ブラッドファイト 『蒼血殲滅機関』戦闘録 分割4 14 十二月三十一日 殲滅機関の地下 第3会議室 翌日、敬介を裁くための査問会が開かれた。ごく短いものだった。十二時ちょうどにはじまって、現場に居合わせた者の証言を軽く確認し、たった三十分で結論が出た。 査問会の議長は、日本支部の作戦局長を務めるロックウェル少佐。筋骨たくましい身体をグレイの軍服に包んだ彼は、悠々と立ち上がり、岩から削りだしたような厳つい顔を敬介に向けて、おごそかに言い切った。 「当査問会は、天野敬介伍長の死刑を宣告する」 「なっ……」 敬介の全身が震え、唇からうめき声が漏れた。あとはもう声にならない。空気をもとめる金魚のように空しく口を開閉させる。 ……そんな馬鹿な! 死刑は有り得ないとサキ隊長も言っていたのに! 寒いほどに冷房が効いているのに、額を冷たい汗が流れる。あたりを見渡す。 査問委員会が開かれているのは学校の教室ほどの広さの部屋だ。 大きな楕円テーブルを挟んで敬介とロックウェル少佐が向き合っていた。ロックウェルの右隣には細身で細面、メタルフレームの眼鏡をかけた中年男性が座っ ている。副議長をつとめる法務士官のシェフィールド大尉だ。彼は死刑宣告にもまったく驚いていない。薄い唇を冷笑の形に歪めていた。青い瞳にも嘲りの光が あった。左隣には参考人として呼ばれた影山サキが立っていた。彼女も信じられない気持ちなのだろう、こころなしか青ざめ、驚愕に目を見開いている。 敬介とサキ隊長の目が合った。サキの頬が震えた。かすかに後ろめたそうな表情を浮かべる。ほんの一瞬だけ、ふたりは見つめあった。 サキはロックウェルの方に顔を向け、ためらいがちに口を開く。 「し、しかし、ロックウェル少佐……!」 「黙りなさい。君の発言は許可されていませんよ?」 シェフィールドが金属質の冷たい声を浴びせた。 「まあ、待て」 ロックウェルがシェフィールドの肩をぽんを叩く。 「話くらいはきいてやろう。何だね?」 サキがうなずく。 「感謝します。……あまりに異常な決定ではありませんか? 私の記憶では、殲滅機関の軍法は米軍に準ずるはずです。米軍で死刑判決が出たことはもう何十年 もありません。敵前逃亡や上官殺害ですら死刑にはなっていません。単なる過失で作戦失敗、という例であれば、禁固三十日とか、不名誉除隊程度が適当ではな いかと……。日本国内の法律を考えても、彼のやったことは過失致死です。過失で死刑など……まったく有り得ません」 「ふむ、君のいわんとすることはわかった」 ロックウェル少佐はにこりともせず、ただ太い眉を片方だけ上げた。 「だがね、君は軍事組織における法の運用というものを誤解しているようだ。シェフィールド君、説明してくれんかね?」 「はい」 シェフィールド大尉が起立する。口元に冷たい笑みを浮かべたままテーブルを囲む一同を見渡した。芝居がかった仕草で両腕をばっと広げる。 「当決定に関する補足説明を行います。……軍事組織に軍法が存在する理由、軍法が運用される目的は、ただ一つ。その組織の戦闘力発揮を容易ならしめること です。一般の裁判においては法の平等、容疑者の人権が重要視されますが、軍事組織に限っては重要ではありません。すべてはただ、『それで軍の能力が高まる か?』という問題です。 さて。現在は困難な状況です。この世に十三体しかいないフェイズ5が日本に現れました。そのフェイズ5を二体もまとめて倒す機会があったにもかかわら ず、この男、天野敬介伍長の錯乱により倒せずに終わったのです。もしこの男に甘い処分を下して、ともに戦った戦闘局員たちはどう思うでしょうか? 果たし て、組織への忠誠を保てるでしょうか。戦い続けようという意欲を発揮できるでしょうか。なぜ奴はのうのうと生きているのだろう、と思って当然ではありませ んか?」 そこでシェフィールドは言葉を切り、また全員を見渡した。 「そう、彼を死刑にするのは組織の規律、戦意を維持する上で止むを得ない処置なのです」 こほん、とわざとらしく咳払いして着席する。 かわってロックウェルがぎろりとサキに目を向け、喋りだした。 「聞いての通りだ、影山曹長。ここで死刑にしなければ隊員の戦意が損なわれる。そもそも影山曹長、君は部下に同情していられる立場なのか? この査問会が終われば、次は君の教育責任が問われる番だ」 サキの顔がこわばる。 「わかっております。私の部下のやったことですから」 「ならば、これで終わりだ。天野伍長、今回の決定に不服があるなら正式に軍法会議の開廷を訴えることだ。わかったな?」 敬介は何も答えられなかった。全身が小刻みに震えている。 敵の攻撃は恐ろしくない。だが今は恐ろしい。いちど査問で決まった事を覆すには軍法会議を開くしかない。軍法会議では弁護人もつき、陪審員による裁判が行われる。だが新たな証拠や証人などが見つからない限り、まず軍法会議開廷が認められることはない。 命運は決したのだ。止まれ止まれと筋肉に命じても、どうしても体の震えが止まらなかった。冷や汗が全身から吹き出していた。 「では起立」 ロックウェルの言葉で、いちど座ったシェフィールドも立ち上がる。 「これをもって査問会を終了する」 背後の扉が勢いよく開き、屈強な隊員がふたり入ってくる。腕には「MP(ミリタリーポリス)」の腕章がある。憲兵隊だ。敬介の手に手錠をはめた。 「来い」 荒々しく引っ張られて、廊下に連れ出される。 ドアが閉まって室内が見えなくなる寸前、サキ隊長が敬介を見つめた。かすれる声で一言だけ発した。 「……すまんな」 胸が詰まった。なんて人だ。これから自分の査問が待っているというのに、俺のために…… まだ手はある。きっと覆す手はあるはずなのだ。 15 二月三日 殲滅機関地下七階独房 それから一ヶ月たったある日、敬介は地下深くの独房で、マットレスの上に寝転がって廊下を眺めていた。 カビくさい空気にもすっかり慣れてしまって、もう何も感じない。 独房の、廊下に面している側は床から天井まで一つながりの鉄格子になっている。廊下の天井にはカメラがセットされ室内を二十四時間体制で見張っている。持ち物はすべて取り上げられ、使い古しのスエットの上下だけを与えられ、何もできることはない。 ただひたすら、自分を見おろすカメラを睨み続け、来る日も来る日も考える。 何か手はあるはずだ……何か…… 足音が近づいてきた。鼓動が早まった。跳ね起きて、マットの上に胡坐をかく。 ……なんだ? メシか? 昼食はとくに嬉しくない。いざというときに体力がなければと思っていても食欲がわかず、今朝だってパンとミルクにしか手をつけなかったのだ。 ……メシではないなら! 死刑決定は覆っていない。まだ執行されていないだけなのだ。今日が執行の日ということだって十分に考えられる。自分の鼓動の音がいやに大きく聞こえた。 二人組の憲兵が現れる。独房の前で立ち止まった。 「天野敬介。訴えの結果が出たぞ」 二人組のうち年かさのほうが言う。胸ポケットから出した書類を胸の前で広げ、読み上げる。 「検討の結果、今回の訴えには妥当性がなく、軍法会議の開廷は不要と判断した。よって却下する。法務局」 「くそっ!」 思わず悪態をついた。拳がきしむほどに握りしめた。 死刑執行ではなかった。だが、軍法会議開廷要求が却下された。これで四回目だ。 「どうする? また提出するかね?」 「……やめておく」 無駄だ。自分なりに頭をひねって、寝ずに考えて査問の無効性を訴えた。もう一度正式な裁判をやるべきだと書いた。だが、やはり根拠がないのだ。 誰かが……俺の責任ではないと証言でもしてくれないかぎり。 若い方の憲兵が嘲りも露わに吐き捨てた。 「それがいい。無駄さ。お前のような奴には紙一枚をくれてやるのも惜しいしな」 「おい、感情的になるな」 年かさのほうはそう言うが、口元には苦笑がある。本気でとがめているわけではない。 誰もが敬介のことを蔑みと怒りの目で見ていた。最低の局員、死んで当然だと。 その上、独房に足音が近づいてくるたびに「まさか、今日か!?」と心臓がすくみ上がる。 こんな生活を一ヶ月。さすがにこたえる。 憲兵ふたりの足音が去っていく。 再びマットレスに転がった。 いっそのこと脱走しようか。 今まで何度となく考えた。 だが、どうやって? 具体的な計画になると、いつも詰まってしまうのだ。 いま自分がいる牢は地下七階、基地の一番底だ。数え切れないくらいの人の目をかいくぐらないと地上には出られない。 憲兵を倒すなり、鉄格子を壊すなりして部屋から出るだけならできるかもしれない。 だが廊下に監視カメラがあるからすぐ発見される。基地には憲兵、戦闘局員、情報局員など全部合わせて千五百人もいる。しかもこちらは丸腰。たちまち追い 詰められる。しかも基地内には、正規局員の指紋と網膜パターンがなければ開かないドアが各所にある。エレベータもそうだ。とっくに登録を取り消されている 俺には、エレベータを動かすことができない。 格納庫まで行ってシルバーメイルを奪い、力ずくでドアを壊して出るのは? ダメだ。まさに格納庫こそもっとも厳重に管理されている部屋だからだ。登録のない人間には入れない。 誰かを人質にとって…… 無駄だ。蒼血が人間を人質にとる例など珍しくない。殲滅機関の戦歴を見ればそんな脅迫に屈したことなど一度もないと分かる。俺がやっても同じだろう。人質救出の経験は豊富だし、仮に救出できないならためらいなく人質ごと俺を撃ち殺すだろう。 誰か、できるだけ偉い奴を殺して、そいつの死体を使えば指紋や網膜パターンのチェックをクリアーできないだろうか? そんなことまで考えた。 だが、どうやって一人で、誰にも知られずに殺す……? そこまで考えて、ハッとなった。胃袋が痛みを発しながら縮む。 俺は……もう機関への忠誠心なんてないんだな。とんでもないことを。 そこまでして脱出して、それで何ができるって言うんだ。機関にとって最大級の裏切り者となり、地上に出ても逃げ回るだけの毎日。姉を助けることも、失敗を償うこともできない。 こんな最悪の手しかないって言うんなら、いっそ俺はおとなしく死刑になるべきなのか。 それが、機関への最大の貢献なのか。 分からない。 理屈の上では確かにその通りだ。だが凛々子の笑顔が脳裏に浮かぶ。自分の足元にすがりつく姉の悲痛な叫びが耳から離れない。 俺がこのまま死刑になったら、姉さんは教団に取り込まれたままだ。会うこともできず、俺が何故いなくなったのか姉さんが知ることもできない。そもそも、いま姉さんがどうしているのかすら分からない! 凛々子にも……それでいいのだろうか。 俺は凛々子の戦いを無駄にしてしまった。 ここで死刑になるだけで、その償いをしたことになるのか。 ますます胃袋が締め付けられる。すっぱい胃液が喉のほうにまで逆流してきた。 負けるか…… 廊下から室内を睨むカメラを、ますます希薄をこめて睨み返す。 と、そのとき。 また足音があった。先程より乱れている。急いでいる。 尋常ではない出来事があったということか。 まさか、執行? また跳ね起きて、鉄格子にしがみついて立ち上がる。 もし執行なら、俺は…… ここで一瞬の隙をついて武器を奪い、たとえ万に一つの勝機しかなくても……脱走するか!? 握りしめた鉄格子が冷たく、ヌルヌルと滑って気持ちが悪い。違う、自分が手のひらに汗をかいているのだ。 やるか、と覚悟を決めたその瞬間、先ほどの憲兵ふたりが姿を現した。 「天野敬介。面会だ」 (ここから先が更新分です) 16 十分後 面会室 面会室へ通された。トイレの個室を少し大きくした程度の狭い部屋だった。 「入れ」 促されて敬介が個室に入る。憲兵もそのまま後ろについてきて、部屋の入り口のところで立っていた。背中にはりついている状態だ。ドアを閉めもしない。 背もたれもない、床に固定された小さな椅子に腰掛ける。 小さな穴のたくさん開いたプラスチックの遮蔽版をはさんで、向こう側の部屋にサキ隊長とリー軍曹が座っていた。向こう側の部屋も狭いので、肩がぶつかり合っていた。 なぜ、リー軍曹が? 俺とは顔を合わせたくないはずなのに。 意外に思ってリー軍曹の顔を見る。目が合うと、リー軍曹は薄い唇を憎々しげに歪め、毒づいた。 「……意外に元気そうだな。面の皮の厚さだけは大したもんだ。真っ黒な隈を作って震えている姿を見たかったんだが」 「よせ、リー軍曹。裁きをちゃんと受けている人間を、これ以上貶めるな」 「……隊長は、なぜかこいつに甘いですよね……」 敬介はハッと気付いて、遮蔽版に身を乗り出して訊ねた。 「隊長! 隊長のほうの査問はどうなったんですか?」 「私か? おかげさまで処分は受けずに済んだよ。本当に幸運だった。……天野、何か困ったことはないか? 牢の中で足りないものとか」 「足りないものというより……知りたいです。いま世の中がどうなっているのか。あの蒼血たちの教団がどうなったのか」 独房の中でも、申し出れば新聞を読むことはできた。だが教団のことは一行も書かれていなかった。 たった数行、「東京ビッグサイトで参加者同士がケンカになって、その混乱に乗じてテロを行ったものがいた」と書かれている。テロの犯行声明を出した過激 団体もあるそうだが、もちろんこんな団体は実在しないだろう。蒼血事件で死傷者が出るたびに、架空の犯罪者やテロ組織をでっちあげて情報を流す。昔から殲 滅機関が行っていることだ。 教団のことが一言もないかわりに、新聞は野党の大物政治家の汚職疑惑と、芸能人の破廉恥事件、多摩の工事現場で発見された大量の死体、などのニュースで 埋め尽くされていた。きっとこれらも殲滅機関情報局が「作った」事件なのだろう。大量の事件を作り出して民衆の関心を誘導するのだ。 「知りたいだろうな。それにお姉さんのことも、だろう?」 サキ隊長は控えめな笑みを浮かべてうなずく。 「え? あ、はい」 「そうだろうと思って面会に来たんだ。 まず現状から言うと、教団はこの一ヶ月で凄まじい急成長を遂げて、三十万人とも五十万人とも言われる信者を誇っている。しかも、この信者達の活動が実に 活発なんだ。ここに来るとき、相模原や町田の駅前を通ったんだが……すごいな、大勢がビラをまいて、道往く人に片っ端から声をかけて勧誘している」 「警察は捕まえないんですか?」 「逮捕する根拠が乏しい。末端の警察は蒼血のことなんて知らないからな。何人か、勧誘のときのトラブルで捕まった奴がいる。他の宗教団体と口論になって、 強要罪を適用して逮捕したケースもある。もちろんその程度じゃ活動をやめるはずがない。都心のほうじゃもっと激しく活動しているらしい」 「でも隊長。情報操作ができるなら、教団が犯罪やテロをたくらんでいるという風に仕立て上げれば……」 サキは眉をひそめる。 「それで警察が強制捜査に入って、どうなると思う? 皆殺しにされるんじゃないか?」 「そう……ですね」 一皮むけば蒼血の集団だ。普通の警察では対処できない。 「で、肝心の殲滅機関の活動のほうなんだが……これも首尾がよろしくないんだ。教団は今、池袋の駅前のでかいビルに本部を作ってるからな……あれだけ人通 りの多いところでは、作戦部隊の行動は制約される。強行突入なんて論外だ。二十四時間体制で監視して、幹部が出てきたら狙撃する、あたりが限度だよ」 「突入しても、ちょっとやそっとの戦力では勝てませんからね……」 呟く敬介の脳裏に、紫の針に覆われた巨獣の姿が蘇る。 多数の局員が浴びせる機関銃弾も無反動砲も、まったく物ともしなかった。 しかも、ヤークフィースたちの眷属があれだけだという保証はない。 「より強力な作戦部隊を再編成しないとな。しかし蒼血事件は東京だけで起こっているわけじゃない。全国的に激化してる。つい昨日も北海道で戦ってきた。たった十名で蒼血のコロニーを襲撃する羽目になったんだ。その前は九州、その前は沖縄」 「じゃあ、機関はどういう方針で対処するつもりなんですか?」 「そんな上の考えることなんて、私にはわからないよ。 そうだな、いいニュースとしては、なんであの紫の怪物が銀に耐えられたのか、その理由がわかった」 「隊長!」 仏頂面だったリー軍曹が色めきたつ。こんな重大な情報を裏切り者に知らせてなるものか、ということだろう。 「いいじゃないか、死刑になるなら、どこに情報を漏らしようもない。 ヤークフィースの一党は、医療メーカーに人脈を張り巡らして、特殊な人工透析の機械を作らせていた」 「透析? じゃあ、それで銀を体から取り除いていたんですか?」 「そういうことだ。装置の重量は三十キロ、ちょっとしたリュックサック並みの大きさがある。体内に入れたら、とんでもない肥満体型になるな」 「じゃあ合体した状態ならともかく、普通の人間の形をしてるなら、銀は効くはず?」 「その通り。装置の数も十台を超えることは有り得ないそうだ」 よし、これで攻略の糸口がつかめたんじゃないか? などと考えて拳を握りしめ、はたと気付く。 死刑囚が作戦のことなんて考えて、どうする? サキ隊長もそのおかしさに気付いたのか、笑みをうかべてうなずく。 「前向きだな、こんなときも仕事のことか」 「はい……」 「何をどうしようが、お前が隊に復帰することは決してねェよ。無駄なこと考えんな。お前は懺悔しながら死ねばいい。それだけだ!」 リー軍曹は遮蔽版に顔を近づけ、敬介に憎しみの視線を浴びせながら吐き捨てた。 「そうかもしれんな。私としても、君を助ける術はない。自分のことで手一杯でね。 最後にこれを見せよう」 そう言って、サキ隊長は持ってきたリュックからノートパソコンを取り出す。 「これの持ち込み許可は大変だったんだ。だが、私が口で言うより映像の方が手っ取り早いだろう」 パソコンを操作する。動画プレイヤーが立ち上がった。 CGで作られたロゴが画面上で踊る。 『突撃! ネットニュース』 画面上に二十歳そこそこにしか見えない若い女性が現れる。スーツを着こんで理知的な顔立ちだ。カメラの方を向いて喋りだした。 『みなさん、情報弱者になってませんか? ホントの情報、見落としてませんか? マスコミが伝えないニュースを独自の視点で徹底追跡! 突撃! ネットニュース!』 ニュースにしては変だと思っていたら、背景はカラオケ屋の個室だ。音質もよくない。パソコンとデジタルビデオカメラで、手作り感覚で番組を作っているのだろう。 『第21回、謎の教団・繭の会。みなさんは駅前でビラを配っている不思議な集団を目撃したことはありませんか。家に冊子を持った集団が布教に来たことはあ りませんか。『繭様』を崇め、『繭様がどんな病気も治してくださる』という彼らこそ、たった一ヶ月で巨大宗教にまで膨れ上がった謎の団体、『繭の会』なの です。 当ネットニュースでは、マスコミがなぜか無視している教団の正体に迫ります! 教団幹部の特別インタビューも敢行しました』 「あれ? ニュース? だってマスコミにはすべて圧力を欠けているんでしょう?」 「マスコミは確かにそうだ。だが個人でやっているネットニュースまではね……そして、一度ネットに上げられた動画は完全に消滅させることができない。これを作った女は黙らせたが、もう後の祭りだ。ネット上から削除しても、一度見た奴が再アップする」 パソコン画面の中では、スーツ姿の女が駅前で教団メンバーにインタビューしていた。 『みなさんは何故、教団の活動をしているのですか?』 レポーターがマイクを向けると、制服姿の少女が大きくうなずいた。 『お母さんの病気を治してもらったからです。どんな医者も匙を投げていたのに、ただ繭様のキス一つで……』 胸ポケットから大型のロケットを取り出し、中の写真を見せる。教祖・嵩宮繭の写真だ。長い艶やかな黒髪、人間離れしているほどに整った容姿に、凛とした微笑。写真になっても神々しさが伝わってくる。 少女のとなりにいる中年女性も両手を合わせ、切々と語りだす。 『私もです。友達に誘われたときは疑う気まんまんで、インチキ宗教だと思っていたんです。でも繭様は、うちの子の足を治してくれたんです。もう一生歩けな いって言われていたんですよ!? 学者が何を言おうと、繭様はホンモノなんです。この後の人生を、繭様のために捧げようと決意しました』 『私も繭様が……』 敬介は固唾を呑んで画面を見守った。 姉は出ないのか。見当たらない。信者が何十万人もいるなら、姉にスポットライトが当たる確率はわずかだろうが、やはり見たい。 『では、これだけ多くの信徒をひきつける教祖・嵩宮繭の力とは? 本当に科学を超えた奇蹟を起こせるのでしょうか? 教団は実演ビデオを多数発表していま すが、やはり内輪で作った映像だけでは信じられません。ぜひこの目で見たい。そう思って、当ニュースは嵩宮繭へのインタビューと、治癒の奇蹟の公開実験を 申し出ました。 残念ながら多忙を理由に断られましたが、かわりに教団幹部の一人・樋山理香子(ひやまりかこ)がインタビューに応じてくれたのです。樋山理香子は教団では広報部長を務め、また『神の力』を持つ『覚醒者』の一人でもあると言われています』 カクセイシャ? 不思議な単語に敬介は眉をひそめた。 神の力とやらが蒼血の能力ならば、つまり寄生された人間ということか。 画面が切り替わる。 ビル内の応接室で、ソファーに座った妖艶な美女がカメラに向かって微笑む。 日本人離れした、彫りの深い美貌の女性だ。 柔らかそうな栗色の髪を長く伸ばし、大きな垂れ眼は潤んで、長い睫毛に縁取られている。冬だというのに肩を露出した派手なドレス。ドレスに押し込められた乳房ははちきれそうだ。年齢は二十代後半くらいだろうか。 敬介の周辺にはまったく存在しないタイプの、色気に満ち溢れた女だった。敬介は水商売の店に行った経験が一度もないが、なんとなく、そういう世界の……「夜の女」という印象を受けた。あるいは、「女占い師」。色香と甘言で男をたぶらかす占い師にピッタリだ。 『みなさま、はじめまして。わたくしが『繭の会』広報部長、樋山理香子です。繭様に代わり、わたくしが『繭の会』の真理をみなさまにお伝えさせていただきます』 声もハスキーだ。すこし頭を下げて瞬きをする。 『まず、なぜ人が争いをやめることができないのか。それは人に弱い心が……』 『ああ、すみませんが、教義の話よりも先に見せて欲しいものがあるんです』 キャスターが口を挟んだ。 『なんでしょう?』 樋山理香子は小首をかしげ、またパチパチと瞬き。 キャスターはカメラに向き直り、カメラの視野の下からプラスチックのケージを持ち上げた。ケージの中では何かがゴソゴソと動いている。 ケージから何かを取り出して、抱きかかえる。 犬だ。短い毛の、痩せこけたミニチュア・ダックスフンドだ。だが後ろ足二本が切り株のように短くなっている。切断されているのだ。知らない場所と知らない人間に怯えているのか、尻尾を伏せ、大きな黒い目を見開いてあたりをしきりに見回している。 『心無い人間に痛めつけられた犬です。カメラの前で、この犬を治していただきたいのです。教団のPR資料は観させていただきました。樋山さんは嵩宮繭さんと同様に、『癒しの奇蹟』を起こせるそうですね??』 なんだって? 敬介は耳を疑った。他人のケガを治せるなら、ただの蒼血ではないだろう。フェイズ5じゃないか。いったい十三人のうちの誰だ、この女は。 『ええ。わたくしは『覚醒者』の中でも、他のものより少しだけ神に近づいていますので』 大きくうなずいて、ためらうことなくダックスフンドに手を差し伸べた。優しく抱きかかえる。 『さあ、よく観てください。もっと近くから撮ってもかまいませんよ』 言葉に従って、カメラがキャスターから外れ、樋山と呼ばれた女の顔をアップにする。樋山は顔を傾け、犬のとがった口吻に唇を当てる。だが犬は身体をビクつかせて、口を開かない。 「怖くない……怖くありませんよ……」 静かで優しい声で呼びかけながら、ゴツゴツと骨の目立つ背中を撫でさする。しだいに犬がわずかに口を開ける。犬歯のならぶ口に、女が細い指を差し込む。 「んっ……」 はっきりと口と口を合わせた。舌を入れているのがはっきりと見えた。 犬が目を閉じ、緊張していた身体をだらんと伸ばす。切断されていた犬の足に変化が生じた。ソーセージの端のように短く丸くなっていた足が盛り上がり、長く伸びていく。関節が形成された。たった数秒で後ろ足が生えた。もう傷一つない状態だ。 その後も数秒間キスをつづけて、ようやく口を離した。犬を持ち上げてカメラに向ける。 たったいま生えてきたばかりの後ろ足を軽く撫でる。柔毛に覆われた足が軽やかに動いた。犬を床に下ろす。カメラが下がって追いかける。犬が部屋の中を歩きはじめた。その足取りはスムーズで、怪我などまったく感じさせない。 「ごらんのとおりです」 再び樋山にカメラが戻った。画面の中で彼女は華やかに微笑んだ。 「なるほど……みなさん! これはトリックではありません、CGでもありません! 私はこの動画をCGと特殊撮影の専門家に鑑定してもらうつもりです。よろしいですね?」 「もちろんです、わたくしたちの力は真の奇蹟、トリックの入り込む余地などないのですから」 「なるほど……一体なぜ、あなた方ははこんな力を使うことができるのですか? 普通の人間でも教団に入れば奇蹟を得ることができる、力を使えるようになるというのは本当ですか?」 「ええ。神の力は本来、すべての人に宿っているのです。ただ、それを目覚めさせることができないというだけで……繭様や、わたくしたち覚醒者は自らの力で神の力に目覚めました。 しかし、自力では目覚めることができない人たちであっても、『繭の会』に加わり、導きと研鑽を受けることで、内なる神の力を手に入れることもできるのです」 敬介は、膝の上の拳をきつく握りしめた。 ……神の力を手に入れるって、つまり蒼血を寄生させるってことじゃないか? 「そのための方法は一つではありません。 繭様は、人それぞれに合った方法で会員を導きます。 そう、たとえば……あなたが水族館に行ったとしましょう。水族館にはたくさんの生き物達がいます。キャスターさんはクラゲがお好きでしょうか? ゆらゆ らして癒されますよね。魚とはまったく違った形ですが、クラゲもまた海の中の環境に適応した姿なのです。やり方は一つではないと…… ああ、ごめんなさい。女性の方だってクラゲが好きとは限りませんよね。男性のほうがクラゲ好きで、ずっとクラゲを見つめていて、女性はエイの格好よく上昇する姿が好きかも知れません。性別に関わりなく、いいものはいいですよね」 「あ、あ……あ……」 敬介は口を半開きにして、あえぎながら聞いていた。心臓が凄まじい速度で脈打ち、膝の上で握った拳が震えていた。 「どうした?」 サキが眉根を寄せる。 「だ、だ、だって……この人! この広報部長は!」 思わずうわずった声が出る。生唾を飲み込んだ。腰を椅子から浮かして、叫んだ。 「……凛々子ですよ!!」 サキは目を丸くした。 「何だと? 確かか?」 「ええ! 確かですよ!」 話の流れを無視した、唐突な水族館の話題。 『男はクラゲが好きで女はエイの動きが好き』……あの日の思い出そのものだ。 生きていた。首を刎ねられたはずなのに生きていた。教団の仲間として生き延び……そして俺にそのことを伝えてくれている。 水族館のクラゲなんて、俺個人を狙ったメッセージ以外の何物でもない! サキは動画を止めて、静止画像の樋山広報部長をじっと見つめた。 「ヒヤマリカコか。まあ確かに、ヒカミリリコと似ている。外見は好きに変える事ができるわけだが……名前だけではなんとも」 「違うんです。名前だけじゃないんです。いまの『クラゲが好きな男もいる、エイが好きな女もいる』『いいものはいい』ってのは実体験なんです。俺が凛々子と一緒に、水族館へ行ったときの……こんな偶然が有り得るでしょうか?」 リー軍曹が細い目に凶悪な光を宿して睨んできた。 「浮かれやがって。こんな時に、デートの思い出か!」 「まて、軍曹。その話は本当なのか? 意図的に、天野個人にメッセージを送っているって言うんだな?」 「はい、おそらく」 「事実なら重大なことだ。エルメセリオンが奴らに加わっているか否か……彼女に埋め込んだ爆弾は、爆発を確認されていない。解除されたらしいんだ。可能性はある。もっと決定的な証拠を探し出せ」 言われるまでもなく、目を皿のようにして、遮蔽版ギリギリまでパソコン画面に近寄っていた。 「動画、動かしてください」 樋山理香子の画像が動き出す。相変わらずなハスキーボイスで、『繭の会』の教義を説明し始める。 『繭様は、もっと大きな力をもっております。東京ビッグサイトで起こった事件はご存知ですよね。あの暴動事件……繭様は、人の心があまりに弱いことを』 「……なんかこの人、瞬きの回数が多すぎませんか」 「こういう人間もいるだろう」 「いいえ。変なんです。これが凛々子なら……凛々子は、こういう仕草をしなかったはずなんです。だから、きっと何か意味があって……」 「どんな意味が?」 気付いた。片目だけ瞬きをしている。それも、数が不均等だ。 「メモ用紙もってますか?」 「ああ」 「この人が登場したシーンまでまき戻してください。はい、それでいいです。俺が言った通りにメモしてください。右2、左1、右1、左1……」 目を凝らして、理香子の瞬きを数える。 しらばくして、サキ隊長が腕時計をチラリと見た。 「もうすぐ面会時間は終わりだ」 「もうすぐ終わります。右1、左3!」 「それで全部か?」 「はい。で、見せてください。やっぱりそうだ。わかりませんか? 右の瞬き回数を五十音の縦の列、左を横の列にすれば……」 サキはメモ用紙に五十音表を書いた。 「変換できるわけか。 『に か つ い つ か ほ ん ふ い て ん』 二月五日? 本部移転?」 「明後日ですよ?」 「なるほど、明後日に本部移転が行われたなら、偶然じゃない。確かにこいつは氷上凛々子で、内部情報をリークしている、そう言えるだろう。 だが、何のために情報を漏らすんだ?」 「決まっています。俺達に便宜を図っているんです。表面上は教団の一味になっても、心まで売り渡したわけじゃない。俺達の作戦のために情報を流しているんです」 しかめっ面で話を聞いていたリー軍曹が、拳を遮蔽版に叩きつけて怒鳴った。 「信用できるか! 偽情報かも知れねえ! 一回当たっただけなら偶然ってこともある! 適当なことを……」 「そうかもしれません! でも……もっと調べてください、彼女のことを。もっといろいろとメッセージを送ってるはずなんです!」 リー軍曹を片手で制して、サキが問う。 「分かった。情報局に意見書を提出しておく。 だが、そんなもの明らかにして、どうする? お前は処刑されるんだぞ?」 敬介は考え込んだ。三人とも沈黙する。自分の鼓動だけが耳の奥でとどろいていた。狭苦しい面会室の壁が、凄まじい圧迫感をもって迫ってくる。 怖い。だが、もしかしたら死刑を免れる突破口がここにあるかもしれない。 「明らかになったら……この広報部長が、間違いなく凛々子だと分かったら……俺が、教団に入って彼女にコンタクトします」 「お前である必然は?」 「俺だけが彼女のメッセージに気付けました。だから彼女といちばん強くつながっているのは俺です。彼女だって、俺にしか読み解けないメッセージを送ってきたってことは、俺である必要があるってことだと思います。 俺が彼女に接触して、反乱を起こすように言います。そのタイミングにあわせて教団を襲撃してください」 「どうやって幹部に近づく? 氷上が反乱を起こせるという根拠は? まともな警戒心があるなら、なんらの手段で反乱防止措置をとるはずだ。我々が氷上の頭に入れた、あの爆弾のようにな」 「近づく方法は……今から考えます。反乱を起こせないって言うんなら……」 そこで言葉を切る。サキの深い瞳を見つめて、一息に言い切る。 「もし反乱を起こせないんなら、俺があいつを殺します。俺のことを信用しているなら、油断するはず。油断したときに後ろからやります。そうすれば混乱するはず」 「お前にできるか? それだけ心がつながっている女を殺すことが?」 「できます!」 「いいや、できないね。いま目が泳いだ。力んで、嘘を勢いで誤魔化そうとしている。わかるさ、長い付き合いだ。だが……悪くはない。若干の修正を加えれば、実行できるかもしれない作戦だ。もっと情報があればな。 意見書と、軍法会議の開廷を要請しておこう。死刑をやめて潜入作戦に投入しろと。 問題は、弁護人がお前の主張を納得するかだが……」 敬介は肩を落とした。はあ、とため息をつく。 たしかにそうだ。弁護人がこの危険な作戦に賭けようと思わない限り、無駄だ。まともな弁護人なら、死刑を回避するのにこんな主張はしないだろう。 「そうがっかりするな。私が弁護しよう」 「しかし、隊長は階級が……」 そう、軍法会議は士官によって行われるものだ。曹長に過ぎないサキは弁護人になれない。 だがサキは薄く微笑むと、自分の勤務服の肩を指さした。 何だろう、と視線を走らせた敬介。目を見張った。 いままでサキの肩には曲がった線が六本縫い付けられていた。「曹長」の階級章だ。 今は、銀色の細長い四角が縫い付けられている。銀の四角の中には黒い小さな四角。 「准尉……」 士官学校を出ずに到達できる最高階級だ。 「そうだ。ビッグサイトでの作戦と、その後の教団との戦いで、我々は多数の戦闘局員を失った。だから声を掛けられてね。殲滅機関の軍法では、准尉は弁護人になれると明記されている。資格ギリギリだがOKだ」 「待ってください!」 リー軍曹が口を挟んできた。サキに顔面を近づけ、押し倒しそうな剣幕だ。 「なんでこんな奴を助けるんですか? イシカワ伍長は、こいつのせいで死んだんです。 ……俺はあいつの両親に会いました。事故扱いで偽の証拠とか……本当のことをぶちまけたかったです。あいつの両親は一生、嘘を信じ続けて、息子のことを思いながら……くそっ! なぜですか!」 サキはリー軍曹を至近距離から見つめ返した。冷たい酷薄な目だ。恐ろしく乾いた声で、答えた。 「助けるつもりなどない。より大きな利益を生み出したいだけだ。殲滅機関にとっての最大利益を。ミスをした人間をただ殺してしまっては、マイナスがゼロになるだけ。プラス1、プラス2までもって行きたいと思った」 「本当にそれだけですか。隊長は……准尉は! この男に過剰に肩入れしているのではないのですか!?」 「もう一つ理由がある。……死刑にするより、こちらのほうが辛いからだ。生きて戦うことのほうが」 「え?」 リー軍曹だけでなく、敬介も驚いた。 「どういうことでしょう?」 「理解できないならば、まだまだ未熟だな。天野、君はおそらく思うだろう。『いっそ死刑になっていればよかった』」 そのとき面会室のサキ側の扉が開き、憲兵が姿を見せる。 「面会時間は終わりです。ただちに退出してください」 時を同じくして、敬介の背後の憲兵が近寄ってくる。 「時間だ」 「ああ、そういうわけだ。……健闘を期待するよ、天野」 敬介は立ち上がり、背筋を伸ばして敬礼した。 牢にもどった敬介は、ふうっと息を吐いてマットレスの上に転がった。 身体がわなないた。笑いが勝手に口から漏れてくる。 「あは……あははっ……」 嬉しくて仕方ない。もちろん軍法会議の結果が出るまで安心はできない。だが、わずかに希望が見えてきた。 「これでやっと言える……あいつに……」 自分の口からその言葉が出てきたことに驚く。 なんで今、凛々子のことをまっさきに口に出してしまったのだろう。 自分は姉を助けたくて、そのために死刑を免れたかったはずなのに。 凛々子は、ただ手段に過ぎないはずなのに。 天井を見つめながら考えたが、いくら考えても答は出なかった。 (ここから更新分です) 17 敬介の言ったとおり、教団は本部を移転した。 これを受けてサキは軍法会議の開催を要請。 敬介にとっては無限とも思える待ち時間の後、ようやく開催された。 18 二月十五日 午前十時 殲滅機関日本支部 法廷 「被告人、入廷」 ロックウェル少佐の野太い声が法廷の中からした。敬介は法廷に足を踏み入れる。すぐ横に憲兵がついている。後ろ手に手錠をかけられたままだ。 法廷内は、地下とは思えない広々とした部屋だ。天井の高さは身長の軽く倍はある。真ん中の奥には一段高い裁判長席があり、すでに屈強な肉体を軍服でよろったロックウェル少佐が座っている。 その背後には二本のポールが立ち、星条旗と、殲滅機関の旗が掲げられている。青い背景と、その真ん中を貫く銀の短剣。短剣の下には『B.O.A』の三文字。 裁判長席から十メートル以上の間隔を置いて、右に検察側のテーブル、左に弁護側のテーブルがある。二つのテーブルのちょうど中央には、ノートパソコンを置ける程度の小さな背の高い机があった。発言台だ。 検察側席にはシェフィールドが、弁護側席にはサキが待っていた。 サキに視線を向けて頭を下げる。彼女は細い顎に手を当て、何かを堪える表情でうなずいた。 さらに敬介は視線をさまよわせる。検察側のテーブルの隣には、木製のフェンスに囲われた一角があった。そこには椅子が並んで、グレイの勤務服に身を包ん だ人々が十二人座っていた。陪審員だ。たった一人だけが女性で、あとは青年や中年の男だ。顔を知らない人たちだ。作戦局ではなく、情報局や技術局の人間を 集めたのだろう。利害関係のないものを選ぶという陪審員の原則のためだ。 彼らは落ち着かない素振りで、しきりに室内を見回している。敬介の視線に気付くと、そろって目をそむけた。 そして弁護側テーブルの隣には、同じくフェンスで囲まれた小さな椅子。被告人席だ。 敬介が被告人席に向かい、腰掛ける。憲兵がバーを閉めて立ち去った。 椅子は、長い棒の先に小さな腰掛がついているタイプで、尻が落ち着かない。何度も位置を直した。 ロックウェル少佐が立ち上がり、一同を見渡して言う。 「検察側、弁護側、準備はいいか?」 シェフィールドとサキが同時に立ち上がる。 「はい、裁判官」「はい、裁判官」 「よろしい。では殲滅機関対天野敬介、開廷する。本軍法会議は殲滅機関軍法の六十一条、六十二条に基づいて簡易式の陪審裁判の形態で行われる。 通常の陪審裁判との相違点は以下の三つである。 一つ、陪審員の全員一致ではなく多数決によって評決がなされる。 二つ、原則として当日中に結審する。 三つ、有罪無罪のみならず量刑の決定に陪審員が参加する。 検察側、主張を述べよ」 「はい」 シェフィールドが検察側の席を離れ、法廷のちょうど中央……発言台の前で立ち止まる。 「皆さん、ウィリアム・シェフィールド法務大尉です。このたびは、殲滅機関の存在を揺るがしかねない大きな罪を裁くため、当軍法会議の検察官を担当いたします」 乾いて冷たい、酷薄そうな声だ。肉付きの薄い顔からは表情が消えている。四角いメタルフレームの奥の青い瞳も、冷たい光を発している。 「陪審員の中には、この事件について不正確な認識しか持たないものもいるでしょう。また、いくら陪審員選出に公平性を求めてもしょせんは組織の中、被告の知人であったり、あるいはもともと嫌っていたり、判断を歪ませかねない先入観があるかもしれません。 よって事実を改めて説明します。陪審員は、今までに聞きかじった噂、知識ではなく、ここで明らかにされた正確な情報をもとに判断を行ってください」 そこで、コホンとわざとらしく咳払いをする。 「十二月三十日、東京ビッグサイトの会場です。 この会場内で暴動が発生しました。最初は小さな暴力事件だったものが、わずか数分で会場全体を巻き込む一万人規模の大規模な騒乱になりました。 多くの者が血を流したとき、少女が現れたのです。 その少女は人々にキスをして、すると人々のケガは治っていきました。奇跡な出来事に驚く人々は……」 敬介はシェフィールドの顔をじっと見ていた。自分を死刑にしようとする男から、目を逸らしていることが嫌だったのだ。 シェフィールドは敬介の視線に気付いたようだが、細い眉を軽く動かしただけで、まったく動揺なく喋り続ける。 「このように、殲滅機関作戦部隊は、エルメセリオンとともに制圧行動を続けていました。あと一歩のところまで敵蒼血を追い詰めたといえましょう。ところが、ここで一人の隊員がとんでもない失敗をしでかすのです。 映像をご覧に入れます。検察側証拠物件1を提出します」 シェフィールドは言葉を切り、発言台の上に置かれた小さなリモコンを取って操作する。 天井から自動車ほどもあるスクリーンが下りてきた。法廷が薄暗くなり、スクリーンに映像が生まれる。どこにスピーカーがあるのか、音声までついてきた。ひっきりなしに響く銃声。くぐもった悲鳴。 白い煙の中に浮かび上がる、紫の針で覆われた巨獣の姿が映っていた。巨獣の手足にシルバーメイルを装着した隊員たちが組み付こうとしている。だが巨獣は暴れて隊員を吹き飛ばし、体の針を触手に変えて隊員の身体を縛り、一人また一人と行動不能にしてゆく。 もちろん敬介はこの光景に見覚えがあった。これは自分が見ていた光景そのもの。自分のシルバーメイルに装着されたコンバットレコーダーの記録だろう。 『インパクトォ!』 甲高い男の声が会場に溢れた。敬介は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに自分の声だと気づいた。本当は俺はこんなに高い声なのか。 スクリーンの中では、装甲に覆われた腕が突き出され、拳が巨獣の前足に激突していた。巨獣が苦悶の声をあげ、その全身を痙攣させる。 『いまだよ! みんな、ひっくり返して!』 これは凛々子の声だ。声に応じて、複数の手が巨獣の足を抱え、持ち上げて、ひっくり返そうとする。 巨獣の足が持ち上がった。 と、その瞬間、女の声が流れた。 『やめて!』 スクリーンの中の映像が大きく上下に揺れて、カメラが下を向く。シルバーメイルの足に、黒い三つ編みの髪を銀粉で真っ白にした女が、しがみついていた。 『かみさまを……いじめないでっ!』 『なんで! なんでねえさんがこんな!』 あの瞬間に感じた恐怖と混乱が、また敬介の心の中で蘇る。膝の上で拳を硬く握りしめて耐えた。 映像を見続けるのは苦痛だった。自分の頬の筋肉が痙攣するのがわかった。それでも自分に鞭打って、むりやりに目を見開いてスクリーンを凝視した。 混乱して行動不能に陥った自分。その隙を逃さず、疾駆する巨獣。凛々子を押し倒し、首を噛み千切った。 『エルメセリオン喪失! 全部隊退却!』 荒々しい男性隊員の叫び。そしてスクリーンは暗転した。 また一同をゆっくりと見渡し、シェフィールド法務大尉は言う。 「おわかりになりましたか? フェイズ5を殲滅できる千載一遇の機会を、この男が潰したのです。その場に姉が居合わせたというだけの理由で、戦闘中に錯乱してしまったのです。 これは重大な罪です。具体的には、殲滅機関軍法第六条『命令の遵守』、および第十二条、『戦闘拒否の禁止』に明確に違反します。 このような不適格な隊員に甘い処置をするなら、もう二度と、隊員は命がけで戦わないでしょう。死刑にするべきです。私は天野敬介の有罪を主張します」 シェフィールドは無表情のまま発言台を離れ、検察側の席に戻った。 「よろしい、弁護側、反対尋問は?」 「は……はい」 サキが立ち上がって歩き出す。肩や足の動きがぎこちない。緊張してるのがありありとわかった。 発言台に着いたサキは、敬介のほうに目をやって小さくうなずき、言葉を発した。 「影山サキ准尉です。本軍法会議の弁護人を務めます。私は、まず、みなさんに見て欲しいものがあります。裁判長、弁護側証拠物件1を提出します」 シェフィールドと同じように、台上のリモコンを操作する。またスクリーンが下りてくる。 「これは、二月一日にネット上で公開されたニュース番組です。喋っているのは、『繭の会』広報部長の樋山理香子です」 始まった映像は、面会室で見た「教団のPR映像」を加工したものだった。 栗色の髪に大きな乳房をもつ女が、ねっとりとした声で教団の教義を語る。 『神の力は本来、すべての人に宿っているのです』 『そのための方法は一つではありません』 喋りながら、女が瞬きをする。瞬きのたびに画面の下に「右1」「左2」と文字列が出現した。 シェフィールドが立ち上がって、冷たい声を叩きつけてきた。 「異議あり、本件と関係のない映像です。本軍法会議は十二月三十日に起こった出来事について天野敬介の罪を追及しています。『その後』に起こったことは全く本件に影響を及ぼさない。ただちに中断してください」 サキは一瞬だけ固まったが、すぐに大きくかぶりを振った。 「いいえ、関係のある映像です。見ていただければ分かります。裁判長、続行の許可を」 ロックウェルは肩をすくめた。 「構わないが、どう関係があるのか充分に説明すること」 「はい。……この画像の下にある右いくつ、左いくつという数字が……暗号になっています」 サキがリモコンを操作すると、画面が切り替わる。 真っ暗な画面の中に五十音表が浮かぶ。 『に』の文字が赤く明滅した。次は『か』、『つ』。 「このように、五十音表に当てはめると『にかついつか ほんふいてん』。このニュースが公開された後、教団の本部は移転しました。樋山理香子が我々に、教団の内部情報を教えてくれたわけです。 そして、この樋山理香子とは……」 リモコンを操作する。映像がまた理香子になって、猛スピードで巻き戻った。 『……ああ、ごめんなさい。女性の方だからってクラゲが好きとは限りませんよね。男性のほうがクラゲ好きで……』 リモコンを操作して、画像を一時停止させる。 「この理香子とは、氷上凛々子、エルメセリオンと同一人物なのです」 シェフィールドは無表情を崩さなかったが、陪審員たちは驚きの声を上げた。 「その根拠は、ただ今の『女性だからってクラゲが好きで……』という発言です。天野敬介と氷上凛々子は、作戦のわずか二、三時間前に二人で水族館を訪れ、クラゲやエイに関する会話をしています。まさに『女だからクラゲが好きとは限らないという、まさにこの通りの会話です。 つまり……」 ここで言葉を切った。 「この女は氷上凛々子であり、繭の会の味方になったふりをしているのです。しかし実際にはまだ教団と戦う意志を持っている。だから我々に、さり気なく情報を伝えてくれたのです。天野敬介にしか理解できない形で、です! それを利用するのです。ご覧になったとおり、彼女は被告と精神的に絆で結ばれている。だから被告を潜入させるのです。 被告を潜入させて、外からの攻撃とタイミングを合わせて氷上凛々子に反乱を起こさせる。そうすれば今までの攻撃より大きな成果が出せます。 だから私は。被告人の無罪を主張します。 天野敬介は作戦を失敗させたが、現にこうして、新しい勝利の可能性をもたらしてくれているのですから。以上です」 検察側の席から、乾いた笑い声が聞こえてきた。 敬介が視線をやると、シェフィールドだ。 「検察側、主張はありますか?」 「あります。ありますとも、ははは、全くお話になりません」 サキが自分の席に戻り、入れ替わりにシェフィールドが発言台の前に立つ。 「ただいまの弁護人の主張は、まったくナンセンスなものです。まず根拠が薄弱です。人間の仕草から一定のメッセージを引き出すなど、強引な解釈を行えば容易なことです。聖書から大統領暗殺や世界滅亡の予言を読み取った、という類に過ぎません。 この広報部長とやらが氷上凛々子である、という主張からして怪しい。会話内容が一致した? 水族館での会話は、あくまで天野敬介の記憶にあるだけ。なんの裏づけもないのです。いくらでも、あとからつじつまを合わせることができます。 それに、仮にこのメッセージが事実としても、我々を誘うための罠だという可能性もあります。二重三重の憶測に基づいています。とても承認できません。 もう一つ、弁護側の主張には根本的な無理があります」 そこでシェフィールドは、壁際の裁判官席に座るロックウェルに身体を向けた。 「裁判長。検察がリー・シンチュアン軍曹を喚問します」 ドアが開き、リー軍曹が入ってきた。細面に陰鬱な表情を浮かべている。室内を軽く見渡し、敬介を見た瞬間だけ怒りに顔を歪めた。すぐに目を逸らして、発言台の前に立つ。 「リー軍曹、自分の姓名、階級、天野敬介との関係を述べてください」 「はい。リー・シンチュアン。階級は軍曹。殲滅機関日本支部作戦局、第十六小隊に所属します。小隊を構成する十六名のうち、八名を指揮していました。また先任軍曹として影山小隊長の補佐を行っていました。天野敬介の上官です」 「わかりました。ではリー軍曹。あなたは天野敬介と氷上凛々子の会話を耳にしています。二人の関係は親密なものでしたか?」 リー軍曹は即座に答えた。 「親密には思えませんでした。私は確かに氷上凛々子が天野敬介をデートに誘うところを見ました。しかし天野は恥ずかしがってそれをなんとか拒否しようと試みていました。最終的には承諾したのですが……」 「リー軍曹、それはいつのことですか?」 「はい、十二月二十九日の十九時過ぎです。私も訓練を終えてアパートに戻る途中だったので、よく憶えています。場所は相模原補給廠メインゲート前です。私以外にも多くの目撃者がいるはずです。時間に関しては私がゲートを通過した時間が記録されているはずです。 つまり、作戦の前日の時点ですら、デートをいやいや承諾する程度の関係だったんです。口からでまかせですよ、こいつの言うことは」 サキがハッとした表情で口を挟む。 「異議あり。後半はただの憶測、印象です。客観的な参考意見にはなりません」 どう反応するか。敬介はロックウェルのほうを見た。 ロックウェルは四角い顎に手を当て、鋭い目でサキを一瞥した。 「異議は認められない。二人が親密な関係であったか否か、記録が残されていない以上は関係者の証言によるしかない。検察側、弁論を続けよ」 今まで無表情だったシェフィールドが、薄い唇を笑みの形に歪めてうなずいた。わが意を得たり、という感じだ。胸を張って喋りだす。 「以上のことで明らかになったように、被告と氷上凛々子の間に密接・濃厚な絆など存在しなかった! よって天野を教団内に送り込む作戦は実効性がきわめて薄いと考えられます。 この計画とやらは死刑を免れようとする言い訳でしかありません。弁論は以上です」 シェフィールドはすでに勝利を確信した表情で一礼した。 陪審員は? 彼らの反応は? 敬介はシェフィールドの隣の陪審員席に目を走らせた。 心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。彼らは明るい表情で、しきりにうなずいていた。シェフィールドの説明で納得しているのだ。 気が気ではなかった。あの陪審員十二人のうち、たった七人が「リーの言うことはもっともだ」といえば自分の命運は尽きるのだ。 だからといって自分が反論するわけにもいかない。サキに熱い視線を送った。 頼みます、隊長……! その視線に気付いてか、サキは小さく笑顔を作ってうなずいた。 「弁論側、反論は?」 サキは諦めなかった。ロックウェルの威厳たっぷりの声を受け止め、立ち上がって発言台に向かった。 「みなさん、ただいまのリー軍曹の発言は、その場に居合わせただけの人間の、表面的な分析です。 たしかにリー軍曹に目撃された時点では、天野と氷上は仲がよかったとは言えません。しかし、次の日はずっと、任務の緊急招集が入るまで二人きりで過ごしたのです」 そこで言葉を切り、法廷内のすべての人々をゆっくりと見渡す。 「みなさんは異性と交際したことはありますか? あるはずです。結婚されている方もいるはずです。自分の胸に手を当てて、記憶を呼び覚ましてください。時 間だけが絆を育むのでしょうか? 短い時間のうちに印象が変わって、この人と一緒になろうと決めたことはありませんか?」 敬介にはわかった。サキはよどみなく喋っているが、不安に駆られている。視線が定まらず、空中を泳いでいる。冷房が効いているはずなのに額に汗が浮かんでいる。シェフィールドの落ち着き振りと比較すると動揺は明らかだ。 そのシェフィールドが声を上げた。静かに腕を上げ、サキを指さす。 「異議あり。根拠のない主観です。そもそも、あなたの経験はどうなんですか? 私の知った限りでは、あなたは独身で、交際男性もなく、今の歳まで任務一筋だったはずですが? そんな聞きかじりは参考になりませんね」 自分でも無理があると思っていたのか、サキは表情をこばわらせ、はっきりと身体をぐらつかせた。 ロックウェルまでもが、ギロリとサキを見て言葉を投げつける。 「弁護人は想像でなく事実を語るように」 「わかりました。主張を変えます。 みなさん、私はこれから事実を述べます。だから目を閉じて想像してください。何十年もの間、蒼血と人類の両方を敵に回して戦い続けてきた孤独な戦士のこ とを。そして、やっと安心して眠れる場所を手に入れたのです。我々殲滅機関の一員になれたのです。その時手助けをしてくれたのが天野敬介です。彼が、エル メセリオンと氷上凛々子は危険な存在ではないと証言したからです」 「意義あり! 一兵卒の証言が、機関の意志を左右するというのは常識的に考えられない。憶測だ」 「事実はその通りかもしれません、しかし問題は氷上の目から見てどうだったか、です。何十年も周囲を敵にする戦いの日々を送って、ようやく助けてくれた人……心ひかれたとしても不思議では無いはずです。リー軍曹の証言は覆しえます」 敬介は陪審員のほうを見た。彼らは曇った表情で小首をかしげている。 ダメだ。陪審員の心を動かすには足りない。 ため息をついた敬介。 だが、サキはまだ奥の手を用意していた。 「証拠を用意しました。技術局の三嶋礼一技術中尉を喚問します」 余裕綽綽だったシェフィールドが、はじめて目を見張る。 ドアが開き、法廷内に一人の男が入ってきた。小柄で痩せこけ、気弱そうな表情だ。技術局というだけあって全く軍人には見えない。 発言台の前に立った三嶋が、居心地の悪そうにうつむいた。サキが質問を浴びせる。 「上官に対し失礼します。氏名と階級、殲滅機関内での役職を言ってください」 「はい。三嶋礼一、階級は中尉、所属は日本支部の技術局です」 「答えてください、あなたは十二月ごろ、技術局でどういった任務に就かれていましたか?」 「氷上凛々子の頭に埋め込んだ爆弾の開発、および保守管理の責任者です」 おおっ、とどよめきが上がった。とっさに敬介が声の主を見る。 陪審員たちだ。 これはいけるかもしれない。敬介は期待をこめて拳を握った。 「では三嶋中尉、その爆弾の主な機能を説明してください」 「はい。外部からの起爆信号で爆発する機能、二十四時間にわたって機関を離れた場合のタイマーによる自爆機能。それから、蒼血が脳内から逃げ出したときに爆発する機能があります」 「その爆弾は、蒼血が脳から逃げ出すことをどうやって知るのですか?」 「脳波、脳電位の測定によってです」 「その脳波、脳電位は外部でモニターされていますね?」 「はい、バースト通信で定期的に外部に送信されています。エルメセリオンと氷上凛々子の共生関係に関するデータが欲しい、という研究上の理由もありました」 サキは力強くうなずいた。 「その脳波のデータを見せてください。裁判長、弁護側証拠物件2を提出します!」 三嶋中尉は陰気な顔で、発言台の上のリモコンを操作する。 またスクリーンが下りてきて照明が暗くなり、映像が映し出される。 今度の映像は、何かのグラフのようだった。黒い背景に格子状の目盛りが並び、赤と青の線が激しく波打っている。 「三嶋中尉、十二月三十日の午前十時から正午にかけてのデータをお願いします」 サキの言葉に応じて三嶋がリモコンを操作する。画面が切り替わって、また同じようなグラフが出てくる。 「この脳波グラフから読み取れることは何ですか? わかりやすく答えてください」 「はい。これは軽い興奮状態です。それも性的な興奮状態に似ています。ドーパミンの分泌量が高まっています。また、記憶をつかさどるという海馬にも明確な活性化が見られます。恋人のことなどを考えていると海馬の脳波が活発化するという説もあります」 「専門化の目から見て、氷上凛々子は恋愛常態か、またはそれに近い精神状態にあったと考えて良いですね?」 「断定はできませんが、一つの証拠にはなると思います」 「わかりまたし、弁論は以上です」 三嶋が発言台から離れようとする。と、すぐにシェフィールドが鋭く叫んだ。 「裁判長。反対尋問を行います。三嶋中尉、戻ってください。 そもそも、なぜ氷上凛々子の頭には爆弾が仕掛けられていたのでしょうか?」 三嶋はシェフィールドの冷たい声におびえたように一歩後ずさり、おずおずと口を開いた。 「いや、それはもちろん……裏切りを警戒してのことです。『裏切りの騎士』エルメセリオンは、蒼血だけでなく、殲滅機関と交戦したことも何度もあります」 「その通りです、では常識的に考えて、少しくらい恋愛感情があったからといって、自分の頭に爆弾を埋め込むほど信頼されていない相手を、メッセージを送っ て我々を助けようとするでしょうか? このメッセージとやらは妄想の産物に過ぎないか、あるいは殲滅機関を潰すための罠にすぎないのではと考えられます」 三嶋が陰気な顔をますます曇らせて絶句すると、シェフィールドは声のトーンを一段階上げた。 「百歩譲って、仮に二人の間に精神的な絆があったとしましょう。まさに氷上凛々子は天野個人を頼ってメッセージを送ってきたとしましょう。 それでも天野を教団に潜入させるのはまったくナンセンスだといわざるを得ません。天野はまさにあの戦いの現場で『姉さん!』と叫んでいます。殲滅機関と いう敵対組織の人間であることを、ヤークフィースは間違いなく知っている。必ず警戒されます。情報局で工作員を選んだほうがよほどマシです」 敬介は陪審員たちにまた目線を走らせた。彼らはみな納得した様子でうなずいた。 敬介は重苦しくため息をついた。口の中はカラカラに乾いている。 「裁判長!」 サキの凛とした声が法廷に響いた。その声に宿る強い情熱に驚いて、とっさに振り向いてサキを見た。 サキは微笑んだ。もう額に汗はない。まだまだ諦めていなかった。 「シェフィールド法務大尉の主張はもっともです。殲滅機関の人間であることを隠すことはできません。 よって隠しません。元々は殲滅機関だったが、改心して教団に帰依した、ということにするのです」 「そんな演技が通用するものですか」 「演技ではありません。天野敬介には、本当に信者になってもらうのです。 弁護側は証人を喚問します。情報局の梅原圭吾技術少尉です」 今度の証人は、三嶋とは打って変わって熊のように大柄だった。 「梅原圭吾です。階級は少尉。情報局で記憶操作第3班を指揮しています」 記憶操作班。ある意味では戦闘部隊以上に重要な部署だと言える。蒼血の存在を知った部外者に、片端から偽の記憶を植えつけるのだ。 「では梅原少尉。記憶操作の技術を用いて、天野敬介に別人格を植え付けることは可能ですね? 天野は敬虔な信者として教団内部に溶け込み、ある条件が整っ たときに真の人格が目覚めるのです。たとえば、二人きりで氷上凛々子に会った時であるとか。教団内部で一定の地位に達して自由に行動できるようになった時 とか。そういうふうに催眠でプログラムを組み込むことは可能ですね?」 すぐに梅原はうなずいた。 「はい、可能です」 即座にシェフィールドが反論する。 「証人、その催眠によるプラグラムはどの程度確実に作動するのですか?」 「いえ、それは……」 「答えてください。私は記憶操作の専門家ではありませんが、記憶操作が失敗した例は多数見てきています。たとえば天野敬介の姉である天野愛美も、蒼血に襲われたときの心的外傷を完全に払拭できない状態でした」 答えられずにいる梅原をシェフィールドは問い詰めた。 「専門家として率直に意見を述べてください。記憶の一部の消去ですら危険を伴うのですよ? まったく別の人格を埋め込んで、しかもそれが一定のスイッチで 消滅するように仕向けるなど、成功の確率はどの程度でしょうか? しかも教団内には人間の脳について我々以上の知見を有するフェイズ5蒼血がいるのです。 『神なき国の神』とまで言われたヤークフィースを騙しとおせる可能性があるでしょうか? 成功確率はどの程度で?」 梅原は先ほどの歯切れのよさはどこへやら、急に不安げな顔になって周囲の人々の顔色を窺う。専門家であればあるほど、不明な要素が大きくなって成功確率など断言できないのだ。 「さあ、答えられませんか? 答えられないならば、つまり先ほどの『可能です』も根拠のない、あてずっぽうということですね?」 「それは……つまり。成功確率は。1割か2割程度はあります」 「たったそれだけですか。同様の処置を、天野伍長ではなく普通の情報局員で行った場合はどうですか?」 「やはり1割か2割程度は期待できるかと……」 「ただいま明らかになったとおり、成功確率が低い上に、専門の情報局員を使ってもいい作戦です。わざわざ専門外の天野局長を送り込むことに何の意味もありません。以上、弁論を終わります」 敬介は陪審員たちの顔を見て絶望に震えた。 十二人の大半が、迷いのない笑顔を浮かべてうなずいている。まだ首をかしげているのは一人だけだ。 一体どうすればいい? どういう弁護戦術を取るかサキと話し合ったが、あのとき考えた作戦はここで終わりだった。 やっぱりダメだった。サキはたかが准尉。軍法の知識は最低限。専門の法務士官に勝てる道理がなかったのだ。 サキの表情をうかがう。さすがに眉間に皺を寄せていたが、体のこわばりはない。背筋をピンと伸ばし、顔を上げていた。敬介の視線に気付いたらしく、こちらに向かって笑顔を作った。 サキは息を大きく吸い込み、言った。 「裁判長。弁護側は天野敬介を喚問します」 え? 俺? ここから先のやりとりは打ち合わせにない。一体なにがどうなるのやら。 混乱しつつも発言台に立つ。 「天野敬介。あなたは何故、潜入作戦を提案したのですか?」 「え……それは。ただ死刑になるだけでは、殲滅機関に貢献できないからです。少しでも役に立つことで、私のした失敗を償おうと……」 「本当にそれは主な理由ですか? 姉と会いたい、という気持ちはありませんでしたか? あるいは一日だけとはいえ心が触れ合った、氷上凛々子と会いたいという気持ちは?」 驚いた。 なぜ、こんなことを訊く? あくまで殲滅機関に尽くしたい、で押し切ったほうがいいじゃないか。私的な目的だとバラしてしまったら陪審員だって心証を悪くするだろう? 質問の意図を知りたくてサキの顔をじっと見つめる。いまのサキは、さきほどの笑顔も顔面から追い払い、真面目そのものの……気迫のこもった顔で敬介を見つめ返してきた。 ……正直に答えないといけないのかな。 「はい。そんな気持ちもあります」 「なぜ姉や氷上凛々子と会いたいのですか? あなたは今まで、殲滅機関という組織に身も心も尽くしてきた。その組織に逆らってまで、なぜ会いたがるのですか? やはりあなたは、検察側の主張するとおりの欠陥兵士なのですか?」 「意義あり。裁判に関係の無い質問です!」 シェフィールドが鋭い声を浴びせてくる。 「いいえ、関係があります。裁判長、許可を」 「いいだろう」 「ありがとうございます。さあ、なぜ会いたいのですか?」 「それは……」 法廷を見回す。 ロックウェルがゲジゲジ眉をハの字にして腕を組んでいた。シェフィールドが眼鏡のレンズを光らせ、酷薄な笑みを浮かべていた。サキが真剣な眼差しで敬介の目を覗き込んでいた。陪審員たち十二名も、みな興味にあふれた顔つきで敬介を凝視していた。 底知れない不安に襲われた。肩や膝が震えだす。 死刑になる恐怖とも、裁かれる恐怖とも違う。 ……心を剥き出しにされる恐怖。 だが、ここは正直に答えるしかない。 よく考えたら、どうせ記憶操作を受けるときには心の中の事をすべて探られる。いまウソをついたところですぐにばれるのだ。 「私は……姉のことが好きでした。 子どもの頃から……姉に育てられてきました。父と母を早くに失って……姉が私の親でした。そして、その姉がある日、蒼血に侵されたのです。 姉の仇を討ちたかった。 だから殲滅機関に入って、今までずっと戦ってきたのです。 姉は……私にとって……」 そこで言葉に詰まった。 自分の足元の床の感覚がすっと消えていく。頭の中に姉との思い出のすべてが、次々に蘇っていく。 ……ごめんね、母さんみたいになれなくて。 ……友達が馬鹿にする? うちが貧乏だから? 今度その友達連れてきて。どんな高級店にも負けないようなお菓子を作って、二度とそんなこと言えないようにしてあげるから。 ……うれしい けいすけが ふつうのひとに なってくれて ……やめてえ! かみさまを! いじめないでぇ! 目頭が熱くなった。こんな場所で泣いて、弱い心を見せるのが恥ずかしい。あわてて目を閉じたが、押さえ切れない涙が溢れ出した。袖で拭ったが、またすぐに溢れる。頬を伝っていく。 もう仕方ない。この涙を止めることはできない。 目を見開いた。視界は涙で滲んでいる。前方にはシェフィールドとロックウェルがいるが、その表情がよく見えない。 ぼやけた視界の中で、途切れ途切れに語りだした。 「私にとって……姉は、長いこと、すべてでした。だからあの場で取り乱してしまったのです。いまでも、姉への気持ちはなくなっていません……」 泣きじゃくりながら、喋り続けた。 「このまま終わりたくない、会いたいんです。会いたい人がいるんです。自分が悪くないと言っているわけじゃない……」 「最後に一つだけ。あなたは自分が死刑になることについてどう思いますか?」 怖かったはずだった。独房の中で、今日こそ来るかとおびえていたはずだった。それなのに即座に否定の言葉が飛び出した。 「俺は……私は……死刑が怖いとは思いません」 ほう、と感嘆の声がどこからか聞こえてきた。シェフィールドやロックウェルの声ではない。陪審員の誰かだろうか。 「でも! その前にやりたいことがあるんです! ただ何もできず死刑になるのではなくて……自分の大切な人の顔をせめて一目みて……死にたいと……それはおかしいですか! おかしいことですかっ!」 「以上の答弁をお聞きになってわかったでしょうが、被告は殲滅機関への忠誠心も、蒼血への怒りも忘れていません。自分の命を捨てても構わないと言っている のです。私はこう主張します。同じ死ぬなら、せめて役に立ててから死なせるべきではないか。作戦の成功確率が低いことは、このさい問題ではありません。 100パーセント無意味に死ぬか、一割二割でも役に立てる可能性があるか、ということです。弁護側からは以上です」 「異議あり。異常な主張です。裁判の原則を無視している。当初の無罪主張はどこにいったのですか。話をすり替えている」 シェフィールドが声をあげるが、サキは眉一つ動かさず、あっさりと切り返した。 「シェフィールド法務大尉。あなたは以前、私に言ったはずだ。『軍事組織の法運用は、組織の戦闘能力に寄与することが目的で、そのためなら原則を曲げても良いんだ』と。だから私も曲げさせてもらいました」 「なっ……」 シェフィールドが驚愕の声を上げる。 敬介も、「これは詭弁だろう」と思わずにいられない。 「検察側、反対尋問はあるか?」 シェフィールドが即座に、「はい!」と叫ぶ。 冷静さをかなぐり捨て、厳しい声を敬介にぶつけてきた。 「天野敬介。ならば問いますよ。 弁護人は『わずかでも殲滅機関に役に立つ形で死なせない』と言いました。しかし私は、あなたの潜入が機関にとって役に立つどころかマイナスであると懸念 します。教団内であなたが本来の人格を取り戻したとき、作戦を遂行するという保証がない。そこで教団側についてしまう可能性が高い。絶対にそうしない、と いう保証は何かあるのですか?」 「それは私が……」 サキの言葉を、シェフィールドが片手を振り上げて遮る。 「私は天野敬介に訊いているのです。どうなのですか、天野? すでに大きな背信行為をした人間を、どうやって信頼しろと? 私には潜入作戦というのは逃げ出すための口実にしか思えません!」 ……確かに……それは…… 敬介は絶句した。この問いに答えるのは難しい。今回は頭に爆弾を入れるわけにもいかない。策略の存在が教団側にバレては潜入の意味がない。 何か方法はないか…… ジャージの袖で涙を拭った。シェフィールドの冷たく光る青い目を見つめ、なんとか言葉を搾り出した。 「絶対に寝返らないように、記憶操作でプログラムを頭に書き込んでもらうのはどうでしょう」 「エルメセリオンは脳をいじれるから、そのプログラムを解除できます。意味がありません」 「この場で自分の身体を切り裂いて、殲滅機関への忠誠心を示します」 シェフィールドは大げさに肩をすくめた。 「ナンセンスです。死刑を逃れるためなら、そんなパフォーマンスはいくらでもできる」 くちごもっていると、シェフィールドは追い討ちをかけてきた。 「言っておきますが、影山准尉に証言してもらっても無駄です。げんに彼女は天野が今回の事件を起こすことを予期できなかった。そんな人間が太鼓判を押しても信頼できません」 「たとえば、そう……エルメセリオンでも解除できないように、殲滅機関を裏切ろうと考えた段階でプログラムが作動し、自殺するようにする」 「そこまで高度で確実に作動するプログラムは作れますかね? 人格を一つ埋め込むだけでも成功率が低いというのに? 専門家を喚問し確認しましょう」 「それは……」 口ごもった。もちろん『自殺プログラム』など思い付きに過ぎない。本当に専門家を呼ばれたらボロが出ること確実だ。 「もう反論はできないのですね? やはり、逃げ出すための口実に過ぎないと……」 最後の手だ。これで押し通すしかない。シェフィールドの言葉を遮って大声を出した。 「逃げたらどうだって言うんです?」 シェフィールドが絶句する。敬介は発言台の天板に両手を突き、身を乗り出して、矢継ぎ早に言葉を繰り出した。 「最初から教団を攻撃する計画はあったんですよね? 俺の潜入で攻撃が有利になるかもしれないってだけで。だったら、俺が裏切ったらそのまま教団攻撃を実 行して俺を殺してしまえばいい。俺が裏切ってもなんのデメリットもない。何の特別な能力もない俺一人が向こうについたって、殲滅機関はそれで負けるんです か!」 「ま、待ってください」 ようやくシェフィールドが反駁した。 「つまり貴方は、潜入作戦に成功しても死刑でいい、失敗しても死刑でいい、とにかく死刑でいいから、ただ送り込んでくれと……? まるで処刑の前にタバコを吸わせてくれという、その次元の話だというんですか?」 「そうです!」 目を逸らさずに言い切った。シェフィールドは血色の悪い顔をこわばらせ、しばらく敬介と視線を合わせていたが、やがて目線を下に落とす。 「……反対尋問は以上です」 そこでロックウェルが問うた。 「検察側、弁護側、主張は終えたか?」 「はい」 サキが小さくうなずく。 「はい。もうありません」 シェフィールドは苦々しい顔つきで答える。 「検察側も全ての弁論を終えました」 ロックウェルは法廷の全員をゆっくりと見渡す。驚いたことに、岩のように厳つい彼の顔に苦笑が滲んでいた。 「では陪審員諸君。評決をお願いする。シェフィールド大尉が述べたとおり、予断や憶測、法廷外で聞きかじった知識によらず、今この場で明らかになった事実に基づいて判断して欲しい。 では被告、検察、弁護側は退室、評決があるまで別室で待機せよ。起立」 全員が立って、姿勢を正す。 19 二時間後 殲滅機関日本支部法廷 付属待機所 陪審員の意見が出るまで、ひたすら別室で待機させられた。 室内にソファーとテーブルが並び、テーブルの上にはトレーが並び、食べ物や飲み物が置かれている。 天井も法廷同様、身長の二倍。 いぜんテレビドラマでみたホテルのラウンジになんとなく似ている、と思った。曲の種類は全く分からないが、落ち着いたピアノ曲がどこかのスピーカーから流れている。 少しでもリラックしてもらおうという意図があるのか? だが…… 「どうした、飲まないのか?」 テーブルを挟んで座っているサキが、アメリカンコーヒーを入ったマグカップを持ち上げて言う。マグカップのとなりにはベーコンレタスサンドイッチがあるが、こちらもまったくの手付かずだ。 「いえ、結構ですよ」 「すっかり冷めて……もったいないじゃないか。取り替えさせよう」 「いいですって……リラックスできるわけないでしょう。味なんて分からない」 思わず、呆れた声が出てしまう。 なにしろ、待機室のドアにはいまだ憲兵が二人立っているのだから。 そして、これから判決が出るのだから。 主張が認められようが認められまいが死あるのみ、という判決。 「これから死ぬからこそ、わずかな時間を楽しめ。私はいつもそうしている。出撃のたびに、死の危険はあるのだから」 サキはすでに食事を終え、テーブルの上にトレイから、小分けにされたクッキーを取って食べている。 「理屈ではわかっていますけどね……」 それでも、戦闘で死ぬのと死刑になるのは違う。自分はもう、死亡率百パーセントの道に足を踏み入れたのだ。そのことを考えると胃袋がギュッと締め付けられる。体の芯に冷たいものが走り抜ける。 「彼なんかは、ある意味天野よりも辛いかもしれないぞ」 そう言って片手を振って、隣のテーブルを示した。 敬介は手を振ったとおりに目線で追いかけて、げっ、と声を漏らす。 隣のテーブルにはシェフィールドがいて、姿勢正しくソファに腰掛け、立派な装丁の英語の本を読んでいた。テーブルの上にはダイエットシュガーの入った小皿と、ミルクティーの入ったカップ。 「死刑を突きつけた同じ部屋にいて、あんな澄ました顔で茶を飲んで……並大抵の神経じゃない」 そういわれてシェフィールドは本をテーブルに置き、サキたちに向き直った。 「皮肉ですか? 貴方達と比べれば私の神経など細いものです。これほどデタラメで、法を侮辱した軍法会議は初めてですよ」 「私達も必死なのだ、ということです」 「生きのびることに必死、ですか?」 「いいえ。蒼血を倒すことに、です」 「どうだか……」 不信感も露にシェフィールドが顔をゆがめて、また本を読み始める。 と、その時、ドアが開いて憲兵がもう一人室内に足を踏み入れた。 「評決に達しました。法廷に戻ってください」 20 敬介、サキ、シェフィールドは法廷のそれぞれに位置についた。 陪審員達の代表は、まったく特徴がなく顔を覚えづらい、まさに情報局員にうってつけの中年男だった。彼が書類を持ってロックウェルのもとに歩み寄り、書類を手渡した。 ロックウェルは毛虫のように太い眉をへの字にして読み上げた。 「陪審団は、第六条『命令の遵守』第十二条『戦闘拒否の禁止』に違反した容疑について、有罪を宣告する。 ただし検察側主張の死刑を退け、殲滅機関全体の利益のために、天野敬介に『繭の会』への潜入を命ずる。この際には記憶操作技術により偽装人格が植えつけ られる。なお、潜入作戦の成功失敗を問わず、作戦終了後には天野敬介は予定通り死刑に処される。また殲滅機関は作戦中の天野敬介の身体生命を保護しない。 作戦において排除が必要と判断した場合、ためらいなく排除が行われる。 西暦二〇〇八年二月十五日。 これをもって当軍法会議は閉廷となる。一同、起立」 敬介は立ち上がった。拳を硬く握った。 これでよかったはずだ。これ以上の結末はありえなかった。少なくとも一度、姉や凛々子と会う機会を作れた。 それなのに、なぜ拳の震えが止まらないのか…… (以下作成中) 分割版の続きへ |