ブラッドファイト 
 
『蒼血殲滅機関』戦闘録

 分割6

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 二〇〇八年三月六日 二十三時五十分
 東京都千代田区 「繭の会」本部ビル近く

 敬介は夜の街を歩いていた。
 都心の深夜だ。あたりは窓の灯りの消えた高層ビルや、マンションらしき建物が並んでいる。高級中華料理店の大きな赤い看板が、たったいまネオンを消し た。
 ゆるやかな坂道が伸びて、その先には首都高速の高架が通っている。
 歩行者の姿はほとんどない。
 道路をゆく車も、たまにタクシーがあるくらいだ。
 だが、そんな静かな光景の中で一棟だけ異彩を放っているのが、並んだビルの向こうに頭を覗かせている教団本部ビルだ。窓はどこもかしこも光を放ってい る。ビルの屋上には「繭の会」と書かれた巨大な看板がライトアップされて鎮座している。
 戻ってきてしまった。
 雲に覆われた暗い空を仰いで、ため息をつく。
 くう、と腹が鳴った。
 時計を見れば、もう零時近い。
 ダメだ……一人になれば、考えをまとめられると思ったのだが。 
 あれから本部を出て、周囲数百メートルを歩き回った。あちこちの喫茶店に行ったり、公園のベンチに座ったり……考えをまとめようとしてきたが、いくら考 えても頭の中の霧は深まるばかりだ。
 ダメだ。今日はもう帰ろう。
 自宅のマンションには姉が待っている。
 心配しているかもしれない、一報入れてから帰ろう。
 携帯電話を自宅にかけてみると、誰も出ない。
 首をかしげ、今度は愛美の携帯へ。
「はい、あ、敬介?」
 真夜中であることをまったく感じさせない、元気な姉の声だ。
 背後で人々の和気あいあいとした話し声がする。
「あれ? もしかして……まだ本部にいるの?」
「もちろんよ。だって雑誌の企画が盛り上がってるのに、あんな大御所の先生が夜を徹して、どんな本にしようかって話し合っているのに私だけ帰るなんて、で きないわよ。あのね、雑誌の企画はすごく豪華になったの。元少年誌の編集だった人がついてくれてね……」
 すごい勢いで雑誌の内容を説明し始める。
「聞いてる、敬介?」
「ああ……」
 漫画を読む習慣は無いから専門的なことは分からない。漫画で宗教宣伝を行って、どこまで一般人に効果があるかは疑問だ。
 だが、姉が幸せであることだけで嫌というほど伝わってきた。
 まさに、嵩宮繭だけだ。「繭の会」だけが。
 姉に幸せを、生きる喜びを与えることができたのだ。
 これが壊されるところなど、想像もできない。
「いいよな……いいよな……」
 暗い空にそびえる、墓石のような高層ビルを眺めながら、敬介は呟く。
 自分に言い聞かせるように、何度も。
 殲滅機関を、裏切っても、いいよな。
 まだ決心は固まらない。だが心の中の天秤は、姉のほうに大きく傾いた。
「なあ、姉さん」
「ん?」
「いま外にいるんだ。買っていくものとかあるかい? もちろん今やってない店とかもあるけど」
「うーん……それじゃ缶コーヒー買ってきて。ボスね? もうすぐ切れちゃうの」
「コーヒーなんていくらでもあるだろう?」
「ボスじゃないと俺は脳細胞が活性化しないんだって」
「へえ……漫画家はいろいろあるな。わか……」
 わかった、と言おうとした。
 だが次の瞬間、周囲の大気をいくつもの閃光と、爆発音が満たした。
 とっさに地面に伏せる。伏せながら首をめぐらせて周囲を確認する。
 あたりを囲む複数のビル、その全てから煙と炎が吹き上がっていた。窓ガラスが砕け散って、きらめきながら降っていく。
  光源は炎だけだ。街灯がいっぺんに消えていた。マンションの踊り場や廊下には先ほどまで灯りがついていたのに、それも消えている。ヘッドライトの消えたタ クシーが、道路をメチャクチャに滑って歩道に乗り上げる。
「姉さん!? 姉さん!?」
 携帯に呼びかける。返事が無い。それどころか携帯の画面が真っ暗になって電源が切れていた。入れなおそうとしても反応しない。
 電子機器の、この壊れ方は見たことがある。強力な電磁波のパルスを浴びせられたのだ。殲滅機関はそのパルス発生器を保有している。敬介自身、実戦で使っ たことがある。
 来た。奴らが来た!
 姉さんを助けにいかないと!
 そう思って跳ね起き、坂道を駆けあがる。
 同時にバラバラという重低音が上空から迫ってくる。
 見上げた。
 頭上の空に、巨大な灰色の影が十も二十も浮いて、埋め尽くしていた。
 大きさは、ビルと比較して、ざっと二十メートル……大型トレーラーほどはあるだろう。巨大な二つのローターを旋回させながら舞い降りてくる。「チヌー ク」輸送ヘリだ。所属部隊を示すマークの類は一切ない。ただグレイに塗装されているだけだ。
 二十を数えるチヌークは、頭上を高速で通り過ぎてゆく。
 教団本部に向かっているのだ。
 だが、二機だけ降下してくる。
 走る敬介を左右から挟むように、二機のチヌークが降下してくる。
 一機のチヌークの側面ハッチが開き、シルバーメイルに身を包んだ隊員が姿を見せた。長い銃身の銃を持っている。銃の機関部からは弾薬がベルト状に垂れ下 がっている。弾薬は恐ろしく大きく見えた。まるでタバスコの瓶を無数に繋いだように。
 ななめ下、敬介に銃口を向けた。
 とっさに、路面に飛び込むように伏せて、全身のバネをフル稼働させて転がった。まったく同時に銃声が轟き、体のすぐ脇で路面が炸裂。腹に、背中に、鈍い 痛み。
 大丈夫だ、砕かれたアスファルトが肉に刺さってるだけだ、直撃されたらこんなもので済むわけがない!
 銃撃は一度では終わらなかった。かろうじて直撃は避けているが、逃げてもかわしても銃撃が追ってくる。
 営業を終えた中華料理店の駐車場、その脇に大きな植え込みがあるのが見えた。
 転がり続けながら植え込みに飛び込んだ。枝が力任せに折られて、折れた部分が顔面をえぐった。鼻の穴に小石や土が飛び込んだ。
 知ったことか、止まるな、一瞬も止まるな、止まったら蜂の巣だ。
 まだ機関銃の銃声は轟いているが、着弾点は植え込みから逸れている。
 少しは隊員の目をごまかせたらしい。この隙に植え込みから駆け出し、駐車場を一気に駆け抜けて、真っ暗になっている中華料理店のガラス戸を蹴り破って店 内に飛び込んだ。警報装置は鳴らない。やはり電磁パルスで壊れているのだ。
 店内にはコック服やエプロン姿の店員が恐怖と混乱の表情で立ち尽くしていた。
「あ、あんた一体……?」
「うるさいっ! 死ぬぞ伏せろ!」
 一喝し、自分も窓際に伏せた。伏せながら視界の端で窓の外を見る。
 ヘリがわずか数十メートルの距離に浮いて、店の周りを周回しているようだ。
 しばらくすると、そのヘリは去っていった。店の外から響いてくるローター音が、次々に途絶える。
 着陸している……どこにだ? 教団本部だけか? 周囲の道路や建物も全部押さえる気か?
 まだ一機だけローター音が残っている……距離は百メートルくらいか? 
 自分が伏せているので、見える範囲は空の上のほうだけだ。もっと広い視野が欲しい。
「あ、あ、あのさっ。あんた知ってるか? 一体何があったのか……」
 店員がおびえた声を掛けてくる。振り向きもせず、即座に答えた。
「今それどころじゃない! 鏡を持ってきてくれ。あと長い棒と、テープ。ガムテープでいい」
「え? あ?」
「SWATミラーを作るんだよ! 早く!」
「は、はいっ!」
 敬介の気迫に押されたのか、店員は這いずり、すぐに持ってきてくれた。
 鏡を手のひらサイズに割って、長い塗り箸にテープで固定した。
 その棒を上に持ち上げて、鏡を通して窓の外を見た。
 顔を出したら撃たれる、と判断してのことだ。
 やはり想像通りだった。空を埋め尽くしていた何十機ものヘリは、たった一機だけになっていた。他のヘリは、ひときわ大きなビル……教団本部の屋上に着陸 したのが三機ほど。教団本部周辺の駐車場にも何機か着陸していた。道路にも降りている。この中華料理店と教団本部を結ぶ道の、ちょうど真ん中に一機。
 みな尾部のハッチを開き、鈍く輝く装甲服の隊員たちを次々に吐き出している。隊員達は大きな装備を運んでいる。三脚のついた、小型の大砲……? オート マチックグレネードランチャーだ。
 路上に多数のグレネードランチャーを設置し、次々に射撃を開始した。オレンジに輝く弾道が教団本部ビルへと吸い込まれる。機関銃のように連続射撃が、何 百発と続く。だが爆発は起こらない。グレネードの弾頭が榴弾ではないのだろう。昏睡ガス弾と、シルバースモークだろうか? ビルの反対側からも同じような 炎の弾道が教団本部に襲いかかる。包囲するように布陣したようだ。
 路上に停車していたタクシーから、人影が這いずるように脱出した。殲滅機関の隊員は一瞬の躊躇もなく銃を向け、発砲した。人影はなすすべもなく地面に叩 きつけられる。
 本気だ。屋外の相手に昏睡ガスは効き目が薄いから、抹殺する気だ。
 今までの、俺が知っている殲滅機関とは違う。
 ローター音が近づいてきた。鏡を、巨大なチヌークの黒い姿が埋め尽くす。
 まだ一機、着陸していないものがいたのだ。
 そのチヌークの側面ハッチからは乗り出していた隊員が、先ほどとは違う武器を構えていた。
 リボルバー式の拳銃をとんでもなく巨大化したような武器。
 これもグレネードランチャーだ。
「お前ら伏せろ!」
 叫びながら、とっさにテーブルの柱にしがみついて、力の限りテーブルを倒した。テーブルを壁の前に立てかける形になる。テーブルと壁の隙間に隠れる。こ んなものでグレネードの直撃は防げない。だがせめて破片だけでも防ぐ。威力をわずかでも減らす。
 爆発はこなかった。テーブルの裏で衝突音がした。スプレーを噴射するような音。たちまち鼻をつく異臭が立ち込めて、激しい頭痛と眩暈が襲ってきた。普通 のグレネードではなく昏睡性ガス弾を撃ちこんできたのだ。
 敬介はあたりに散らばるガラスの破片を握り締め、太腿に突き立てた。激痛が弾けて、濁っていた意識が覚醒する。
 ……誰が気絶なんかするか。
 ……姉さんを助ける。絶対にだ。

 29

 ほぼ同時刻
 「繭の会」本部ビル 広報部長私室

 凛々子は布団を敷いて、寝巻き姿になって、部屋の明かりを消して寝ていた。いつものように、寝ている間の体の制御はエルメセリオンに任せて、本人は眠り の中にいる。
 爆発音がして、一瞬のうちに覚醒した。部屋の中は闇だった。目を開いた瞬間、超感覚を総動員して周囲の状況を把握する。あたりのビルがまとめて爆破され たとわかった。このビルに向けて多数の大型ヘリコプターが接近していることもわかった。強力な電磁パルスで周囲の電子機器が破壊され、送電も停止したこと も把握する。
『今だ、凛々子!』
 頭の中に響くエルメセリオンの声。
 いわれるまでもなかった。殲滅機関による攻撃が始まった。今こそ、ヤークフィースがつけた監視役の支配を脱する時。
 体を起こし、寝巻きの前を勢い良くはだける。圧倒的な量感と弾力を持つたわわな乳房が飛び出した。この胸の奥に監視役が潜んでいる。だから抉り出す。乳 房を鷲掴みにした。指先が乳房の細胞組織と融合し、潜り込んでいく。
『無駄だ!』『無駄ですよ!』
 脳裏に二つの声が響いた。監視役の声だ。同時に極寒の塊が胸の中で炸裂する。液体ヘリウムを血管に流し込まれたかのように「冷たさ」が広がっていく。胸 が、腕が、痺れて動かない。脊髄にまで極寒が侵入する両足の先まで到達した。
 瞬く間に体の制御を奪われた。いま凛々子が動かせるのは首から上だけだ。
 乳房の先端にそれぞれ一つずつ、デフォルメされた顔が生まれた。男の顔と女の顔だ。二人と醜い嘲笑を浮かべている。
『この程度のことで我々が動揺すると思ったか!?』『有り得ませんね、ヤークフィース様は必ず勝つのだから! この身体が渡しませんよ!』
 凛々子の意志を無視して身体が立ち上がった。寝巻きのまま、それどころか露になった乳房すら隠さずにドアを開けて廊下に飛び出す。
 廊下はすべての照明が消えて真っ暗闇だった。あちこちのドアが開いて、驚愕と不安の表情を浮かべる信者たちが出てくる。
「広報部長!」「いったい何が!?」「お導きください!」
 信者たちが口々に救いを求める。だが足が勝手に動き、信者を無視して走った。
 走りながら、廊下に並ぶ窓に拳を叩き込んで、次々に割っていく。廊下の箸から端まで、何十枚もの窓が木っ端微塵になった。
 何をやっているのか? 一瞬だけ凛々子は疑問に思った。
 疑問はすぐに解けた。窓の外でヒューンと甲高い発射音が弾けて、グレネードが次々に飛び込んできたのだ。グレネードは壁に突き刺さる。天井に跳ね返って 廊下に転がる。ガスを噴出した。
 消火器でも使ったかのように白い煙があふれ出す。窓の外へも広がっていった。すぐに目や鼻に激痛が突き刺さった。涙がにじむ。喉も、口の中も、カラシを 塗りこまれたように熱く痛い。呼吸が苦しい。咳き込んだ。ますます痛みが強くなる。筋肉が痙攣をはじめる。
「うえっ……」「うっ……」
 信者達がうめいて、即座に廊下に昏倒する。
 いつも通りの、昏睡ガスとシルバースモークの組み合わせだろう。
 なんのために窓を割ったのかは理解できた。窓から煙を逃がすつもりなのだ。
 ……でも、この程度じゃ大して減らないよ?
 疑問の答えはすぐに与えられた。凛々子の体は飛び上がって天井に取り付き、怪力で天井の板を引き剥がした。天井の裏から、何か円筒形のものが転がり落ち てくる。
 枕ほどの黒いガスボンベだ。O2という白い文字が描かれている。
 凛々子の手が動いて、むきだしの胸に押し当てられた。二つの乳房の真ん中に、手がズブリと沈み込む。手が肋骨を掴んだ。凄まじい力が加えられる。痛覚が 遮断され、血流が制御される。
 力任せに、観音開きに、肋骨を開いた。
 ぽっかりと口を開けた肺の中に、ボンベを突っ込んでまた胸を閉じる。瞬時に骨が繋がり、肉が再生してボンベを包み込んだ。
 ボンベから気体が流れ出して肺を満たす。ハッカ飴を舐めたような心地よい清涼感が広がって、痛みと熱さをすぐに追い払った。
「なんだこれ……酸素?」
 目を見張る凛々子に、監視役二体は勝ち誇った声で答える。
「その通りさ。銀対策程度、考えていないと思ったか? 要は空気を持ち歩けばよいのだ」
 そして凛々子の体は駆け出した。廊下に折れ重なっている信徒を避けようともせずに平然と踏みつけて、階段をすさまじい速度で登っていく。
 その時、ビルの下の方から凄まじい大音量の超音波が押し寄せた。蒼血の聴覚なら聞き取れる。
『われらが眷属よ! 私はヤークフィース。殲滅機関の攻撃が始まりました。しかし恐れることはありません。取り乱してはなりません。私は奴等を撃退する術 を持っています。奴等の装甲服も、銃も恐れるに足りません。
 『神なき国の神』として断言します。私は勝利をもたらすと。奴等は必ず、尻尾を巻いて逃げ帰ると!
 だから、今しばらく踏みとどまってください。信徒を守るために戦ってください。
 上位眷属の指示に従って冷静に撃退してください。私はすぐに参戦します。それまでは我が腹心、ライネルとリッケルに指揮権を与えます』
 凛々子の両の乳房にあるデフォルメされた顔が、歓喜の声で叫んだ。
「ありがとうございますヤークフィースさま! ライネルは感激しております!」
「このリッケル、必ず信頼に応えます!」
 そのとき、階段途中のドアが蹴り破られた。銃声が轟いて、階段を掃射される。シルバーメイルを装着した殲滅機関隊員が数人、ミニミ・ライト・マシンガン を撃ちながら降りてきた。
 凛々子の体は素早く跳躍し、階段から飛び降りて銃撃をかわした。一階下の階段の裏に貼りつく。
 足音と銃声がすぐさま下に追いかけてくる。開け放たれたドアの向こうから白いシルバースモークが流れてきた。すさまじい銃声も聞こえる。銃声の数は十、 二十……グレネードのくぐもった炸裂音も聞こえる。少なくとも何十人がすでに侵入して、激しい戦闘を繰り広げている最中だ。人間の悲鳴がまったく聞こえな いところを見ると、殲滅機関側の圧倒的優勢のようだ。
 だが、凛々子の体に巣食う二体は全く怯まなかった。ただちにブラッドフォースを発現させる。全身の筋肉が移動し、骨格が融解する。手足が細長く伸びる。 皮膚が黒光りする外骨格に変化する。昆虫形態に移行した。節を持つ長い手足は蟷螂か蜘蛛のようだ。最後に、顔の張り付いた乳房が外骨格に覆われ、巨大な複 眼を持つ昆虫の顔に変わった。
 四本の細長い手足、二つの頭をもつ異形の昆虫だ。
 いまや人間の形を保っているのは凛々子の頭部だけだ。
「ハアッ!!」
 自分の掴まっている場所のすぐ上まで隊員が降りてきた瞬間、奇声を発して飛び上がる。その速度は変貌前を遥かに上回る。
 隊員たちはすぐさま銃口を向けるが、至近距離から浴びせられる銃弾を巧みに体をひねってかわし、隊員たちの間、足元に体を沈めた。隊員たちが散開しよう と動く。だがそれより早く、隊員の一人の片足にタックルをかけて引きずり倒して、強靭な顎で脚に噛み付き、装甲服込みで二百キロを超える隊員を軽々と振り 回す。
 隊員の身体が巨大な矛となって旋回する。他の隊員たちが足を薙ぎ払われて倒れる。よろめく。銃を持っていられなくなって空中に銃が飛ぶ。凛々子の身体は その隙をつき、床を這って高速移動、針のように鋭く尖った手足をシルバーメイルの顔面に突き立てた。突き立った瞬間、手足の先端が高速回転を始めて防弾ガ ラスを貫通した。そのまま頭に突き刺さった。四本の手足が四人の顔に、同時に。
 一瞬で引き抜いて、体をどかした。
「きさまっ……!」
 階段の下に転がって攻撃を逃れた隊員が怒声を上げて、拾った銃を凛々子に向ける。
 だが、たったいま頭を貫通された隊員がすばやく立ち上がる。その体で銃弾を受け止めた。
「おま……?」
 当惑する隊員。声が途切れた。もう一人起き上がって彼を羽交い絞めにする。
「よくできました、ふふっ」
 リッケルとライネルが冷笑し、彼のフェイスシールドに腕を打ち込む。また回転する杭が彼に額に潜り込んだ。恐怖と驚愕に青ざめていた彼が、弛緩しきった 恍惚の表情になる。
 頭に杭を打たれた全員が、同じ表情だった。
「あんた……こいつらを洗脳して!?」
 凛々子はうめいた。ほんの一瞬で、蒼血の断片を送り込んだわけでもないのに下僕に変えるとは、エルメセリオンにもできない離れ業だ。
「その通りです。ちょっと脳の回路を繋ぎ変えただけです。私たち二人はね、戦闘能力ではゾルダルートの『魔軍』に及ばないかもしれない。でも……心を操る 力は誰にも負ける気はしないんですよ!
 さあ、行け! この階の人間を殺しつくせ!」
 命令された隊員達は、散らばった銃を拾って階段を駆け上がっていく。ドアを蹴り破って廊下に消えた。連続した銃声。怒声と悲鳴が飛び交う。仲間に銃撃さ れて混乱を来たしている。
「愚かですね、全く、人間は!」
「ああ。たかが数人洗脳しただけでこの始末。ヤークフィース様の言われるとおりだ」
 凛々子は言い返さなかった。それどころではなかった。
 この二体の「肉体を掌握する能力」を完全にあなどっていた。エルメセリオンを大きくしのいでいるなら、尋常の手段で体を取り戻すことはできない。
 ……あれしか、ないか……
 上の階の銃撃が止んだ。凛々子の身体が階段を上がって、廊下に飛び出す。
 シルバーメイルを着込んだ隊員たちが大勢倒れている。白い信徒服をまとい、顔が鱗に覆われた者達が銃をもって立っている。倒れて動かない隊員たちを足蹴 にして、あるいは顔面に銃弾を撃ちこんでいる。彼らは凛々子が現れるや否や歓声を上げた。
「リッケル様! 我らに指示を!」
「この階は制圧いたしました!」
「ライネル様たちのおかげです!」
「現在、階段経由の攻撃を食い止めています! 我々が優勢です!」
 わきあがった歓声を、凛々子の体は片手を挙げて制した。胸部分にくっついた昆虫の顔が、甲高い声を発する。
「喜ぶのは禁物です。この程度で奴らが退くはずがない。もっと体勢を立て直してまた来ます」
 まさに言った瞬間、廊下にずらりと並んだ窓から一つずつ、つまり同時に何十発ものグレネードが叩き込まれた。壁や天井に当たったグレネードが爆音をあげ て破片をまき散らす。とっさに蒼血たちは伏せるが、間に合わずに体中を破片に食い破られた蒼血もいた。
「迎撃なさい! すぐに来ますよ!」
 凛々子の体は廊下に仰向けに転がって、リッケルが甲高い声で指示を発する。
 指示は間に合わなかった。蒼血たちが伏せた状態から立ち上がるよりも早く、窓から一斉に何十人もの隊員が飛び込んできた。彼らの背後にはロープが下がっ ている。タイミングを合わせて上階から降下してきたのだ。着地と同時に、手にしたミニミ・ライト・マシンガンを容赦なく掃射。複数のミニミで一体の蒼血を 挟んで、左右から銃弾を叩きつける。床に伏せている蒼血たちは避ける術もなく肉体を粉砕されていく。
 凛々子の体が反射的に動いた。転がっている隊員の屍を蹴り上げ、銃弾がその隊員の屍をめった撃ちにしているわずかな隙に、手近なドアを突き破って室内に 飛び込んだ。
 室内は、信徒が泊り込む部屋だった。天井につかえる寸前の巨大な三段ベッドが部屋を占領している。ベッドの上には白い修行服の男女が転がって失神してい た。ガスが効いている。
 時間稼ぎにもならなかった。即座にドアが銃撃で吹っ飛んだ。コンクリートの壁も耐え切れず、腕が通るほどの穴が開いた。とっさにうつぶせに倒れ込んだ凛 々子の背中を、数百の銃弾がかすめて荒れ狂う。室内のすべての空間を舐め尽すような徹底掃射だ。ベッドが鉄屑になった。ベッド上の人間も殺戮された。血が 煙のように噴出して白いシーツを染めあげる。
「あっ……!」
 凛々子の唇から苦しみのうめきが漏れる。いくら人の死を見ても慣れることはない。助けられないことが辛い。うめいた瞬間、凛々子自身の頭に、背中に銃弾 が突き刺さる。頑丈な頭蓋骨と背中の外骨格が銃弾を弾き返すが、それでも痛みに筋肉が痙攣して息が止まる。一発だけでなく、何発も食らった。一ダースの削 岩機にめった刺しにされている気分だ。頭の上を、じっさいに命中する何十倍の弾丸が通過していく。
 ……起き上がれない……!
 この圧倒的な火力密度からして、起きて一歩も歩かないうちに眼球や関節など、弱い部分を撃ち抜かれるだろう。
 だが、怯んでなどいられない。肉体と精神の苦痛を押し殺して、頭の中で言葉を発する。
『ねえ、ボクに体を貸してよ。ほんの五分でいいんだ。この状況を打開して見せるよ』
  しかしライネルとリッケルは冷淡だった。まるで耳を貸さない。
『誰が貸すものですか』
『逃げる気だろ、その手に乗るかバカ』
『そんなつもりないって。ほんの少し貸してくれるだけでいいんだよ。だって、このままじゃ死んじゃうでしょ?』
『俺たちをなめるなよ?』
『この程度の状況、想定済みですよ』
『何度も使える手じゃないから、あんまりやりたくなかったんだがな!』
 またも頭の中で冷笑的な声で弾ける。身体が勝手に動いた。まず深く深呼吸して、酸素ボンベ内の酸素を思い切り吸い込んだ。瞬間的に仰向けになって胸骨を 開き、中からボンベを取り出す。
 部屋の外、廊下に向かって投げ出した。すぐにボンベは銃弾に貫かれ……
 次の瞬間、鮮やかなオレンジの炎が廊下に広がった。火の粉を散らして絨毯が燃えている。
 驚愕したのか、隊員が跳びのく姿が見えた。炎の勢いは凄まじい。何十倍の早回しで見ているようだ。廊下を覆いつくし、凛々子のいる室内にも侵入してく る。大量に転がっている屍を包んだ。屍に燃え移った。服がたちまち灰になる。大量の水分を含んでいるはずの人体さえも、枯れ木のように炎を噴き上げた。
 何が起こったのかはわかった。
 ボンベの酸素がばら撒かれて、物が極めて燃えやすくなっているのだ。薬莢の熱だけで引火したのだろう。
 重い轟音をあげて爆発が起こった。
 とっさに眼をつぶったが、瞼をつらぬいて真っ白い閃光が眼球を灼いた。高熱と衝撃波が全身を叩いた。
 眼を開いてみると炎が激化していた。膝ほどの高さだった炎が、いまや人間の頭まで。室内の空間という空間にオレンジの炎が充満している。炎だけではな い。空中でパチパチと、線香花火のように小さな火花が散っている。
 空気に混じった「銀の微粒子」が燃えたんだ、と直感した。金属は粉末化することで燃えるようになる。ひとたび燃えると木材などとは比較にならない高熱を 発する。
 隊員たちが持っていた銃を窓の外に投げ捨てるのが見えた。だが投げ捨てるのが遅かった隊員もいた。彼のミニミに取り付けられていた弾薬箱が爆発する。お そらく銃自体も、この炎熱地獄の中では使えまい。
 もちろん凛々子の体も高熱でダメージを受けていた。首から下の装甲は熱を防いでいたが、顔面の感覚がほとんどない。火ぶくれだらけになっているはずだ。 眼球も鼻の中も口の中も、焼けた鉄釘を打ち込まれたような激痛を発している。呼吸を止めるにも限度がある。肺の中の酸素が切れたら、あるいは装甲の隙間か ら熱が浸透してきたら、終わりだ。すでに血液温度が上がりすぎなのか、頭がぼうっとする。
 タイムリミットは三十秒。
 三十秒ほどで血液が沸騰して酸素を運べなくなる。筋肉も眼球も茹で卵のように硬くなって何の役にも立たなくなる。
 だがリッケルとライネルは自信があるようだった。体を操って立ち上がらせる。その動きは素早く、衰弱を感じさせなかった。
 廊下に飛び出す。廊下は部屋の中以上の灼熱地獄で、天井近くまで炎が渦巻いていた。転がっている屍はすべて服が燃え尽き、むき出しの肉も真っ黒に炭化し ている。
 シルバーメイルはこの熱に耐えられるのらしく、まだ多数の隊員が立っていた。銃を失っても闘志は健在で、一斉に凛々子へと襲い掛かってくる。
『勝てると思いましたか!』
『バカどもが!』
 頭の中でライネルとリッケルが嘲る。
 隊員たちの動きは、高フェイズの蒼血にとってはあまりに遅すぎた。凛々子の体は隊員のパンチをかわし、長い足で足払いをかける。隊員はバランスを崩し た。もう片方の足が超高速で跳ね上がって、倒れこむ隊員の顔面に激突した。フェイスシールドが破壊される。
「ぐあああ!」
 数百度におよぶ灼熱の空気を顔に浴びせられ、隊員は絶叫した。
 反対方向から飛び掛ってきた隊員を、手首の関節をつかんでひねったまま投げ飛ばした。二百キロを超える自らの重量のせいで手首の関節は装甲ごと完全に破 壊された。彼は悲鳴すらあげることができなかった。即座に凛々子の脚がフェイスシールドを踏み砕き、鋭く尖った爪が顔の骨を砕いて脳深くまでぶち抜いたか らだ。
 投げられることを警戒したのか、三人目の隊員は凛々子の脚めがけて低いタックルを仕掛けてきた。これも一瞬で顔面を蹴り砕く。その間に四人目が後ろに回 りこんで羽交い絞めにしたが、人間の関節では有り得ない形に腕が曲がって、羽交い絞めにしている隊員の顔を襲った。腕の先端がドリル状に回転、フェイスプ レートもろとも顔の真ん中を貫く。肉と骨が粉砕され、噴き出した血液が瞬く間に沸騰する。
  そのまま脚の内側の空洞を通して、頭蓋骨の中身を吸い上げた。
 ずうう。ずうう。ぶじゅるるる。
 脳漿と血液と、粉砕されて柔らかくなった脳が体の中に吸収されていく。体の温度が少しだけ下がる。
 まだ生き残っていた隊員達は、フェイスシールド越しにはっきりわかるほど狼狽の表情を浮かべ、後ずさりする。銃を捨てたままいっぺんに走って逃げ出し た。
  部屋を飛び出してから、わずか五秒。
 ……うわあ……勝っちゃったよ……
 凛々子は凄まじい戦いぶりに驚きながらも、焦りを感じていた。
 もっと苦戦してほしかったのだ。あるいは戦っているうちに酸素が切れて苦しむとか。苦しめば苦しむほど、体を支配する力が弱まる。凛々子がこの体を奪回 できる可能性が生まれる。
 ……もう手はない?
 ……いいや、まだだ。きっと……
  殲滅機関が諦めるとは思えない。この階で銃が使用不能だと言うなら、他の階、いや、他の建物を使う。
 窓の外に眼をやった瞬間、数百メートル離れた空に溶け込んでいる墓石のようなビルの一角で、ごくわずかな閃光が走った。
 まさにその通りだった。他のビルから狙撃してきた。凛々子の動体視力は自分の頭に向かってまっしぐらに進んでくる弾丸を捉えた。大きい。普通のライフル 弾の二倍、いや三倍はある、タバスコ瓶のように巨大な弾丸だ。 南アフリカには口径二十ミリ、装甲車をも撃破できるライフルがあるが、あれだろうか。極端 な大口径を使ったのは蒼血の生命力を恐れたか。
『こんなもの!』
 頭の中でリッケルが笑う。体を凄まじい速度で倒す。上半身が弾丸の進路から外れた。回避できる。
 凛々子が首の筋肉の力を振り絞って頭を振った。その反動で、倒れていた上半身が浮き上がる。脚が地面から離れる。
『なにを!?』
 凛々子のやろうとしていることを理解したらしく、ライネルたちは手足を振って逆方向の反動を作ろうとする。だが頭は重い。間に合わない。
 ライフルの弾道と凛々子の首の位置がピタリと一致する。頚骨の継ぎ目に乾電池ほどの極太弾丸が突き刺さった。装甲車をも破壊する圧倒的な運動エネルギー が解放される。筋肉が爆裂し神経束が切断された。
 この一瞬だけ、神経信号が全く届かなくなった。待ち望んでいた一瞬。
 頚骨が内側から爆ぜる激痛をこらえて、凛々子はわずかに残った首の筋肉と骨に変形を命ずる。胴体との連結を断ち、筋肉を思い切り伸ばす。首が胴体から離 れて宙を舞った。次は頭蓋骨に命じて弾性を細かく変化させる。頭だけになった凛々子が天井にぶつかって跳ね、壁にぶつかってまた跳ね返る。そのたびに軌道 を細かく修正する。
 狙い通り、窓から飛び出した。 
 猛火の中から一転、摂氏零度に近い薄闇の中に放り出された。
 空気を切り裂いて、上下逆さまになって落ちていく。
 脳への酸素供給がとまるまで数秒。その間にできるだけ周囲を把握しようと眼球をめぐらせた。動体視力と携帯認識能力を最大に高める。
 闇の中から、無数の銃撃・砲撃が火線となって吹き上がっていた。
 この教団本部ビルは、百人を超える部隊に包囲されていた。チヌークがざっと二十機ばかり、駐車場や周囲の交差点に着陸している。シルバーメイルを着込ん だ隊員たちが、あるいはオートマチックグレネードランチャーを路面に据え付け、あるいは無反動砲をかついで、ビルを見上げている。大型の狙撃銃を持ってい る隊員もいた。そして散発的にビルの中に砲弾を、グレネードを撃ち込んでいる。窓から逃げ出す蒼血がいたら撃って、内部の隊員を援護しているのだ。凛々子 の視力は隊員ひとりひとりの、フェイスシールドの向こうの表情までとらえることができた。
 ……どこに落ちるのがいい?
 ……どこが一番、安全に生き残れる?
 凛々子は下に落ちて、誰か隊員の体を借りるつもりだった。もし拒否され、問答無用で撃ってくるようなら強引にでも体を乗っ取る。そのためにはどこに落ち ればいい? もう意識が朦朧としてきた。装甲服を突破して体を乗っ取る時間が残されているだろうか? でも、やらなければ。
 その時、発見した。
 路上に展開して無反動砲をぶっ放している隊員の後ろ、ツツジの植え込みの中に、誰かが隠れている。シルバーメイルを着ていない。背広姿でうつぶせになっ ている。
 あれは敬介だ。眉間に皺をつくり、歯を喰いしばって何かの苦痛に耐えている。
 姉を助けに来たのだろう。隊員達の隙をついてここまでビルに接近したが、これ以上は無理なのだ。
 彼なら!
 凛々子は首の筋肉をヒレ状に展開させた。ミサイルの尾部についているフィンと同じ働きで、ヒレの角度を微調整して進路を変える。真下に一直線だった進路 を敬介のもとへと。
 火線の一本が凛々子へと襲いかかった。ヒレによる軌道変更だけでは避けきれない。額に受けた。激痛が弾けて視界が揺らいだ。
 まだだ、気を失っちゃダメだ。あと少し……
 ヒレをバタつかせて、銃撃でブレた軌道を強引に元に戻す。
 すでに高度は半分、数十メートルになっている。隊員達たちの顔が、触れられるほどに近く見える。
 敬介の隠れるツツジの茂みが、視界一杯に大きくなった。ごん、と鈍い衝撃が脳全体を揺らす。意識が途切れた。
  
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   30

 本部ビル近く 植え込みの中
 
 伏せて隠れながら、敬介は焦りに焦っていた。
 あたりが銃声で充満していても分かるほど、激しい鼓動が頭の中にまで伝わってくる。
 ……ダメだ……これ以上、近づけない……
 あの中華料理店を脱出してから、隊員達のわずかな隙をついて、木の陰から茂みのなから、ベンチの裏などを伝って、ここまで近づいてきた。
 だがこれ以上はダメだ。目の前に隊員が複数、陣取ってしまった。今は無反動砲をひっきりなしに撃ちまくっているから爆音のせいで俺に気付かない。だが戦 闘の経験でわかる。背後の植え込みにもこの隊員が注意を向けていることを。俺が身動きした瞬間、撃ってくるだろう。
 どうすればいい。
 俺は馬鹿だ。姉さんと一瞬でも離れちゃいけなかったんだ。
 一体どうすれば。
 喰いしばった歯がギリリと異音を発したその時、何かが目の前に降ってきた。
 枝に引っかかって減速したせいだろう、バウンドすることもなく転がる。
 転がって、頬にぶつかった。
 息が止まった。生首だ。
 短い髪の毛は茶色く焼け焦げて、ふっくらと丸かった頬は火ぶくれだらけで……
 凛々子だ、と気付いた。
 一瞬のうちに考えがまとまった。
 高フェイズの蒼血は首をはねられても即死はしない。これもまだ仮死状態だ。
 ……こいつを俺の体に繋げれば。
 首の切断面を自分の首筋に押し当てた。だがダメだ、何も起こらない。冷たい生肉の柔らかい感触が伝わってくるだけだ。
 きっと酸素不足で仮死状態になっているのだ。何らかの方法で、こいつの中に酸素を送り込んでやらないと……
 隊員が振り向いて、こちらに向かって発砲したのはその瞬間だった。
 全身のあちこちを銃弾がぶち抜いた。体中の筋肉が痙攣した。痛みはなかった。電流を流されたように、身体が制御を失って暴れる。一瞬後で、肩、腕、脚で 激痛と灼熱の感覚が膨れ上がってきた。手足の骨がナイフのようなバラバラの砕片になって、内側から筋肉を食い破り腱を引き裂いているような痛みだ。とても 耐えられない。全身の汗腺から一気に冷や汗があふれ出す。必死に引き結んでいた唇からも声があふれ出す。
「うううっ……」
 また銃撃。今度は膝を正確に撃ち抜かれたのがわかった。もう手足は何の役にも立たない。ただの激痛の塊だ。
 ただ一本、凛々子の生首を抱え込んでいる右腕を除いては。
 痙攣する右腕を渾身の意志力で押さえつけて、凛々子の髪の毛を掴んで生首を動かす。大出血を続ける肩の傷跡に、力のかぎり押し付ける。
 ……入れ!
 ……入れ!
 ……俺の血! こいつの中に! 凛々子の中に!
 ごぼり。
 泡の音がした。
 肩の傷口に、温かい感覚が生まれた。たちまち全身に広がっていく。凍えるような日、ぬるめの風呂に全身を浸したときのような、肉体がそのまま溶けていき そうな心地よさだ。そんな心地よさが、銃創の激痛を跡形もなく押し流した。
「凛々子!」
 声を上げて凛々子の顔を見る。彼女の火ぶくれだらけだった顔の皮膚が剥がれ落ち、下から真新しい、傷一つない白い肌がのぞく。焼けて短くなっていた髪が 伸びる。
 そして、目を開けて微笑んだ。
「敬介くん……ありがとう」
「すまん凛々子。俺の体を貸してやる。だから頼みが……」
「お姉さんを助けるんだよね? それ以外ないもんね。じゃあ、もう決めたんだ。お姉さんのためなら殲滅機関を裏切ると? でも、それならボクとは目的が違 う、敵対することに……」
「そんな細かい話はどうでもいい、頼む、今はお前の力が必要なんだ!」
「どうでもいい?」
 凛々子の声が一瞬だけ当惑の色を帯びた。
「まあ、いいけど。その話は後で。体の制御はボクがやるね。お姉さんを助けたあとは、ボクの好きにさせてもらう」
 宣言とともに、体が勝手に起き上がった。
 すぐさま、凄まじい銃撃が浴びせられるが、小刻みなステップで全ての銃弾を軽々と回避して、敬介は走り出した。
 ぐん、と、すさまじい加速が首にかかった。
 最初の一歩で時速百キロを越える。だが見える。あたりに布陣する隊員たちの顔が、これだけの速度にもかかわらずはっきりと、唇の隣のホクロまで見える。 自分に向かって殺到する銃弾さえもゆっくりと見える。銃弾は虹色に光る螺旋を引っ張っていた。空気の揺らぎさえもすべて認識できるのだ。
 ……すげえ……
 これが、フェイズ5の見ている世界。
 隊員達の間をすり抜けて、敬介は走る。
 その瞬間、左右からの銃撃が彼を挟み込んだ。
 かわしきれない弾丸が数初、肩や背中をかすめた。
 痛みはない。服が抉られるのを感じたが、下の皮膚がたやすくライフル弾を弾き返していた
 フェイズ5は大したものだ。鱗でも外骨格でもなく、人間の姿を保ったままで装甲化を実現している。強度はフェイズ4の外骨格と同じ程度はありそうだ。
 ……これなら、いける!
 ビルに駆け寄り、大きく跳躍して窓から飛び込んだ。この階はもう制圧されていた。たった数人の隊員がシルバーメイル姿で見張りについていただけだ。
 敬介の姿を認めるや銃撃してくるが、また素早く跳躍して彼らの頭の上を通り過ぎる。
 ……それでいい。闘っている時間が惜しいからな。
 階段で上の階に、そのまた上の階に昇った。
 何階か昇ると、蒼血と殲滅機関が激闘を繰り広げるまっただ中に飛び出した。
 殲滅機関局員が行く手を遮った。顔面が鱗で覆われた蒼血の大群が一斉に飛びかかってきた。
 無言で彼らの弾丸をかわし、彼らの間をすり抜ける。どうしてもよけ切れない場合だけ、彼らを蹴り飛ばして道を開いた。
 いちいち倒していくよりこの方が早いのだ、と敬介には分かった。胸の奥が息苦しくなりつつある。さきほどからまったく呼吸せず、肺の中の酸素 だけで行動しているから苦しいのは当然だ。
 この調子で体を動かせば酸素切れは近い。時間がないのだ。
 階段を時速百キロ以上で駆け上がりながら、敬介は踊り場の階数表示を見た。
 十二階。
 姉がいるのは十五階。もう少しだ。
 と、そのとき、上の階から自分以上の速度で駈け降りてくる者がいた。手足のひょろ長い、首のない、黒い影が。
 相手をしている時間はない。とっさに飛び跳ねて頭上を抜けようとしたが、黒い影もまったくタイミングをあわせて跳躍した。
 空中で衝突する寸前、視界を銀色の閃光が一閃した。顔面に向かって、超高速の突きが飛んでくる。
 体を空中で捻って回避を試みた。かわし切れない。肩を鋭い何かが深く抉った。皮膚が突き破られて肉と骨が飛び散った。
 階段の上に叩き落とされた。とっさに受け身を取って頭からの落下を防ぎ、立ち上がって身構える。
 五段ばかり上に立つ、影。
 異様な姿だった。服はまったく身につけていない。そのかわり、黒い外骨格が全身を覆っている。手足は普通の人間の二倍も長く、節くれだってい た。両腕の先には螺旋状の刃があって、凄まじい速度で回転していた。
 フェイズ4の昆虫形態だ。
 ただし、過去に見たものとと違って首から上がない。そのかわり、女性の乳房のあたりに、巨大な複眼を持つ頭が二つ、くっついていた。
「こんなところにいましたか」
 昆虫の顎が動き、金属的で聞き取りづらい声を発する。
 ……なんだ、この化け物は?
 頭の中で発した呻きに、凛々子が思念で答える。
『だからこいつが監視役だよ! リッケルとライネル。かなり強いよ』
「醜い姿になりましたね、エルメセリオン、そうまでして我等に楯突くのですか」
「いくらでも、楯突かせてもらうよ!」
 そう言って凛々子は両腕を交差させた。肘から先に熱い感覚が広がって、腕が剣に変形した。
「やっ」
 気合を入れて、異形の昆虫……リッケルとライネルに斬りかかった。 
 だが異形の昆虫は長い脚を素早く動かし、凛々子の腕を蹴り上げようとする。脚の先端もドリルのような刃が高速回転していた。凛々子はなんとか脚をかわし て距離を詰めたが、かわし方を予期していたのか、体を傾けてよけた方角に、腕のドリルが待ち構えていた。
『……うっわ!』
 凛々子はとっさに腕の剣を振りかざし、敵のドリル腕と衝突させた。不快な金属音がまき散らされて、衝撃がこちらの腕に伝わってくる。剣はドリルの破壊力 に耐えた。だが体が吹き飛ばされてよろけた。思い切り階段を蹴り、跳んだ。長い敵の腕が空中を伸びて追いかけてくる。額を、肩をかすめた。なんとか避け きって、階段に着地した。
 敵との距離は六段。先程より間合いが伸びている。
「こちらから行きますよ!」
 異形の昆虫が体重を感じさせない高速移動で駆け下りてきた。左右のドリル腕で連続した突きを繰り出してくる。凛々子は剣でドリルを捌き、あるいは避け る。数発にひとつ、敵は蹴りまで混ぜてくる。ステップを踏んで避けると、着地の瞬間を狙って腕のドリルが襲ってくる。体をのけぞらせ、あるいは後ろに飛び のいてギリギリで回避する。
 足の裏に、広い平面の感覚。階段を降りきって踊り場まで来てしまった。一気に数歩分の距離を飛んで後ろに逃げる。だが敵は一瞬も送れずについてきた。
『どういうことだよ! お前より強いってのか!?』
『そんなことないよ。いくらなんでも本来なら勝てるよ。でも……』
 そこで凛々子は意を決したのか、強い調子で問いかけてくる。
『よけいなことを考えてるでしょ、敬介くん?』
『おれが!?』
『うん。人間はどうしても、攻撃がきたら後ろに跳んだり、転びそうになったらバランスをとろうとしたり、そういう行動をとっちゃうよね。敬介くんも無意識 のうちに、そういう信号を出してるの。でもそれはボクがやりたい行動とは、ほんの少しだけ違うの。違う信号がノイズになって、いまの体の反応が悪くなって るんだ。絶対に何も考えないで、ボクだけに任せて』
『そんなこと言われたってよ……』
 反射的に思ってしまうことをやめろ、と言われてもやめ方が分からない。
 そんな問答をしているうちに、背後に壁が迫る。追い詰められた。
『だよね、じゃあ交代する。ボクは黙ってるから、敬介くんが動かして』
 すうっ、と、体の中を熱い何かが移動するのがわかった。首に繋がっている凛々子の頭から「何か」が飛び出して、胸を通って頭の中に上がってくる。
 エルメセリオンだ、と分かった。
 頭の中に渋い老人の声が響いた。
『任せたぞ』
 そのとたん体から力が抜けた。凛々子が出していた『体を動かす信号』が急に消滅したのだ。弛緩した体は後ろに倒れこもうとする。
 その隙を逃さず、敵は両腕のドリルを連続して打ち込んできた。敬介は両腕の剣で片方を払いのけるが、もう片方は無理だった。あまりにも勢い良く剣を動か してしまって空を切ったのだ。
 左腕の肘部分をドリルが貫き、肉も骨も一瞬で滅茶苦茶に引き裂かれた。すべての神経と腱も断ち切られた。血液が真っ赤な煙となって吹き上がる。
 肘から先の、剣に変化した腕が吹っ飛んで、壁に突き刺さる。
「うっ……がああ!」
 悲鳴をあげた。
 どうする。激痛の中で必死に思考をめぐらした。
 すぐ前に敵。後ろは壁。ジャンプしようにも長い脚で迎撃される。左右に逃げるのが合理的だが、そのくらいは相手も読んでいるだろう。俺はまだ、この体 に……フェイズ5のもたらす超絶的な運動能力に慣れていない。力を使いきれない。
 だったら……!
 敵がドリル腕でさらなる突きのラッシュをかけてくる。
 敬介は、まっしぐらに突進した。右腕はダラリと体の横に下げたままだ。
 敵の腕が右の胸板に直撃し、肉をえぐり骨を木っ端微塵にして、さらに深く深く突き刺さる。
 ドリルの回転の感触がなくなった。先端部は完全に胴体を貫通してしまったのだ。それでも突進の勢いは止まらない。長く細い腕が、根元まで胸の穴に埋まっ た。
 敵は、目の前。長い脚のおかげで敵は背が高く、敵の胸が敬介の顔あたりだ。
 肺に大穴を開けられて、空気中の銀粒子が流れ込む苦痛は壮絶なものだ。だが敬介はありったけの意志力で胸の筋肉に大号令を発する。
 締めろ、ただ締めろ。
 大胸筋と背筋の強烈な収縮が、敵の腕を締め上げ、くわえ込んだ。
「なっ!?」
 敵が敬介の狙いに気付いたのか、悔しげな声を上げる。だがもう遅い。もがいても腕は抜けない。敵の素早さは封じた。リーチの長さも封じた。
「オラアッ!」
 敬介は目の前の敵に向かって、大きく胸から突き出した昆虫の頭に向かって、渾身の頭突きをぶちかました。頭蓋骨と外骨格が激突する。
「オラアア! オラアアア!」
 蛮声を張り上げて何度も繰り返した。何か柔らかい物が潰れる感触があった。粘液が飛び散って、目にまで滴り落ちてくる。
 見ると、敵の頭の複眼が潰れていた。まるで極小の鱗のような眼がたくさん剥がれ、内部が露わになっている。複眼の内側が白い無数の糸と粘液で構成されて いることを初めて知った。糸は神経線維だろう。
 潰れた複眼の内側に、右手を突き入れる。剣の形じゃやりづらい、と思った瞬間、手が元の形を取り戻した。五本の指で握りこぶしを作って、神経線維の奥深 くにねじ込んだ。複眼の奥には、糸ではなく豆腐のように柔らかい塊が、長く伸びている。なんだろう。力ずくで破壊して、さらに奥へ。
 敵はもう腕を抜くことを諦めたのか、もう片方の腕を大きく曲げ、敬介の背中に回した。後ろから突き刺すつもりだ。
 避けない。避けようがない。
 敵のドリルが背中に突き刺さった。すでに空いている大穴のせいか、もう痛みも感じない。痛みを感じる力さえ、使いきってしまったかのようだった。
 ああ、この場所は心臓だな。今度は的確に心臓を狙ってるな。そう分かった。
 ガチガチに緊張し収縮した筋肉さえもドリルは回転で引き裂き、心臓めがけて突き進む。
 どちらが早いか。
 ドリルの先端が心臓に接触し、心臓が痙攣して跳ねる。今まで感じていたのとは違う種類の、冷たい激痛が敬介の体の中心で炸裂する。暴れる心臓にドリルの 先端がめり込んだ。
 同時に敬介の手が、敵の体の中で激しく脈動する物体を掴んだ。
 握りつぶす。熱い血が手の中で弾けた。頭上高く引きずり出す。
 ずるり、ぬるりと、いろいろな物が一緒に引きずり出された。
 突き上げた敬介の手は真っ赤に染まっていた。昆虫の姿をしていても血の色は赤い。手のひらの中には潰れて赤いボロ切れになった心臓と、白い、柔らかい紐 が何十本も絡まったようなもの。
 脊髄だ。
 脊髄の中に、ふたつの蒼いアメーバが潜り込んでいた。
 引きずり出した脊髄を床に叩きつけ、踏みにじる。特にアメーバの部分を念入りに。
 銀も充満していることだし、まず復活はあるまい、と判断できるまで十回以上も踏んだ。
 ようやく体から力を抜く。まだ自分に腕を刺したままの敵を振りほどいた。力なく崩れ落ちる。
「ううっ……」
 ようやく痛みにうめく余裕が生まれた。声を発すると、胸に開いた大穴から空気がヒュウと漏れ出し、かわりに銀が入ってきて、ますます肉体組織が灼かれ る。胸の大穴に手を当てる。治れ、傷が治れと念じる。じれったいほどにゆっくりと傷口が塞がりはじめる。
『ば、ばいおれんす〜。男の子って野蛮だよ……』
『バカなこと言ってないで。傷はもっと早く治らないのか?』
『難しいよ。銀が体に入りすぎた。あらゆる能力が落ちてる。どこかでじっくりと銀を抜かないと』
「そんなことやってる場合か!」
 思わず叫んだ。叫んだ拍子に空気を吸い込んでしまい、喉が銀に焼かれる。
「ううっ……」
『あ、そうだ! こいつの胸を開いてみて!』
 凛々子に言われたとおり胸を開いてみたら、大きな黒いボンベが出てきた。「O2」と書かれている。
 敵は二本目のボンベを補充していたのだ。
「酸素!」
 飛びついた。どこからどうやって吸うのか考えるのももどかしい。とにかく銀に汚染されていない空気が恋しかった。指を突き刺してボンベに穴を開け、吸 う。ただ一心に吸う。
「ああっ……」
 酸素が体に染み渡る。銀が少しずつ排出されていくのがわかる。頭の中に腐った泥が詰まっているような不快感が、筋肉の痙攣が、粘膜の焼けるような痛みが 薄らいでいく。胸の大穴が塞がって、切断された腕が生えた。
 ボンベは空に近かった。最後の一息を肺の中に深く吸い込んで、味わいつくした。
 また息を止める。
 あと少しだ。
 次の階は凄まじい火災の跡があった。階段を覆う絨毯はすっかり黒焦げで、階全体に肉や脂の燃えた悪臭が満ち溢れている。そして、階段といい廊下といい、 殲滅機関と蒼血が激しい戦闘を続けていた。
「どけっ!」
 回復した運動能力で、戦闘の頭上を飛び越え、あるいは隙間を走り抜ける。弾丸もいまの敬介をとらえることはできない。
 ついに15階にたどりついた。
 ドアを開け放ち、暗い廊下に飛び出す。
 銃声はなかった。誰もいない。
 今までの廊下とは違って狭く、絨毯ではなく光沢を持つリノリウムが敷かれている。左右の壁には掲示板があって何かのグラフが貼り付けられている。
 ここから上は、もともと客室ではなく事務所として使われていた階だ。
 空気には硝煙の臭いがほとんど混ざっていなかった。つまり大規模な戦闘がなかったのだ。血の臭いも薄い。かわりに強いのは昏睡性ガスの、消毒薬に似た鼻 を突く臭いだ。
 廊下は照明が消えて真っ暗だが、それだけで、死体が転がっていることはない。
 胸が期待で高鳴る。知らず知らずのうちに拳を固く握りしめてしまう。
 ……いける、これはいける。
 ……これなら、姉さんはきっと生きてる!
 廊下の曲がり角から、二人組の隊員が現れた。驚いた表情で敬介に銃を向ける。
「撃たないでください! 天野敬介です!」
 叫んだが無視して撃ってきた。発射された弾丸を軽く片手で払いのけて、一瞬で間合いを詰める。隊員の肩をつかんだ。シルバーメイルの装甲に指がめり込 む。
 隊員がさらなる驚愕にこわばる。敬介はできるだけ優しい声で尋ねた。
「この階で戦闘はなかったんですね?」
「あ、ああ……この階ではほとんど闘わずに、蒼血は退却した。現在は教団員の治療に当たっている」
 ……大丈夫だ! 姉さんは無事だ!
 姉のいる部屋を目指した。
 第一広報部というプレートのある部屋にたどり着く。その部屋の前にも隊員がいて、担架で人間を部屋から運び出していた。
「どいてくれ!」
 怒鳴りつけて部屋の中に入る。
 部屋の中にはスチール机が整然と置かれていた。十数人の人々が崩れ落ちている。女性が多い。姉の言っていた漫画家たちなのだろう。 隊員達が、倒れてい る人々の顔に吸入マスクを当てている。
 隊員の姿などろくに眼に入らない。期待と興奮で肩を震わせながら室内を見渡した。姉さんはどこだ。
 愛美はいた。窓際の席で、スーツ姿で、座ったまま机に突っ伏している。机の上にはノートパソコンが広げられている。
「姉さん!」
 ……やっと来たよ。無事でよかった。姉さん。
 ……いま助けてあげるからね。俺がいるから。蒼血の力で治療できるから。だから姉さん。
 駆け寄って、手首を取った。
 つめたい。
「え」
 敬介の唇から怯えの声がこぼれた。体が硬直した。
「ねえ……さん?」
 肩に手をかけて起こした。上半身が起き上がった。頭は前方に垂れたままだった。
 べちゃり、ごぶりと、泥を踏みつけたときのような汚らしい音がした。
 なんだと思って見ると、机の上、ちょうど愛美の顔のあったところに灰色の粘液がぶちまけられていた。コップで二、三杯ぶんはあるだろうか。粘液の中に、 崩れた豆腐のような固形物がいくつか混ざっている。
「ねえさんっ!?」
 ぐちゃぐちゃに濡れている姉の髪を掴んで、顔を起こして横から見た。
 愛美には額がなかった。
 眉から髪の生え際にいたるまでの頭蓋骨が砕かれて、まるごと穴になっていた。大きな穴の中は薄暗く、灰色で、ぐちゃぐちゃに攪拌された脳髄が見えた。ウ エハースのような骨片もある。
 青ざめて、恐怖にこわばった表情で……
 絶命していた。
 即座に金切り声でわめいた。
「エルメセリオン! エルメセリオン! 姉さんを! 姉さんを早く!」
 一瞬の沈黙をおいて脳裏に響いた声は、いつも以上に重苦しかった。
『……無理だ。前頭葉が完全に破壊されている』
「だ、だ、だって! そんな!」
 敬介の口からこぼれたのは、甲高く震えた、泣き出す寸前の子供の声だった。
「なんで、なんで……ここにはいないのに! 蒼血もいない、戦闘もなかった、なのになんでっ!」
 敬介は震えながら視線を泳がせる。
 見つけてしまった。「なんで」の理由を。
 愛美の机に面した窓ガラスに、拳ほどの穴が開いている。破口は真円に近い。高速で何かが、ガラスを突き破って飛び込んできたのだ。                                   、
 気づきたくはなかった。だが気づいてしまった。
 グレネードだと。
 殲滅機関が大量に撃ち込んだ、昏睡ガスと銀粒子満載のグレネード。それが最悪の偶然で、姉の頭蓋骨を叩き潰した。炸薬を内蔵していない金属の 塊でも、直撃すれば人間を死に至らしめることはある。
 だから。
 はちきれそうだった心臓の鼓動がさらに速まった。
 だから、これは。
「せんめつ、きかんが」
 蒼血ではなく、間違いなく殲滅機関がやったこと。
「せんめつ、きかんが……」
 まったく同じ言葉をもう一度繰り返した。自分の声なのにどこか遠くのほうから聞こえるようだった。
「おい!」
 誰かに声をかけられた。
 敬介はゆっくりと振り向く。目の前には殲滅機関隊員が立っていた。
「……あ」
 隊員がなにか喋ろうとした。彼の言葉をかき消して敬介は絶叫した。
「おまえかっ!!」
 絶叫とともに、胸の奥、心臓のあたりで、とほうもなく熱いものが爆ぜた。『熱さ』は瞬時に手足の隅々にまで広がり、皮膚を突き破って飛び出し た。
 突起だ。いや、針だ。鮮やかな紅色の、何千本という鋭い結晶の針が体をよろったのだ。ビッグサイトで戦った、あの巨獣のように。全身の服が針に裂かれて 四散する。
 『熱さ』はまだ消えない。手足に集中した。手足の指が伸びる。筋肉が膨張し、骨が変形しながら肥大する。五本の指は、細身の包丁を並べたような巨大な鉤 爪になった。肉食恐竜のような爪でもあり、神話の怪物のようでもある。足も同じだ。
  変貌を遂げた敬介は、目の前の隊員に向かって絶叫をあげて襲い掛かる。
「あああああっ!」
 巨大な足の爪で床を抉る駆動力、両脚の筋力、背筋力に腕の力。すべての力を束ねて、右手の鉤爪に乗せる。五本の長い爪が超音速で、隊員の顔面めがけて突 き込まれる。
 命中の直前、冷たい痺れの感覚が右腕の筋肉に絡みついた。筋肉に別の命令が割り込んでくる。骨格と腱がきしんだ。強引に軌道修正された。
 鉤爪は隊員の顔のすぐ脇をかすめた。フェイスシールドにヒビが入る。肩口からタックルする形になって、吹き飛ばされた隊員は机の上を転がっていった。
 だが殺せなかった。
「きさまっ」
 室内の隊員たちが敬介に銃を向けた。
「お前でもいいっ!」
 敬介は再び叫んで飛びかかる。発砲されたが、銃弾は敬介の胸や肩に命中してあっけなく弾き返される。
 敬介の視界の中で隊員の顔がアップになる。ゴーグルで覆われていない口元が恐怖に引き攣っている。
 ……そうだ、死ね!
 必殺の憎しみを込めて、今度は引き裂く形で爪を振るう。
 だがまたしても隊員の顔から外れて、肩の装甲を裂いただけだ。蹴りを放つ。同じだった。命中の直前で誰かが邪魔をする。頭を木っ端微塵にするつもりの蹴 りが、胸に突き刺さって装甲を変形させた。衝撃が中の肋骨を砕いた、と確信があった。隊員は転がって椅子を薙ぎ倒し、うめきを発する。
 しかし殺せなかった。
 そればかりか、手足に冷たい痺れが満ちていく。鎖で縛られたように重い。動かせない。敬介は棒立ちになった。
「凛々子ぉぉっ!邪魔するなあっ!」
 敬介が吼えると、頭の中に、凛々子の焦った声が響く。
『だめだよ敬介くん。殺しちゃダメだ。きっと後悔する。だって一緒に戦った仲間だよ? 隊員の中で誰が撃ったかも分からないのに、無差別に……』
「うるせえッ!」
『それに敬介くんだって、機関が教団を攻撃することはわかってたよね? 当然こんなリスクだって……』
「うるせえって、いってんだよ!」
 わかっている。凛々子の言っていることはわかっている。頭では姉を喪う危険性などわかっていた。隊員たちが当然の職務を遂行したこともわかっている。敬 介の怒りには一片の道理もない。
 だが、どんなにわかっていても。心が、血が、この現実を許さないのだ。
 俺が常にそばにいれば。俺がもっと早く、殴り倒してでも教団をやめさせていれば。俺があの時、ビッグサイト会場で錯乱しなければ。
 俺が、俺が、俺が……
「ああああっ!」
 またしても叫び、金縛りにあっている手足に、ありったけの意志の力を送り込む。
 隊員達は、敬介を完全に敵と認識したらしい。しゃがんで机を盾にしながら撃ってくる。グレネードを撃ってくる奴もいる。
 何百という銃弾が肩、腹、胸を叩いた。だが痛くない。こんなもの針状の装甲が弾く。グレネードが胸を直撃して爆圧を解放したが、それでも装甲は耐えた。 そんなことよりも、何もできなかったことが痛い。裁判も、記憶操作も全て意味がなかった。全て失われた。すべて終わりだ。いま自分の中を荒れ狂っている激 情がなんなのかわからない。怒りか虚しさか悲しみか。無形の感情で頭と体が内部から弾けそうだった。
 だから、だから。
「うるせえって……どけよお前らぁっ!」
 吼えて、懸命に手足を動かそうとする。殺す。こいつらを全て殺すんだ。何の意味もない愚かな逆恨みだということは分かっている。だがそれ以外、なにも考 えられない。どうにかして手足の自由を。奴らの頭蓋を握り潰し、奴らの胸板を蹴り破る自由を。
「ぬあああっ……!」
 体中の筋肉という筋肉が痙攣する。わずかに、右腕の痺れが薄らいだ。指を動かしてみる。骨がきしみながらもわずかに手が開いた。
『うそっ!?』
『信じられん! フェイズ5の支配力を、人間が!?』
 凛々子とエルメセリオンが驚きの念を発する。敬介は口元を笑みの形に歪めて、なおも手足の筋肉に意志を、激情を送りこんだ。
 もう一度右手を動かす。閉じて開いて、腕を前後に振って……動く。
 この腕は、自由を取り戻した。
『やめて!』
 凛々子の声が切なさを帯びた。
『お願いだからやめて。きっと後悔する。ぜったいだよ。ボクいろんな目にあってきたけど、人を死なせたときは、殺したときは、ぜったい後悔したよ。相手が どんな奴だって! 憎くたって! そんな、ぜったい、誰のためにもならない! お姉さんも喜ばない、敬介くんの気持ちも晴れない。絶対に。ボクはそれを 知ってる。たくさんの戦場で、たくさんの復讐者を見たよ! でも、みんな! だからお願いだよ!』
「だまれっ……!」
 こいつを、少し黙らせれば。
 それだけのつもりだった。わずかに傷つけて集中力を奪えばいい、そうすれば他の腕も動く、としか思っていなかった。
 しかし敬介の自由な右腕は、ギリギリまで撓んだバネが復元するように、凄まじい速度で動いた。
 胸の前の空間を薙ぎ、肩に生えている凛々子の首へと襲い掛かった。
 鋭い五連の刃が両の眼に突き刺さり、眼球も鼻もまとめて粉微塵にして深く深く突き進む。ちょうど目の高さで脳髄が上下に両断される。衝撃波で脳組織が沸 騰し爆裂する。頭蓋骨の奥に爪が当たってようやく止まる。
 敬介が「生ぬるい泥に手首を突っ込んだ感触」を覚えたときには、もう全て終わっていた。
 体を支配する力が消えた。だが敬介はそれどころではなかった。荒れ狂っていた「熱さ」が一滴残らず消えていた。机と机の間に、そのまま尻餅をついてしま う。
 脳を破壊されればフェイズ5の力でも治せない。つい先ほど思い知らされたことだ。
 もう頭の中に凛々子の声は響かない。あれほどやかましかったものが全く。
 そうだ。凛々子は死んだのだ。
 姉は殲滅機関が殺したが。凛々子を殺したのは、自分だ。
 なんで? なんでこんな……?
 混乱し、震える体。思考をまとめようとした。
 でも、でも俺は姉さんを……姉さんのほうが大切で……姉さんの仇をとりたくて……こいつが邪魔したから。
 だから俺じゃない俺は悪くない。そう思考をまとめようとする。
 その時、これまで聞いた事があるなかでもっとも重苦しいエルメセリオンの声が響いた。
『……私は。私は。お前を』
 地獄の底から響く声だ。心臓が縮み上がり、冷水をかけられたように思考のぼやけがまとまった。
 そうだ。俺はこいつの長年の相棒を殺してしまった。俺を憎むだろう。俺に復讐するだろう。
 だが一瞬の沈黙の後、エルメセリオンは低く、小さく、こんな言葉を搾り出してきた。
『……お前を。憎まない……』
「なぜ!?」
 あえぐような敬介の声に、エルメセリオンは答えた。
『凛々子が、最後まで貫いたからだ。
 彼女は約束した。けっして人間を蔑まず、苦しむ人々を救い続けると。
 そして私は言った。ならば私は力を貸すと。
 だからできないのだ、君を憎むことは。
 凛々子が最後まで救おうとしていたのは君だからだ。ここで君を憎んだら……凛々子がやろうとしたことを踏みにじることになる。できない。絶対に。彼女が 約束を守ったように、私も、だから私は、彼女が救おうとした人を憎めない。みてくれ、この顔を。これを踏みにじれるわけがない』
 そう言われて、敬介は凛々子の顔を覗き込んだ。
 息が止まった。心臓がすくみ上がった。
「あ……」
 そこにあったのは、ただ祈りだった。
 顔面はむごたらしく破壊されていた。両眼と鼻は跡形もなく、郵便ポストの投函口ほどもある横長の穴に変わっていた。眼球と脳が砕かれて混じり あって、薄桃色の粥になって頬に流れ落ちていた。
 それでも。顔の下半分だけで十分だった。
 原型をとどめている唇、頬には真剣な祈りがあった。
 普通の人間には判別できないだろう。だが敬介にはわかった。
 その顔を、その表情を、かつて姉は浮かべていたのだから。数え切れないほど見てきたのだから。
 ただ、目の前にいる相手に幸せであって欲しい、という気持ち。
 それ以外、わずかな怒りも、恐怖も、媚びもない表情。
 蒼血と出会う前の姉が、よく浮かべていた表情……
 痛くなかったはずがない。怖くなかったはずがない。
 だが一片の恐怖も浮かべずに、ただ凛々子は……俺のことを。
 首だけでも、動かせば回避できたかもしれないのに。すべての力を「俺への呼びかけ」に使った。
 ここにいるのはもう一人の姉だった。
 敬介の脳裏に無数の記憶が一瞬にして展開された。凛々子と過ごし、凛々子とかわしてきた言葉のすべて。くるくると変わる表情の全て。かわいらしく怒った 顔も、ひどく傷ついて敬介を見つめる顔も……過去の記憶で見た、震災の地獄の中でも気高く戦う凛々子……凛々子の過去を知ったときの、胸の奥で痛みがうず くような羨望と感動……すべての気持ちがいっぺんに。
 そうだ、凛々子だって大切な人だったじゃないか。
 自分は何をやったのだ。もう一人の姉さんを、もう一人の大切な人を。
 おのが手で殺した。
「俺は、おれは……あああっ!」
 敬介の全身がわななき、口から身も世もない悲鳴がほとばしる。両の眼から涙が溢れた。心の中で決定的に何かが折れた。同時に体を守っていた棘状装甲も強 度を失い、ポテトチップを踏み砕いたように脆く崩れていく。
「あああ……ああああっ!」
 瞬時に素っ裸になって、敬介は頭を抱えてその場にうずくまった。

 31

 その数分後
 教団本部ビル
 十一階

 ビルの上下から突入した殲滅機関は順調に制圧を続け、作戦開始から三十分ほどで全ビルの約七割を押さえていた。いまや残っているのは九階から十四階ま で。
 影山サキ率いる小隊十六名は、もっとも激しい抵抗の行われている十一階で、苦戦していた。
 十一階は客室階として使われていた階だ。廊下は広く、床は毛足の長い絨毯だ。
 だが粘液まみれだった。廊下のど真ん中、ドアを開けて十一階に出たばかりのところを、巨大な透明な粘液の塊が塞いでいた。塊の向こうはぼやけて見える。 厚さ何メートルもありそうだ。
 粘液は、左右の壁も、客室のドアも、天井や床さえも、覆っていた。こちらの厚さは数十センチ程度か。十一階に入った隊員達は、すぐに足元の粘液に足を絡 め取られた。粘着性のある泥、という感触で、足は沈み込んで周囲の粘液とくっついて、歩くのが難しい。
 直後、廊下を塞ぐゼリーの中に昆虫姿の蒼血が現れて、銃を持った腕をゼリーから突き出してこちらを撃ってくる。 隊員から奪ったミニミだろう。
 サキたちは片腕で顔面をカバーして銃弾に耐えた。耐えながら反撃する。だが反撃に転じたとたん、蒼血はゼリーの中に引っ込んでしまった。こちらの銃弾は 飛沫を上げて粘液の中に飛び込むが、向こう側には抜けることができないようだ。グレネードの対人榴弾が炸裂して粘液を吹き飛ばし、穴を開けたが、すぐに周 りの粘液が生き物のように動いて塞いでしまう。
 隊員の一人が罵声を上げる。
「こんちくしょうっ!」
 足元の粘液の中を、爬虫類形態の蒼血が何体も泳いで、足首を捕まえていた。
 隊員がミニミを足元に連射するのと、引きずり倒されるのは同時だった。倒れて沈むこむ隊員に、蒼血が群がる。もがいて抵抗するが、蒼血のほうが動きが速 い。
 他の隊員が即座に援護の銃撃を加える。だがやはり粘液の中ではライフル弾の威力は大幅に減じられるらしい。銃弾を浴びたにも関わらず蒼血は悠々と泳い で、廊下を塞ぐ粘液塊の向こうに逃げていく。
 またすぐに床や壁の粘液の中を泳いで蒼血が集まってくる。銃を粘液から突き出して撃ってくる。こちらの動きは鈍くなってよけることができない。足元が不 安定なせいで、簡単に引きずり倒される。銃で反撃すれば逃げていくが、傷はやはり与えていない。
「このネバネバは一体! くそっ!」
 苛立つ隊員たち。ひとりサキだけは沈着冷静に、指示を出す。
「全員で二列になって繋がれ、前の奴の肩をつかんで、スクラムを組むんだ」
 隊員達は一瞬だけ顔を見合わせるが、すぐに行動した。装甲と人工筋肉で力士のような体型になった隊員たちが「電車ゴッコ」のように連なる姿は滑稽ですら あった。
「前進!」
 サキの号令とともに、八人ずつ繋がった列が二つ、ゆっくりと進み始める。
 効果はすぐに現れた。蒼血たちが粘液の中を泳いできて足首をつかむが、八人が一塊になっているためにビクともしない。蒼血を引きずって、そのままのペー スで歩いていく。他の隊員が蒼血を踏みつけた。慌てて逃げようとするが遅い。隊員の一人が抱きついている腕を片方だけ解いて、片手だけでミニミを器用に操 り、銃口をその蒼血に向けた。長い銃身を粘液の中にまで差しこんで、蒼血に押し付けて発射。くぐもった銃声が連続して弾け、噴水のように粘液がほとばし る。真っ赤だ。ついに手傷を負わせることができた。
 そのまま廊下を前進する。粘液で作られた透明な壁は、もうすぐそこだ。透明な壁の中に潜む蒼血たちが銃撃を浴びせてくるが、みなシルバーメイルの装甲が 防いでいる。
「ひるむな! このまま突破するぞ!」
 サキの言葉に、隊員達はいっそう足取りを力強くする。
 蒼血が作戦を変えてきた。今度泳いできた蒼血たちは足をつかまなかった。数体がいっせいに空中に跳躍し、隊員が背負っているリボルビング・グレネード・ ランチャーに飛びついて、奪い取ろうとする。ライフルの火力では倒せないなら、当然の行動だ。
 その動きを隊員たちは読んでいた。スクラムを組む八人が、まるで一つの生き物のようにスムーズに動く。ある隊員が蒼血の首根っこをつかんで空中にぶら下 げ、別の隊員が両足をつかんで動きを奪う。さらに別の隊員がミニミを蒼血の口に押し込んでトリガーを引く。仲間が撃たれても撃たれても恐れず飛び掛ってく る蒼血たち。連携プレイで撃退を続ける。ついに一体の蒼血がランチャーの奪取に成功した。粘液の上を転げながら発射。スクラムを組んだままの隊員たちには 避けようがない。肩に命中して爆裂し装甲版を破砕した。その隊員は苦悶の声を上げた。装甲には大穴が開いて、中の肉も抉られて骨が露出していた。それでも 他の隊員が支える。倒れない。顔面を激痛で冷や汗まみれにして、それでも彼は仲間とともに歩みを進める。
 蒼血は二発目のグレネードを放とうとした。だが寸前に別の隊員がミニミを乱射してランチャーを破壊する。蒼血は慌てて粘液の中に逃げ込んだ。また、他の 蒼血といっしょになって空中を襲い掛かってくる。倒されても倒されても、こちらの重火器を奪うことを諦めない。
 もう一度ランチャーを奪われて、一人の隊員を撃たれた。重傷を負うが、倒れずについてくる。倒れてスクラムから離れたら最期だからだ。
「あと少しだ!」
 サキが叫ぶ。
「おう!」
 威勢よく応えて、隊員達は進む。ついに粘液の壁に突入した。
 全身が粘液に包まれるため動きが鈍くなったその時を、蒼血たちは見逃さなかった。粘液の抵抗を感じさせない高速で襲い掛かってくる。鋭い爪を顔面に叩き 込んでくるものがいた。隊員の振り回して腕をつかんで、逆にへし折ろうとする蒼血がいた。次々に隊員が倒れていく。フェイスシールドを割られ、粘液で溺れ て苦しみ悶える。
 着実に進んできたはずだ。もう列の頭は粘液から出ていいはずだ。だが出ない。
 隊員の移動にあわせて、粘液も動いているのだ。
 列の先頭に立って蒼血と格闘していたサキが、通信回線を通じて叫んだのはその時だ。
「撃て! この穴を撃て! 全力でだ!」
 叫びながら、片足で床を何度も踏みつけている。隊員達の注意が集中した。足で踏みつけているその場所に、ピンポン玉ほどの小さな穴が開いている。
 隊員達は即座に動いた。粘液内では弾丸の勢いは極度に減衰する、よほど近寄らないと敵は倒せない。固く組んでいたスクラムを解体して、隊員達はバラバラ になって穴に近寄る。蒼血たちはここぞとばかりに隊員に斬りつけ、組み付いて倒す。倒されても傷ついても隊員達は進んだ。穴のまわりに群がってミニミを、 リボルビング・グレネードランチャーを撃ちこむ。
 水中爆発の衝撃は、空気中の比ではない。防音機能の限界をはるかに超えた巨大な重低音が隊員達の耳をつんざいた。分厚い装甲でよろわれた隊員たちが軽々 と浮き上がる。
 爆発で床の破片が飛び散って広がる。蒼く、燐光を発する破片も散らばった。サキが命令するまでもなく隊員達は動く。全員が肩の紫外線照射装置を展開し、 四方から紫外線を叩きつけた。
 粘液の塊が悶えた。渦巻き、揺れに揺れた。それでも隊員たちは照射をやめない。すると崩れていく。粘液はもう粘性と固さを失って、ただの濁った水になっ た重力のままに流れ落ちる。
 隊員達は解放された。蒼血達も体を支えるものを失って、まとめて尻餅をついた。
「やはり、こいつ自体が蒼血か!」
 サキが言葉を漏らした。感情を押さえた平板な声だが、わずかに喜びがにじんでいる。
 隊員達は揃って銃器を構えなおした。
「さあ、お前らはもう丸裸だ!」
 蒼血たちが一斉に飛び掛ってきた。だが隊員達の射撃が的確に撃ち抜いていく。ミニミのライフル弾が牽制し、動きが鈍くなったところをグレネードで仕留め る。多目的対戦車榴弾が超高熱のジェットを噴出して腹を食い破り、頭をも叩き割る。鱗や外骨格で覆われた屍が転がっていく。
 廊下を端まで掃討しつくし、客室を一つ一つ占領していく。こちらでも多少の抵抗はあったが、十分もすれば全ての敵を倒すことができた。
 敵の排除を確認して、一個小隊十六名がまた廊下に集まる。
「楽勝じゃありませんか! フェイズ5の本拠地がこんなにモロいなんて!」
 隊員の一人が明るく笑うのを、サキがとがめる。
「あまり楽観するな。たまたま私が敵の本体を叩けた、運のせいもある。ゾルダルートたち親玉が出てこないのも気になるしな」
 言いながらサキは、ベストの胸に取り付けられた無線機のスイッチを入れた。
「こちら44小隊、影山曹長です。十一階の占拠を完了しました。蒼血は完全に殲滅。昏倒状態の教団員を二十五人発見。なお、重傷者が三名発生しました。医 療班をよこしてください。
 次の指示……なんですって!? 今、なんて言った?」
「隊長、どうしたんですか?」
 隊員が不審げに問う。サキは大きくかぶりを振って、
「……それがな……ただちに戦闘を中断しろと。これ以上前進するな、防衛戦闘のみ許可すると」
 隊員たちがざわつく。
「どういうことですか?」
「私が知りたいさ!」
 サキが叫んだその瞬間、廊下の床に、壁に、天井に……あらゆる場所に何百という「眼」が生まれた。突き破って向こう側から現れたのだ。
 すべての壁や床が振動し、岩を擦り合わせるような重低音を浴びせてきた。
『知りたいならば
 教えてあげましょう
 あなたがたが どれほど 愚かなのかを。
 わが名は ヤークフィース。
 神なき国の、神』
 
  (以下作成中)

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