だめてん 第1章 1 ……告白だ! 告白するんだ! 滝森慎一はおのれに言い聞かせていた。 でも動けない。校門で立ち尽くす慎一を追い抜いて詰襟とブレザーの生徒たちがどんどん学校を出ていく。彼女の背中も遠ざかっていく。 彼女。楠野美弥子さん。 まだなんにもしてないけど大切なひと。「やだ、なにこのひと、オタク? きもーい」とかそういう目で見ない人。慎一にも優しくしてくれるひと。 美弥子さんは道路を渡ってしまった。後ろから見つめている慎一の存在などに気づくこともなく、向かい側の歩道を歩いて去っていく。 ……いいのか、これで。 いいわけがなかった。 何カ月も前から好きだったのだ。告白の言葉をずっと考えてきたのだ。夏に考え出してもうすぐクリスマス。 ああこのセリフはアニメのパクリじゃないか、もっといいセリフが、完璧なのができるまでこの気持ちを告げるのはやめておこうと、ずっと引き伸ばしてき た。 でも、今日は違う。 古今東西の恋愛マンガとギャルゲーを調べ尽くして、「これだ!」という告白の言葉を考え出したのだ。 ネットに置いてあった「愛の告白成功率鑑定」でも72パーセントをたたき出した。 今日だ、今日告げるしかないのだ。 「楠野さぁーん!」 大声をはりあげて慎一は走りだし、美弥子がきょとんとした顔でこちらを振り向いて、大きな瞳が慎一の姿をとらえて、次の瞬間まんまるに見開かれた。 ……なんでそんなに驚くの? 理由はすぐにわかった。 ブレーキ音。突っ込んでくるトラック。 視界いっぱいにトラックが。 痛みもなく身体が宙を舞って。 ……ああ、やっぱり明日にしときゃよかった。 2 慎一は目をさました。 青空がひろがっていた。 雲ひとつない青黒い空だ。 耳元に女の声。 「気がついたか?」 声のしたほうに向くと、少女がすぐそこにいた。 まず印象に残ったのは、メタルフレームの眼鏡とその向こうの青い澄んだ瞳。 金髪でショートカット。整った顔にまったく表情を浮かべず慎一をみつめている。 ……だれだろう、この人。あったことない。 状況がまるで理解できない。 自分はいまどこにいるのか。なんでこんなところに。今まで何をしていたのか。 ……なんとなく、クルマにはねられたような気がするんだけど。 しかし体のどこにも痛みはない。 下を向いて体の状態を確認。 息をのんだ。貧相な胸板と股間の茂みが見えた。全裸だった。 恥ずかしいと思うまもなく第二の衝撃。 足元には何もなかった。ただ空気だけがあった。はるか下に白い雲が散っているだけ。 「落ちるぅぅぅ! ぎゃあああ!」 背筋に冷たいものが走った。わめいて手足を振り回した。片方の腕はしっかり少女に握られて動かせない。それでももがいた。 「落ちるぅぅ! たすけてえ!」 「暴れるな! 落ちたりしない!」 少女の声。慎一はそれでもわめいて暴れた。 「うわああ! 落ち!」 股間に衝撃。 「あげっ!?」 見下ろすと、少女が白い手で慎一の陰嚢をにぎりしめていた。 ……え? なに? いまなにされたの!? ぎりぎりと締めつけてくる。 「あがっ……痛い……やめて……」 「落ち着いたか?」 眼鏡少女の声は冷たかった。 「あ、はい……おちついたから! 暴れないから! は、離して……」 「わかった」 少女はあっさりと手を離した。 自分の身に起こったことが信じられない。 ……そりゃ、えっちなことに関心はあったけど。 ……でも実際には手も握ったことないわけで。 ……それなのにいきなり股間を思いっきり握られた? 「な、なに……なんだよいきなり……」 眼鏡少女は微笑を浮かべた。たったいま男の股間を握ったのに恥じらいも性欲もまったく混ざっていない微笑み。 「実験がうまくいった」という満足感の微笑だと慎一は思った。 「今のは戦場における沈静化手段の一例だ。震え上がる新兵の金玉を握り締めて落ち着かせる古参兵……戦場では良く見られる光景だ」 「は……はあ……戦場!?」 慎一はそのとき初めて、少女が軍服を着ていることに気づいた。 身長160センチくらいの体を包む、茶色と緑の迷彩服。頭の上のベレー帽と合わせて、確かにミリタリーファッションだ。 しかしミリタリーファッションのわりには、ベレー帽のそのまた上で光っている輪っかと、背中の白い翼がおかしい。輪っかは本当に浮いているように見え る。 「どうした? 私の翼がどうかしたか? 天使に翼があるのは当然だろう?」 「て? 天使? 軍人の?」 ……あ。 慎一、ポンと手を叩く。 「夢か! なるほどね!」 ……クルマにはねられて宙に浮かんで軍人女天使にタマをつねられた! ……こんな変なこと、夢に決まってる! 「いやー。そうか夢かー。変じゃないかと思ったんだよねー。でもさーぼくにそんな欲望があったなんて。やだなー、ぼくマゾじゃないと思うんだけどなーっ。 どうせ夢に出てくるならもっと髪が長くて優しくて胸がって、あいいいいっ!」 また股間を握られた。 眼鏡少女は鼻と鼻が接触するほど慎一に顔を近づけて冷たい声でささやく。 「……この痛みが夢か?」 「あ、いや、現実です現実現実!」 「よろしい」 股間から痛みが消えた。少女は手をハンカチで拭いて、腕組みをした。 「さて、現実認識は勝利への第1歩だ。状況を説明する」 「これが夢でなけりゃなんなんだよ!」 「現実そのものだ。まず」 眼鏡少女は人差し指を慎一につきつける。 「きみは、死んだ」 「えええ?」 「トラックにはねられて即死だ。いや、外傷のほとんどない死に方でまだ良かったと思うぞ」 「よくないよ!」 「次に! わたしと君がいるのは日本の上空12000メートル。天界入り口の少し下だ」 「天界って!?」 「最後に! 私は天使ミレイエル。ミレイと呼んでくれればいい。階級は第8階位アークエンジェル。奉仕天使の職についている。死んだ君を発見し、天界に連 れて行く途中で君が眼を覚ました。以上で説明は終わりだ。さて何か質問は」 「先生! なにがなんだかぜんぜんわかりません!」 なかばヤケクソになって慎一は叫ぶ。 ミレイと名乗った少女は小首をかしげ、 「そうだな、天界の実物を見せたほうが早いかもしれないな。100の訓練は1の実戦におよばず、という言葉もある」 「はあ」 「ところで……」 ミレイは、慎一が丸出しにしている股間を指差して、 「隠さなくていいのか?」 「うわあ!」 あわてて両手で隠す慎一。 「これを使うといい」 ミレイは背中の翼から一枚の羽根を抜き取った。羽根はまばゆく輝いてふくらみ、白い布に変わった。 「天界アイテムのひとつ『禁欲の布』だ。さまざまな服に変化する」 「こう?」 慎一が布を体に巻いた。たちまち布はひとりでに動いて変形、学ランに姿を変えた。 「……なんで学ランなんだろ」 「ではいくぞ」 ミレイは慎一の手首をつかみ、勢いよく上昇し始める。 「あのっ、あのっ、ミレイさん」 「ミレイでいい。なんだ」 「いや……その……」 何が言いたいのか自分でも分からなかった。 ただ、恥ずかしくて、これからどうなるのかわからず怖かった。 レンズの向こうでミレイが吊り眼を細め、 「ああわかった。大きさは人によって違うから気にする必要はない」 「ど、ど、どうしてあなたは! そんな下ネタなんですか!」 「兵隊が下ネタ好きなのは何百年も前からの伝統だ」 涼しい顔で言い切るミレイ。 「お、女の人が、そんな……」 「少し異性に幻想を持ちすぎだな、きみは。良くない傾向だ」 「ミレイさんが変なんです! ぼくはふつうです!」 「元気がでてきたな、いい傾向だ」 3 「うわあ……」 「さっきからウワアばかりだな」 「だって驚くしかないよ、家が浮いてるんだよ家が。やっぱりキリスト教だから家が飛ぶのかな」 「意味がわからない」 「気にしないで。オタクっぽい冗談だから」 慎一はミレイに手を引かれて「家・家・家」の中を飛んでいた。 上下左右に、何千何万ともしれない建物が密集して浮かんでいるのだ。空がまったく見えない。 瓦屋根の日本家屋もあればマンションもある。赤レンガづくりで太い煙突をそなえた「絵本に出てきそうな西洋の家」が一番多い。 商店らしいものもあった。小さい書店、雑貨屋、床屋……一軒一軒を眼で追う。 中で人が働いているのが見えた。たったいま一人の客が店に入った。店をよく見て仰天。 「ラーメン屋だ! 天国にラーメンが!」 指差して叫んだ。確かにラーメンの看板がある。しかも醤油。 「いちいち叫ぶな、恥ずかしい」 通行人の視線が集まった。 そう、あたりは人が大勢飛んでいた。 ミレイと違って背中に翼はない。頭の上の輪っかもない。だが飛んでいた。 男も女もいた。大半が日本人で、若い人が多いように見えた。 服装は灰色茶色の背広姿、それからジーンズにセーター、女性はワンピース姿もいれば和服に日本髪の人も。天国に季節はないということなのか、 「ギリシャ神話みたいに白い布まいてる人はいないね」 「それはマンガの中の天国だな。実際の天界人は生きていた頃の服を着たがる」 「ああ、だから服が古くさいんだ?」 たったいま眼の前を急降下していった青年は長髪でチューリップハットにパンタロン姿だった。ファッションにはうとい慎一だが、この格好がたっぷり30年 は昔の流行だということは知っていた。 「うわ、あの人なんか着流しだよ、チョンマゲだよ」 「指さすな、失礼だぞ」 「そういえば素朴な疑問なんだけど」 「なんだ?」 「あの着物の人なんかはキリスト教徒じゃないよね? ぼくも違うし……キリスト教徒じゃない人は、天国じゃなくて仏教の極楽とかに行くもんじゃないの?」 ミレイは生真面目な表情を浮かべてうなずいた。 「いい質問だ。昔はそうだった。死んだ人間は宗教に合わせて国を作って暮らしていた。だが十字軍で戦死した熱狂的キリスト教徒が大挙して天に昇ってきて、 激怒した。『なぜあの世は聖書どおりになっていないんだ! 許せん!』あとは戦争だ。天界統一戦争。何十年も派手にやりあって、結局キリスト教徒は天上を 制圧。現在の天界を作った」 「……わりと血なまぐさいんだね」 「なかでもヒンドゥー系の連中は強敵だったらしい。いまでも激戦として語り継がれているのが、天界軍カタクラフト部隊20万とヒンドゥー神群が激突したベ ナレス上空会戦だ。古株の天使と飲みにいくとたいがいベナレス会戦の思い出を語られる。『年齢的にあなたは知らないはずだ』と思っても黙って感心していた ほうがいい。ああ、それからカタフラクトというのはかつて天界軍の花形だった装甲騎兵のことで、分厚い鎧に全身を包んで……」 ミレイは早口になっていた。 不審に思って顔を近づける。レンズの奥で青い眼が情熱的に輝いている。口元がゆるんでいた。 「ちょっと、いや戦争の話はいいからさ」 「まあ待て。ベナレス会戦での勝因は斜線陣の効果的活用にあるといわれている。斜線陣というのは……」 「いや、その話はいいって!」 「わかった。では現在の天界軍は主に警察的任務についており、反天界活動の監視が」 「わかってない!」 我にかえったミレイが肩をすくめる。 「……すまなかったな。天界軍の話になるとあまりつい熱くなる。古巣だからな」 「やっぱりもと軍隊にいたんだ?」 「そうだ。いまの奉仕天使も決してつまらない仕事じゃないが、いずれ天界軍に戻りたい。それは私の義務でもあると思う」 「というより、ミレイさんは軍オタなんじゃないかな。軍事オタク。楽しそうだ」 明らかにむっとした顔になるミレイ。慎一の手首をつかむ力も心なしか強く。 「オタクと一緒にするな。元とはいえプロフェッショナルだ。生き方なんだ。趣味とはまったく異なる」 「自分はオタクじゃなくてマニアだ! とか力説するオタクっているよねー。なんか親近感わいてきたよ。最初は怖い人かとおもってたけど」 「……もっと怖くしてやろうか?」 ミレイは手を離して、一人で飛んでいく。 「さあ、ついてこい、自力で」 「飛べ、飛べ」と念じる慎一。体は同じ場所に浮かんだまま動かない。手足をばたつかせてもまったく進まない。 子供と女性の声がきこえた。 「ママーあのおにいちゃん飛べないのー」 「しっ見ちゃいけません」 ミレイが吹き出す。「ばかにされてるぞ」 「ダメだ飛べない。助けて!」 「わかった。ほら。たいがいの死者はすぐにコツをつかむものだが」 またミレイに手を引かれて、建物と建物の間を抜けていく。 「ピクリとも動かないよ」 「よほど筋が悪いんだな。だが悲観することはない。ドイツの撃墜王の中には、最悪な実績で訓練学校に追い返されたものが何人もいる。それでも上手くなった のだ」 「どういう慰めなのかよくわからない……ガンダム的にいうと最初ボールしか作れなかった連邦軍もいずれガンダムつくるってこと?」 「……その説明は、天界の人間には通じないと思ったほうがいい」 「天国ってアニメないんだ?」 「地上の娯楽は基本的に入ってこない。わたしたち天使は必要に迫られて学習することもある。とくに奉仕天使は救済対象を詳しく調べるからな、オタクと呼ば れる人間に四六時中くっついてまわったこともあった。あの時は……閉口した」 「どんな感じのオタクだったの? なに系?」 「……思い出したくない。背後霊のようにつきまとったおかげでアニメの声優を暗唱できるようになった。なにやら汚れたような気分になったものだ。まあ世の 中にいろいろな趣味はあっていいんじゃないか? なにも結婚するわけじゃない」 「うわ、そんな突き放さなくても」 しばらくミレイは黙った。慎一もしゃべらず、ただ手を引かれて飛んでいく。 「さて、着いたぞ」 急に視界が開けた。建物のない空洞部に入ったのだ。立体広場とでもいうべきだろうか。 立体広場の真ん中に、奇怪な建造物が。 城だった。立派な天守閣をもった日本の城。 ただし巨大な十字架が生えている。 「なにあのゲテモノ」 「天界・ニホン州64区の区役所。死んで天界にきた人間は、はず区役所で住民登録する。『天界へようこそ』とか『たのしい天界』とかパンレットももらえる ぞ、よかったな」 「そうじゃなくて、どうして天守閣と十字架なの?」 「区長がどうしても日本文化を入れたかったらしい。しかし十字架も外すわけに行かないのでああなった。両方に失礼な話だとわたしは思う」 「やっぱり天国ってキリスト教にあわせないといけないの?」 「そうなっている。だが、ファッションとして他の宗教を取り入れることは行われている。たとえば私の友人にも、巫女服をきた天使がいる」 「巫女服!?」 「『みこみこエンジェル』と呼ばれている」 「なんか新作のエロゲーみたい」 「もう少し世界を広げろと忠告しておく。いまさら遅いかもしれないが」 「あ、待ってミレイさん! 住民登録っていうけど……ぼくはここの住民になる気はないよ」 「ほう?」 「だって……まだ死ぬの嫌なんだ。親とかも悲しんでるだろうし……ええと、ここにはアニメもゲームもないし」 ミレイはいたずらっぽく微笑む。 「生き返る方法はある。ただし、記憶はすべて捨てて、赤ん坊として生まれなおしてもらうことになる」 「それじゃだめだよ! 意味ないよ!」 「記憶をなくしたらアニメもゲームも新鮮な気分で楽しめる。良いことずくめだ」 「いや……そうじゃなくて……どうしてもダメなんだって……」 「ほかに理由があるのか?」 慎一は困り果てた。 もちろん、生き返りたい理由は「美弥子さんに告白したいから」だ。 記憶がなくなっては意味がない。赤ん坊になるなど問題外だ。 「ウソはよくないぞ」 「……こくはく……しなきゃいけないから……」 蚊の鳴くような声で言った。 「よく聞こえない」 「好きな人に! 告白したいから! 生き返りたい!」 叫んだとたん、慎一とミレイの間に勢いよく少女が滑りこんできた。 長い黒髪をふたつにまとめて大きなリボンをつけて、服装はフリルだらけのワンピース。 「なになに! なんかいまLOVEっぽいこといったでしょ? 恋の話? きかせてきかせて! あたしにきかせて!」 「ちょっと、なんですかあなたは!?」 フリル少女は大声で、 「みんなー! 恋に悩んでる少年だよー! みんな来ようよー! 面白いよー!」 叫んで、「こっち、こっち!」と手招きのジェスチャー。 「恋の話なら我輩の出番であるな」 ドイツ皇帝みたいなヒゲを生やしたタキシード姿の男が飛んできた。 フリル少女と二人で慎一を両脇からはさむ。期待の表情で慎一に問いかける。 「君かね、恋する少年は!?」 「え、いや、あの、ごくごくプライベートな話題だからその」 「なに恥ずかしがることはない! 命短し恋せよ乙女! もちろん少年もな! 我輩が相談に乗ってやろうではないか、詳しく話したまえ」 「いや、だからその、助けてミレイさん!」 フリル少女が小さい拳を慎一の口元に突きつけて、 「いまのお気持ちは! っていうか二人の馴れ初めは!」 拳はマイクのつもりらしい。 「待て、わたしは関係ない! 誰がこんなのと恋仲になるか」 ミレイが飛びのく。真剣に嫌そうな顔をしていた。 「じゃあ真相をきかせてください! いま告白がどうしたとかって!」 「いや……」 「天界に慣れてないみたいですけど新入りさんですか? 死にたてホヤホヤさんですか? 湯気でちゃってますか?」 「いや、確かに死んで間もないけど……」 「なるほど! 恋に破れて! 元気出して! この世にはたくさん女がいるわ!」 ドイツ皇帝ヒゲが横からボソリと、 「天界は、この世ではなくあの世だと思う我輩であるが」 「うるさいわね、LOVEと比較すれば言葉の用法なんて些細な問題よ!」 慎一はオロオロと味方を探し、ミレイがあさっての方角を向いて口笛を吹き出したのを見て絶望的な気分になり、 「……学校で……好きな子がいて……でも告白できなくて……うまい告白のやり方が思いつかなくて……勇気も出なくて……やっと勇気を出したら車にひかれ て……」 うめくように事実を白状してしまった。 ……なんだか、口に出してみると「悲劇」じゃなくて「ばかみたい」だな。 「おお! なんという悲劇か! 神はこの少年にいかなる試練を課したもうたか!」 ヒゲの男は大袈裟にも両腕を広げて嘆きの叫びをあげ、よく響くテノールで、 「この哀れな少年のために歌を捧げよう! あーあーきょうもひはめぐりー! あおぞらはたーかーくー! けーれどほほえむきみのすがーたーはー、ひごとに かがやいていーくー! ラーラー!」 「ストップストップ、音痴だから」 フリル少女の一言にヒゲ男は眼をむいた。 「音痴? 取り消したまえ、我輩はこう見えても声楽家であったのだぞ。80年ほど前の話だ」 「そんなこと言ったって下手なものは下手なんだもん。ねー、学ランのお兄さん?」 「え? ぼく? いや、ぼくはちょっと歌はよくわかんなくて……っていうか、どちらさんですか?」 ヒゲ男はカイゼル髭を指先で神経質に整え、 「申しおくれた。我輩は聖純太郎。天界に来て80年、職業は声楽家。『孤高の』をつけてくれるとより嬉しい」 フリル少女はちょこんと頭を下げて、 「あたしは日野咲子。サキコちゃんでいいよ。死んで60年、好きなものはLOVE!」 「ら、らぶ?」 「そうよ。生前満たされなかったからねー」 「それは……生きてる間はもてなかったとか?」 「そうじゃなくってねー。モンペはいて空襲から逃げ回ってるだけで青春がおわっちゃったのよねー。こんな! こんな服も!」 サキコはその場でくるくる回ってみせる。回るたびに服が変化した。しかしどれもフリルだらけの少女趣味。強烈な美意識があるらしい。 「こんな服ももちろん着られなかったし、好いたほれたとかいってられなかったのよ。やっと戦争終わったと思ったら、病気でぽっくりよ。やってられない わー」 慎一はサキコに向き直り、深く頭を下げる。 「あの……すいません、つらい話をさせて」 「え? やだ何いってんのよー。もう平気よ、昔の話だもん。いまは平和な天界で、好きなだけLOVEできるから幸せよ? 他人のLOVE話も大好き! もっと聞かせてよ、学生服のお兄ちゃん」 「慎一です、滝森慎一」 「じゃあ慎一くんは……その彼女のどんなとこが好きになっちゃったのカナっ!?」 「いや……何でそんなハイテンションですか……? ええと彼女は……美弥子さんていうんですけど」 「ミヤコ、いいねー。清楚っぽくて。あたしの友達にもミヤコっていたよー。名古屋にねー。文通してたの。空襲で死んじゃったけど」 この子は確かにうちにバアちゃんと同じくらいの年なんだ、とたじろぎながらも慎一はつづける。 「……美弥子さんは、ぼくがオタクでもキモいといわないで優しく接してくれたんです」 「どんなふうに?」 「ええと……ぼくがからかわれた時に『べつに趣味はいろいろじゃない』って言ってくれたり……図書室で本を読んでたら、読書家なんだねって話しかけれくれ て……」 「それだけ?」 「う、うん。はい」 ヒゲ男は腕組みして唸る。 「ううむ、それだけで『優しく接してくれた』は妄想ではないかね」 「まあ少年の恋はわりと妄想はいってるもんよー。あたし的には全然おっけーだなー。で、どうやって告白することに決めたわけ?」 ミレイが口を挟んできた。 「話が脱線しているように思えるんだが」 「別にいいでしょニセ軍人」 「にせ軍人!?」 「ひとの恋バナを聞くのは世界で2番目に楽しいことよ。で、告白の言葉は! 決めたんでしょ」 「それが……ごにょごにょ」 サキコはきょとんとして、次の瞬間ため息。 「だっさあ……いまどきそのセンスは痛すぎよ……ふだんどんな本読んでるの?」 「うう……戦前生まれの人に言われた……」 「我輩が代わりに愛の詩を作ってあげよう。むーん。……『そうさ君は 僕という氷を溶かす春の日の太陽さ ルルル ララララ パヤパヤー』完璧だ」 「ごめん、あたしならそのポエムもらったら逃げるわ」 「やはり時代が我輩に追いついていないようだな」 「ハイハイ、ダメな物書きはいつもそういうのよねー」 「なんだと!? 我輩を愚弄するか」 慎一は大声で二人の会話をさえぎった。 「とにかく! ダメなんだ。会いたい人がいるから! 伝えたい言葉があるから! 生き返りたい。記憶をもったままで。頼むよ、ミレイさん」 即座に首を振るミレイ。 「気持ちはわかるが、できない。天界人が地上に降りるさいは全記憶を抹消、赤ん坊になってもらう。これがルールだ。800年前から変わらない。地上の混乱 を避けるためだ。死後の世界の存在は秘匿されなければいけない」 「あたしたちからもお願いしたいな。かわいそうじゃない、この子。いくら絶望的センスでも、万にひとつ億にひとつってこともあるし、当たって砕けるのも幸 せよ」 「さりげなくひどいこと言われてる……」 「むう。我輩的にも応援したいところである。天使殿、手はないか」 「ねえ! この子も天使になればいいんじゃない? 間違いない! それで行こうよ、ねっ慎一くん」 「え? ぼくが天使に?」 「その手はわたしも考えた」 ミレイはうなずいた。その顔には憂いがある。 「確かに天使は職務で地上に降りる。想い人に会うことも不可能ではないだろう。上級天使に至っては地上に別荘をもっているし、人間のふりでお忍びなど日常 茶飯事だ」 「じゃあミレイ! ぼくやる! それやる! 天使やる!」 「おすすめできない」 「なんでさ?」 「ひとつテストをしよう。答えて欲しい」 三人の視線がミレイに集まる。ミレイは2、3秒沈黙したのちこう切り出す。 「君は旅の途中、道端で倒れている病人2人に出会った。2人とも死に瀕している。君はその病気の特効薬を1人ぶんだけもっている。さあ、どうする?」 サキコがすぐに反応した。 「小さい子供とか、若い人とか、この人死んじゃいけない! ってほうをたすけるわ」 「我輩的には、むしろさっさと楽にしたほうがよいと思うがどうか。こうして天界にくれば済む話だ」 慎一は眉間にしわを寄せてうなり、ためらいがちに答える。 「うーん……薬を2人にわけて飲ませる。2人とも助けたい」 「量を半分にしたら効かないかもしれない。それでも分けるのか?」 「うん。片方を見殺しにするのは嫌だ。どっちの命は死んでいいとかどっちに価値があるとか、ぼくには決められないよ」 ミレイは三人を見比べて一言、 「三人とも天使失格だ」 「どうしてさ? じゃあ正しい答えは?」 「絶対的な正しい答えはない。ただ、天使の職務としてどう答えるべきかは明白だ。『助かる確率が高いほうを助ける』。体力や若さ、病気の進行具合などを総 合的に見て、助かる確率が高いほうにだけ薬を飲ませる」 「確率が低いほうは見殺し!?」 「それってひどすぎると思うわ」 「だが、天使はそう考えるべきだ。全員を助けようとしてみんな死なせるようでは意味がない。確実に、冷静に」 なんとなく釈然としない表情の三人を見渡してミレイは続ける。 「一言で言えば、『オトナ』であることが求められる。なかなかできることじゃない。たくさんの者が脱落するところを見てきた。意思が弱かったり優しすぎた りする奴はジレンマに潰されていった。天使はつらい仕事だ」 「ぼくならできるよ。必ずやる。意志だって弱くない」 「好きな女に何ヶ月も告白できなかった男が、意志が強い?」 「……それは……そうだけどさ!」 「シンイチ、この2人をみてどう思う? これが一般的な天界人だ。人懐っこくて、騒がしくて、陽気で、おせっかいなところはあるが善良だ。この連中と一緒 に、天界で永遠の余生を過ごさないか?」 慎一は答えに詰まった。ミレイの視線を真正面からうけとめる。 ミレイは慎一に顔を近づけた。肩に両手をかける。強く指を食いこませた。 「……どうだ?」 「あ……その……」 何か言おうとする慎一。言葉を出せない。彼の視線はミレイの顔に釘づけだ。その白い顔は思いつめたようにこわばり、楕円形レンズの奥では青い瞳が真剣そ うにこちらを見つめていた。 女の子のこんな真剣な顔を、慎一は見たことがなかった。 少なくともむけられたことはない。それがいま、キスできるほどの至近距離に。 誰も口をきかなかった。慎一のひとことをじっと待っていた。 慎一の体はこわばり、喉はからからで、思考はまとまらない。 頭の中を駆け巡るのは、遠ざかっていく美弥子の背中だ。 ……ぼくは自分から楠野さんに話しかけなかった。 ……背中ごしに笑う楠野さんを、ずっと見つめていただけ。 ……また話しかけてくれないかって待っていただけ。 ……そして最後の日も、声をかけられずタイミングを逃した。 ……あと少し勇気があったら。あと10秒いや5秒早く声をかけていたら。いまごろは。 このままでいいのか。 いいわけがない。 口を開いた。背筋を伸ばした。胸を張った。 「……いやだ。どうしても天使になる。そして地上に行く」 ミレイのこわばっていた頬がゆるんだ。眼を細めた。慎一の肩から手を下ろす。 「……わかった。そこまで言うなら仕方ない」 「やった!」 サキコ、ジュンタロウのふたりも「おおー!」と歓声を上げてぱちぱち拍手。 「……喜ぶのはまだ早い」 ミレイ、背中の翼から羽根を引き抜いた。4枚。 手のひらの中で羽根が輝き、本になった。薄い本が数冊と分厚い本1冊。 「ほら、これは貸してやろう」 「えっなにコレ? 『天界法基礎』『天使A種試験例題集』『豚でも受かる天使試験』……受験!?」 「まさか試験なしで天使になれると思ってたのか? あ、それからこれだ」 分厚い本を慎一に渡すミレイ。他の問題集は放り投げるように無造作だったがこの1冊だけは両手をそろえてもってうやうやしく手渡した。 「せ、聖書!?」 「聖書を知らない天使なんて悪い冗談だ。よく勉強しておくように。わたしが受けたころとは試験の傾向がまったく変わってるので詳しい助言はできない」 「いや……あの、これを? ほんとに? 受験みたいに?」 「なんだ不満そうな顔だな、どうしてもなるんだろう? それとも口だけか」 「口だけじゃない! なるよ! 必ず受かるよ!」 「強気だな。わたしに陰嚢をにぎられてヒイヒイ泣き喚いていた奴とは思えない」 「ちょっ、ちょっとミレイさん!」 「やだ……握られちゃったの!? どういう経緯で? ヒイヒイ泣いちゃって? かっこわるー!」 「泣いてない! 我慢した!」 慎一の叫びをきいて吹き出すサキコ。 「あーあー、わたしはてんしーをめざすわかーもーのー。そのひみつはー、ひみつはー、ふーぐりーをー♪」 「歌わないでください!」 |