ブラッドファイト 
 
『蒼血殲滅機関』戦闘録

 分割5

 21

 二〇〇八年三月一日  夜
 『繭の会』総本部

 敬介は、気がつくと豪華な部屋にいた。ソファとガラステーブルの置かれたダイニングルームだ。
 靴の裏に、毛足の長い柔らかな絨毯を感じる。乳白色の間接照明で照らされた天井はジャンプしても届かないほどに高い。大きな窓の外に夜景が見える。ここ は二十階かそこらの高層階のようだ。東京中心部が一望できる。他にも高層のビルが何軒か窓を光らせている。。
 そして大きなガラス机の向こうには、豊満極まりない乳房をビジネススーツに押し込んだ、派手な顔立ちの美人……教団広報部長が座っていた。
 とろんと潤んだ目で敬介を見上げて、こう言った。
「お座りなさいな、信徒天野」
 頭を強烈な眩暈が襲った。
 なんだ? なにがどうなっている?
 いま、どうして俺はここにいるんだ?
 冷たい汗で濡れた手を顎に当てる。思い出そうとする。自分は殲滅機関の……死刑判決が出て……
 頭の中で一気に記憶が弾けた。この一月ばかりに起こったことが全部まとめて再生された。体中に冷や汗が吹き出した。ありったけの意志力を動員して表情筋 を黙らせた。
 そうだ、俺は教団に潜入したんだ。
 偽の人格はうまく機能した。教団に入った俺は、過去の経歴を生かして警備担当になった。ヤークフィースは、俺が殲滅機関の人間だということをわかった上 で取り立ててくれた。
 いま俺がいるのは、新しい教団本部。老朽化した都心のホテルをまるごと買い取ったものだ。
 いま、この女と二人きりになったから擬似人格が解除されたんだ。
 そして俺はいま、来週の教団儀式について話し合いをするために広報担当に呼び出された。
「はい」
 そう答えて、ソファに座った。
 表情に出てないよな? 大丈夫だよな?
 手のひらが汗でベタベタだ。硬く握ってひざの上に置く。
 エルメセリオンは信用されてない、きっと、この部屋にも監視カメラの類があるはずだ。俺が記憶を取り戻したことを口には出せない。瞬きで伝えるのにも危 険だろう。同じ手が何度も民度見逃されるとは思えない。    
「あなたに来てもらったのは、来週の『覚醒の儀』の警備体制についてうかがいたいから。せっかく歌手の方が何人も信徒になっているというのに、なぜ歌のイ ベントに二百人しか入れることができないの?」
  今度は、わざわざ思い出そうとするまでもなく対応できた。
「その件についてはすでに申し上げたはずです。会場が狭すぎて危険なのです。われら信徒は、あまりに熱狂的であるため……広報部長は警備部の苦労をまった く分かってくださらない」
 何気ない対応をしつつ、手を伸ばして広報部長の手を取ろうとした。
 ほんの少しでも手を握って、掌を突いてモールス信号で伝えるつもりだ。
 だが手が触れた瞬間、掌にチクリと痛みが走った。痛みは冷たさに変わって腕の中に潜りこみ、一瞬で肩を越え、首の上まで駆け上がった。今までの人生で一 度も感じたことがない異様な感覚だ。体が反射的に強張った。
 頭の中に澄んだ可愛らしい声が響いてきた。
『ああ! やっとか! 長かったよ敬介くん。長すぎだよー! もう、待ちくたびれちゃったよ!』
 懐かしい凛々子の声だ。
 明らかに鼓膜ではなく、頭に直接声が届いている。ありえない現象に悲鳴を上げそうになった。空いているほうの手を口に当てて、なんとか声を押さえつけ た。
『びっくりしちゃった? ごめんごめん……でもさ、蒼血にこういう能力があるのは知ってたでしょ?』
 もちろん知っていた。いま凛々子は、自分の神経を相手の体内に伸ばして脳まで繋げたのだ。こうすれば思考を直接やりとりすることができる。相手の体をコ ントロールすることも可能だ。
 敬介は何か言おうと、頭の中で台詞を組み立てる。
『俺が記憶を取り戻したって……俺が何かする前から気づいたのか?』
『当然だよ。部屋に入ってくるなり、いきなりクラクラッとなるんだもん。なにか殲滅機関の人たちに処置をされてるんだろうな、っていうのは想像していたわ け。やっぱりなって感じ。それにね、敬介くん、人格が変わると顔つきが変わっちゃってるんだよ。人間観察の経験が豊富ならわかるよ』
『そうか、お前も気づいたんじゃ、ヤークフィースの奴も……』
『すぐにバレるだろうねえ……』
『そうか、それなら今しかないな。なあ、俺が送り込まれた目的というのは……』
『力を合わせて、教団に内乱を起こせって言うんでしょ? だいたい想像できるよ。でもね、難しいんだ。ほら、ボクは首だけになっちゃったじゃない? この 体はね、ヤークフィースがくれたものなんだ。体の中にあいつの側近が入って、ボクを二十四時間監視してるんだ。こうやって声に出さずにしゃべっていればバ レないと思うけど……でも、怪しいことをしたら、首から下のコントロールを取られる。内乱なんて起こせないよ』
 そこまで言ったところで、凛々子が敬介の手を離した。肉声に切り替えた。
「警備の苦労、ですか……」
 そこで悩ましげに微笑み、足を組んだ。
「我らが教団を大きくすることと、どちらが重要だというのでしょうか……?」
 ああ、そうか。あまり黙っていると怪しまれる。声に出しての会話もやらないと。
 そう気づいた敬介は、なんとか話をつなげようとした。
「大きな事故が起こってしまってからでは遅いのです。教団を襲う勢力もあります」
「つまり計画の変更はできないということですね? わかりました、残念ですが仕方ありません。下がりなさい。これからも教団のために尽力なさい」
 そう言って、また手を握ってきた。
 たまらず、強く台詞を念ずる。
『なんとか監視の目が緩む瞬間はないのか?』
『難しいねえ。一体だけなら気が緩むこともあると思うけど、二体いるからねえ。難しいよ。あえて言うなら……攻撃を受ける瞬間かな?』
『え?』 
『この教団が、殲滅機関に攻撃されて、ヤークフィースの命が危うい状態になったら、ボクの監視どころじゃなくなるかも。主を守りたいって気持ちが一番強い はずだもんね。チャンスを待つよ。まあ、そんなことより』
 そこで思考の伝達を一度切って、凛々子は敬介のことをまっすぐに見つめてきた。
 いまの凛々子は、体型といい顔立ちといいまるで別人になっている。それなのに、目を見た瞬間にわかった。
 ああ、やっぱりこいつは凛々子なのだと。
 いつの間にか、蕩けるような熱っぽく、妙に焦点の合わない目つきをやめている。
 澄んだ目、強い意志を宿した目になっている。
 思わず敬介が見つめ返したとき、一言だけ思考言語を送ってきた。
『それより。ありがとね、会いたかったよ』
 たったそれだけの言葉が、敬介の胸に深く染み渡った。体の奥のほうがぎゅっと締め付けられたようなうれしさが襲ってくる。
 目頭が熱くなったのに気づいて、いそいで凛々子の手を振りほどいた。立ち上がった。
「では失礼します」
 できる限り感情を殺した声で言って、退室した。
 元がホテルだっただけのことはあり、廊下は幅広く、各所に絵が飾られて高級感にあふれている。いぜん作戦で訪れた、長野の富豪の屋敷と比較しても遜色な いほどだ。
 壁にもたれかかり、嘆息する。
「はあ……」
 落ち着け。
 自分にそう言い聞かせる。
 これは潜入作戦なんだ。凛々子に会ったからといって終わりでもなんでもない。これからなんだ、これから……
 わかってはいるが、それでも嬉しい。
 そうだ、姉もいる。姉はもと同人作家のスキルを生かして広報部に所属、教団PR誌の製作に関わっている。あとで姉に会いに行こう。
 などと考えた瞬間、すぐ近くのエレベーターのドアが開いた。スーツ姿の男女数人が吐き出される。その中に姉の愛美がいた。
「あ、敬介」
 すぐに敬介に明るい声をかけて走り寄ってきた。
 愛美はほっそりした体を地味なスーツに包んでいる。顔も化粧がほとんどないが、そんなもの必要ないほどに若々しい表情で、明るい笑顔を向けてきた。
 敬介は両手の指を組んで『繭の印』を形づくる。
「……こんばんわ姉さん。『我ら弱き心の人の子が、健やかに繭から羽ばたけますように』」
「うん。『羽ばたけますように』敬介なんて言っちゃだめかな。もう警備の偉い人だもんね、第三隊長だっけかな?」
「あ、ああ……姉さんこそ……すごいじゃないか……たしか……こないだの雑誌に4コマを描いて……」
「大したこと無いよ、もっと実績ある漫画家さんがたくさんいるのに……あ、紹介するね敬介。こちらの方が、週刊少年マンデーに連載していた藤原フミカ先 生。こっちの人がヤングファンの菅野ケンヂ先生。それからこっちの……」
 連れていた人たちのことを紹介してくれる。マンガを読む趣味のない敬介だが、それでも名前くらいは聞いたことがある売れっ子だ。
「みんな、繭様とともに歩む道を選んでくれたの!」
「それはすごい……」
 思わず感嘆せずにはいられない。「神の使い・繭」が降臨した場所がコミックマーケットだけあって、信徒には漫画家やイラストレーターが多い。アマチュア の漫画家志望を含めれば何千人という数になり、宣伝担当には事欠かない。だが、ここまで一般に人気のある漫画家が入信したとなると世間へのアピール力もだ いぶ変わってくる。
 真奈美は祈るように胸元で手を合わせ、熱く語りだす。
「あのね、この先生方がみんなで、普通のPR誌とは別に、繭様の考えと世界観を伝えるための漫画雑誌を作らないかっていってくれたの。だから広報部長に話 を通しておきたくて……」
 数人の漫画家のうち一人、がっしりした体格で髪を後ろでまとめた男が、柔らかな笑みを浮かべて口を挟む。
「先生方、なんて言い方はやめてください。私たちはみんな同格です。同じ『心弱き者』。『繭様の導きを待つ者』です。人間世界の社会的地位など無価値なも のだと、繭様が教えてくださったじゃありませんか」
「そうですね……私……まだ繭様の教えの勉強が足りなかったみたい」
 さも恥ずかしそうに目を伏せる姉。だが口元は緩んでいる。目がわずかに潤んでいるのもわかった。恥ずかしくて泣いているのではない。信仰で繋がった仲間 がいることが嬉しくて泣いているのだ。
 姉さんは、幸せなんだ。心から。長い長い闇からようやく解放されたのだ。
 敬介はそう心の中で呟いた。自然と自分の顔も緩む。
 その瞬間、「それ」が来た。脳のどこかでパチリとジグソーパズルがはまった。姉の柔らかな微笑を、自分が今ここに立っているということを、まったく違っ た意味に感じた。杯の絵だと思っていたものが、「向かい合った二つの顔」だと気づいてしまった瞬間のように。
 恐怖が押し寄せた。寒気が背筋を駆け上り、鳥肌がズボンの下を覆った。筋肉という筋肉が小刻みに痙攣した。耳の奥で鼓動が騒ぎ立てていた。
「どうしたの? 敬介。顔色が悪いわよ?」
「ご、ごめん姉さん! ちょっとトイレ!」
 きっと死人のような顔色なのだろう。こんな顔を姉さんに見せたくない。廊下を駆けて、近くのトイレに逃げ込んだ。
 洗面台の大きな鏡で自分の顔を見る。やはり顔面は蒼白、おまけに恐怖にこわばって、目には涙すら浮かんでいた。もう耐えられなかった。豪華な洗面台の縁 をつかんで、倒れこもうとする体を何とか支えて、泣き出した。口元を片方の手できつくふさいで、声が漏れるのを防いだ。だが冷たく気持ちの悪い涙が止めど もなくあふれ出して頬をぬらしていく。
 ……気づいてしまった。
 ……俺は馬鹿だ。こんな簡単なことになんで気づかなかったんだろう。
 ……姉さんは今、幸せなんだ。長い間得られなかった幸せ、俺の力ではプレゼントできなかった幸せを、教団に入ることによって得たんだ。この十年間で、姉 があんな屈託なく笑ったことが何度あったか。
 ……それを、俺は壊そうとしている。教団を裏切って、殲滅しようとしている。
 ……そんなことしちゃいけないんだ。姉が大事ならば。潜入任務のことなんて忘れて、教団のために力を尽くすべきなんだ。むしろ殲滅機関なんて叩き潰すべ きなんだ。
 ……俺は何もわかっていなかった。「自分が死刑になる」なんてのはどうだっていいことだったんだ。
 ……本当に大事なことについて、何も覚悟していなかった。
「凛々子……」
 震える声が唇から漏れた。
「お前は……これが言いたかったんだな……」
 電車の中で言われた台詞が脳裏でよみがえり、いまの敬介を鋭く刺す。
 姉さんにとって幸せとは何か。自分は本当は何がやりたいのか。
 それを突き詰めて考えずにいたからだ。蒼血や裁判という、目の前の敵だけを見ていたからだ。 

 22
 
 次の日 夜
 「繭の会」本部 嵩宮繭の部屋
 
 その日、敬介は繭に呼び出された。
 いったい何の用で。バレたのか。俺が潜入した目的が。
 ドアをノックして、しばらく待つ。反応がない。
「入ります、繭様」
 ドアを開けて室内に入った敬介は驚愕した。
 なんだ、この部屋は。
 魔方陣や曼荼羅に埋め尽くされた「いかにも教祖」という部屋を想像していた。
 だが部屋にそんなオカルト的なものは一切ない。
 広い部屋を、トラックほどの長さがある巨大な机が埋め尽くしていた。その巨大机の上に、見上げるほどの本の山が二つ築かれていた。何千冊あるだろうか。 文庫本もある。ノベルスもある。ハードカバーの外国語の本もある。週刊誌もある。政治団体や宗教団体の機関紙もあった。漫画雑誌すら積まれていた。
 その二つの本の山の間に、嵩宮繭……長い黒髪の少女が座って本を読んでいた。和人形のように気品ある整った容姿。たしかに顔の造作は少女の幼さを残して いるのに、恐ろしいほどの威厳が伝わってくる。ただそこに座っているだけで敬介は威圧され、背筋が自然に伸びた。繭は長い睫に縁取られた切れ長の目を、手 にしたハードカバーに向けていた。しなやかな指がすばやく動いて、フィルムを何十倍に早回しにしたようなスピードでページをめくっていく。
 たちまちハードカバーを読み終わってしまうと、立ち上がって山の片方に積んだ。もう片方の山から『季刊 政治討論』と書かれた本を取って、また異常な高 速度で読み始めた。
 気づいた。山が二つあるのは、片方が読み終わった本、もう片方がこれから読む本、ということではないか。もう数百冊はぶっ続けで読んでいることになる。
「あの……繭様?」
 声をかけると、繭はようやく顔を上げ、本を机の上に伏せた。座ったまま微笑み、軽く会釈した。その控えめな笑顔がまた、ぞっとするほどに美しい。
「あ、ごめんなさい。すっかり夢中になって」
 繭は毎日数時間、「奇蹟を授ける」と称して、教団を訪れる病人・怪我人を奇跡の力で癒している。それ以外の時間はずっと自分の部屋にこもっている。
 何をやっているのかまったく知らなかった。これだけの本を読んでいたとは。
「大変な読書家でいらっしゃるんですね」
「ええ、弱き人類を導き救うため、世界のあらゆることを知らなければいけないので。一晩でざっと千冊は読んで覚えますよ。
 ああ、そんなことより」
「私のような若輩に、不勉強な信徒に、いったい何の御用で?」
「かしこまらなくて構いませんよ。わたし、全て知っておりますから。あなたが昨日、本来の人格に戻ったことも。この教団に少しでも内乱を起こすため潜入し たことも」
 バレた場合、どんな行動をとるか、すでに決めていた。相手がすぐにでも自分を殺そうとするなら、その前に少しでもダメージを与えて死ぬ。できるだけ目立 つやり方で、教団に一太刀でも浴びせて死ぬ。相手が自分を殺さずにいるなら、たとえどんな卑屈な土下座でもしてだまそうと試みる、そして決定的なダメージ を与えられる瞬間を待つのだ。
「あ、ここで暴れても駄目ですよ」
 繭が軽く手を振った。敬介の手足を目に見えない何かが四方から押さえつけた。「気をつけ」の体勢のまま、少しも動くことができない。渾身の力でもがく と、見えなく鋭い何かが腕に食い込んだ。服を裂き、肉に食い込んだ。
「糸……!?」
 目に見えないほど細く頑強な糸だ。
「そうです。こんな簡単なものでも、みんな意外と奇跡と思ってくれるものです。宙に浮いたり、便利に使えます。いま暴れても無駄だってわかっていただけま したら、糸は解きます」
 いくら目を凝らしても、体を縛っている糸を見ることはできなかった。肉眼では見えない細さなのだ。それ以上に恐ろしいのは、一瞬で糸を操った力。
 確かに無駄だ。いま抵抗しても髪の毛一筋ほどの傷をつけることもできず殺されるだろう。
 抵抗をあきらめた瞬間、まだ何も口に出していないのに繭は小さくうなずいた。
「わかっていただければいいのです」
 指を一本、軽く振るった。それだけで敬介は束縛から解放された。
「お怪我は大丈夫ですか? 動脈は無事のようですが……」
「触らないでください。治療はいりません!」
 思わず声を荒げてしまった。怒りではなく恐怖のためだ。繭にキスをされたら頭だって乗っ取られるかもしれない。
「残念ですね、そんなに警戒して……あのですね、わたし、天野さんを殺すつもりなんて全くないんです。
 ただ、提案がしたいのです。
 天野敬介さん。潜入のことなんて忘れて、殲滅機関なんて見捨てて、身も心も教団に捧げつくしませんか?
 お姉さんも、きっとそれを望んでいますよ」
 繭の声は決して大きくなかった。むしろ控えめなその声が、魔法の呪文のように耳に突き刺さり胸をえぐった。脳天を殴りつけられたような衝撃に、敬介はふ らついた。
 すべて見透かされた。
「ええ。見透かしています。昨日、やっと気づいたんですよね。他の方から警告されませんでした? 『姉の本当の幸せが何なのか、ちゃんと考えないと大変な ことになる』って。もっと早く気づけばよかったって、泣きましたよね?」
 そんなことまで当てるのか。驚きをこめて、汗ばんだ手を握り締めた。
「あ、テレパシーではありませんよ。蒼血といえど、そこまでの力はありません。でも分かるのです。長年の経験で。その人の微妙な仕草、表情や声のトーンの 変化で。その人がどこで本当に大切にしているものは何か、どこで嘘をついているか読めてしまうんです。わたしは色々な人間を見てきましたから」
「それで……その力で……ソビエトの要人を操ったのか」
 喉がカラカラで、いがらっぽい声しか出なかった。
 心から実感した。凛々子の時にはピンと来なかったが……フェイズ5の蒼血は人智を超えた怪物なのだ。たとえあどけない少女の姿をしていてもだ。
「まあ、一言で言えばそういうことです。私の前に、隠し通せる秘密はありませんでした。さて天野さん、お返事はいかがですか?」
 こいつは俺の心をすべて読めるのだ。だから形で「はい」と言っても仕方がない。
 もう、どうにでもなれと、吐き捨てた。
「いやだ」
「なぜでしょう?」
 細い眉毛をこころもち下げて、繭は首をかしげる。
「決まっている。お前たちは人間を騙して、殺してるからだ!」
「そうですね。これからだって騙します。大勢殺しますよ。生存を賭けた闘争ですから。手段を選んでいられません。でも、そんなこと天野さんにとって重要で すか? 赤の他人の生命と、お姉さんの幸福とどちらが大切なのですか? 決まっていますよね、お姉さんが天野さんの全てだからこそ、あの時パニックになっ てしまったんですよね? もう答えはひとつしかないじゃありませんか」
「駄目だ。お前たちの目的は分かっている。今は平和に宗教なんか作っても……仲間を増やして、人間の体を乗っ取っていく。それが本当の目的だ。姉さんだっ てお前たちが頭に入り込んで、自分では何も考えられないようになるんだ。そんなのを認めてたまるか。絶対に駄目だッ」
 なぜだか大声になった。額に噴きだした冷や汗をスーツの袖でぬぐった。
「たしかにわたしたちは人間を宿主にします。でも、今はまだまだ数が少ないんですよ? 殲滅機関も正確な数字は把握していないでしょうから、お教えしま す。いま日本に生息する蒼血は、だいたい1300。全世界で6万3000体です。たったそれだけですよ? すでに教団の信徒は七十万人を超えています。す べての蒼血が日本に集まっても余裕たっぷりです。七十万体まで増えるのに何年かかることか。その間に信徒もさらに増えますからね。お姉さんの体をお借りす るのは当分先の話です。それまでの間、お姉さんは自由です。どうですか、天野さん」
「それでも駄目だ。お前たちの企みがずっとうまく行くわけがない。殲滅機関はちゃんと教団の襲撃計画を練っている。ここに蒼血が何体いるか知らないが、 きっと総力攻撃をかければ潰せる。お前たちに未来なんてないんだ。誰が協力するかっ」
 また声を荒げてしまった。また額の汗をぬぐった。部屋の中はひんやりとして、セーターを着たくなるほどの気温なのに汗が止まらない。
「騙されないぞ。お前たちは……神様なんかじゃない。支配種族なんかじゃない。薄汚いアメーバだ」
 あの五年前の冬の日、はじめて蒼血を見たときのことを思い出そうとした。あの時、体が生理的に嫌悪に震えた。
「焦っていますね? 内心では、わたしの言葉に魅力を感じているんでしょう?
 そうですね……たとえ話をしましょうか。
 これ、この1000円札ですが」
 そう言って繭が手を掲げると、細い手のひらの中に1000円札が出現した。一体どこから持ってきたのか、取り出す仕草などまったく見えなかった。
「これ、何だと思いますか?」
「金だろう」
「違います。これは紙切れです。和紙ですよ。物質的には、この世の実在としては、塵紙の仲間でしかありません。けれど、これはお弁当と交換できます。たく さん集めると車や家だって買うことができます。少し凝っているだけの和紙が、お弁当や自動車と同じ価値がある……何の役に立つものでもないのに。これほど の非合理はないのですよ。でも、実際にお金は使えます。『これはお金だ』『物と交換できるんだ』『そういう力があるんだ』って、みんなが思っているからで す。その共通認識が、紙切れに力を与えています。
 貨幣経済というのは信仰以外の何物でもない。信じる心が力になるのです。
 なるほど、わたしは薄汚いアメーバです。けれど、そのアメーバを神だと信じる人たちが何千万、何億と増えれば、わたしはもう本当に神なのですよ」
 繭の手の中から千円札が消え、かわり大きなファイルが現れた。繭はファイルを開いてみせる。
 
 入会申し込み
 鈴木誠二 
 職業 代議士 自由言論党所属

 政治家だ。ニュースでよく名前を耳にする大物代議士が入信したという書類だ。
 繭はファイルをゆっくりとめくっていく。入会申し込みの書類がたくさん閉じられているようだ。
 代議士、これも代議士、こちらは銀行の頭取、こちらはテレビ局の名物アナウンサーや司会者がずらり。局長まで。全国チェーンのスーパーの創業者がいる。 大病院の院長もいる。警察署長も何人か含まれている。
「わたしを神と思う者は、増える一方です。いずれ殲滅機関といえど手を出せなくなります。日本の政治、財界、官僚組織全てを道連れにする愚はおかせないで しょう。あと半年もあれば十分です」
 これほど日本社会への浸透が早いというのか。これが、「神なき国の神」ヤークフィースの実力。
 恐怖をおぼえながらも敬介は反駁した。
「半年なんて……殲滅機関がそんなに手をこまねいているわけがあるか。あと少しだ。あと少しで……明日にだってきっと攻撃がある!」
「いいえ。機関はまだ教団を攻撃できません。時間稼ぎは大成功です。殲滅機関は、蒼血の存在を秘密にしていますから。教団を攻撃する偽の理由をでっち上げ ないとなりません。攻撃するところを一般市民に見られても困りますしね。たとえば『教団がテロをたくらんで兵器を集め、仲間割れをして共倒れになった』と か……そういったシナリオを作り出す必要があるわけです。わたしたちの教団がマスコミや政治家に食い込めば食い込むほど、そういうでっち上げは難しくなり ますよ」
 言葉に詰まった。そこで繭はふわりと、上品に微笑むと、問いかけてきた。
「ひとつ、殲滅機関にはすべてを解決する方法があります。わたしの人心掌握も、教団の組織力も無意味にして、いますぐ教団を潰せる方法があります。なんだ と思いますか?」
「見当もつかない」
「そうでしょうね。五年もの間、殲滅機関の思考法にどっぷり漬かってきたあなたには。
 それはね、全てを公表することです。
 蒼血という生物がいることも。
 その生物が人間に寄生して操ることも。
 フェイズ1から5までの能力も。
 わたしたち13体のフェイズ5について……
 そうやって全てを明かして、わたしの危険性を国民に分かってもらってから攻撃すればいいのです。  それなら、情報操作の必要なんて何もありませんよ」
 何を言い出すかと思ったら、そんな馬鹿げたことを。
 殲滅機関ならば入隊したばかりの下っ端でも、不可能、あり得ないと知っている。
 蒼血の存在を人間社会にバラせば巨大な混乱が生じるからだ。あいつが蒼血なんじゃないか、あいつも? 互いに疑心暗鬼に駆られ、わずかに仕草が言葉遣い がおかしいというだけで「こいつが蒼血」と決め付けてリンチにかけるだろう。情報局が行ったシミュレートによると、ナチスのホロコーストのような大規模な 虐殺が起こり、人類社会全体で千万単位の死者が出るという。
 『蒼血の存在を秘匿すること』。
 それは蒼血の殲滅と両輪をなす、殲滅機関の目的であり大原則なのだ。
 当惑が表情に出たのだろう、繭はくすりと声に出して笑った。
「そんな顔をしなくても。知っていますよ、殲滅機関が秘密を守っている理由は。
 けれど、それって『人間を信じていない』と思いませんか?
 人間は確かにホロコーストを起こしたが、きっと今は人種的な憎悪を克服できるはずだ……そう信じているなら、公表すべきです。人類全体で、蒼血に対処し ましょうよ。
 でも、ぜったいに公表できない。どうしてだと思います?
 人間を馬鹿にしているからです。人間は愚かな、無能な生き物。
 お前達ごときにまともな判断ができるわけがない、俺達エリートに任せておけと。
 民衆を侮蔑しているという点に関しては、殲滅機関も相当なものですよ?
 それに。殲滅機関は目撃者の記憶を操作して、蒼血事件のことを普通の犯罪やテロに見せかけていますよね。
 その記憶操作のせいで、どれだけの被害が出ているかご存じですか? 自分の娘が自殺したと聞いて心を病んでしまった母親。親を殺人犯にしたてあげられた おかげで崩壊した家庭。
 どうです、あなたも聞いたことがありますよね?」
「……それは……」 
 敬介は口ごもった。
 記憶操作が多くの悲劇を生んでいるのは事実だ。記憶操作1000件につき最低でも0.3人、多い場合は8.5人の自殺者が出ることが知られている。殲滅 機関ではこの自殺者数をハーマン係数と呼び、3.0未満であるなら記憶操作は成功と考えられているのだ。
「俺たちに任せておけというプライドのため、おおぜいの人を死なせて……殲滅機関のどこに正義があるというのでしょう」
 口の中がカラカラに渇いて不快だった。震える声を、なんとか絞りそうとした。
「だが……」
 言葉は途切れた。唇が凍り付いて喋れなかった。
 どう言っても言い負かされる。そんな気がした。自分の言葉は虚しく空気を掻き回すだけだ。いっぽう繭の言葉は的確に臓腑をえぐってくる。胃袋の中に冷た い鉛の塊を埋め込まれたように苦しい。
「あなたは覚悟していなかったのですね。いまさらになって悩むなんて。
 ただ、なにも迷わず悩まず、目の前にいる敵だけを討って来た。それだけの人生だったんですよね。
 それはね、天野さん。ちっとも強くなんかありませんよ。
 目を背けてきただけです」
 凍てつくような冷たい声が、敬介の臓腑をえぐる。
 呼吸が止まった敬介に、繭は一転して優しく微笑んだ。恐ろしいほどに整った顔に浮かんだのは蕩けるほどの笑みだ。「女神」の微笑。
 胸の中に、唐突に安心感が溢れた。
 この人は俺を救ってくれる?
 この人のそばにいれば俺は苦しまずにすむ?
 敬介は目に見えない力に引かれたかのように、ふらりと一歩踏み出した。机の端にぶつかって繭に倒れこみそうになった。
 我にかえった。
 俺は今、なにを考えていた?
「恥ずかしがることはないのですよ」
 繭がまだ微笑を浮かべたまま小さくうなずいた。
「迷えるものが神にすがるのは当然のことですから。
 救って差し上げますよ。私の元にきて、わたしに全てを預けてくれれば。
 それ以外、貴方が幸福になる方法はありません」
 発作的に机を掌で叩いて、語気荒く叫んだ。
「じょ、冗談じゃない! 誰が! 騙されないからな!」
 回れ右して、部屋から飛び出す。
 肩をいからせ、足早に歩いた。どこに行こう、とは考えていない。自分の部署である警備部に戻るか。それともどこかで気分転換をするか。休みを取って家に 帰ってもいいが、いま姉に出くわしたらどんな態度をとればいいのか……
 廊下の角を曲がった途端、若い女性の信者に出くわした。
「きゃっ」
 敬介の顔を見るなり、女性信者は悲鳴をあげて飛び退いた。脇に抱えていたクリアファイルを落とした。
 敬介はファイルを拾い、頭を下げた。
「すみません、驚かしてしまって。……そんなに怖い顔でしたか?」
 女性信者はまだ腰の引けた様子で、
「いえ、怖いというより、泣きそうな顔ですが……」
「え? 泣きそう?」
「はい。なんというか、顔全体が、泣くのを必死になって我慢してる子供みたいな……びっくりしましたよ。なにがあったんですか。繭様のお力におすがりして みては」
「いえ……なんでもありません」
 女性信者がいなくなっても、敬介は己の頬に手を当てて、呆然と立ち尽くしていた。
 俺は怖いのか。泣くほど怖いのか。ヤークフィースの言ったことが。
 俺はどうすればいいのだろう。

 23

 殲滅機関日本支部 体育館
 朝

 作戦局長・ロックウェル少佐じきじきの訓示が行われた。
 影山サキ准尉は夜勤後、軽い仮眠の後、朝食も取らずに体育館に足を踏み入れた。
 訓練やレクリエーションで幾度となく体育館を訪れているが、今はまるで印象が違った。グレイの勤務服に身を包んだ隊員が整然と整列して体育館を埋め尽く し、ロックウェル少佐を待っていた。
 五、六百名はいるか。日本支部の戦闘局員の大半だ。非番である者、夜間勤務に備えて睡眠中の者以外は全て、ここに集まっているのだ。
 体育館の前方には演劇や公演に使用できる舞台がある。舞台の上には星条旗と、『青い闇を貫く銀の刃』……殲滅機関の旗が飾られている。
 隊員達は基本的に階級順に並んでいる。前の一割程度が士官だ。サキは自分の並ぶべき列を見つけて、隊員たちの間に割り込んでいった。
「ちょっと失礼。失礼します」
 頭を下げながら進んでいくと、隊員たちは冷たい視線を向けて見おろしてくる。逆にわざとらしく目を背けるものも、あからさまに舌打ちする者もいた。
 錯覚ではない。隊員たちはサキに敵意を向けていた。
 ……ふっ
 思わず苦笑が漏れた。
 敬介の弁護をやってからというもの、いつもこんな扱いだ。すっかり嫌われ者になってしまった。階級の差を越えて、直接に批判をぶつけてくるリー軍曹はま だいいほうだ。口には出さず、態度で嫌悪を表す。
 これだけの人数一片に、というのはさすがに初めてだ。だが嫌悪など、もう慣れた。
 天野が浴びせられていた侮蔑はこれ以上だったはず。
 弁護を引き受けたことも、法廷でとった行動も間違っていなかったと、そう思えるならば胸を張ればよい。
 だから、つとめて顔に感情を表さず、ただ隊列の中を進んだ。
 ここだ。
 サキが来たのは遅刻寸前だったようだ。サキが所定の場所に着てから間もなく、舞台の袖からロックウェルが登場した。体育館にもとから満ちていた緊迫の空 気が、さらに刺々しさを増した。
「諸君」
 体育館の音響設備はお世辞にも良いとは言えない。法廷のほうがよほどマシだ。それでもロックウェルの渋く落ち着いた声は威厳を持って響き渡った。
「この二ヶ月、『繭の会』出現により国内の蒼血事件は激化の一途をたどっている。諸君らの奮闘に心から感謝する。 
 君達は思っているはずだ。
 なぜ、元を断たないのか。フェイズ5が複数揃っている、あの教団を直接叩き潰さないのか。
 もう待たせはしない。
 きたる三月六日、わが殲滅機関は『繭の会』に総力攻撃をかける!
 ヤークフィースらの野望を完膚なきまでに打ち砕き、蒼血の完全駆逐という悲願に向けて前進する!」
 そこでロックウェルは言葉を切る。
言葉を切ったとたん、サキの四方、体育館一杯に詰めこまれた隊員たちが歓声をあげる。
 おおおっ!
 沸き立つ空気にクサビを打ち込むように鋭い調子で、ロックウェルは再び口を開いた。
 「諸君の中には疑問に思うものもいるだろう。
 『目撃者の問題はどうなったのか?』と」
 そこでサキはうなずいた。サキの周囲の隊員も、それを聞きたかったとばかりにうなずいている。
 「繭の会」が本部として使っている建物はもともと老舗のホテル「セルリアンホテル」だ。千代田区、東京都心部にそびえたつ。半径1キロには同様のホテル が何棟も立ち、出版社もある。国会や最高裁判所までもが存在している。こんな警戒厳重な、人の目が多い場所で作戦部隊を突入させれば、多くの目撃者が出 る。これをどうするかが最大の問題だったはずだ。
 どんな策にたどりついたか。耳をそばだてるサキに、ロックウェルは恐るべき言葉をぶつけた。
「周辺施設に小規模な爆弾を仕掛け、作戦と同時に爆発させ、注目をそちらに集める」
「なっ!?」
 サキが驚愕の声を漏らすのを気にもせず、ロックウェルは続ける。
「爆弾はTNT火薬換算で数百グラム程度。死傷者は最低限だ。それを、教団本部周辺にある主要な建造物全て、各階に設置する。自分の建物で爆弾が爆発して いるというのに、わざわざ窓の外のホテルに注目するものは少なかろう。彼らが爆弾で混乱し、退避しているうちに、我々は教団本部に突入、ヤークフィースた ちを倒してすべての片をつける。そののちに情報操作を行う。『教団は武装化しており、今回の騒乱は教団の内輪もめだった』という筋書きだ。
 詳細は各部隊長に作戦計画書として伝達する。
 諸君。これは大変な激闘が予想される。諸君らの健闘を期待する。人類の命運は諸君らにかかっているのだ。機関に入った日の誓いを忘れることなく戦い抜い てくれ!」
 ロックウェルが硬く握りしめられた拳を振り上げる。
 すぐさま作戦局員たちが呼応する。数百人が一斉にオオッと歓声をあげ、重低音のうねりとなってサキを包みこむ。
「待ってください!」
 サキは手を挙げて叫んだ。大声で叫んだつもりだったが、歓声の大渦に呑み込まれて、ろくに響かない。
「待ってください! 質問があります!」
 さらに声を張り上げてもう一度叫んだ。
 壇上のロックウェルが顔の向きを変えた。明らかにサキの方を見ている。
「何だね、影山准尉?」
「質問が……爆弾とは、出版社や最高裁判所、国会議事堂にも仕掛けるのですか?」
「そうだ。攻撃決行は深夜のつもりだが、完全な無人でない以上、そこにいる人間が作戦部隊を目撃する可能性は常にある。だから爆弾は必要だ」
「殺傷力のある爆弾ですね? 死者も出ますね。……なぜ無関係な、出版社やマスコミの人間を巻き添えにするのですか?」
「機密保持上、止むを得ないからだ。他に作戦部隊を人々の目から隠す方法があるか。情報局と作戦局が協議を重ねてたどり着いた、もっとも確実な隠蔽策だ。
 それに、『教団が武装化して内輪もめをした』という筋書きに説得力を与えるためには、数人くらいは死者が出たほうが良い」
 なんということだ。サキは胸を締め付けられる思いだった。無関係な人間をこれほど無神経に巻き添えにするとは。
「あなたは……」
 反論の意志を固め、思い切り背伸びをしてロックウェルの顔を見ようと試みた。
 気付いた。
 まわりの作戦局員たちがサキを見ている。みな目が冷たい。不審と冷笑の色が浮かんでいる。
 お前何をいってるんだ、と目が語っている。
「反論があるのかね? 一般市民に犠牲を出したくないと?」
 ロックウェルが自信に満ち溢れた声で語りかけてきた。
「だがな、影山准尉。我々はそんな細かいことなど気にしていられないのだよ。
 我々は神ではない。全員を救うことはできない不完全な人間で、にもかかわらず人類を守らねばならない。
 だから仕方が無いのだ。小さな犠牲だ。
 そう思わば作戦は行えない」
 違う……サキはそう言おうとした。
 たしかに、全力を尽くしてなお、助けられずに死なせてしまうことはあるだろう。敵と間違えて無関係な人間を撃ってしまうことはあるだろう。自分とてまっ たくミスがないわけではない。 
 だがミスはミスだ。なぜ失敗したのか考えて、根絶しようと努力するべきじゃないのか。
 だがロックウェルは……最初から犠牲を織り込んでいる。
 後悔も反省も鎮魂もない。傲岸不遜に、人間を駒のように見下している。
 まるで蒼血と同じように。
「その程度のこと、今までの経験で学んで来なかったのかね、影山准尉。
 それとも。……天野敬介との付き合いが長すぎて、殲滅機関への忠誠心が揺らいだか?」
 サキは苦々しい思いで姿勢を正し、答えた。
「いいえ。私の忠誠心に揺らぎはありません。全力をもって任務に当たります。質問は以上です」
 そう答えるしかなかった。
 天野よ。私もまだまだ未熟なようだ。

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 24
 
 3月6日 夜
 『繭の会』本部

 あれから数日、考え続けた。
 それでもどうしても答が出せない。
 だから敬介は仕事を終えた後、凛々子の部屋を訪れた。
 ノックして室内に入る。
 と、入った途端、驚く。室内の様子がまるで変わっていたからだ。
 絨毯もガラステーブルもなく、純和風。
 二十枚ほどはあるだろうか、畳が一面に敷き詰められ、窓には障子がはめられ、先日はシャンデリア風だった照明も和紙で覆われて柔らかい光を放っている。 畳の上には大きな行李と箪笥が並び、いちばん奥にちっぽけな文机が置かれていた。
 和服を着た女性が文机に向かっていた。よく見ると広報部長本人だ。長い茶髪をまとめて、豊満な体型を和服で隠しているから別人のように見えただけだ。
 どういうことだ? と目を見張っていると、
 彼女はゆったりとした動作で立ち上がり、微笑みかけてきた。
「こんばんわ、信徒天野。っていうか、もう敬介くんのこと、バレちゃったんだよね。じゃあ演技いらないね、こんばんわ敬介くん」
「え……あ……」
 どう切り出していいものやら言葉を失っていると、
 凛々子は室内を見渡して、子供のようにくるりと軽やかに回ってみせて、
「あ、この部屋? 模様替えしたんだ。たまには和風の部屋にしたくて。いいでしょ。ずっと演技してて、教団の教義がどうとか説教するのって疲れるんだよ。 だから気分転換」
 なにも敵地のど真ん中で、命の危険があるときに気分転換しなくとも……と想ったが、「だからこそ遊びを入れる」のが凛々子らしい気もする。
「顔を元に戻すね。そっちのほうが話しやすいでしょ」
 両手で顔を覆った。ほんの一瞬で手を離す。
 短い黒髪。幼さを感じさせる、丸みを帯びた頬。くりくりと大きな瞳。
 もとの凛々子の顔に戻っていた。
「ばあっ……なんか暗いね、敬介くん」
 元気付けようとしておどけてくれたのだろうが、とても敬介は笑える心境ではなかった。
「凛々子……相談があるんだ」
 自分でも驚くほど、どんより濁った暗い声が出た。
 凛々子もその暗さに驚いたのか、眉をひそめて、
「いいけど……立ったままっていうのもなんだよ、そこに座布団あるから座りなよ。いまお茶入れるね」
「お茶なんて、いい……」
 物の味が分かるとは思えない。靴を脱いで、座布団を無造作に敷いてその上に腰を下ろす。凛々子とは二メートルほどの距離を置いて向かい合う形になる。
 敬介の暗さが感染したのか、凛々子もかしこまった姿勢で正座して、膝のあたりに拳を置いている。
「相談てのは?」
 促されて、敬介は喋りだした。
 姉の姿を見て、教団こそが姉の幸福だと気付いたこと。
 教団を倒すという意志が揺らいだこと。
 ヤークフィースに勧誘されてますます迷ったこと。
 敬介の話を聴きながら、凛々子は目まぐるしく表情を変えた。両眉を大げさに下げて八の字にしたり、ほっぺたを幼児のように膨らませたり、細い顎に手を当 てて小首を傾げたり。ただ背筋だけは過剰なほどにきっちりと伸ばしたままだった。
「それで……俺は。……いろいろ考えた。でも、どうしても分からないんだ、どちらの道を選ぶべきか」
 凛々子は顎に手を当てたまま、小さい声で呟いた。
「……ヤークフィースの、いつもの手だね」
「そうなのか?」
「うん。あいつはね、他人の脳を改造することもできるし、弱みを握って脅すこともできるけど、『あくまで自分の意志で、服従を選択させる』のがいちばん好 きなんだ。まったく強制しないでも従うのが一番の勝利なんだって。ほんとは選択肢、ほとんど残ってないのにさ、嫌な奴だよ。
 ……でも、ごめん。ボクは敬介くんに、どうしろとも言ってあげられない」
「なんでだ? お前はずっとヤークフィースたちと戦ってきた。敵だろう。俺があいつら側につくなんて、許せないはずだ」
 焦りを含んだ声で敬介は言った。言っているうちにわかった。自分は凛々子に叱り飛ばして欲しかったのだ。
 蒼血なんかに屈服するな、戦え! と、闘志を注入して欲しかった。
「敬介くんの気持ちもわかるから。自分にとって一番大切な人の幸せがかかってる、そういう状況なら誰だってオドオドするよ、迷うよ。そこであっさり『自分 は軍人だ、戦士だ』って割り切れる人、滅多にいないよ。……特に敬介くんは、あんまりお姉さんのこと、深く考えてこなかったし」
 そう言われると返す言葉がない。牢に入っている間など、暇な時間はいくらでもあったはずなのに、なぜ『教団を潰せば姉の幸せも失われる』ということにす ら思い至らなかったのか。これほどの馬鹿はいないだろうと思う。思わずうつむいて畳を見つめてしまう。
 だが凛々子に責める様子はなかった。むしろ声のトーンを下げて、柔らかく、いたわるように言った。
「いまさら過去を責めても仕方ないよ。何年も戦いのことだけ考えていたんだから、考えのパターンが狭くなってる。だって戦争の真っ最中の人が『この戦争は 本当に正しいのか』って考え出したら生きていけない。味方の足を引っ張るだけだよ、だから考えない。そういうふうに、頭に枷をくっつけていたんだと思う よ。
 それで……ボクは、どうしろとも言えない。
 ボクはどうにかしてヤークフィースたちの計画を挫くつもりだよ。でも、協力しろとは頼めない。きっとその道は敬介くんと、敬介くんのお姉さんをすごく苦 しめるから。
 でもお姉さんのために殲滅機関を捨てても、きっと苦しむよ。たくさんの仲間を裏切ることになる。あの隊長も。戦友たちも……死なせることになるかも」
「俺だって、そこまでは考えた。でも、どっちも重くて、譲れなかったんだ……」
「そうだよね。どっちの道を選んだって後悔すると思う。でも選ぶしかないよ。ボクだって、誰かを見殺しにしたことはある。戦闘の最中は最善を尽くしたつも りでも、安全になったときは『もっとこうすれば』って思った。特にボク、紛争地域に行くことが多かったから。蒼血から助けたつもりの子供が、ゲリラになっ て死んでしまったり、旱魃で全員ミイラになってしまったり、村ごと紛争で焼かれたりすることもあって。蒼血に寄生されたほうがまだ長生きできたかもしれな いって……
 でも、自分で決めたことだから。後悔したって、やり抜こうと思ってる。敬介くんもそうするといいよ」
 最後の一言に深刻さが全くなく、『ごはんまだ?』くらいの調子だったので驚いて顔を上げた。
 凛々子は澄んだ大きな瞳を敬介に向けていた。口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。頬も緩んでいた。だが瞳だけはまったく笑っていない。純粋で透明な光 を湛えている。
 『覚悟』の目だと思った。
「八十年、だっけ? そのくらい戦ってきたのか。ひとりで」
「エルメセリオンと二人だよ?」
「なんで、できるんだ。俺なんて、命令を下してくれる組織からちょっと離れただけで、このザマだ」
「ボク的に当たり前のことを当たり前にやってるだけだよ。ボクは逆に組織に入って、ルールとか命令に従うのって大変だなあって思った。だから『なんででき る』って訊かれても……」
 眉根を寄せて考えこむ凛々子。
 そのとき渋い男性の声が会話に割って入った。
「ふむ、凛々子。きみの過去を話すべきじゃないか?」
 声の主は、凛々子の首筋……に現れた、パクパクと開閉する小さな口だ。エルメセリオンだろう。
「きみが戦いを決意した理由、きっかけを知れば、彼にとって指針となるだろう」
「えー!? やだよう。恥ずかしい。あんなの他人に見せるもんじゃないよ」
 凛々子は露骨に嫌がるが、エルメセリオンは笑う。
「はは。きみが嫌がるなら私が見せよう、天野敬介、手を」
 エルメセリオンがそう言うなり、凛々子の身体が膝立ちになって敬介のほうに手を伸ばす。
「え、あ、はい」
 敬介が凛々子の手を取った。細い、脆そうな手だ。絹のような肌は、とても歴戦の戦士のものとは思えない。凛々子が握り返してきた。
 また手の平にちくりと針の刺さった感触。極寒の触手が腕の中を伸びてくる。首筋に侵入して上がってくる。脳に達した。
「では、行くぞ。情報量が多いから少し負担があるかもしれない」
 エルメセリオンが言った瞬間、敬介の脳の中に、記憶が流れ込んできた。
 膨大な量の音が。映像が。一挙に再生される。いままでの人生で味わったことのない感覚だった。夢から覚めたときとも違う。何かを思い出したときとも違 う。いま生きている現実が上書きされるほどの実在感を持って、時系列を無視して何千もの映像が、台詞が頭の中で弾ける。
「……っ!」
 あえいだ。言葉を発することができない。全身が痙攣するのがわかった。視界がぐにゃりと歪みだす。まっすぐ座っていられない。
 かたく繋がれた手の感触だけが確かで、あとはもう何も分からない。
 自分は誰だ? 天野敬介か……?
 でも大正時代の東京を覚えている。横浜に汽船で来たことを覚えている。もっと昔、人々が城塞にこもり、剣で斬りあっていた時代を覚えている。もっと前、 もっと前……
「力を抜くんだ。自分の意識を無にして記憶を自然に受け止めろ」
「そんな……こと……いわれ……ても……」
 意識が途切れた。

 (ここから先が更新分です)

 25

 フェイズ5はそれぞれ全く違う個性を持っている。
 ヤークフィースは『人類を支配して理想社会を作る』という目標を決して譲らない。何度も社会を作っては壊してきた。
 ゾルダルートは戦いが大好きで、戦場を縦横に駆け巡り、殺しまくることができれば他の事に興味を持たなかった。
 とにかく人類社会を混乱させることを楽しむ者もいた。犯罪の世界に王国を築き、そこを守ることだけに専念する者もいた。
 そしてエルメセリオンは……探究者だった。彼はただ知りたがった。
 人間は、どんな生き物なのかと。
 蒼血たちは口を揃えて言う。人間は劣った生き物、愚かな生き物と。我らに飼われる家畜だと。
 だがしかしエルメセリオンは思うのだ。
 ……その愚かな生き物に、いまだ我々は勝てないではないか。完全な人類支配は実現していない。存在を秘密にしているのも、正面からの総力戦をやって勝て ない証拠ではないのか。真に君臨するものは、隠れる必要などない。
 かといって人類が、自称するほどの『万物の霊長』とも思えない。
 知りたい。ヤークフィースのように思い込みで動くのは嫌だ。人間がどんな生き物か、その真実を知り尽くしたいのだ。
 だからエルメセリオンは眷属を育成せず、人類社会に根を降ろすこともなく、ただ人間の体を適当に乗り換えながら、世界中のあらゆる国、あらゆる身分の人 々を見て回った。
 故に、この時期のエルメセリオンは『裏切りの騎士』ではなかった。『千界の漂泊者』と名乗っていた。
 何百年もの間、さまよい続けるエルメセリオンの中に、だんだんと結論がまとまりつつあった。
 ああ。人間は、やはり愚かで下らない。
 活力はあるかもしれない。数世紀を生きる我等にはない、短命だからこその煌きはあるかも知れない。
 戦争への執念も見上げたものだ。牙も翼も持たない、どれほど努力しても生やすことができない人間が、鉄を鍛え、火薬を調合して様々な兵器を作り出す様は 心がおどる。
 だが、そこまでだ。
 二千年の昔より、人間達は殺すな、騙すな、奪うなと言い続けてきたのに。神の前に人は平等と言ってきたのに。
 道徳はついに実現されなかった。どれほど経とうと社会は変わらなかった。
 二千年前もそうであったように、人々は聖職者の前でこそ愛を叫ぶが、翌日には奴隷に鞭打って、知る限りの武器で殺しあう。全てが終わった後になって、 「戦いの原因はあいつらだ、俺は悪くない」と叫ぶ。数々の理想はあるが、いつだって現実は、ただ強い者が弱い者を殺し、貪るだけだ。
 口先だけの愛と、凶悪な本性を抱えたまま、人類はなおも科学を発達させ、その力を増し続けている。
 二十世紀がはじまり、世界大戦の死屍累々を見たあたりで、エルメセリオンはほとんど確信しつつあった。
 ヤークフィースは正しかったと。
 この野蛮な生き物を野放しにはできない。
 我々、聡明な優良種が管理するべきだ……
 そんなことを思いながら、日本を訪れた。東洋の片隅にあって、数々のハンデを乗り越えて欧米列強に追いつこうとあがく、新興の帝国だ。
 そして、天変地異に遭遇した。

 26

  一九二三年九月一日 夜
 東京市神田区
 
 大気は生臭く、濃密で、ひどく暑かった。
 大地震の発生から八時間。破壊されつくした東京を、エルメセリオンは歩いていた。
 日本人の、青年貿易商の体を借りている。世界各地を飛び回っても不思議に思われないので便利な身分だ。三十代で、人のよさそうな丸顔に眼鏡をかけて、 スーツに山高帽、ステッキを突いた典型的な洋装だ。
 もう夜の八時、とうに太陽は没している筈なのに、空が明るく橙色に輝いて周囲を照らしていた。街灯は見渡す限り一本も無いのに、普通の人間でも新聞を読 めるほどの明るさだった。
 太陽の沈んだ方角とは逆の、東の空が輝いているのだった。
 エルメセリオンの人類を超越した視力が、膨大な量の赤外線と大気の揺らぎを捉えていた。きっと向こうでは火災旋風が起こっているのだろう。無数の火災が 一つにまとまって竜巻状になり、人間という脂の塊を喰って成長を続けているのだ。
「ん……あれは人間、か?」
 東の空を、小さなゴミ袋のようなカスが舞っている。目を凝らすと、確かに手足があった。
 上昇気流で人間が飛ぶほどの火災なのだ。数世紀を生きた彼も、これはあまり見たことがない。
「すごいですね……」
 思わず感嘆の声が漏れる。笑顔を作ってしまう。
 この大異変の中でなら、今までに無かったものを見ることができるかもしれない。人間についての理解を覆す何かを。
 彼の歩く道は幅が数メートル。この時代の日本のほとんどがそうであるように、未舗装だ。その道が、獣の背骨か何かのように、ぐねぐねと波打っている。道 の真ん中にはレールが走っているが、その上を往くはずの路面電車は道を塞ぐようにして転覆し、黒焦げになっている。路面電車の下からは、和服を着た小さな 手が伸びていた。地震の瞬間、振り落とされて下敷きになったのだ。
 そして道の左右には瓦礫しか無かった。 
 家屋は塀も残らず、ただ一面、視線の通る限り何百メートル四方にわたり、黒焦げになった柱と、砕けた瓦が出鱈目にぶち撒けられているばかりだった。
 幾人かの人々がスコップで焼け野原を掘っている。何をするでもなく瓦礫の中に座り込んでいる者もいた。筵にくるまれた遺体を大八車で運んでいる者もい た。彼らは全身が汗と煤まみれで、例外なく感情の枯れ果てた表情をしていた。そんな荒涼たる風景の中にところどころ、かろうじて形を留めた煉瓦の建物が点 在しているばかりだった。
「待てッ!」
 野太い罵声が響いた。
 声のしたほうをのんびりと見やる。
 焼け野原の向こうから男達が走ってきた。
 先頭の男は、遠くから見てもわかるほど痩せこけていた。作業服姿で、坊主頭からダラダラと血を流し、顔面を真っ赤に染めている。目玉をむき出し、口から 泡を吹いて必死の形相だった。裸足で、猛烈な速度で駆けている。足の裏もズタズタに裂けているだろう。
 追っている男達は十人もいて、この時代の日本人としては大男ぞろいだ。がっしりとした体格に和装姿。頭には懐中電灯を括りつけ、手には木刀や、身長ほど もある鉄パイプを持っている。武器はいずれも使用済みらしく褐色の汚れがこびりついている。一人だけ、ズボンにワイシャツにベストという洋装の老人がい た。老人は木刀を持たない。かわりに腰には自動拳銃を帯びている。
「逃げても無駄だぞッ!」
 怒鳴りながら走っているが、和装のせいか、逃げる男ほど足が速くない。
 作業服の男との距離は数十メートルも開いたままだ。追いつけないまま、一団はエルメセリオンの前を通過して……
 と、追っている集団の中の一人、洋装の老人が腰から自動拳銃を抜いた。
 走りながら片手で撃つ。逃げている男の足で鮮血が弾けて、男は倒れる。
 ほう、とエルメセリオンは片眉を上げて感心した。自分も相手も走りながら撃って命中させるとは、相当な熟練者だ。
「うっ……」
 倒れた男の周りに、追っていた和服集団が集まる。
「観念しろッ!」
「俺は何もやってない! 何もやってないんだ!」
 倒れた男は涙声で抗弁するが、和服集団は容赦の色も見せずに怒鳴りつける。
「お前の仲間はちゃんと白状したぞ! 毒を撒く計画があると!」
「そ、それはお前らが拷問するからだ! とにかくちゃんと調べてくれ! 俺だって皇国の臣民なんだ、文明的な裁判を受ける権利が……帝国憲法に……」
「黙れ!」
 男たちは絶叫して哀願を断ち切った。木刀や鉄パイプを連続して振り下ろす。濡れたものが潰れるような音が、いくつもいくつも重なった。渾身の殴打だ。一 撃ごとに骨は砕け、肉は内部断裂して内出血で腫れあがったことだろう。たっぷり数十回、殴打は続いた。
「あがっ……あがっ……」
 男はもうまともな言葉を発することができない。呻きさえも押し潰すように殴打を続行しながら、和装の大男達は怒気あふれる声で喚き立てる。
「自分の立場が分かっていないようだな?」
「そう。お前達は重大犯罪、国事犯の嫌疑をかけられているんだ!」
「にも関わらず権利だと! 憲法だと!」
 男たちの中で一人、先ほど拳銃を撃った洋装の老人が、ふとエルメセリオンに目を止めた。
 歩み寄ってくる。
「失礼、騒がせてしまいましたな」
 エルメセリオンは老人を観察した。他の大男たちと違い、身長は百六十センチそこそこで、頭も禿げ上がり、顔には深い皺が刻まれている。
 だが、何気ない動作にも全く隙がなく、細い目が鋭い眼光を放っている。
 他の男達とは次元の違う鍛えられ方だ。陸軍の退役将校あたりかと見当をつけた。
「一体、これは何を? あなた方は?」
「ああ。我々は自警団です。こんな国難の只中ですから、警察力にも限りがありましょう。民の身は、民自身が守らねば」
 そう言って、老人は、輪になっている自警団員を指さした。
「社会主義者や朝鮮人が、毒や爆弾で我が国の転覆をもくろんでいるのです。近くに朝鮮人ばかり集まる宿舎がありましてな、踏みこんで捕らえたのですが、一 人逃げられまして……」
「なるほど……」
 エルメセリオンはうなずいた。
 老人は断言するが、おそらく「国家転覆計画の証拠」などあるまい。
 「異民族が俺たちを殺すんじゃないか?」という妄想が、天災や疫病をきっかけに爆発するのは、歴史上いくらでもある話だ。欧州では、「ペストはユダヤ人 の仕業」というデマによって数多くの虐殺が起こっている。
 老人はさらに歩み寄ってきた。
「ところで、貴方はどちら様で? 身分証明はありますか?」
 さて、どうするか。
 名刺は持っているが、これだけでは身分証明として弱いだろう。
 そもそも、こういった輩は確たる証拠で動いているわけではない。逆に言えば身分証明書を出そうが何をしようが、「社会主義者に違いない」と思い込めば襲 い掛かってくるのだ。
 人間はいつだって、そんな生き物だ。遠い昔から何も変わらない。
 やはり、ここでも新しいものは何も見ることができなかった。
 ため息ひとつ、ここまで思ったところで、エルメセリオンの思考は遮られた。
「やめてください!」
 少女の、鮮烈な叫びによって。
 見ると、かぎ裂きだらけ、泥だらけの袴を履いた少女が走ってくる。大きな目とふっくらした頬が目立つ愛らしい顔立ちだ。リボンで結んだ二本のお下げを激 しく揺らし、突進してきた。彼女もやはり手には木刀を持っている。
 少女は自警団がつくる輪のそばまで駆けて来て、持っていた木刀を地面に突き立て、再び叫んだ。
「やめてください!」
 細身の娘だ、声量そのものは自警団員に及ばない。だが少女の声には有無を言わさぬ気迫があった。自警団員はみな一瞬、金縛りになった。
 ただ一人、老人だけが驚きもせずに言い放つ。
「誰だ、キサマは? 我等にたてつく気か? 『主義者』か?」
 老人は自動拳銃を手にしたままだ。眼光の鋭さも殺人的な程だ。しかし少女は些かの怯えもなく、薄い胸を張って答えた。
「ボクは凛々子! 氷上凛々子です! 氷上道場の娘の! 父さんは昔、あなたと手合わせしたこともあります!」
「ひかみ……? 道場? ああ」
 老人が無表情を崩し、憐れみの笑みを浮かべてうなずく。
「話には聞いた。一家揃って亡くすとは気の毒だったな。辛いのはわかるが、気を確かに持て。とち狂うとなると同情できん」
「ボクは狂ってなんかいません。おかしいのは、あなた達です! この人たちが爆弾とか毒を持ってたの? 国家転覆の証拠はあるの? なんで、なんの証拠も ないのにこんなことをするんですか?」
「たわけ。ワシは警官から聞いた。新聞記者や軍人から聞いた者もおる」
「ただの噂話でしょう!?」
「今は非常時なのだ。この現実が見えぬのか。今、悠長に証拠だと裁判だの、やっている余裕はない。わずかでも嫌疑があるなら、皇国のため、ひいては臣民の ため、敵を討つことをためらってはならんのだ! 迷っているうちに爆弾を使われたらどうする?」
「そのときは、ボクを捕まえて裁いてください。責任取ります。だからやめて下さい!」
「できん、と言ったらどうするね」
 老人が問うと、凛々子は無言で木刀をすっと持ち上げ、中段の構えをとった。
「腕づくでも、解放してもらいます。その人も」
「その人『も』だと?」
「ええ。あなたたちが拷問していた人達、みんなボクが解放しました。あとはその人だけです」
 老人の表情から笑みが消える。
「ほう……どれほどの大罪を犯したか理解できんようだな?」
 自動拳銃を持った腕を上げようとする。
「団長、銃などやめてください、娘相手に、帝国軍人の名折れです。我々だけで十分です」
 自警団員がそう言って、輪形を解いて散開する。アルファベットのVの形に列を作る。凛々子を挟み撃ちにできる隊形だ。武器は同じ木刀だが、自警団員は見 上げるような体格で、腕の太さは倍もある。
「やっ!」
 凛々子は躊躇もせず、十人の自警団がつくる「V」に真正面から飛び込んだ。
 木刀が振り下ろされる。だが凛々子はその時にはもう跳んでいた。襲い来る幾本もの木刀をかわし、伸びきった腕を足場にしてさらに跳躍する。頭の上に飛び 乗って、木刀を男の肩口に叩き込む。エルメセリオンには鎖骨の砕ける音がはっきり聞こえた。くぐもった声をあげて男の体が崩れる。他の自警団員が力任せに 木刀を振って凛々子を狙うが、軽々とよけて別人の肩の上に飛び乗った。また木刀を振って顔面の真ん中に強打を叩き込み、背後からの一撃すら回避してまた鎖 骨を折る。
 実力差は圧倒的だ。凛々子は鼻や鎖骨など、弱い筋力でも破壊できる人体の急所だけを狙っている。しかし喉は突かない。殺すまいという考えがあるのだろ う。四方八方からの攻撃をかわしながらそれだけの余裕があるのだ。
 凛々子はたちまち十人を叩きのめした。全員が顔を苦悶にゆがめて戦闘不能だ。
 倒れている作業服姿の男に駆け寄った。
 もともとは青かった作業服が真っ赤だ。そして腕といい顔面といい、至る所が青黒く変色して膨れ上がっている。頬骨が変形し、胸は、服の上からでもわかる ほど陥没していた。肋骨が何本も砕かれているのだ。半開きになった口から、血の気を失った舌がはみ出している。
 その傍らにしゃがみこんだ凛々子は、はっと目を見張り、その男の口元に手を当て、手首を取った。うつむく。そのほっそりとした肩が震え始めた。木刀を 握ったままの手も震えている。
 勢いよく立ち上がった。
「死んでる……もう死んでるじゃないかッ!」
 もはや凛々子は丁寧語すら使おうとしない。叫ぶと同時に、大きな瞳の縁から涙が溢れ出した。
 老人は悪びれもせずに肩をすくめる。
「おや、そうかね。加減を知らん連中だ。単調な責めでは尋問にならんと教えたのだがなあ」
「なんだ……なんだよ……その口ぶりは! 死んだ! 人が死んだんだよ! あんた達が……あんた達が……なにか悪いことをやったのか、証拠もなかったの にッ!」
「そうさね、死んだ。だからどうしたのだ。今日、帝都では何万人もがあの世に行った。それが一人増えただけだ。ワシらが罪に問われることはない。非常時 だ、戦場と同じだ。誰もが納得してくれる。防衛のために犠牲は仕方なかったと」
 老人は口元を歪めた。心の底から楽しそうな、愉悦の笑みだった。
 凛々子は何かに気付いたように目を見張る。一歩後ずさる。
「なんだよ……ふざけるな……」
 凛々子は木刀で老人を指差した。
「ボクはあんたを『正義感で暴走してる』んだと思ってた。やり方は間違っていても、国を、みんなを守りたいんだと……悪人じゃないんだと……
 でも違う! 違うんだ! あんたは……人を殴ったり殺したりするのが楽しいんじゃないか? 『殺しても良い理由』が欲しいんじゃないか? そんなん で……」
「違うな、小娘。『ワシが』ではない。人間はみんな、殺し合いをやりたいのだ。普段は隠しているだけだ。ワシは日清日露の戦役で様々なものを見た。清国 兵、ロシア兵、日本兵……みな御立派な道徳を学んでいるのに、過酷な場所にいけば本性を露にする。今は恐怖が帝都を覆っておる。常識も、倫理も剥がれ落ち ている。すべては仕方ない。ワシはただ人間であるだけだ。みな、一皮剥けば同じだ」
 大地を踏み抜く勢いで一歩だけ飛び出し、凛々子は言葉を叩きつけた。
「違う……『人間』を勝手に決めるな! 父さんは! 門下生を守るために柱を支えて、下敷きになったよ! 兄ちゃんは、炎の中に飛び込んで、ボクを助けて くれたんだ。普段から言ってたよ。弱い者を守れる奴になれ。男も女もない。悪を見過ごすな、義を捨てない人間になれ……! 修羅場でこそ、仁や義を忘れる なって……言ったとおりのことを、実行して死んでいったよ!
 だからボクは、『仕方ない』って言わない。
 一皮剥けば同じでも! その一皮を絶対に脱がない!」
「そうかね、物好きもいたものだ。それでどうする? お前が助けたかった男はもうおらん。いまさら何の意味があるのだね?」
 凛々子は息を吸い込み、背筋を伸ばし、木刀を中段に構えなおした。しかし腕全体が震えている。感情をまったく抑えることができていない。
「お前と戦う。お前を許さない。人間を馬鹿にするお前を。軽々しく人を殺して、悪いとも思わないお前を。そして兄ちゃんや父さんのように、優しくて、勇気 があって、卑怯なことは絶対しないで……そんな生き方をして……人を助けるんだ! ぜったいに曲げない! ずっと! ずっとだ!」
 凛々子が言い終わった直後、老人の片手が勢い良く跳ね上がる。二つの銃声がほとんど同時に轟いた。
 凛々子の頭の両脇を弾丸が駆け、お下げを二本とも切断した。ハラリと髪がほどけて落ちていく。体の他の部分には傷一つつけていない。凄まじい技量だ。凛 々子の剣が一閃するより何倍も早く、彼女の命を奪うだろう。
「あっ……」
「吠える吠える。だが何もできん」
 銃口から薄く煙をひく拳銃を、凛々子の額に向ける。
 凛々子が大きく震え出す。潤んでいた瞳から、また涙が溢れる。
「うっ……うっ……」
「怖いか。いまさら泣いてもどうにもならんよ。ワシはお前の言うような、役にも立たぬ理想論が大嫌いでな」
 だがエルメセリオンには分かった。凛々子は、怖いから泣いているのではない。
「くそぅ……ちから……さえ……あればっ……」
 悔しいから、自分の無力さに歯噛みして泣いているのだ。
 老人はもう嘲笑の言葉すら発さず、発砲した。
 銃弾が凛々子を絶命させることはなかった。
 エルメセリオンが超高速移動で両者の間に割り込み、銃弾を二本の指で摘んで止めたからである。
 落ちた飴玉でも拾うように無造作に。
 金属同士が擦れ合うような音を立てて、銃弾が回転を止めた。
「なっ……!?」
 老人が、凛々子が、驚愕に目を見張る。
 エルメセリオンは銃弾を放り投げ、凛々子に笑顔を向けた。
「きみ! 興味深い! 実に興味深い! きみのような人間は初めて見た。人間は、いざ修羅場となれば『仕方ない』と言って倫理を捨てる者ばかりだった。弱 い者を殺し、家族を捨てて逃げて、あとで言い訳する者ばかりだった。
 君は違うのだな? いま口にしたばかりの正義を、どこまでも、いつまでも貫くというのだな? 
 力さえあれば?」
「ま、待てっ……キサマ……」
 老人が、理解不可能の事態に怯えの表情を浮かべながらも、エルメセリオンに拳銃を向ける。
「黙っていてください。大事な話をしているんです」
 エルメセリオンは片手で軽々と拳銃を奪い、そのまま握りつぶした。男性にしては細く青白い手の中で、鋼の塊がチョコレートのように歪む。薬莢が炸裂して 煙を噴出する。指の隙間から部品が吹っ飛んだ。手のひらを開くと傷一つない。
「ひぃ!?」
 あれほど豪胆に見えた老人が悲鳴をあげて尻餅を突いた。
「さあ、どうなのだ? 見ての通り、私には人間を超えた力がある。そして君の事をもっと観察したい。
 これからも貫くと、他の人間のようにならないと誓ってくれるなら、この力を貸そう。君が信念を実行するところを見たい」
 凛々子は大きな目をますます見開いて、エルメセリオンと、恐怖に震える老人を交互に見た。
 だがほんの数秒で覚悟を固めた表情になり、エルメセリオンを至近距離から見つめた。
「貫く。絶対に。ボクは、今言ったことを守る」
「本当にいいのだな? 善行を積んだところで感謝されるとも限らない。誰かをかえって不幸にすることもあるだろう。弱者が常に善とも限らない」
「そんなこと分かってる。でも、それでも。ボクは……」
「よろしい、ならば契約だ。私の名は『千界の漂泊者』エルメセリオン。君の戦いを見届けよう。君が約束を守る限り、君の力となろう」
 エルメセリオンは凛々子の首筋に手を伸ばした。その手のひらに、牙の並ぶ口が開いた。
 そのまま首筋に噛み付いた。エルメセリオン本体が凛々子の体に潜りこんだ。
  
 26

 かくして、凛々子はエルメセリオンの被寄生体となった。
 最初にやったのは、自警団の面々を脅かして活動をやめさせ、怪我を治してやることだった。
 エルメセリオンは今まで使っていた実業家の体を捨てるつもりだったが、凛々子が抗議したため、記憶を作り上げて自由意志を与えてやることになった。彼は 普通の人間になって神戸に帰っていった。
 その後、帝都のあちこちを飛び回り、潰れた家の下から被災者を救い出し、今回と同様のリンチ行為や、どさくさ紛れの犯罪を何度も何度も止めた。
 この大震災においては帝都のみならず関東各地でリンチ殺人事件が起こり、一説によれば二千人もの人々が殺されたが、もし凛々子の活躍がなければ死者数は 何倍にも膨れ上がっていただろう。
 一月ほどたって、混乱が一段落した頃。凛々子は日本を離れて蒼血に戦いを挑むことを決めた。エルメセリオンから蒼血に関する詳細を聞いたからだ。人間を 家畜と蔑み、人間に寄生して社会を裏から操っている奴らのことを。ことに一国すら動かすフェイズ5のことを。
 あらゆる悪と戦い、あらゆる人間を救うには、あまりに力が足りない。
 たった一月で思い知った。
 ならば治安も回復したことだし、普通の犯罪のことをは警察に任せておこう。
 警察では対処できない敵、蒼血と戦うことを主な使命としよう。そう決めたのだ。
 凛々子は世界各地を転々として蒼血と戦い、やがてエルメセリオンは、「裏切りの騎士」という新しい綽名で憎しみを込めて呼ばれるようになる。
 そして戦い続けること、八十年あまり。
 凛々子は約束を破ることはなかった。
 いついかなる時も、「人間はバカなんだから、ダメな生き物なんだから仕方ない」とは言わなかった。
 裏切られても、救いきれなくても、人間を信じ、苦しむ人のために涙し、彼らの幸福のための戦いを一日もやめることはなかった。

 27

 二〇〇八年三月六日 夜
 「繭の会」本部
 
 目を開いた。
 体中の力が抜けて、敬介は畳の上に膝をついて、そのまま倒れ込んだ。なんとか手を突いて、顔面が落ちるのだけは防ぐ。
 心臓が凄まじい勢いで跳ねている。額から背中まで、体中にびっしりと冷や汗をかいていた。息も、数百メートルを全力疾走したように荒かった。
「ハアッ……ハアッ……これは……」
 凛々子を見上げる。凛々子は八十年前と変わらない顔で、変わらない真摯な瞳で敬介を見つめていた。言葉がうまく出せない。
 圧倒されていた。いま心の中に展開された記憶の密度に。
「おまえっ……げほっ……げほっ……」
 凛々子は背中を叩いて、抱き起こしてくれた。壁によりかかって休んだ。
「はい、お茶。一気に喋ろうとしないほうがいいよ。エルメセリオンも乱暴だよね、少しずつにすればいいのに」
 渡された湯飲みを一気にあおる。舌が火傷するほどの熱い日本茶が口の中を蹂躙し、喉を滑り降りていった。
「うぐっ……ぐうっ……」
 むせ返る。体中の汗が倍加する。
 だが、数秒間ごほごほと苦しんでいると、精神的な苦しさはだいぶ薄れた。
 いまが二〇〇八年で、自分が天野敬介で、なんのためにここにいるのかも、現実感を持って認識できた。
「ありがとう……それにしても……お前……」
 自然と背筋を伸ばしてしまう。
「すごいな……」
 きっと表情にも、隠しようのない驚嘆が浮かんでいるだろう。
「やだなあ、たいしたことないって。だから見せないでっていったのにぃ。泣いたところとか、いろいろ見ちゃったでしょ? 蒼血と戦い始めたあたり、失敗も 多かったんだよ。子供の体に入ってて、相手を殺せなくて絶体絶命、とかも……」 
「それでも、めげなかったんだろう?」
「まあね、ボクは頭よくないから、あの軍人みたいに、理屈をこねて『自分は悪くない』って言えないんだ。悪いものは悪いよ! 約束破ったら、ずるっこだ よ! って思っちゃう。だから破らなかった。子供っぽいよねー」
 そう言って笑う凛々子。だが敬介は笑えなかった。その「子供っぽい青臭い考え」を、どんな苦しみの中でも妥協せずに貫くことがどんなに難しいことか。
「でもね、キミはキミだから。ボクのマネをしろとは言えないよ。ボクはひとりだったから。大切な人を作らなかったから。だからワガママできた。ワガママの 結果はボクが受け止めて、ぐっと我慢すれば済むから。家族がいたら……そうはいかないよね」
 凛々子の戦いぶりを見て、ますます分からなくなった。どうすれば彼女のように、断固たる意志を貫ける?
 もういちど訊ねようとしたが、凛々子が先に喋りだした。
「ホントはね、敬介くんとは友達になったのも、少し悩んでるよ。これでボクの判断も曇るかもしれないって……いざって時に冷静な判断ができなかったらどう しようって……だから怖くて……
 でも、一度くらいしてみたかったんだ」
「何を?」
「何をって……デートだよ!」
 大げさに頬を膨らませて怒る。
 なんだそりゃ、とあっけに取られて、全身の緊張が緩む。
「ずーっと戦いながらね、遠くから街の中の男の人と女の人たちを見ながらね、あー、ボクも普通だったらああいうことしてたのかなーって……でも、蒼血の世 界に巻き込むわけにはいかないからね、敬介くんなら、もともと殲滅機関の人だし、ある程度が大丈夫かなって……ドキドキしてたんだよ?」
「だってお前、いろいろな男を手玉に取ってきたって言っただろう?」
「それは言葉の綾だよ! わかんないかなあ……あそこで『ボクもはじめてです』とか言えるわけないよ。。。どっちかがリードしないと、雰囲気めちゃくちゃ になるでしょ? まったく……敬介くんは! 女心がわかんなすぎ! 
 ほんとにさ、心配しちゃうよ。電車の中でも、しどろもどろになっちゃってさ」
 何のことだ? と思い返して、ああコンドームが見つかったときのことかと気付く。
「お前だって相当慌ててたぞ? お前もデート経験なかったんなら仕方ないかもな」
「むっ。なんだその勝ち誇った表情。いっとくけどボクが誘ったんだからね。ボクが誘わなかったら、敬介くんはずっと戦いだけの人生だったもん。最初の一回 すらなかったもん。
 でもね、誘ってよかったとは思ってる。
 一人きりでぶらぶらしても、世界のどこに行っても、あの楽しさは味わえないと思う。
 ただ少し、気持ちの通じ合う人が隣にいるってだけなのにね。
 蛸がツボにはまってるのを見て笑いあっただけなのにね。
 敬介くんは……?」
 握った拳を胸に当て、少し考え込んだ。
「うん……まあ、俺も悪くはなかった」
 確かに最後は、電車の中で口論になり、惨めな気持ちで任務に向かった。
 だが、「全体として、楽しくなかったか?」「行って後悔したか?」と言えばそんなことはない。
 二人でいる間、心の中のチューニングが、空気そのものが変わった。
 訓練で己を鍛え上げる。蒼血を倒す……そんなふうにピリピリと張り詰めていなくても、のんびりと二人で過ごしているだけで、下らない会話をしているだけ でも幸せはあるのだと、知ることができた。
 凛々子はほがらかな笑顔を作った。
「だよねっ。敬介くんが一番楽しかったのは、どれ? クラゲ? 魂吸われちゃってたよね?」
「クラゲも良かったけどな……一番面白かったのはお前かな」
「えっ? ボク?」
「蛸がツボにはまってるとか、エイが戦闘機みたいだとか、くだらないことで大喜びしてるお前が、面白かった。なんだか子供みたいで」
「ひっどいなあ! 遊びで童心に還って何が悪いのさ!」
 また眉を吊り上げて怒る凛々子。もちろん本気で怒ってはいない。
 そうやって、しばらく軽口を叩き合った。特に凛々子がハイテンションになって、デート中の楽しかったこと、滑稽だったことを語った。敬介もだんだんとそ の場の空気に乗せられて、笑いながら話すようになった。
 不意に凛々子が壁際の時計を指差す。
「あ、もうこんな時間だよ? ボクも仕事あるから」
「ああ、わかった」
 簡単な挨拶を交わして、敬介は部屋から出た。
 ドアを背にして、呟いた。
「俺の気持ちを明るくするためかな……」
 唐突にデートの話を持ち出して方向転換して、そのあとずっと明るい会話だけを続けた。
 このままでは俺がずっと、ドロドロと暗い気持ちで悩んだままだと思って、少しでも楽にしようと考えたのか。
 その可能性は高い、と思った。
 いつだって強く気高く優しく、という約束を凛々子が守り続けているなら、それも有り得る話だ。
 あいつ自身、辛いのに。体の中に監視役が入っていて、戦おうにも戦えない、突破口のない状況なのに。
 俺は一体どうすればいいんだろう……

 (分割版の続きへ)


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