗な格好をして いる。 「てめーっ!」「なにやってんだよっ!」 最初に暴力を振るった二人組に、いっせいに飛びかかった。パンチが男の顔面をとらえて鼻血が噴出す。たちまち引きずり倒される。 「いてっ……おまえっ……いでぇっ……」 数人の男に取り囲まれて、もう二人の姿は見えない。ごすっごすっと低い殴打の音と、涙声だけが聞こえた。 「やめっ……いやっ……やめっ……」 悲鳴が途切れ、蛙の合唱にも似た嘔吐の音。 「きたねっ! 俺のジャケットが! いくらしたと思ってんだよ!」「くせえんだよ! てめえは!」 怒声がさらに膨れ上がる。と、ロリコンサークルに並んでいた中年たちが加勢した。二人組を取り囲んだ人たちをさらに取り囲み、蹴飛ばした。 ……え? なにが起こってるの? 目を見開いた。まるで信じられない。 コミケで暴力事件が起こることなど十年前の常識ではまず絶対になかった。最大級の犯罪といえばスカートの中を隠し撮りする類で、みんな平和的だったのだ。 だが確かに目の前で暴力事件が起こり、反撃が繰り返されている。 「いでぇっ! こいつ! こいつナイフを!」 ロリコンサークル側の中年男が頬を押さえて絶叫していた。頬に当てた手の下から止め処もなく鮮血が流れ落ちていた。 「おうっ! 悪いかブタが!」 彼を斬りつけたのは若い男だ。手には大きなカッターナイフを握っている。同人誌の梱包を解くためにナイフを持ち歩くのは、サークル参加する人間にとっては常識的なことだ。 刃物沙汰になって、さらに暴力は拡大した。周辺の机に向かっている売り子たちが次々に立ち上がり、拳を振り上げて殴りあいに加わった。吹き飛ばされた人間が激突して、一つまた一つと机が倒れた。 愛美は何もできなかった。殺気立った人並みが左右を高速で通過していくのに怯え、ただ杖をにぎりしめていることしか。真っ白だった頭の中に、やっと一つの考えが浮かんだ。 これがテレビで取り上げられたら。コミケのイメージは絶望的に悪くなる。もう開催できなくなるかも。 だから叫んだ。 「やっ……」 声が出ない。やめろと言いたかったのに。 「やあっ……」 やはり声帯がでたらめに震えて、しわがれた小さな声が出ただけだ。 押し合いへし合い、数十人規模で殴りあう人々に、愛美の声はなんの影響も与えられなかった。 もう一度試そう。 口を開いたその時、吹き飛ばされた男の背中が迫ってくる。よけられなかった。将棋倒しになって倒れた。痛い。後頭部を打って、頭が割れるように痛い。吐 き気がこみ上げた。たくさんの男達が怒りに歯をむき出しにして、愛美の上を走った。仰向けに倒れている愛美のことなど気にもせず、身体を踏みつけにして男 達が進んだ。パキリと胸のあたりで音がした。全身を悪寒と激痛が貫いた。胸を踏まれて肋骨が折れたのだ。 涙がにじんだ。なんで。どうして。どうして。 「てめーっ!」「おおーっ!」 訳の分からない叫びが何十人分もいっぺんに押し寄せてきていた。誰も混乱から逃げようとせず、むしろ乱闘に参加しようと押し寄せていた。信じ難いことに女の声も混ざっていた。 「ひっ……ひっ……」 「邪魔だっ!」 顔面に、重量のある一撃。歯が砕けるごりっという重い音。走る群衆の一人が、愛美の顔を蹴飛ばしたのだ。勢いよく身体が転がって、なにか鋭いものが後頭部にぶつかった。倒れた椅子の足だろうか。 鼻が痛くて、熱かった。それ以上に熱いものがとめどもなく溢れてきた。鼻血だろう。いっぽう頭の後ろからは、冷たいものが流れ出ていくのがわかった。こ れも血だろう。後頭部を切ったのだろう。不思議なことに頭の怪我は大して痛くなかった。ただ怪我のまわりに冷たい感覚が広がった。首筋の辺りにまで冷たさ が広がった。 意識がぼやけてきた。 視界もぼやけている。 眼鏡が飛んでしまったのだろう。自分の体の上を通り過ぎていく人々の顔も分からない。ただ茶色や黒の大きな塊に手足が生えて動き回っているような。塊た ちの動きはますます激しくなっていた。ぐちゃぐちゃに茶色と黒と灰色の混じった濁流が頭の上を通過していた。数え切れないほどの罵声が怒鳴り声が、そして 悲鳴が聞こえた。 これはもう、ただの暴力事件ではない。暴動というのだ。 薄れていく意識の中で、愛美はただ怯えて、当惑していた。 ……どうして? どうして? ……コミケは平和的で暖かい場所だったのに。絶対にこんな事件が起こるわけなかったのに。 自分がいなかった十年の間に、この暖かい場所はどうなってしまったんだろう。 そのとき一つの叫びが、無数の怒号と悲鳴を貫いた。 「みなさん、お静かに!」 若い女の声だった。冷たく硬質な澄んだ声だった。声の大きさそのものは、決して怒鳴り声ではなかったはずなのに、なぜだかたくさんの怒鳴り声に紛れず に、すべての騒音を圧倒し、貫いて聞こえた。まるで『存在の根元的な質』が違うとでもいうかのように、その声は際立っていた。 ついで、歌が聞こえた。同じ女性の声だろう。なんて綺麗な声だと、愛美は感動に震えた。 ハミングからはじまり、愛美のまるで知らない言語でつむがれる歌。しだいに激しく情熱的になっていく。愛美が聴いたことのあるどんな音楽とも似ても似つ かないメロディだ。歌詞の意味が一つもわからないだけに、歌のようにも、異教の聖句のようにも聞こえた。愛美が知っている中でいちばん似ているのは讃美歌 だ。 その歌声が大きくなってくる。近づいてくるのだ。歌声が強さを増していくと、反対に人々の怒号と悲鳴が弱まっていった。 みんな聞き入っているのだ。愛美はそう思った。そうだろう、自分だって、こんなにも気持ちがうっとりして、怪我の痛みも忘れそうなのに。 すぐそばに歌声の主が近づいた。きっとわずかに二、三メートル。目を凝らした。 なんと、頭上に人間が浮かんでいた。間違いなく空中に立っている。 近眼のせいでぼやけてよく顔が見えない。だが黒っぽい服を着ていること、髪を長く伸ばしていることはわかった。 歌声の主が、ちょうどその位置で立ち止まった。 歌をとめ、言葉を投げかけてきた。 「皆さん、静まってくださいましたね。ありがとうございます。わたくしは今から、みなさんの傷を癒します。まずは、そこの貴女」 そう言って彼女は飛び降りた。すばやい動作で、愛美の前に膝を突き、覆いかぶさった。 「え……」 愛美が驚いていると、もっと驚くべき行動に出た。 唇を重ねてきたのだ。 病気のせいで恥ずかしくも荒れてしまった愛美の唇に、恐ろしいほど柔らかい唇が触れる。 「うぐっ……」 唇を強引に割って、舌を入れてきた。蕩けるように熱く柔らかい舌が、唇の間から滑り込んでくる。意志をもつ独立した生物のように口の中を動き回り、喉の奥へと侵入した。 愛美の全身に温かさが満ち溢れた。 冬の日に凍える思いをして、やっとたどりついた家の布団にもぐりこめたような。激痛と緊張でこわばっていた筋肉が脱力していく。気持ちがよかった。このまま眠り込んでしまいそうだった。 熱い舌がルートを逆戻りして口の中に上がってくる。唇を通して、口の中から出て行った。 女性が身体を離した。 「さあ、貴女は癒されました。救われました。身体を動かしてごらんなさい」 そう言われても。と思いながら手足を動かし、驚愕する。まったく痛みがない。確かに折れたはずなのに。それどころか素早く力強く動く。こんなに軽々と四肢が動いたのは、もう遠い昔の話だ。 床に着いた愛美の手は、力強く身体を持ち上げた。起き上がった。肋骨が折れる音が確かに聞こえたのに胸の痛みもない。 「え……?」 自分の顔をさわってみる。鼻血が止まっていた。そればかりか、へし折られたはずの前歯が元に戻っている。頭の中が「ありえない!」という思いで一杯になった。だが治っている。奇跡。これはまるで奇跡。 他の部分はどうだろう、と思って、立ち上がった。 今度こそ心臓が止まる思いだった。尻をついた状態から、杖もなしに立ててしまった。 まさか。まさか。まさか。 胸の鼓動が高鳴る。片足をバレエ選手のように上げてみた。すっと抵抗なくあがる。身体がバランスを失うこともない。足をそろえて、あるいは片足でジャンプしてみる。できた。できるわけがないのに。 ズボンの上から太腿に手を当てた。筋肉が衰弱し腱が破損し、鶏がらのようにやせ細っていたはずの足が、普通の女性の太腿になっていた。 「うそ……こんな。こんなのって! 治ってる! 治ってる!」 思わず歓喜の声が漏れた。その声をきいていよいよ驚いた。ここ数年聞きなれた、抑揚もない、たどたどしい自分の喋りではない。ちゃんと舌が廻っている。これが本来の自分の声。 言語機能まで含めて、あの五年前の日に失われたものが、健康な肉体がすべて帰ってきた。 「いかがですか」 目の前に立つ女性をまじまじと見つめた。 あ、と息を呑んだ。 眼鏡は無くしたままなのにしっかりと見える。どんな奇跡なのか、子供の時からの近眼すら矯正されてしまった。 こうやってみると、女性はまだ十代の少女だった。ただ身長百七十センチはある長身で、大人びた顔立ちであるだけだ。切れ長の目とよく通った鼻筋、生身の 人間らしさが薄い、つめたい美貌の持ち主だ。髪も艶やかな漆黒のロングヘアで、照明を浴びて微妙に虹色に輝きながら背中へと伸びている。身体全体を黒いロ ングコートで包んでいる。黒髪、恐ろしく整った顔の造作、漆黒のコート……この三つが相まって、厳かな雰囲気を生み出している。 「あの……あのっ。信じられません。ありがとうございますっ、ありがとうっ……いったい、あなたは、何者なんですかっ!?」 愛美の問いには答えず、ただ漆黒のコートの少女は周囲を見渡した。演説でもはじめるかのように、長い腕をすっと左右に広げた。 「みなさん。他の方の傷ついた身体も癒します」 おおっ、と声が上がった。 「ただし。わたしがいうことに従ってください。 けっして憎みあわないこと。 暴力を振るって自分を傷つけた相手のことも、自分を罵った相手のことも、けっして憎んだり、仕返しを考えてはなりません。なぜならみなさんが今やったこ とは、この愚かな暴力行為は、みなさんの責任ではないからです。みなさんの中の弱い心がやったことだからです。みなさんは弱い心の奴隷であったに過ぎない からです。 だから憎まないでください、許しあってください。 みなさんの中で、どうしても憎しみを捨てられない方はいますか? どうしても殴り合いを続けたいなら、今この場で申し出てください」 愛美はまわりの人々を見た。 誰ひとり怒りなど表していなかった。 彼らのこわばった顔面には怯えと当惑だけが浮かんでいた。青ざめた顔をして、小刻みに身体を震わせている女性までいた。握りしめた自分の血まみれの拳を、さも不思議そうにみつめている若い男性がいた。なんで人を殴ってしまったのかまったく理解できないのだろう。 数秒が経った。誰も声を上げない。殴らせろと自己主張しない。 黒コートの少女はうっすらと笑みをうかべてうなずいた。 「そう、それでいいのです。ならば癒します。まずはどなたから?」 今度はすぐに、群集のあちこちで声があがった。 「俺! 俺です! 腕を折られたんです早く見てくださいッ」 「そんなことより彼女を! ぐったりして動かないんですよ!」 「子供の血が止まらないんです!」 四方八方から叫びが殺到した。少女は軽く手を上げて、 「お待ちなさい。まずはこの子供です」 そう言って、近くの机の下から六、七歳の男の子供を引きずり出した。 人ごみにまぎれて愛美には見えず、誰も気付かなかったが、そんなところに子供が倒れていたのだ。集団に踏みつけにされた結果か、子供の手足はへし折られ ておかしな方向に捻じ曲がり、ヒューヒューと奇妙な音を出して息をして、顔は土気色だ。いますぐ救急車を呼ぶべき容態に見えた。 少女は子供を抱きかかえてキスをした。わずか数秒間、子供の身体がわなないた。魔法でも見ているかのように手足の損傷が元に戻り、死人のようだった顔色も回復する。子供がつぶらな瞳をあけて、 「あれ?」と首をかしげる。 群集のあちこちからまた声が上がった。 少女は子供をそっと立たせ、群集の中に分け入っていった。 中で何が起こっているのか、愛美からは見えない。だが次々に歓喜の声が上がる。子供の、若者の、中年の声が。 「お姉ちゃん、ありがとう!」「ありがとうございます、ありがとうございますっ……」「こっちです。こっちにも来て下さい!」 少女は果てしなくキスを繰り返し、怪我人を癒し続けているのだ。 愛美の胸の中に感動が広がっていった。 すごい。この人、本当にすごい。 治療を何百回繰り返したろうか。 少女は不意に、ふわりと浮かび上がって、また空中に立った。 空中を歩きながら、人々を見渡して両腕を広げる。 「さあ、みなさん。みなさんの傷はすべて癒されました。約束を守ってくださって、ほんとうに感謝しています。 でも、わたしはただ、傷を癒すためだけに来たのではないのです。 さきほどから何度も問いかけられました。あなたは何者なのかと。今こそ答えましょう」 そこで言葉を切り、立ち止まる。愛美を含め、何千とも知れない人々の視線が集中する。 「……わたしは嵩宮繭(たかみやまゆ)。けれど、人間のつけた名前はあまり意味がありません。呼びやすく憶えやすく……繭とでも呼んで下さい。 わたしは、神の使いです」 神の使い。突拍子もない言葉だ。 だが愛美は驚かなかった。自分の身体がキスひとつで劇的に回復したのだ。医者が匙をなげた会話機能の障害までも。これが奇蹟でなくてなんだ。奇蹟を振りまく者を神と呼んで何が悪いのか。 他の者もそう思ったらしく、疑いの声をあげるものはいなかった。 黒衣の少女……繭は、強い口調で話し続ける。 「みなさんを救うためにきました。正確には、ほんのわずか前、みなさんが暴動を起こしたその瞬間、わたしは神の使いとして目覚めたのです。 この者達を救えと、メッセージを受け取ったのです。救うための力と共に。 みなさんの中から弱い心を一掃するためです。 みなさん、自分の胸に手を当ててよく考えてください。暴力事件を起こしたくてこの場所に来たのでしょうか。自分と意見の違う者を殴ってやりたいでしょう か。いいえ、けっしてそんなことはないはずです。みなさんは、いまの日本にいる中で最良の人々です。誰も傷つけず、ただ美しい物語の世界で遊ぶことだけを 求める人たち。そして自制心にあふれた礼儀正しい人たち。 それでも事件は起こってしまった。こんなにも拡大してしまった。 なぜでしょう? それは人間の中に弱い心があるからです。嫉妬や怒りに我を忘れ、理性も優しさも失ってしまう心があるからです。人が人であるかぎり治せない病気です。 でもわたしならば、みなさんの弱い心を取り除くことができます。わたしとともに来て、長い時間をかけて少しずつ心を作り変えていくのです。毒を出して、心を鍛えなおすのです。必ずできます。 わたしとともに、来て下さい」 そこでまた言葉を切る。 群集はざわめき始めた。愛美の目には、あちこちで顔を見合わせている人々が見える。 戸惑っているのだ。何をすればいいのかと。 人々を見おろしながら繭はまた喋り始めた。片手を振り上げる大仰な動作も忘れない。 「簡単なことです。わたしとともに国をつくりましょう。神によって導かれる国です。この日本の上に覆いかぶさる、もうひとつの社会です。すべての人が性別も貧富も超えて、この国のもとに繋がります」 愛美の傍らに立つ青年が小声で漏らした。 「宗教団体を……つくろうっていうのか?」 繭はその言葉を聞き逃さなかった。 立ち止まる。振り上げた腕を振り下ろして、その青年を鋭く指さす。 「そう、人間世界の言葉を使って言うならば、宗教団体ということになります。 しかし、ただの宗教ではありません。 世界で唯一つ、本当の神が率いる、本当に人を救える宗教なのです。 さあ、来て下さい。今までの生活を捨てることになるかもしれません。しかし、それがどうだというのです。 わたしとともにくれば、弱い心はなくなります。もう二度とこんな事件を起こすことはありません。もう他人に嫉妬も、蔑みも、怒りすら抱くことがなくなるのです。 平穏で温かい心だけを、終生いだいて生きていけるのです。 考えてもください。そんな温かい国が広がって、世界を多い尽くす事を。 争いも妬みもない世界、傷つく人もいない世界を、わたしなら創れます。 わたしと共に来ませんか。 神の王国の建設は、決して容易なことではありません。参加する者は大変な抵抗を受けることでしょう。家族や友人さえもが敵に回るかもしれません。暴力で弾圧されることもあり得ます。長く苦難に満ちた闘いになるでしょう。 けれど。わたしは皆さんを信じています。みなさんの魂を信じています。みなさんはただ、マンガやアニメが好きだというだけでこの地に集まった。一文の利益も求めず、社会の冷たい眼差しをものともせずに全国から集まった。 皆さんこそ、愛のために生きる人々です。 未熟で愚かな現世人類の中で、最良の人々なのです。 そんなあなたたちならばきっと計画に加わってくれると信じています」 人々は棒立ちで静まりかえっていた。人々の上に繭の言葉がふりそそぎ、心に染み透っていった。 暴動という異常事態で揺さぶられ、治癒の奇蹟によって常識を剥ぎとられた、裸の心に。 一人の男が手を挙げた。上ずった声で叫ぶ。 「わたしは参加します!」 その一言がきっかけだった。 「わたしも! 俺も!」 「私も入れてください!」 人々が次から次へと叫んで手を挙げる。 愛美のすぐ隣でも、つい先程殴りあっていた二人の若者が涙声で叫んでいた。 「俺たちも行きます! いいよなっ!?」「ああ!」 愛美の後ろからも次々に声が上がった。 「俺も!」 「私も!」 強い熱をはらんだ、期待と喜びの声だ。 たちまち何千本とも知れない腕の林が生まれて周囲を囲んだ。小柄な愛美の視界をすっかり塞いでしまった。繭の姿は、振り上げられた腕の林の向こうに隠れてしまった。 熱狂は愛美にも伝染していた。先程の涙が乾く間もなく、また熱い涙が溢れ出した。 わたしも。わたしも参加しないと。 素晴らしい奇蹟を世界に広められるなんて。 愛美も手を挙げようとして、一瞬だけためらった。 先ほどの繭の言葉が胸をよぎったのだ。胸をチクリと刺したのだ。 ……家族を敵に回して、家族を切り捨てて戦うこともあり得ます。 敬介のことがどうでもよくなったわけではない。まだ赤ん坊のころからずっと敬介を見て、同じ屋根の下で過ごしてきた。この世で唯一の肉親、かわいい弟だ。 そんな敬介がもし反対したら。宗教に顔をしかめる者が多いことぐらい知っている。 敬介が、あの生真面目な顔を悲しみに歪めてやめてくれよと懇願してきたら。わたしはどうすればいいんだろう。 ためらいは一瞬だけだった。ハアッと深呼吸して背筋を伸ばし、片手を勢いよく挙げた。 もう覚悟は決まっていた。 反対したら説得すればいい。引き込めばいい。それだけのこと。いまのわたしには力がある。いくらでも喋れる。体だって動く。なにより、頭の天辺から爪先まで、嬉しい! 頑張りたい! という気持ちに溢れている。 だからきっと敬介だって説得できる。二人で肩を並べて、王国建設の手伝いができたらどんなに幸せだろう。そうだ、あのかわいい彼女にも、神の王国の話をしよう。 もう、心の中に一切の迷いはなかった。 決意をこめて、片腕をすっと上げた。 数千本の腕の林を越えて、繭の声が降ってきた。 「ありがとう、ありがとうございます、皆さん。人類の最良の部分よ。いま目覚めた子供たちよ。永遠に感謝します。 どこまでも行きましょう。この悪しき世界を幸福で満たす、その日まで!」 10 一時間後 殲滅機関 格納庫内 敬介はシルバーメイルを装着し、ヘルメットとゴーグルだけは着けていない状態で、格納庫内の大型ヘリコプターに乗り込んだ。 CH47チヌーク。米軍や自衛隊で活躍している輸送ヘリだ。 機内のキャビンは幅二メートルに長さ九メートル、電車を半分に切ったほどの広さだ。赤い非常灯で薄暗く照らされ、剥き出しのアルミ材の上に簡素な座席が並べられて いる。シルバーメイル装着済みの作戦部隊員が着席している。座席は機体の側面を向いて設置され、座っている隊員の数は十五名ほど。本来チヌークは完全武装 の兵士三十人を運べるが、シルバーメイルの重量を考えて人数を減らしているのだ。一人だけ立っている者がいる。同じくシルバーメイルを装着した長身の女 性。影山サキ曹長だ。 機内に入るなり背筋を伸ばして、左手にヘルメットを抱えたまま右手で敬礼をする。 「天野伍長、遅れました」 座っている隊員のひとり、黒い髪の糸のように細い眼のリー軍曹が、にやにや笑いを顔に貼り付けて声を掛けてきた。 「よぉ。天野。カノジョとのデートはどうだったい?」 隊員たちが数人いっぺんにクスクス笑いを立てる。「あのカタブツがデートに誘われて頭のてっぺんから湯気出してたぜ」とでも尾ひれがついているのだろう。 今の敬介には軽口につきあってやるつもりはなかった。いつもは女・エロの話題を振られるたびに恥ずかしがりつつも怒ってきたが、いまは恥ずかしいという気持ちも沸いてこない。 お前黙れよ、ガタガタいうな、という毒々しい怒りがこみ上げてきた。上官相手にそんな言葉をぶつけることはできないので、押し殺した低い声で、目を逸らして答えた。 「特にどうということはありませんでした」 「ひでえ顔だな……うまくいかなかったのか? ウブそうだしな、お前」 リー軍曹の口調はまだ軽い。これからどうなるかだいたいパターンが読めていた。女がらみの話の次は下ネタにつなげるのだ。出撃前の下品なジョークはいつ ものことだ。下卑た冗談を振られたらどう対応すればいいのか。イライラが高まっていく。普段なら愛想笑いを浮かべられるからかいに、もう耐えられない。 「そんなことはどうだっていいでしょう!」 無礼と知りつつも言葉を叩きつけてしまった。リー軍曹が目を見開き、機内の空気が凍りつく。 無言で、開いている座席に座った。 「すいません遅くなりましたっ、エルメセリオン、氷上凛々子ですっ」 明るい女の声がして、扉から凛々子が駆け込んできた。 彼女は初めて見る服装をしていた。首筋からつま先までを包む、真珠色に滑らかに輝くタイツ状の服。敬介たちがシルバーメイルの下に着ているインナースー ツの仲間だろうか。タイツが体のラインをはっきりと浮かび上がらせている。細く伸びやかな太股。ほとんど膨らんでいない未成熟な腰。掌で包み込んでしまえ そうな胸のふくらみ。 彼女も片腕でフルフェイスヘルメットを抱えていた。 凛々子と目が合った。 「あっ……」 凛々子は大きな目をますます大きくして、すぐにばつの悪そうな表情で目をそらす。 「な、なんでキミが同じ機にいるのさ?」 「それは俺の台詞だ。指示された通りの機に乗っただけだよ。どうやら同じ中隊らしいな。まったく災難だよ」 サキがけげんな表情で問いかけてくる。 「どうした? 何かあったのか? ケンカか?」 「なんでもありません、隊長」 「はい、ボクもまったく平常です。戦闘に支障ありません」 「そうは見えんが。氷上伍長、もし天野伍長との確執が耐えられないようなら、この場で申し出てくれ。天野を降ろす」 「なっ」 敬介は驚きと悔しさにうめいた。なぜ凛々子ではなく俺が一方的に切り捨てられるのか。よけいな波風を立てたのはアイツの方なのに。 頭では分かっている。一介の作戦局員と、一騎当千のフェイズ5では戦術的な価値が桁違いだ。優遇されるのは当然と言える。 分かっているのだが、どうしても心の中に暗い気持ちが沸き起こる。 凛々子がサキ隊長に頭を下げる。 「気遣いありがとうございます。でもボクは全く平気です。 あ、そうだ、エルメセリオンの方の挨拶がまだでしたね」 凛々子は全身を包むスーツの手袋部分を外した。露出した小さな掌を、機内の隊員たちに見せる。 掌に口がパクリと開いた。小さな口からは想像もできない、落ち着いた渋い声が流れ出す。 「みなさん、はじめてお目にかかります。フェイズ5の一体、エルメセリオンです。普段の肉体操作は凛々子に任せておりますが、彼女が睡眠などで脳を休ませているときは私がかわりに動かします。以後よろしく。 天野伍長、凛々子が世話になっています」 「ああ」 エルメセリオンを見るのは二回目だが、やはり慣れない。 「では現場に向かいながらブリーフィングを行う。ランプドア閉鎖」 機体の尻にある大きな扉が閉じる。 「離陸開始する。総員、大音響下通話体勢」 隊員たちは抱えていたヘルメットからイヤホンと喉頭マイクを取り出して身に付ける。 とたんに貨物室の壁の向こうから甲高い爆音が押し寄せてきた。金属を切断するときの音を数百倍に強めたような、イヤホンを着けても鼓膜を痛めつけてくる 凄まじい音だ。ジェット機のエンジン音によく似ている。ターボシャフトエンジンが二基、全開で咆哮しているのだ。マイクとイヤホンを通さないと会話などで きない。 突き上げられるような衝撃。荒っぽく離陸した。 サキ隊長がノートパソコンを持って立ち上がって、一同の前に立った。パソコンを広げてみなに画面を見せる。 「一時間ほど前、記録によると1310時、東京都江東区の東京ビッグサイトで、暴動が発生した」 サキ隊長の声と共に、ノートパソコンに画像が表示される。 きわめて大きな部屋の中を、上から見下ろした動画だった。全体に画像が粗く、人の顔などはわからない。 コンクリート製の柱が一定間隔で立っている。長い机が並べてられて列が作られ、机の列の上には本のようなものがたくさん置かれている。そして列と列の間 の通路には、何千とも知れない人々が行き交っている。行き交う人々はたまに足を止めて、机の列の人々から本を受け取っていた。 よく見ると何ヵ所かに行列が出来あがっているようだ。きわめて活気に満ちた市場の光景だ。 と、会場の一点、行列の出来上がっている場所で混乱が生じていた。 なにやら殴りあいが始まったのだ。殴られた側も反撃し、とばっちりを食った者も乱闘に加わる。たちまち画面内の何十人がすべて殴りあい掴みあうようになった。パイプ椅子が宙を舞い、机が薙ぎ倒される。 画像が切り替わった。同じ会場内の別の地点の映像だ。本を売り買いしていた人々は最初は逃げ出そうとしたが、すぐに四方八方から殴り倒され、暴力の渦に飲み込まれた。 何度もカメラの場所が変わる。だがどこでも乱闘が繰り広げられていた。 「いったいこれは何だ?」 リー軍曹のいぶかしげな声。 「なにが理由でこんな暴動が?」 サキが張り詰めた声で答える。 「さっぱり分からないのだ。重要なのはこの先だ」 パソコン画面内の動画に変化が生じていた。殴りあっていた人々が動きを止め、そろって何かを見上げていた。 その何かが画面内に入ってくる。長い黒髪、黒コートの女。その女が、宙を歩いてくる。人々の頭上を歩いてくる。 やがて人々は静まり返った。女は群衆の中に飛び降り、人々に次々とキスをする。 ここで音声が入った。大勢の声が混じりあって聞き取りづらいが、人々は口々に叫んでいる。 「俺も、俺も治してください!」 「彼女も治して!」 「ありがとう! ありがとうございます!」 黒い女にキスされた人間は大喜びのようだ。 敬介は息をのんだ。 これは自分がエルメセリオンに受けた治療そのものではないか。 「まさかこれは、隊長!」 「そのまさかだ、天野。謎の女は、暴動で傷ついた人々をキスひとつで次々に治していった。そして……」 隊長がパソコンを操作する。画面が変わった。ふたたび宙を歩く黒衣の女。彼女は両腕を広げた。 もう群衆は叫んでいない。その女の澄んだ声だけが聞こえた。 「私は嵩宮繭。神のつかいです。 この地上に、神の王国を建設するために来ました!」 繭と名乗った女は、群衆の頭上を歩きながら演説を続ける。人間の心の弱さと、神の王国の素晴らしさについて語る。 やがて群衆が腕を振り上げ、拳を高く掲げて、口々に叫ぶ。 「わたしも王国に参加します! 俺も入れてください!」 そして画像が消える。 「こうして謎の女は、瞬く間に大量の信奉者を手に入れた。どう思う、氷上くん?」 凛々子がすぐに答えた。緊張した声だ。 「これ、フェイズ5ですよ。恐らく、ヤークフィース」 「やはりか」 「はい。彼が神を名乗ることはよくあります。空に浮かぶのは奴がよく使う手ですよ。目に見えない糸を使ってるだけなんですが……楽園建設という目標を掲げることもよくあります。ただしヤークフィースだけではありません。 さきほどキスで怪我人を治しましたよね? あれは『ファンタズマ』という能力で、相手の体の中に寄生体を送り込んで肉体を再構成するんですけど。寄生体が向こうに入ってる間、もとの宿主の方は蒼血 がいなくなってるわけですから、人間の意識を取り戻してしまいます。そうなっていないということは、つまり体の中に複数の蒼血が寄生しています」 「複数寄生か。可能だという話は聞いていたが」 サキ隊長が腕組みして顔をしかめる。 「身体の中で支配権がぶつかり合うから、よほどチームワークを訓練しないと難しいんです。ヤークフィース以外にどんな奴が入っているのか気になります。ヤークフィースの眷属には有力なフェイズ4が大勢いたはずなんですよ。他のフェイズ5かもしれないし。 ヤークフィースが得意なのは人身掌握と陰謀で、きったはったは得意じゃありません。フェイズ5の中では弱いほうです。でも『黄金剣』アストラッハや、『魔軍の統率者』ゾルダルートがいたら…… 会場にどれだけの眷属が入っているかの情報は?」 「不明だ。ヤークフィースがよく連れている眷族の情報ならあるが」 「現在、会場はどんな状態ですか?」 リー軍曹が尋ねる。彼も声が引き締まり、緊張をうかがわせる。 「警察を動かして、ビッグサイトのほかの会場から客を退去。いまの会場は完全に閉鎖させている。表向きは、暴力事件の加害者を逃亡させないため、ということにしてある。実際にはもちろん、キスされた人々を外に出さないためだ。いまのところおとなしくしている」 蒼血にキスされたものは、そのとき蒼血の断片を体内に送り込まれた可能性がある。いつ怪物となって暴れだすかわからない彼らを、まさか街中に解き放つわけにもいかない。 「我々の作戦は?」 サキ隊長がうなずき、 「チヌーク八機、八個中隊を投入する。まずシルバースモーク弾と昏睡性ガス弾を会場に打ち込む。蒼血なら苦しんで暴れる。人間なら眠る。これで選別でき る。その後、氷上を突入させてあの女を倒す。われわれ通常の部隊は二手に分かれる。入り口を固めて脱出を阻止する部隊、氷上を支援する部隊。氷上があの女 を倒した場合、残存蒼血を掃討する」 ノートパソコンに会場の見取り図が映し出された。 あの会場はビッグサイト東展示場の1・2・3ホールというらしい。左側には三つの入り口があって屋外に通じ、右側にもまた三つの入り口があって別の展示場につながっている。その地図の上に部隊番号つきの矢印が重ねられ、部隊の動きが示されている。 敬介は情景を頭の中に描いてみた。八個中隊といえば百二十名。これだけの部隊が投入される作戦は確かに珍しいが、六つの入り口があること、会場の広さを考えればむしろ少ないのではないか? 気になったので片手を挙げた。 「隊長。装備はリーサルで?」 「可能な限りノンリーサルで。会場には一万五千人いるそうだからな、巻き添えをゼロにはできないにせよ減らしたい。リーサル使用時には私の許可を得てくれ。もちろん氷上は別だ」 みなの視線が凛々子に集まった。 「あの、隊長」 凛々子が尋ねる。 「なんだ?」 「相手の戦力に間する情報が少なすぎます。相手はヤークフィース以外に誰が何体いるのか、そもそもどうやって会場に入ってきたのか、エコーシステムを騙し たのか。はっきりさせてから攻撃したほうがいいと思うんです。たとえば会場の外にも別働隊がいたらボクたちは挟撃される」 「調べ上げるだけの時間がない。いまは連中は一ヶ所に固まっているからいい。だが、もし繭という女が会場から脱出しろと命令したら? 警察などで抑えきれ るわけがない。蒼血は悠々と一般社会に紛れ込んでいくぞ。そうなったら摘発するのは大仕事だ。今しかない。一ヶ所に集まっている今しか。目撃者の問題もあ る。蒼血の力を見たものが会場に集まっているなら記憶操作もできる。だが社会に散らばったら苦労は百倍だ」 凛々子は繭をハの字にして、口元に手を当てて首をひねる。 「そうでしょうか。ボクにはこれがヤークフィースの罠に思えるんです。あいつほどの大物が、たくさんの目撃者を出して、現場から逃げもせず、さあこいと待ち構えている。どう考えてもボクたちを誘っているんです。ボクたちを返り討ちにできる自信があるんですよ」 「そうかもしれない。だがこれは作戦局と情報局の上が決めたことなんだ。現場の判断では覆せないよ。ベストを尽くすだけだ」 「組織って面倒なものですね」 「いまさら気付いたのか?」 そう言ってサキは笑顔を作った。 その時両耳のイヤホンに英語の通信が飛び込んできた。 「各中隊へ。現場到着まで五分。装備を整えよ」 サキも凛々子も、全員が表情を引き締める。 立ち上がって、壁面のウェポンラックから M4カービンやグレネードランチャーを外す。背中の兵装パックに突っ込んでゆく。ノンリーサルの銀スプレーガンも装備した。 すべての装備を終え、ヘルメットにゴーグルをつけて再び着席したとき、敬介は奇妙に落ち着いている自分に気付いた。 つい先程まで心の中に渦巻いていた鬱屈した想いが消えている。電車の中でも凛々子と喧嘩したことも、姉の本当の幸せを考えていないと言われたことも、凛々子に謝った方がいいだろうかという迷いも。サキ隊長の忠告までもが。 カービンのグリップを握りしめる。圧力センサーを通じて固い感触が指先に返ってくる。 なれ親しんだ感触だ。 ……やはり俺はこれが一番だ。 ……隊長には悪いが、俺もやはり機械でいい。 ……難しい人間関係がない、敵を倒すだけのシンプルな世界に居続けたい。 自分にそう言い聞かせた。 最後に凛々子が、壁のウェポンラックから一振りの剣をとった。日本刀のようだが幅広で、凛々子の体とくらべるとずいぶん長大に見える。抜刀し、ひゅん、と軽く振る。刀身が非常灯の赤い光を反射して妖しく輝いた。 「頼んだとおりだ! ご用意ありがとうございます」 凛々子も剣を手にするや、まったく迷いのない表情になっていた。 「すごく重いですが、なんでできてるんですか?」 「カーボンとタングステン合金の複合材だよ。タングステンだけでは柔軟性に欠けるからな。表面がキラキラしてるのは純銀でコーティングしてあるからだ。研究局から聞いた話では、君の最大筋力で斬りつければM60戦車の正面装甲を貫通できるとか」 「へえ……楽しみだなあ」 「試し切りでもするか? これが切れるか? 柔らかいものは難しいそうだが」 そういってサキが、ベストのポケットからメモ用紙を取り出し、一枚だけ切って空中に投げた。 「やっ!」 凛々子が即座に、刃を空中で走らせる。 舞い落ちるメモ用紙を刃がとらえたかに見えたが、メモ用紙はそのままの形で落ちていく。 「なんだ、大したことないじゃ……」 サキの声が止まった。 床に落ちたメモ用紙が、すっと二枚になった。形も大きさもそのままで、二枚に。 厚さだけが半分になって、向こうが透けて見えるほどになっている。 縦に切ったのだ。 ヒュウ、とリー軍曹が口笛を吹いた。 「ボクはベストを尽くしますよ?」 凛々子は自慢げに笑って、刀を鞘にしまった。 11 ほぼ同時刻 東京ビッグサイト 会場の東123ホール。もはやそこで同人誌を売り買いしているものなど誰一人いない。 机が片付けられ、繭を中心にして一万五千人もの人々が集っていた。人々は同心円になって並んでいる。 愛美は円の中心のすぐ外側の列にいた。目の前に繭の姿を見ることができた。 人々に向かって、繭は微笑を浮かべながら語りかける。 「我々はこれから、多くの苦難にさらされることでしょう。見てください、会場内にいる警察たちを。会場の入り口をかため、我らを睨み付けているものたちを」 愛美も先ほどから不思議に思っていた。 本当にあの警察たちは何なのだろう。 暴行の加害者を逮捕するならわかる。目撃者の話を聞くのもわかる。だがどちらもせず、ただ出入り口を固めて人間の出入りを防いでいるだけなのだ。 「これから警察などとは比較にならい恐ろしい相手が来ることでしょう。 我らが神の王国を建設することを恐れるものたちが。 この世界を裏から支配する者ども。邪悪の軍勢です」 ずっと黙って話を聞いていた群衆のあちこちにざわめきが生じた。 当惑と懐疑のざわめきだ。 愛美もさすがに眉をひそめた。この世界を裏から支配する邪悪の軍勢? あまりにマンガじみた話ではないか。一度は神と信じた気持ちが揺らいだ。信じようとは思う。だがまさか。 人々の感情を敏感に察し、繭は強い口調で言い放つ。 「なるほど、私の言葉が信じられない者がいるようですね。しかし邪悪の軍勢は必ず来ます。おのが眼で、しっかりと真実を見極めて下さい。 その前に。戦うための力が必要です。 明石美雪! 有川拓人! 皆口礼二! 長谷川貴史! 水原鞘! 滝山源! 多田野美樹! 来るのです!」 名前を呼ばれた人々が、同心円の中心に集まってきた。 「ほんとうの奇蹟を見せてあげましょう。みな、脱ぐのです」 あまりに意外な言葉に愛美は耳を疑った。 だが呼ばれた七人はためらうこともなく服を脱ぎ始める。年齢性別は様々だ。鍛え抜かれた体の男も、太った中年男も、まだ未成熟な体の少女もいる。 繭もすばやく裸になった。あらわになった裸身は白く輝き、手足はすんなりと長い。豊かな乳房が若々しい生命力と弾力に溢れ、重力を無視して誇らしげに突き出している。 愛美は同性でありながら繭の裸身に目を奪われた。これほど豊満で、だがこれほど贅肉を感じさせない、美しい女の体を初めて見た。神聖なものだとすら思った。これと比較すれば自分の体など、いやほとんどの女の体など出来損ないだ。骨か贅肉のどちらかが目立ちすぎる。 「さあ!」 繭が両腕を広げると、呼ばれた七人が一人ずつ、列を作って繭の前に並んだ。 最初のひとり、鍛えられた肉体をもつ若い男が繭と抱き合った。 次の瞬間、愛美は目を大きく見開いた。何が起こっているのか認識できない。 全裸で抱き合ったふたりが、ダンスでも踊るように足を進める。二人はその場でゆっくりと回り出す。だから愛美にはよく見えた。抱き合って接触した胸に、 腹に、音もなく白い泡がたくさん生じた。泡の出現とともに若い男の体が縮んでゆく。太い手足がしぼみ、胸板が薄くなっていく。かわりに繭の肉体が膨張して いく。太るのではない。おそろしく均整のとれたプロポーションのままで、顔が、腰が、胸が……身体の各部分が膨らんでいるのだ。いくら長身といっても百七 十センチ程度だった繭の体が、眼で見てはっきりわかるほどに大きくなっていく。 吸収! そんな言葉が愛美の脳裏に閃いた。人間の肉体を吸収している。あまりに非現実的だが、目の前で確かに起こっている。 「ああ……ああっ……まゆ……さまっ!」 吸収されるのは快感であるらしい。体中の肉を吸い取られミイラのように縮んだ男は、顔を歓喜に歪ませてすすり泣くように叫ぶ。 「ああ……ああっ……あっ!」 頭蓋骨に干からびた胴体がついているだけになって、ついに丸ごと繭の体の中に吸い込まれた。繭の身体がまた一回り大きくなる。 「次はあなたです」 繭の声に答え、全裸で並んでいた二人目が前に出る。肥満してたるんだ皮膚の、中年の男だ。この男もまったく同じように吸収された。次の若い娘も。その次も。 七人の人間を吸い尽くした繭は、いまや巨人だった。身長は四メートル近いだろう。 「まだ奇蹟は終わりません。割目するのです」 声帯が大きくなったせいか、繭の声は女のものとは思えないほど低く太い声になっていた。群集はもはや誰一人しゃべらず、ただ驚愕に目を見開いている。 巨人となった繭はその場に手を着いて四つん這いになった。その体が変貌した。長い黒髪が縮んでいき、かわりに白い裸身を突き破って、無数の細いものが突出する。 針のように細く、紫に光るもの。それが顔といい背中といい、あらゆる場所から幾万となく生えて、体毛のように体を覆い尽くす。 ごりゅっ がりゅっ 岩の擦れるような音が連続して響く。腰の骨盤が回転する。 みちっ みちっ みちっ ゴムや縄の引きちぎれるような音が加わった。長い脚が縮んで、逆に腕が伸び、逞しく筋肉が盛り上がる。前肢と後肢の長さの不均衡が解消された。もとより 四つ足で生きる獣だったかのように。いつの間にやら手足の先端も変化していた。長い指を持つ掌はない。犬や猫のような、短く太い指を持つ足先に変わってい た。足先からはナイフを並べたような鋭い爪が覗いている。 最後に繭の、一抱えもある巨大な頭、黒い艶やかな毛で覆われた頭のてっぺんに、ふたつの器官が生じた。曲面を帯びた三角の肉板。そうだ、耳だ。 最後に、両肩が盛り上がって、人間の腕ほどの長さを持つ奇妙な突起が形成される。突起の先端には穴が開いていた。愛美は大砲を連想したが、その突起もやはり紫の針で覆われている。 たった数秒で変身は完了していた。いまやそこにいたのは、体長三メートルを超える、猫に似た獣だった。虎にしては体が細く、一番似ているのは豹だろう か。だが愛美が昔動物園で見た豹は人間の大人と同じくらいの大きさしかなかった。宝石のような輝く毛皮では覆われていなかったはずだ。 直感的に理解した。これは豹に似ているが、地球上にはあり得ない超生物だ。 紫に輝く巨大な豹、いや、神の獣が、口をきいた。 みなさい。 これが かみのちからです。 愛美たちはもはや誰一人言葉を発せない。 その直後、会場の外から別の音が轟いてくる。ぎいん、と金属的なエンジン音。バラバラという音。愛美はこの音を知っていた。ヘリコプターだ。会場の四方八方から聞こえてくる。どんどん音が大きくなる。複数のヘリコプターがこの会場に接近している。 神の獣、繭が顔をあげる。 きました じゃあくの ぐんぜいが おそれる ことはありません わたしがうちやぶります がん! がん! 重いものを叩きつけるような音が連続して響く。 会場の左右に三つずつある、大型ダンプが通れるほどの開口部から、何かが撃ち込まれた。ヘリコプターの爆音もかき消すほどに強い爆発音。一発だけでなく 一度に五発も十発も。白い尾を曳いた砲弾が会場の上のほうを横切る。天井や柱にぶつかって跳ね返り、床に落ちて、まだ白い煙を噴き出す。まだ砲撃は止まら ない。数十発も飛んできた。周囲はたちまち真っ白な煙に包まれて完全に視界が遮られた。 ガスをまいているのだろうか。頭がぼうっとなる。体から力が抜けてまっすぐ立っていられなくなる。愛美は脱力し、その場に座り込んだ。他の人達もみな一緒にくずおれた。薄めたミルクのように濁った視界の中に、ただ神の獣だけが悠然と立っていた。 意識が遠のいていく。 だが不安はなかった。 数々の奇蹟を見せ付けてくれた神が、守ると明言したのだから。 12 同時刻 ビッグサイト外 凛々子は大刀を手にして、M4カービンを肩にかけ、チヌークを飛び出した。すでにヘルメットを被っている。ヘルメットとスーツは防弾に加えて完全機密で、酸素を供給し、空気中の銀をシャットアウトする。 今いるのは、豪華客船が入りそうな巨大なコンクリートの箱の外。この箱は東京ビッグサイトの会場だ。箱には大きな入り口が三つある。入り口では警官達が 呆然と立ち尽くしてた。彼ら末端の警官は蒼血の存在も殲滅機関のことも知らない。指揮官らしき人物が何事か叫んで近寄ってくるが、その叫びはチヌークの ローター音にかき消されて聞こえない。 凛々子が突入命令を待っていると、他のチヌークからシルバーメイルに身を固めた隊員たちが飛び出してくる。彼らは巨大な機械を抱えていた。 第一印象は大型機関銃だ。モスグリーンに塗装され、赤ん坊の腕ほどもある太い銃身を持つ。三脚に固定され、銃の機関部と弾薬箱が、コショウ瓶をベルト状に連結したような弾薬でつながっている。 オートマチックグレネードランチャーだ。 隊員はランチャーを十台ばかり、入り口近くに設置する。銃口を斜め上に向けた。 警官が数人、隊員たちの前に立ちはだかった。こんな状況でも、彼らは健気に職務を遂行しようとしていた。 だが彼らは作戦にとって邪魔だった。隊員たちが背中のバックパックからスプレーガンを取りだし、直に昏睡性ガスを浴びせた。警官達は次々に倒れていく。 「シルバースモーク弾、昏睡性ガス弾、射撃開始せよ」 電波回線を通じて命令が発される。隊員たちがオートマチックグレネードランチャーの後ろにしゃがみこんで一斉に操作する。 十台を数えるランチャーの発射音は凄まじいものだった。風船が破裂するパアンという音を何百倍にも増幅した音が、ローター音すら圧倒し、機関銃のように 連続して響いた。ランチャーからグレネードが矢継ぎ早に発射される。白い煙の尾を曳いて会場内に叩き込まれていった。このビッグサイトは野 球場ほどに広大で、ガスで満たすためには膨大な量のグレネードが必要なのだ。 凛々子は頭の中のエルメセリオンに呼び掛ける。 『いくよ、準備はいい?』 頭の中に老人のように低く、暖かく優しげな声が響いた。もう八十年以上も苦楽を共にしてきた相棒の声。 『いつでも構わん』 そのとたん、頭のなかで炎が燃え上がったような熱さが生まれる。熱さに悶える間もなく、熱さは一瞬にして体のすみずみにまで拡がった。 ブラッドフォース『ストレングス2』発動。筋肉収縮力を増大。アデノシン三リン酸の燃焼速度を増大。体中の筋肉に静かな力がみなぎる。 『アクセラレータ』発動。神経内のパルス伝達速度を増大。脳細胞のパルス発信速度を加速。 あらゆる思考速度と知覚速度が桁違いに上がり、自分以外の人間が銅像のように止まって見える。軽いはずの空気が、重く粘性をもって手足にまとわり付いてくる。水飴の中にいるようだ。 そのほか、普段は最低レベルでしか発動させていないブラッドフォースを一度に全力発動する。 耳のイヤホンがサキ隊長の言葉を伝えてきた。 『シルバースモーク散布完了。敵情動きなし。氷上、突入しろ』 『了解!』 明るく答えて抜刀し、会場へと駆け込んだ。背後にシルバーメイルの重い足音がついてくる。支援部隊だ。その中には敬介もいるはずだ。 もちろん敬介とのやりとりを思い出して集中を乱すようなことはない。意識がまるごと戦闘用に切り替わっていた。 会場内に入ってすぐ、猛烈な煙に包まれた。身長より深みのある白い煙が満ち溢れていた。数メートル先の人間すらぼやけた人影にしか見えない、ミルクの海の中のようだ。いくらなんでも凄まじい銀の量だ。 片目の網膜を変換させ、赤外線視覚を得た。 赤外線視覚に切り替えた瞬間、音もなく巨大な何かが突っ込んできた。赤外線視覚が熱い塊の急速接近をとらえた。四本の脚をもつスマートな巨獣。背筋を悪寒がはしる。通常視覚がとらえたのは白い煙の渦巻く姿だけだ。 全身の筋肉をしならせ、横に跳ねとんで回避した。間一髪、風圧を感じるほどのすぐ脇を黒い影が駆け抜けた。四本足に見えた。ワンボックスカーほどの巨躯だ。 すぐに振り向いた。あの勢いなら止まるのが一瞬遅れるはずと思ったのだ。その間に戦いの主導権を握れる。 甘かった。振り向いた凛々子の眼前にまたしても巨獣が突進してくる。あれほどの慣性力をいともたやすく殺してのけたのだ。 もう避けられない。そう判断して逆に斬りかかる。相手の前足が凛々子を捉えるよりも先に、全力で顔面に向かって一撃。 相手の体の突進の慣性に、自分の腕力を加えた大威力の斬撃だ。 刃が巨大獣の顔面の真ん中をとらえた。額から鼻、顎まで一直線に。体を包む紫の針は強靭だったがそれでも刃の前に砕かれた。刃が頭骨に食い込む。 だが骨を切断できなかった。次の瞬間、腕に衝撃が伝導した。視界を巨大な顔が埋め尽くした。頭突きで吹き飛ばされた。 宙を飛び、後頭部が柱に打ち付けられる。柱のコンクリートが砕ける感触。 柱から落ちた凛々子はすぐに手をついて立ち上がろうとして、片腕の骨が砕けているのに気付いた。叩きつけた打撃力のほとんどが跳ね返されてしまったのだ。刀を放さなかったことだけが救いだ。 すぐにエルメセリオンに肉体を再生してもらおうとする。だがその隙すら与えられない。 体のあちこちに何かが衝突した。鋭く細い、釘のようなものを打ち込まれた痛み。 衝突したあたりから濃密な水のしぶきが飛び散った。 マッスルガンだ。強烈な水鉄砲でめった撃ちにされている。 威力はライフル弾くらいだろうか。スーツは破れていない。だがひっきりなしの衝撃で、砕けた骨がますます砕かれる。内臓がかき乱される。頭に直撃してめまいを憶えた。 凛々子にはこれほど連続してマッスルガンは撃てない。向こうは体が大きいから水分に余裕があるのだ。 痛みを堪えて目を見開くと、相手は銃撃だけで片をつけるつもりはないようだった。両肩から突き出した「肉の砲身」から水弾を放ちつつ、煙を引き裂いて走ってくる。 突進してくる獣の顔にはもう傷が残っていない。 無傷なほうの腕でM4を連射した。顔面に向かって撃った。だが避けもしない。何発かは目玉に飛び込んで眼球を潰しているのに、苦しむそぶりもなく駆け寄ってくる。 相手が飛び掛ってくるのを棒立ちで受けた。殴り倒され、踏みつけられる。凄まじい力で胸を踏まれて肋骨がきしむ音が聞こえる。 絶体絶命状態の凛々子に、巨大な獣が話しかける。 「ものたりん! 貴様、それほど弱かったか」 「もしかして君、ゾルダルート?」 「いかにも。『魔軍の統率者』ゾルダルートだ。そしてこの体が『魔軍』だ」 そうか、と凛々子は理解した。他に蒼血の姿が見えないのは、全て合体しているからだ。 この巨体からして七、八人くらいの人間が合体しているだろう。七人とすると、四百二十兆の細胞を七体の蒼血で操っているのか。そんな大規模な複数寄生は聞いたことがない。神業だ。 その膨大な細胞量により、自分を遥かに超えた筋力・瞬発力、そして装甲防御を得ているのだ。 このまま奴が一息に自分を食い殺すなら、どうしようもない。 だがそんなことはしないはず。ゾルダルートが愛好するのは戦いだ。一方的な殺戮ではない。 会話しながら一瞬の隙を作り出すしかない。 「久しぶりだねゾルダルート。アンデスでも会えなかったから」 「わしは懐かしくなどない。わしの知己はエルメセリオンのほうだ。女、お前ではない」 「あいにく、戦いのときはボクに任せてもらうことに決まってるんだ」 「実に愚劣な決断だぞ、それは?」 さらに喋りながら、必死に頭を整理する。 まだ謎は残る。このシルバースモークの中で苦しまずにいられるのはなぜか。息を止めて、体内の酸素だけで活動している? 理論上は可能だが、それなら高圧で空気を貯蔵する器官がどこかに形成されているはず。その器官を破壊すれば倒せる。 隙を作れれば…… 「ヤークフィースも一緒にいるのかな?」 「教えるほど親切にはなれんな。お前には失望した。とっとと死ぬがいい」 あちこちから銃声が聞こえる。きっと援護部隊が撃ってくれているのだろう。 「こしゃくな。まずは人間を片付けるか」 そう言って四肢を伸ばし、立ち上がる。 凛々子はその隙を見逃さなかった。 上半身を前足で押さえられたままだが、下半身を跳ね上げ、足を振り上げ、足を刃に変化させて、長く長く伸ばし、巨獣の腹に突き立てる。劣化ウランの刃でも顔面を割れなかったが、腹には確かに刺さった。 予想通り。全身を完全に装甲化したら柔軟な動きができなくなる。きっとどこかが柔らかいと思っていた。四足なのは柔らかい腹を守るためなのだろう。 「ぐおっ!? 離せ貴様!」 不快げに唸り、空いている方の前足を凛々子の顔面に振り下ろす。胸を踏まれているので逃れる術はない。包丁を並べたような巨大な爪の列が顔面に叩きつけられた。ヘルメットのフェイスシールドは最初は抵抗したが、二度三度と衝撃を加えられて大きくゆがみ、ヒビが入った。 やばい、これは銀が来る。 そう思って息を思い切り吸い込んだ。あとは息を止めるしかない。どれだけ止めていられるか。 ヘルメットのバイザーが粉砕された。とたんに外気が顔に押し寄せる。煙を浴びたように目にしみた。熱く涙が溢れてくる。ワサビの塊を食べたように鼻の粘膜が悲鳴をあげる。 やはり身体が銀に拒絶反応を起こしている。 むきだしになった凛々子の顔面に、なおも前足が叩きつけられる。頬に熱い痛み。頬の皮膚と肉がえぐらり取られて血が噴きだした。歯に爪が激突する音。も う一度爪が振り下ろされる。今度は額。頭蓋骨がきしむ音。脳が圧迫されて視界がぐにゃりと歪む。頭は割れなかったが、ぬるりと生ぬるい血が額からあふれ出 す。前足が巨大な棍棒となって何度も何度も降ってきた。そのたびに肉がえぐられ、歯が折れ飛ぶ。きっと自分はひどい顔をしているだろう。 傷は再生できるが、それでも顔を傷つけられるのは特別に腹が立つ。 『女の子の顔を! ひっどいなあ!』 『怒る元気があるなら大丈夫だ』 頭の中でエルメセリオンと軽口を叩き合う。 怪我そのものより、血に銀が入るのがまずい。血中濃度が一定を超えたら何も出来なくなる。 だが今は傷の回復に力を使っていられない。 すべてのブラッドフォースを。細胞変換能力を。 ただ、相手の腹に突き刺した「足剣」に集中させる。 剣は長く伸びながら相手の内臓に滑り込んでいった。 フェンシングで使う剣のように細い。相手を両断できるものではない。だが。 ついに相手の脊髄に刃が到達した。突き刺さる。 「おうっ」 さすがにくぐもった苦痛の唸りを上げて、獣の巨躯が揺らいだ。 『いまだ! 神経つないで! エルメセリオン!』 刃の中に通った神経が伸びて、巨獣の脊髄を走る神経束に連結した。 「きさまあっ!」 巨獣が怒りの声を上げるのと、凛々子が足の神経に全力で信号を送り込むのは同時だった。 力を抜け! そう命令した。 巨獣の手足が脱力する。凛々子の胸を圧迫していた足の重圧も和らぐ。 とっさに手をついて体を滑らせ、前肢の下から抜け出した。 頭の上には巨獣の腹。足の剣は相変わらず腹に刺さって、凛々子は逆立ちの体勢だ。 足の先に溶岩を押し付けられたような激痛が走った。爪を剥がされる痛みを果てしなく増幅したような。剣の神経を逆に乗っ取られたとわかった。やはり蒼血 が多い分だけ、体の取り合いでは向こうが上なのだ。痛みが足先から太腿に上がってくる。筋肉が自分の意思に反して痙攣する。神経細胞の支配権をどんどん奪 われていく。あとコンマ一秒で頭まで痛みが来て、きっと体ごと奪われる。 その前に、いま突き刺しているほうの足、その全細胞に命令した。 『ごめんね! 死んじゃって!』 太腿の細胞が一気にアポトーシスして柔らかく崩れ落ちる。これでもう片足は丸ごと死体だ。フェイズ5といえど支配することはできない。腐ったバナナのように柔らかくなったので腹に刺さっていることも出来ず、凛々子は体ごと落っこちた。 すぐさま片手を伸ばして床を探る。あった。太刀。 まだ残っているほうの膝を床に突いて、 「たあああっ!」 裂帛の気合とともに刀で突き上げる。 ごずん! 腹の皮膚と毛を突き破り、内臓を貫通する。腕力に加えて背筋力も動員して、刺さった刀を手前に引いた。腹が横一文字に切り裂かれた。人間がすっぽり入れ るほどに大きく裂ける。内臓が切断される感触が連続して伝わってきた。ほとばしる熱い血が洗面器一杯分ほども、凛々子の顔面にふりかかった。裂け目から腸 がこぼれだす。 もっと、もっと深く、もっと広く斬るんだ。胴体をまっぷたつにする勢いで! 刃が背骨に食い込んで止まった。ブラッドフォース「ハウリングブレード」を発動。全身の筋肉を極限まで緊張させて高速振動させ、その振動波を刃だけに集中、伝導させる。超音波メスの原理で切断抵抗が減少し、刃が背骨にめり込んで、斬った。胴体を刃が完全に輪切りにした。 「ぐおおっ!」 至近距離で巨獣が体を悶えさせ絶叫する。 やった、と思ったところで凛々子は咳き込んだ。銀の微粒子が肺を焼いていく。咳き込んでしまったことでますます大量の銀が体に入った。体に急速にしびれが回ってくる。頭痛と吐き気と、体の震えがまとめて襲ってくる。 刀の柄をちゃんと手が握っているかどうかすら、もう分からない。 両目からあふれ出す涙がますますひどくなった。痛みと涙でよく目が見えない。 だけど、ダメージはあいつのほうが何倍もあるはず! いまなら止めを刺して…… どこだ、「蒼血」の本体はどこにいるんだ? 全部で七体も八体も、どこに隠れている? 目を撃たれても平気だった。きっと脳じゃないんだ。神経の密集した場所に寄生するのがセオリーだ。脳でなければ脊髄だろう。 よし、この脊髄をまるごと引きずり出して…… そこまで考えたとき、腹を思い切り蹴られた。杭を打たれたように足が胴体深くめり込んだ。 体をくの字に折って吹き飛び、床の上を転がる。 激痛が腹ではじける。もう体を丸めていることしかできない。 痛覚遮断を試みる。だが痛みが鈍くなっただけで、完全に無痛にならない。銀の影響で、ここまで能力が低下している。 痛む目をなんとか見開いて周囲を確認する。白い煙の中にぼんやりと四足の獣が見える。十メートル以上吹き飛ばされたようだ。だがおかしい。獣の姿が…… 赤外線視覚に切り替えて、驚きに目を見開いた。 「えっ……!?」 驚きのうめきすら発した。 ちょうど凛々子が斬った断面から、何百本とも知れない熱く輝く触手があふれ出した。 触手が蠢きながら、切断された前半分と後ろ半分を繋げていく。 もう胴体は完全につながったようだ。触手が縮んで体に吸収されていく。 その間、わずか数秒。たちどころに元の姿に戻った。血を失ったせいだろうか、一回り身体が縮んで見える。凛々子をはるかに超えた「ファンタズマ」能力だ。 なんで銀の影響を受けない? 頭の中が疑問符で一杯だ。 銀コーティングの太刀で刺したのに。腹を切り裂いて、たっぷり外気を送り込んでやったのに! なんで能力が低下しない? 奴は……銀を克服してる!? 完全に! ならばこの状況は自分に圧倒的に不利だ。 まだ支援部隊が獣を撃ち続けている。銃声は四方から聞こえてくる。支援部隊が包囲したようだ。浴びせられる銃弾が獣のあちこちに当たって弾き返される。 血が噴き出さない。効いていないようだ。だが獣は苦しげに唸り、姿勢を極端に低くして、あたりを見回す。這うような姿勢は、弱点である腹を守るためだろ う。 重火器使用の許可が出されたのか、銃弾だけでなくグレネードも飛んでくる。獣の体の表面から突き出した突起が水の弾丸を発射し、ことごとく空中で撃墜した。宙にオレンジの炎の花が咲いた。 注意が逸れている。幸い、蹴られた腹の痛みも和らいできた。さきほど壊した足を治す力はもうないが、片足だけでも逃げられるかもしれない。 だが、ここで撤退して本当にいいのか。 サキ隊長の言葉が脳裏に蘇る。 そう、いまの機会を逃がしたら、会場に集まった一万五千人が散り散りになってしまう。蒼血の断片を植え付けられているかもしれない一万五千人が。 もう少し粘ろう。過去八十年間で、この程度のピンチは何度もあった。 だがどうやって打開しよう? と思った瞬間、頭の上に小さなコンクリートの欠片が降ってきた。流れ弾が柱にでも当たったのだろうか? そうだ、上に! 最後に残った力を振り絞って、片足だけで跳躍した。 煙の上に飛び出した。そこには澄んだ空気があった。 やっぱり! 銀粒子は空気より重い。沈殿していたのだ。 天井まで跳んで、太刀を天井に突き刺して体を固定する。喜びの叫びをあげた。思いきり空気を吸い込んだ。何度も何度も。 肺の中の銀まみれの空気が排出されていく。血液に溶け込んでしまった分があるので体の痺れはまだ残っているが、頭蓋骨が軋むほどの頭痛と吐き気が消えた。 おいしい。空気がこんなに美味しいなんて。 嬉しさで涙が溢れてくる。 眼下の煙の海を貫いて水の弾丸が飛んできた。手近な柱に跳び移って隠れる。 能力が少し回復したので、柱に隠れながら負傷部位を再生する。なくなった片足を生やし、えぐられた頬を元に戻す。背中に翼を形成して、飛行能力を確保した。 『うーん、餅肌、餅肌』 顔に手を当てる。 『やっとる場合か。どうする気だ』 『それなんだけど……』 赤外線視力で眼下を見渡す。 はじめて会場の全容が見えた。 もはや巨獣は凛々子のことを脅威と認めないのか、頭上の凛々子には目もくれず、姿勢を低くしたまま走り出していた。自分を包囲する戦闘局員に向かって、両肩のマッスルガンを乱射しつつ突っ込んでいった。 隊員たちは散らばって柱の影に隠れながら銃を連射している。赤外線映像の中で灼熱の弾丸が巨獣に殺到する。だが巨獣の体の表面でことごとく弾かれていた。巨獣の突進は止まらない。 柱に飛びついて、隊員を前肢で張り倒した。動かなくなった隙を狙って銃弾が、グレネードが浴びせられる。無反動砲すら水平射撃された。白熱の砲弾が超高 速で襲い掛かる。だが銃弾はやはり弾かれる。グレネードと無反動砲弾は両肩のマッスルガンが撃ち落した。軌道を逸らされた無反動砲弾が巨獣から一、二メー トル離れた床に突き刺さって炎の噴水を上げる。 石ころを投げつけられほどにも動じず、巨獣は体ごと隊員にのしかかって、ヘルメットを爪で粉砕する。勢いあまって顔面ごと潰し、血が吹き上がった。巨獣の 体の下から覗いた隊員の手足が、最後の力で空中を掻く。動かなくなった隊員の体に尻を向け、次の隊員に向かって走り出す。 『リー軍曹! 支援! 支援を!』 『バカ、距離を取れ! お前は後ろからやれ!』 『第2、第3小隊で一斉にやれ! 飽和攻撃だ!』 通信回線を悲鳴と指示が飛び交った。 だが無駄だった。時速百キロを超える速度で走り回る巨獣は、隊員が後ろに回りこむより早く距離を詰めてきた。数人の隊員が一斉にカール・グスタフの鋼の 砲身を担ぎ、四方八方から浴びせた。それでもすべての砲弾が迎撃された。マッスルガンの水鉄砲で軌道を逸らされて外れた。 何人もの隊員がヘルメットのバイザーを破壊され顔を真っ赤に染めて転がっていく。頭ごと噛み砕かれたのか、首のない屍もあった。 そんな光景を凛々子は、胸を締め付けられる思いで見おろしていた。 いますぐにでも助けに行きたいが、下界は銀の充満する世界。有効な作戦を考えもせず降りるのは無謀だ。 ……一体どうすれば倒せる。 必ず手はあるはずだ。 と、会場の真ん中、およそ三分の一を埋め尽くして倒れている人々のことが目に入った。 ガスで眠っているのだろう、倒れたまま動かない人々。彼らに被害は出ていない。 巨獣と戦闘局員が戦っているのは会場の端のほうで、昏睡する一万五千人からは遠く離れている。 隊員の放ったグレネードが一発だけ目標をはずれ、そちらに向かって飛んでいったが、すかさず巨獣のマッスルガンが唸り、空中で爆発させた。 気になって、指を唇に当てて、エルメセリオンに尋ねた。 『ねえ、もしかしてさ、エルメセリオン?』 『なんだ、凛々子』 『ゾルダルートたちも、会場の人達を死なせたくないのかな?』 『それはそうだろう。神を名乗って、自分が皆を救うと言い切ったのだからな』 『そっか。そうだよね!』 『まさか、凛々子?』 『あは。ボクの考えてること、わかった?』 『分かるとも。八十年も一緒に戦ってきたではないか。君の思考は大体読めている。だが危険な作戦だぞ、二重三重の希望的観測の上に成り立っている』 『反対する?』 一瞬の沈黙があって、温かい声が返ってきた。 『いいや。最終的に決めるのは君だ。八十年前のあの約束を、君が守り続けている限り、私は君を敬う』 「じゃあ、行くよ!」 胸元の無線機の送信ボタンを押し込み、大声で叫ぶ。 『氷上です! みなさん聞いてください! いまみなさんが戦ってる化け物、ボクがあの化け物の動きを遅くします。だからみんなで組み付いて、あいつをひっくり返してください。ひっくり返してさえくれれば、あとはボクが倒します!』 すぐに困惑と怒りの声が返ってきた。 『できるわけねえだろう! 状況を考えろ! まるで歯が立たねえよ!』 『ひっくり返せだあ!』 『相手は亀じゃねえんだ!』 だが一人、冷静な声もあった。リー伍長の声だ。 『十人がかりなら、できるかもしれん。俺がやる。少し待ってくれ、俺の部下だけでは……』 リー伍長の言葉をきっかけに、肯定的な反応が集まってきた。 『俺もやる。使える部下が七、八人いる』 『影山だ。部下五人を連れて向かう。信じていいんだな?』 いける。十人集まれば、きっとできる。 『はい! お願いします!』 明るく答えた。すぐに柱の影から飛び出した。すぐに巨獣に気付かれた。マッスルガンを撃ってくる。体のあちこちを水の弾丸が掠める。足に直撃を食らった。翼をぶち抜かれた。衝撃で身体が回転し、高度が落ちる。激痛をこらえて、それでもバランスを立て直して再び上昇した。 飛びながら息を思い切り吸い込む。下では呼吸できないから、わずかでも多くの空気を肺に詰め込んでおくのだ。常人の数十倍の筋力を振り絞り、ボンベのように圧縮して詰めた。 一万五千人が折れ重なって倒れる、その上にやってきた。一万五千人の真ん中には、トラックが入るほどの大きさの空間が空いている。その空間に着地した。 再びあたりは白い煙に包まれた。 巨獣に向かって大声で叫ぶ。息を決して吸わないように、一息で叫んだ。 「来てよ!! 戦いがしたいんでしょ! 弱いものいじめはやめてさ!」 隊員を押し倒している途中の巨獣が振り向いて、こちらに向いて走ってきた。 やはり。楽勝の相手よりこちらを選ぶに決まっているのだ。 だが倒れている一万五千人に近づいて、その突進がはたと停まった。 ……そうだよね、やっぱり。 一万五千人は身体が重なるほど密集して倒れている。そこにいつもどおりの高速突進をかければ、違いなく人間達を踏み潰してしまう。 ぐるる、と不機嫌そうに唸り、巨獣は倒れている人々を一人ずつ前足で持ち上げて横にどけ、道を切り開きながら進み始めた。その歩みは人間が歩く程度でし かない。ゆっくり進みながらも凛々子に向かってマッスルガンを連射するが、凛々子は水の弾丸すべてを太刀で切り払う。水しぶきがいくつも爆発して凛々子の 顔を濡らした。 賭けだった。信者達を踏みつけてでも走ってくるかもしれなかった。 翼を生やして信者達を飛び越えてしまうかもしれなかった。 だが賭けに勝った。身体が大きすぎて、空中での機動性に自信がないのだろうか。 巨獣が鈍い足取りで進んでいる間に、戦闘局員たちが動いていた。 十数人の隊員が、もはや柱に隠れることもなく走ってくる。シルバーメイルの筋力強化機構のおかげで、彼らの足は速い。巨獣が振り向いてマッスルガンを放 ち、隊員達に命中する。体に命中弾を受けた隊員はよろめきながらも倒れない。顔面に食らった隊員だけが倒れる。しかしその数はわずか二人。残った隊員はひ るまずに駆けてくる。 巨獣が凛々子を見た。ついで背後の隊員たちを見た。どちらを優先するべきか迷っているのだ。 答えはすぐに出た。隊員たちを無視して、凛々子に向かって前進する。ペースを速めた。こちらのほうが難敵だと思ったのだろう。 巨獣はついに凛々子の近くまでやってきた。もう赤外線視覚なしでも巨獣の姿をはっきりと見ることができる。凛々子の周辺には人間が倒れていない空白地帯になっている。ここなら思う存分暴れられる。体中の筋肉をしならせて凛々子に飛び掛ろうとした、その時。 隊員たちが、巨獣の四本の脚に組み付いた。 「きさまら!」 脚を振り上げ、床に叩きつけて振り落とす。だが一人振り落とされても二人が、二人落とされても三人がとりつく。 「ぐるるっ……おおおんっ!」 巨獣の体に生える紫の針が、突風に吹かれた草原のようにざわめいた。紫の針が伸び、硬質な触手となって隊員達の手足に絡まる。何百、何千本……手足を縛りつける。 『くっ!』 リー軍曹がとっさにベストからナイフを出して触手の切断を試みるが、切れない。 体毛の変形した触手が、いま巨獣にしがみついている十人ばかりの隊員全てを縛った。ある者は上半身をがんじがらめにされ、ある者は肢だけを縛られて歩けなくなる。動けなくなった隊員たちの顔面に向かって、巨獣が前足の爪を振り下ろす。 だがその中の一人が、拘束されていないほうの腕を動かして、振り上げられた巨獣の前足の、その爪の裏辺りに拳を突き立てた。絶妙のタイミングだ。 凛々子は気付いた。ゴーグルで顔が隠れているが、敬介だ。 『インパクトォ!』 開きっぱなしの通信回線を、敬介の雄叫びが駆け抜ける。 巨獣の爪の裏に叩きつけた拳からスパイクが射出され、ちょうど爪と指の間の柔らかい領域を貫通して、電撃を放つ。 巨体が痙攣した。体中から伸びていた硬質の触手が、制御を失ってデタラメに暴れた。束縛の力が弱くなったのか、みなが触手から脱する。 「いまだよ! ひっくり返してッ!」 祈りを込めて叫んだ。凛々子の叫びに答えて、巨獣の体にとりついた十数人が一斉に巨獣の手足を持ち上げ……身体が浮いた。 そうだ。スピードこそ圧倒的だが、しょせん化学反応で動いている。筋力に限界はある。筋力強化服の着用者が十人も集まれば、取っ組み合いなら勝てるはずだ。 そして無防備な腹をさらせば……ボクが飛びこんで、今度こそ斬る。蒼血の一匹も残さず、脳を切り刻み脊髄を寸断し、体を賽の目にする勢いで斬る! そのつもりだった。 だが、巨獣が横向きにひっくり返る、その瞬間。 前足を持ち上げていた敬介が、素っ頓狂な叫びを上げた。 『ね……ねえさん!? なんで姉さんが!? 姉さん! 姉さぁんッ!?』 叫んで、前足から手を離して、足元を見ている。 凛々子も驚愕した。口を半開きにした。目は、敬介の足元に倒れている女性に釘付けだ。 昏睡の程度が軽く、銃撃戦の音などで目を覚ましてしまったのだろう。その女性は……黒髪で、少し根が暗そうだが整った顔立ちで痩せぎすの女性は……眼鏡こそかけていないが、どう見ても敬介の姉だ。姉は敬介の足元にしがみついて涙声で訴えていた。 「やめてえ……やめてえ……かみさまなの……わたしのかみさまなのっ……やっとみつかった……わたしのかみさま……」 『姉さん!? 姉さんだよな? 一体何があったんだ! なんでこんなところに! 神様って……こいつは神様なんかじゃ……』 「かみさまを……いじめないでええ!」 敬介の足元にしがみつき、ぼろぼろと涙と流しながら顔を上げて叫ぶ愛美。 その視線と表情には明確な敵意があった。 『なっ……あっ……?』 まったく言葉にならない声を上げ、ふらついて尻餅をつく敬介。きっと彼にとって姉は世界の中心。姉に嫌悪や敵意を向けられるなどまったく耐えられない、世界が崩壊するようなできごとなのだろう。 だがそんなことを言っている場合ではない。 「作戦中だよッ!」 凛々子の叱咤に、ようやく我にかえる敬介。 だがもう遅かった。巨獣は、全員の力を振り絞ってようやく押さえつけられていた。敬介が手を離していたおかげで力の均衡は崩壊し、巨獣は隊員たちを振りほどき、吹き飛ばして、凛々子に向けて突進した。 「くっ!」 凛々子は少しでも衝撃を減らそうと、横に飛びながら太刀を振るう。だが巨獣の突進は速い。まだ銀の影響が抜けきっていない凛々子が対応できないほどに。 太刀は空しく空を切り、凛々子は巨獣に押し倒された。前回逃げられたことから学習したのか、四本の脚で凛々子の手足を完全に押さえ込んでいる。 「うわっ……」 凛々子は体をよじって逃れようとする。駄目だ、床に押し付ける力が凄まじい。全く動かせない。 こうなったら手足を全部なくして逃げてやる! 思ったときには、もう巨獣が顔を傾けて、親指より巨大な牙の並ぶ口を開いて、凛々子の首に噛み付いていた。牙が筋肉繊維をどんどん食い破って、 頚骨を木っ端微塵に噛み砕かれた。 ばきん。ごりゅっ。 骨の砕ける音が生々しく頭の中に響いた。首から下の感覚がまとめて消失した。 とたんに気が遠くなった。いかにフェイズ5の蒼血といえど、首を切断されては酸素が脳に届かず、数秒で失神する。酸素不足で再生能力も発動できない。脳を仮死状態にするのが関の山だ。 声を発することもできず、視界がぼやけて暗くなる。冷たく、どろりとしたものに自分が沈み込んで、包まれていく感覚。 『エルメセリオン! エルメセリオン!』 薄れゆく意識の中で、相棒の名、友の名を呼んだ。 『キミだけでも逃げて!』 『それは出来ない。爆弾がある。脳内から移動したら爆発する』 『そうか……ごめんね……ボクが気付くべきだったんだ。敬介くんのメンタル面の弱さは分かっていたのに、何も出来なかった……』 『いいや。われらは神ではない。想定できないアクシデントもある。謝るようなことではない。凛々子、最期まで君とともにいられて幸せだった。八十四年も前 の、たった一度の約束を一度も破らなかった君のことを尊敬する。限りない敬意を持って別れを告げよう。さようなら、凛々子』 『待って。ボクはまだ諦めてないよ。きっと彼らは……人間は。この状況を打開すると思ってる。ボクたちのことも救い出してくれるよ。信じてる』 『はは……そうだったな。君はそういう人間なのだったな。果てしない楽観と覚悟を持っているのだったな。ならば私も信じるとしよう。人間を、その可能性を』 声はそれきり聞こえなくなった。 同時に、凛々子の意識は闇に呑まれた。 13 数秒前 同じビッグサイト会場内 「姉さん!? 姉さんッ!? 姉さんがなんでこんなところにッ!?」 敬介は完全にパニックに陥っていた。 もうすぐ巨獣を倒せそうなところで、足に女がすがりついてきたのだ。顔を涙でくしゃくしゃにして言うのだ。 姉の顔で、言うのだ。 「かみさまを……いじめないでっ……」 ショックのあまり、その場に尻餅をついた。 頭の中は無数の思考の断片がデタラメに飛び回っていた。 そんな馬鹿な。なんでここに姉さんが。姉さんはこいつらに洗脳されたのか。どうすればもとに戻せる。ここで戦ったら姉さんも被害が。ああ。ああ。あああ! 戦闘中には思考の最適化が必須だ。いま考えるべきことを冷静に判断し、考えても仕方ないことは決して考えない。そう叩き込まれてきた。だが教わったことを全て忘れてしまっていた。 頭では分かっている。姉をどうするかは後で考えることだ。いまは目の前の敵を倒すことだ。分かっている。わかっているんだ。 だが頭ではなく、胸の奥で熱く脈打つものが、冷静になることを決して許してくれない。 姉が。あの姉が、俺を嫌悪を……憎しみの表情で…… 姉の幸せが全てだった。姉の笑顔が見たかった。姉を悲しませ苦しませるもの、すなわち蒼血を、ひたすらブッ殺すと決めた。 だが今は自分こそが、姉を悲しませ苦しませ…… 「あ、あ、ああっ……」 がたがた震えながら、意味不明なうわごとを口走ることしかできなかった。 「作戦中だよっ!」 凛々子の言葉が耳に飛び込んできた。その言葉をきっかけに混乱した意識がひとつにまとまった。 そうだ、とにかく今は! 深呼吸して、目を巨獣に再び向ける。立ち上がろうと脚に力をこめる。 遅かった。何もかも遅かった。 自分が混乱している間に巨獣は他の隊員たちを振りほどいていた。そして走った。地面に座り込む自分のすぐそばを駆け抜けて、凛々子へと飛びかかった。 ごりゅっ。 凄まじい音がした。敬介はその音を聞いたことがあった。太い骨が……首が折れるときの音だ。 おそるおそる振り向いた敬介は見た。倒れた凛々子の上にのしかかった巨獣。巨獣はゆっくりと起き上がり、こちらを向く。その口には、凛々子の血塗れの生首がくわえられている。黒い大きな吊り目は濁って、まったく生命の光がない。 「あっ……」 たったいま凛々子は死んだんだ。そう思った。人類に味方する唯一の蒼血、殲滅機関の秘密兵器だったはずのエルメセリオンも、死んだのだ。 自分のせいで。 『撤退だ、撤退! エルメセリオン喪失! 全部隊撤退!』 無線を通じて誰かの声がした。サキ隊長ではない。誰か男の声だった。投入された八個中隊全体の指揮官だろう。 あとのことはよく憶えていなかった。呆けていたらサキ隊長に殴り倒され、引きずられて会場を後にした。巨獣は追いかけてこなかった。 チヌークに飛び乗った。ターボシャフトエンジンの轟音が聞こえてきて機体が浮き上がった。 敬介はずっと椅子に座ったままうつむいていた。 「天野、メットくらい脱げ」 サキ隊長に言われ、ようやく顔をあげる。 「うあ……?」 顔の周りを触ってみる。自分だけヘルメットやゴーグル類を着けたままだった。 外して、また下を向いた。 目を合わせたくなかった。隊長と。他の隊員達と。自分のせいで、作戦が失敗したのに。自分のせいで、多くの隊員の死が全て無駄になったのに。エルメセリオンが……凛々子が死んだのも俺のせいなのに。 どうして顔を合わせられる。 姉に憎まれたことと、この大失敗のおかげで、心の中の柱が、自信の中核とでも言うべきものが粉々になってしまっていた。 何も考えられない。これからどうしようとか、姉をどうやって元に戻そうとか、自分はどんな処罰を受けるのか、という考えすら、頭の中でまとまらない。 ただ、怖い、怖い。みんなの顔を見るのが怖い。自分が嫌だ。自分の無能が、自分の弱さが。考えたくない。何も。 「何をいじけているんだ、天野!」 サキ隊長にどなりつけられ、顎に手をかけてむりやり顔を上に向けられた。 隣に座るサキ隊長が、鋭い目に剣呑極まりない光を宿して敬介を見ていた。心臓をわしづかみにされた気分で、身体がすくんだ。 「なあ、お前はなんだ?」 「……は?」 「お前はなんだ、と訊いている」 「殲滅機関の……隊員です。戦闘局員です」 「そうだ。戦闘局員の仕事は、真っ青な顔で膝を抱えていじけることなのか?」 「でも……だって……しかし……」 震える声が唇から漏れた。自分が最低の行動を取っていることはわかっていた。失敗した人間がこんな惨めな言い訳ばかりしていたら、殴り倒されるだろう。だがサキ隊長はもう殴らなかった。問い詰めることもない。ただ黙って敬介を見つめ、敬介の次の言葉を待った。 敬介が「だって……」以外なにも言えなくなると、はじめて口を開いた。 「私は、過去を罵ることに意味はないと考えている。たとえ三十分前のことであっても、それは過去だ。現在どうやって状況に対応するか、未来をどうやって勝ち取るか、という問題に比べれば過去は些細なことだ。 罪に問われないわけではない。戦闘中にパニックに陥り作戦を瓦解させた。処罰の理由としては十分だ。お前が引き受けるべき当然の責任だ。 だが死刑になるとは考えづらい。 お前にはまだ未来がある。ならば未来のことを考えろ」 「みらい……?」 「そうだ。今度戦うことになったらどうするかと。この程度の敗北でくじける我々だと思うか? エルメセリオンが失われても、戦う方法はいくらだってあるん だ。情報部との連携も重要だ。あそこに集まった一万五千人が社会に広がっていくんだ。どれほど忙しくなると思う? そう、我々の仕事はまだこれからなんだ よ」 サキはそこで言葉を切って、はにかんだ。 「ピンときていない顔だな。そう、最後に一つだけ。首藤曹長の話は覚えているな?」 「はい。もちろん」 凛々子とのデートの前日……遠い昔のように思えるが、つまり昨日だ! サキ隊長から聞いた、かつて殲滅機関日本支部最強と呼ばれた戦闘局員、首藤剛曹長。数々の武勲を挙げた戦闘マシーンは、突然自殺したという。 「お前はある意味、首藤を超えたといえる」 「え?」 「首藤は戦闘機械のような男だった。完璧な機械になろうとして、なり切れずに『壊れた』。だがお前は首藤と違って決定的な失敗と敗北と味わった。今の お前の姿は実に人間的だ。戦闘機械になるという道は、もう閉ざされてしまった。逆にいえば、お前が首藤曹長と同じ轍を踏むことは決してない。 期待している。高い能力を持つ『人間』であるお前に」 なぜだか、その言葉に胸を打たれた。 自分の犯した大罪は決して覆らないのに、なぜだか胸の重荷が軽くなる。 顔を上げて、恐る恐るゆっくりと、機内を見渡してみる。 何人かの隊員の顔が見えた。もちろん敬介に向ける視線は冷たく、友愛のかけらも感じさせない。とくに後列に座るリー軍曹は、細い目に殺気すら宿して敬介を睨んできた。 気付いた。リー軍曹がかわいがっていた隊員がいない。生きて帰れなかったのだ。 ……憎まれて当然だ…… 目をそらさず受け止めた。卑屈になって縮こまっても意味がない。これは自分が受けなければいけない当然の仕打ちで、いまから信頼を回復させていけばいいのだ。そう前向きに思うことができた。 敬介のことはもういいと判断したのか、サキが小さくうなずいて立ち上がる。 「みんなも聞いてくれ。今の言葉は天野一人のために言ったのではない。 天野を特別扱いする意志は毛頭ない。 君達、いや殲滅機関全体に対する言葉だ。 我々は巨大な敗北を味わった。 彼らは外に出るだろう。そして神を名乗った蒼血の元に宗教を作るだろう。 我々が彼らをもっとも効果的に潰せる瞬間は、もう過ぎ去った。永遠に失われてしまった。 これからは後手後手にまわって効率の悪い戦いだ。 外国の対蒼血機関からは非難と嘲笑を浴びるだろう。 だが、こんなことは何度もあった。 国の中枢部に蒼血が入り込んだことも、巨大な犯罪組織を作られたことも…… 殲滅機関の大部隊、数百人が一人も生きて帰れなかったことも…… だが、我々はそれでも諦めなかった。彼らにこの世界を渡してなるものかと、必ず再起して逆襲した。人間は不屈で、我々も不屈だ。 今回の敗北は無意味ではない。精一杯悲しんで、だが明日のために胸を張ろう」 しばらく沈黙があった。 リー軍曹が口を開き、軽い笑い声を立てた。 「はははっ……言われなくてもわかっていますよ。こんなもの最悪じゃあない。葬式みたいな顔をするのはやめよう、みんな。暗い顔のままだと隊長のクサい説教を聞かされ続ける、たまらないね」 リー軍曹の笑いは機内に伝染していき、機内のあちこちで軽い笑いがあがった。 「そうだね、この程度でへこたれる俺たちじゃないさ!」 機内の空気がはっきり変化した。 ああ、この人は凄い。敬介は傍らに立つサキのことを見上げた。 この人はたしかに指揮官の器だ。ただ強いというだけじゃない。部下の心を掴める。仁王立ちして一喝すれば、崩壊した士気を立て直せる。だから指揮官なのだ。 敬介の心はずいぶん軽くなった。 みんなと一緒に自分も笑おうとした。 できなかった。笑みは凍りついた。笑声はくぐもった唸りになった。 凛々子に関する記憶が一気に押し寄せて、胸が詰まった。 天から降ってきた凛々子。 剣を振るって勇ましく戦っていた凛々子。 水族館でゴマフアザラシやエイのダイナミックな動きにはしゃいでいた凛々子。 自分の楽しみのためだけに休日を過ごしてみるのも悪くないものだな、と教えてくれた凛々子。 たとえ最後が喧嘩別れだとしても、それまで一緒に過ごした楽しい時間まで消えてなくなってしまう訳ではない。人生で味わったことのない幸福だった。 電車の中で自分とケンカした凛々子。ハーブティーをかけられても怒りもせず、逆に謝った凛々子。 自分との間にわだかまりを抱えつつ、機内で明るく振舞った凛々子。 そして……首だけの姿になって巨獣に咥えられている凛々子。 まだ死亡が確認されたわけではないが、奴らが首だけの凛々子を生かしておくとは思えない。 もう会えない、心にそう刻まれた。 どうして……もう会えなくなると知っていれば…… せめて一言くらい…… たとえ俺がこの先、作戦を潰した責任をとって、信頼を回復させて、仇を討ったとしても。 姉に宗教を辞めさせたとしても。 ずっと俺は、凛々子に謝れなかったことを後悔し続けるだろう。 意地を張ってしまったことを、素直にデートが楽しかったと言えなかったことを。 掌で顔を覆って小さく呟いた。 「凛々子……」 分割版の続きへ |