赤星サヨの革命戦記!

  (えんため大賞応募版)

               ますだじゅん
  
 第1話「同志は決して見捨てないのだ」

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 六月十二日は下辺野(ルビ しもべの)マモルが革命に参加した日だ。そして、全裸の女の子を背負って走り回った日でもある。

 1

 マモルは遅刻しそうだった。前の晩、マンガ原稿を描くのに夜更かしをしたからだ。
 だからママチャリで制服のネクタイを風にはためかせ、住宅地を全力疾走していた。
 寝ぼけまなこに、青空から降り注ぐ陽光が突き刺さって痛い。あたりの生け垣も緑に輝いている。
 額を流れた汗を、半袖のワイシャツでぬぐった。
 安物の腕時計をチラリと見る。八時十分。
 ねばついた唾を呑み込んだ。
(急げば、なんとか間に合う!)
 ますます力をこめてペダルを漕いだ。
 そのとき真横を、大型スクーターが勢いよく走り抜けた。
 スクーターに乗ったサングラスの二人組が、マモルの前を歩いていた老女からバッグを引ったくった。
 老女は倒れて、金切り声で叫ぶ。
「あっ! 泥棒! 誰か!」
 スクーターは加速して逃げてゆく。ナンバープレートにガムテープが貼ってあるのが見えた。
 マモルはとっさにママチャリを止めて、老女に声をかける。
「だっ、大丈夫ですか?」
 老女は膝立ちの姿勢で、あたりを見回す。マモルに気づいて、手を合わせて叫んだ。
「お、おねがいします! 助けて! 追いかけてください! とても大事なバッグなんです! お爺さんの形見が!」
「え……」
(無理ですよ!)
 そう言いたかった。ただでさえ遅刻寸前。時間の余裕はまったくない。しかもバイクに追いつくはずがない。 
 だが言えなかった。シワクチャで涙を浮かべている顔を見ていると胸が痛んで、言えなかった。
  マモルは無言でペダルを力いっぱい踏んで、走り出した。豆粒ほどに小さなスクーターをにらんで、追いかける。全速力だ。
 距離が詰まるどころかスクーターはどんどん遠ざかっていく。大きく車体を傾けて、植木鉢を吹っ飛ばして路地裏に入っていった。ブオーン、というエンジン音も遠ざかっていく。
「ハァッハァッ……ダメだぁ……」
 荒い息で嘆いたとき。
「君、そこの君! 勇敢な少年よ!」
 すぐ後ろで、女の子の声がした。幼くてかわいいが、凛々しい声だ。マモルはアニメに出てくるお姫様キャラの声を連想した。
 え? と思って声のほうを見た。
 二、三メートル後方に、変な女の子がいた。
 真っ赤な工事用ヘルメットをかぶった女の子が。
 百五十センチほどの小さな身体をセーラー服の夏服に包んでいる。大きなリュックを背負って、すさまじいペースで足を動かして自転車にグイグイ追いついてくる。
 ショートカットで、大きな吊り眼の印象的な、キリリと整った顔立ちの女の子。
(かわいい……)
 鮮烈な美しさに、目がクギ付けになった。
 そのとき気づいた。ヘルメットには巨大な白抜き文字で「学園革命」と書いてある。
(なに、この人……?)
 セーラー服にヘルメットの美少女は、マモルと目線を合わせて大きくうなずき、叫んだ。
「そうだ、君だッ。君の足では追いつけまい! わたしが追跡しよう。自転車を貸したまえ!」
 すさまじい速さで走っているのに、女の子は息一つ乱していない。
「ハァッ」
 息が切れて、マモルはとっさに答えられない。
「革命軍の名において徴発する、と言っているのだ!」
「は、はあ? 革命……?」
(なに言ってんの、この人?)
 思い出した。何十年も前の日本には、少女に良く似た「ヘルメットをかぶった自称革命家」がいたのだ。ネットの動画で見た。だがとっくに絶滅した人々だ。
「申し遅れたな。わたしは赤星(ルビ あかほし)サヨ。革命仙人様より七百七十七ツの革命技を授けられた女だ。きみの名は?」
 こんな意味不明な自己紹介は聞いたことがなかった。
「下辺野(ルビ しもべの)だけどッ。ハァッ……下辺野マモル!」
「マモルか。いい名前だ。はやく自転車を貸してくれたまえ。人民突撃銀輪部隊を編成し反動分子を追撃するのだ。兵員はわたしひとりだが細かいことは気にするな」
「そんな、ハァッ、なに言って、ハァッ」
「問答無用! 革命武装ラジカル☆ゲバロッド!」
 サヨは背中のリュックから「棒」を取り出した。
 長さ五十センチくらいの角材だ。
「ラジカル☆ゲバロッド、T(ルビ 竹ザオ)形態!」
 角材を天にかざした。角材の表面に『赤い光の波紋』が走る。角材が光の中で変形する。伸びて、節が生まれ……長さ二メートルはあろうかという竹ザオになった。
「革命フライングキック! とーう!」
 走りながら竹ザオを地面に突いて、棒高跳びの要領でスッ飛んできた。飛び蹴りだ。セーラー服の紺色プリーツスカートがフワリと広がった。その下から伸びる真っ白い太股と、太股の間の鮮やかに赤いブルマがマモルの眼に鮮やかに焼きついて、
 次の瞬間、視界が真っ黒いもので埋まり、鼻に衝撃。
「ぐべえっ!」
 悲鳴をあげて、自転車から転がり落ちた。
「いてっ……」
 鼻が熱い。鼻血だ。腰も打った。うめきながら身体を起こしてみると、
「うおおおおおおおッ!」
 サヨが自転車を奪って、超スピードで走り去っていく。
 フィルムを早回しているかのようだった。ママチャリで出せるスピードではない。
「革命的直角コーナリングっ!」
 素早く車体を傾けて、細い路地に消えた。
 しばらく呆然としていたが、
「あ!」
(学校! 自転車なしじゃ間に合わない!)
「待ってー!」
 走り出した。すでに自転車の姿はまったく見えない。
「まてっ人民の敵めっ!」
「革命フライングキーック! とぉーりゃあー!」
 だがサヨの叫びが響いてくる。 声を追いかけて走った。
「はあっ……」
 息を切らして何百メートルか進むと、道のど真ん中でサヨが戦っていた。
 ひったくり犯二人は倒れたスクーターのそばで、金属バットを持って立っている。細長いネズミ顔の男と、四角いゴリラ顔の男。サヨは二人の足めがけて、竹 ザオで突きまくる。男たちは右に左にステップを踏んでよけようとするが、よけられない。サオが膝に打ちこまれる。スネを直撃する。
「て、テメっ!」「このヤローッ!」
 ひったくり犯はよろめく。よろめいた直後に、股間に竹ザオが突きこまれる。ますますよろめいて、なんとか体勢を立て直す。
 ゴリラ顔の男が、竹ザオを両手でつかんだ。ネズミ顔の男もすぐに協力し、二人がかりで押さえ込む。
「こんなもん、押さえちまったら終わりじゃねーかっ!」
「ならばこれはどうだ! ゲバロッド、S(ルビ スコップ)形態!」
 サヨの叫びとともに、竹ザオが赤い光を発して変形する。身長ほどもある超巨大なスコップになった。
「ぬんっ!」
 サヨが気合とともにスコップを振り上げる。
「ぐえっ!」
 引ったくり犯二人は悲鳴を上げて、スコップを離した。スコップが肌を切り裂いたらしく、血がほとばしる。両手にはバイク用グローブをはめていたが、グローブは切断されて地面に落ちる。
「革命技三十五、スペツナズ・スコップ!」
 サヨは叫んで突進する。目にも止まらない速さでスコップを振り回す。空中に銀色の弧が十、二十と描かれる。
 一瞬後、引ったくり犯二人の服が切り刻まれた。革ジャンもジーンズも、Tシャツもパンツも数十枚に分解される。サングラスが砕け散り、ヘルメットまで真っ二つになって飛び散った。二人の男はボクサーパンツ一丁の姿になった。だが肌には傷一つできない。
「なっ……なっ……」
 引ったくり犯二人は驚愕に目をむいた。すぐに逃げ出そうとするが、
「ゲバロッド、G(ルビ ゴムホース)形態!」
 竹ザオが赤い光を発した。ますます長く細く、ゴムホースに変化した。
「革命的ロープワーク!」
 サヨがゴムホースを投げる。ゴムホースは生き物のように動いて、二人まとめてグルグル巻きにした。
「て、てめーっ!」
 二人は必死に強がってわめいた。
「お、お、オレたちにケンカ売ってどうなるかわかってんだろーなぁ! オレたちのバックには……」
「知るかーっ!」
 ネズミ顔にサヨのハイキックが叩きこまれた。鼻血を吹いて、二人まとめて転がっていく。
「バックというなら、わたしには未来の全人民がついているのだぞ! さあ反省してもらおう!」
 マモルは目を見開いてその場に立ちすくんでいた。体が震えてくる。驚きと、そして感動が起こっていた。
(なにこの人。……正義のヒーロー?)
 こんな人間はマンガの中にしかいないのだと思っていた。
「キサマら、なぜ暴力を正しく使わないんだ!」
(……は? )
 一瞬で感動がさめた。口をぽかんと開けてしまった。
(なんて言った、この人?)
 サヨは二人の頭をグリグリと踏みつけながら言う。
「毛沢東主席はこう述べている。『人民のものは、麦一粒たりとも奪ってはならない』。あんな貧しそうな老女を狙うとは何事だ! 狙うなら支配者階級だ! 法律を破る度胸があるなら警察署の一つくらい爆破して見せろ!」
「怒る理由がおかしいよ!」
 思わずマモルは叫んでいた。
 するとサヨが振り向いた。眼を見開いて、明るい笑顔を作る。
「おお、君か! ありがとうマモル。おかげでこの通り、反動分子を捕らえることができた」
 背中のリュックからハガキサイズの紙を取り出して、マモルに差し出した。
「ささやかな礼だ。受け取ってくれたまえ」

 革命軍 軍票
 100万革命円
 発行 日本革命政府 
 暫定代表 赤星サヨ

 本票は革命政府のもとに効力を保証される

「な、なにこれ……?」
 ワラ半紙に印刷したようだが、インクがにじんで、とてもチャチな印象を受ける。
「学校で習っていないか? これは軍票といって、革命政府が価値を保証しているから、現金のかわりに使えるのだ。惜しむらくは革命政府がまだないことだが、なに、もう少しの辛抱だ」
「え、あの。革命政府とか言われても」
 あきれるマモルに、サヨはバッグを手渡した。
 老婆が持っていたバッグだ。
「これを老女に返却して欲しい。わたしはこの連中をせんの……教育するので忙しい」
「いま洗脳って言おうとしたでしょ!?」
 サヨはマモルの言葉を無視して、ひったくり犯に向き直った。
「お前たちには生まれ変わってもらう。暴力の正しい使い方を学び、わたしとともに革命の道を歩むのだ。まずすべての原点、富の不均衡と労働者の搾取についてだ」
「うるせーっ!」
 犯人二人は唾を飛ばして叫び、ジタバタ暴れる。
「反省が見られないようだな、ならば仕方ない。人民の裁きを受けてもらおう! 革命技十九、ハングドマン!」
 サヨはゴムホースの端っこを頭上に放り投げた。電線の上を通して、思いっきり引っ張った。
「むん!」
 人間離れした力だ。犯人二人はスルスルと持ち上げられて、高く吊るされた。
「トドメだ!」
 サヨはリュックから紙のようなもの出して、犯人めがけて投げつけた。

 ヒュッ! 

 風は風を切って飛んで、全裸の犯人ふたりに張りつく。
 紙にはこう書いてあった。

「人民の敵です 石を投げてください」

「知るがいい、虐げられた者の痛み!」
「ちょ、ちょっとやりすぎじゃあ……警察呼ぶだけでいいじゃない?」
 サヨは太い眉を上げて、少し怒った表情で首を振る。
「そんなことをしたら警察が民衆の信頼を得てしまう。革命計画が崩壊するではないか」
「会話が通じないよ、この人……」
 マモルはサヨを刺激しないよう、静かに歩いて、自分の自転車を起こした。
 時計をチラリと見て、「あ!」と声を漏らしてしまった。
 遅刻寸前だということを忘れていた。
 老女のバッグを前カゴに入れて、漕ぎ出した。
「待て!」
「うわ!?」
 サヨが走って追いついてきた。
「考えてみれば、あの連中よりも君のほうが革命戦士として適任だ」
「関係ないです! ぼく学校行かないと!」
「引ったくりを許せない正義の心、これは革命戦士としてもっとも必要なもので……」
「やりたくないってば!」
(どうすればこの人を追い払える?)
 ひとつだけ閃いた。
(革命家……そんなの歴史の教科書でしか読んだことないけど、革命家なら)
 マモルはサヨに怒鳴った。
「そんなことより、綾品(ルビ あやしな)駅前東口のレーニン像が倒されてるよ! 踏みつけにされてた!」
「なんだと! 救わねば!」
 サヨは猛スピードで回れ右して走っていった。
(バカでよかった!)
 ホッとため息をついて、すぐに全力で漕ぎ出すマモル。

 2
 
 高校に着いた。
 マモルは誰もいない学校の廊下を進んでいく。
 講義の声が壁越しに聞こえてくる。
 自分のクラス、2年3組の戸を静かに開けて、入る。
 白ワイシャツにネクタイ姿の男子も、ブラウスに青いリボンの女子も、みんな黒板をじっと見ている。入ってきたマモルを見ない。よそ見をすると怒られるからだ。
 教卓の前に立っている長身の男だけが、マモルを見た。
 おそろしく冷たい蔑みの眼で。
 担任の京弁院光(ルビ きょうべんいんひかる)だ。
 百八十センチの、スラリと引き締まったボクサー体型。この暑いのに隙なくスーツを着こなしている。年齢は二十代後半で、面長で切れ長の目。クールな美形、という顔立ちだ。メタルフレームの眼鏡をかけている。
 京弁院は冷め切った目のまま、マモルの頭のてっぺんから爪先までを眺め回した。
「おや、下辺野くん」
「お、おはようございます先生……」
 マモルは頭を下げた。
「少しも早くなどありません。時計を御覧なさい。何時何分ですか?」
 教室前の壁にある時計を見上げた。
「……八時四十分です」
「正しくは八時四十一分二十秒です。さて、なぜ君は十一分も遅刻をしたのですか? このスーパー・エリート教師の京弁院に何か悪意でも?」
 そういって京弁院は、指示棒をマモルの顔に突きつけた。
「い、いえ……悪意とかじゃなくて。寝坊しました」
「まさか予習復習のやりすぎで寝坊、などということはありませんね? それほど熱心なら模擬テストの惨状は有り得ません。さあ答えてください、なぜ寝坊をしたのですか?」
 指示棒がマモルの顎をなぞって、頬に上がってきた。視線をなんとかそらして、クラスを見渡した。誰か助け舟を出してほしかった。
 みんな黙っていた。露骨に眼をそらすクラスメートもいた。
 仕方なく口を開いた。
「……マンガを、描いてました」
 マモルはマンガを描くのが趣味で、いずれ雑誌に投稿もするつもりなのだ。
「ハハッ、やはりそうですか。君のような劣等生は、そうやって現実から逃避するのですね?」
 軽蔑もあらわな声だ。
「では、そのマンガとやらを描いて見せてください。この黒板に、みんなの見ている前で」
「え……」
 一瞬ためらったが、もし断ったらどう言われるか分からない。
 だから、マモルはクラスメートたちの視線に耐えながら黒板に向かう。
 黒板の大部分は、京弁院の書いた方程式で埋め尽くされている。
 端のほうに、呼吸を整えて、女の子の絵を描いた。
 メイド服を着たクールな美少女で、背中にロケットブースターを背負って手にはでっかい銃を持っている。いま描いてるマンガのキャラクターだ。チョークが黒板にひっかかり、輪郭線がグニャグニャになった。
「見てください、この絵を。品性、芸術性、創造性のかけらも感じさせません。いいですか、能力のない人間に限って夢を見て、まともな人生を踏み外す……もう二度と描かないでください。そんなヒマがあったら方程式の一つも覚えなさい」
 マモルは唇を噛み締めた。いつもそうなのだ。生徒がミスをすると、ネチネチと言葉でいたぶるのだ。担任になってから二ヶ月、もう我慢の限界だ。
 マモルは京弁院の顔に目を向けて、言葉をしぼり出した。
「……遅刻したことは謝ります。……でも、家で趣味をやるくらいは……」
「いいえ。君のような甘えを許しているからいまの学校はダメなのです。連帯責任ということで、みなさん、持ち物検査でもしましょうか。授業の邪魔になるようなものを、もしも持っていたなら、フフフ……」
 クラスメートの冷たい視線を感じて、あたりを見回した。
 何人かがマモルをにらんでいる。
 お前のせいで私たちまで、という責める目だ。
(ごめん……)
 両手を合わせて頭を下げた、そのとき。

 ズガン! 

 背後で大きな音がして、マモルは振り向いた。
 呆然とした。
 教室前にある戸を蹴り開けて、セーラー服にヘルメットの美少女、サヨが入ってきた。
 額を汗まみれにして、肩で息をしている。
 入ってくるなり、マモルをビシッと指差した。
「マモル! なんと狡猾な少年よ! 駅前にレーニン像なんてないではないか!」
「確認したの!?」
「だが、このわたしすら騙すとは恐るべき情報戦能力! やはり君、革命に参加しないか?」
「それを言いたくて来たの? っていうか、なんでこの場所が?」
 そのとき京弁院が金切り声を上げて、会話に割って入った。
「だ、誰ですか、あなたはッ!」
 サヨは京弁院に顔を向け、細い腰に手を当てて胸を張る。胸を張ってもセーラー服の胸部分が真っ平らで、まったく乳房が膨らんでいないことがわかった。
「わたしは革命戦士、赤星サヨ。革命仙人様より七百七十七ツの革命技を授けられた女である」
「は? なにを言ってるのですか? うちの生徒ではありませんね? 授業の邪魔です! 出て行きなさい!」
 するとサヨはクラス全員を見渡す。大げさにうなずいた。
「状況がわかった。権力者が人民を弾圧しているのだな?」
「弾圧? とんでもありません。下辺野君がマンガなど描いて不真面目だから、指導しているところです。邪魔ですから出ていってください」
「指導? 何を指導するというのだ?」
「あ、あのサヨさん。この人にあんまり逆らわないほうがいいよ」
 マモルの言葉を完全に無視して、サヨは両腕を広げて、澄んだ声を張り上げる。
「学生諸君! 権力に屈していいのか!? これは授業ではない、まごうことなき弾圧である! 諸君らの偉大な可能性を封じ込めようとする権力の横暴である!」
「あなたも反抗する気ですか? 生徒の一人や二人、簡単に退学させられるのですよ!?」
 京弁院の一族は政治家ともつながっていて、強大なコネを持つ。だから生徒も親も逆らえない。
 だが、脅されてもサヨは怯まない。それどころか挑戦的に微笑んで、大きな瞳をキラキラと楽しそうに光らせる。
「それで脅したつもりか! 脅しとはこうやるものだ!
 『革命が成就した暁には、赤い党員証を付けてキサマの家を訪れ、キサマを高く吊るす!』」
「その脅し、意味わかんない!」
「黙りなさい! 私は生徒たちがまともな大人になるよう指導しているのです」
「キサマに、『まとも』とか『指導』とか口にする資格はない。なぜならキサマの言動は虚妄に満ちているから!」
 サヨは鼻で笑い、京弁院を「ビシッ」と指差す。
「暴いてやろう、真の姿を!」
 サヨはかわいい顔を片手で覆った。指の隙間からのぞく眼が、赤く光りだした。
「な、なんだ?」
「革命技二、革命アイ! 権力の秘密を暴き出す力! そこかーッ!」
 絶叫して、床を蹴って走る。サヨの手が閃いて、京弁院の髪の毛をむしりとる。
 七三に分けられた髪の毛が「カポッ」と外れた。
 精巧なカツラだったのだ。その下から現れたのは、両脇以外全部ピカピカ光る見事なハゲ頭。
「バカな! NASAとMITが共同開発した絶対ばれないカツラが!」
「見よ! 権力の滑稽な姿を!」
「おおお」「あははははっ」
 教室がどよめきと笑い声でいっぱいになった。
 京弁院は真っ赤になって、ハンサムな顔を別人のように引きつらせた。
「わっ、わっ、私が若ハゲだからなんだというのです! 人間を外見で判断してはいけないのですよッ!」
「ならば『ハゲだが何か?』と胸を張ればいい。偉大なる同志レーニンのように! レーニンはそれができたから偉大なのだ」
「違う気がするよ!」
 反射的にツッコミを入れるマモル。
「しかるに、キサマは頭を隠してきた! そんな人間の言う『人間は外見じゃない』を誰が信じるものか!」
 サヨは至近距離から、また指を突きつける。
「キサマは頭がハゲているのではない! 魂がハゲているのだーッ!」
 意味はよくわからないが、人として言われたくない言葉である。
「ぬおっ!? ……しばらく自習とします! お、お、覚えていなさい……!」
 テカテカ頭を両手で覆い、教室から飛び出していった。
 サヨは小さな拳を振り上げ、勝ち誇る。
「諸君、人民は勝利したのだ」
 次の瞬間、教室全体で歓声が爆発した。
「おおお!」「すげえ!」「追い出しちゃったよ!」
 みんな席を蹴って立ち上がり、サヨを取り囲む。
「ところで君だれ?」「なんでヘルメットかぶってるの?」
「どこの生徒?」「けっこうかわいいよね! 彼氏いる?」
 質問攻めにされたサヨは、教卓を「バンッ!」と叩いた。
 静まり返ったクラスを、ゆっくりと見渡す。
「質問に一つずつ答える。
 わたしは赤星サヨ。革命仙人様より七百七十七ツの革命技を授けられた女である。
 目的は日本に革命を起こすこと。
 ヘルメットを被っているのは国家権力の攻撃から身を守るため。
 学校には通っていないので、どこの生徒でもない。
 革命拠点を建設するために日本各地を放浪している。
 なお、革命家に恋人など必要ない。『同志』がいればよい」
 気分が乗ってきたらしく、両腕をバッと広げて、早口で演説を始める。
「諸君、諸君はおかしいとは思わないのか。さきほどの教師を見ての通り、この学校は腐敗している。腐敗の原因は君たちにもあるのだ。人民が絶えず権力に対 し挑めば、権力側もたじろぐはずである。しかるに君たちは羊のごとく従順だ。いまこそ人民は己の可能性を自覚し、闘争の火花を散らすべきなのだ。火花はや がて炎となり、全世界さえも焼きつくす炎となるのだッ……!」
 スカートをひるがえし、教卓に跳び乗る。
「そもそも革命とは! 持たざるもの、虐げられたものの反逆の刃である。かつて十九世紀中頃、ヨーロッパの労働者は地獄の苦しみにあえいでいた。毎日十数 時間も働かされ、栄養失調や疫病で次々に死んでいく! にもかかわらず工場も農場もすべて資本家に所有され、労働者たちは反抗できない。その時カール・マ ルクスが現れ、労働者こそ世界を支えているのだと看破し、人々に生きる希望を……!」
「あの、サヨさんサヨさん」
 小声で口を挟んだ。
「なんだマモル。女性解放の象徴・ブルマーを装着しているのでパンツは見えないはずだが」
「パンツの心配じゃなくって!」
「む?」
「……誰も聞いてないよ。みんなドン引き」
 そう言われて、サヨはクラス全体を見おろす。
 口をポカンと開けてる者。目をパチクリさせている者。ウンザリした顔で目をそむける者。
 全員、頭の上に「???」が点滅していた。
「むう……わたしとした事が……革命的情熱がたぎるあまり大衆から遊離したか」
 教卓から降り立つサヨ。うなだれてションボリ顔だ。
 クラスメートのひとりが、おずおず手を上げる。
「あのさー。よくわかんないけど。下辺野とはどういう関係なの?」
(あ、この質問来たか。サヨさんがまた変なこと言うかな?)
 マモルは身構えていた。
 するとサヨは、真摯な表情で、祈るように両手を胸の前で合わせて、
「……マモルとは、運命的な出会いをしたのだ」
「なっ……」
 マモルは絶句する。
(それじゃ一目ぼれみたいじゃん!)
「はじめて出会った、わたしと同じ心の持ち主だ。見ず知らずの老女のために汗だくになって走れる。危険をかえりみず悪に立ち向かえる。正義の心を持っているのだ」
 サヨはゆっくりとマモル歩み寄ってきた。
 吐息がかかるほどの距離で、マモルを見上げる。
 大きな吊り眼がキラキラと輝いている。
 いま気づいた。涙ぐんでいる。
「だからマモル、クラスの面々がダメなら君だけでもいい、わたしの革命に参加してくれ。君はマンガを描くそうだな。プロパガンダ戦では貴重な戦力なのだ」
「いや、その。あの」
「ダメなのか?」
(そんなウルウルの目で見つめられても……)
 至近距離でサヨの顔をじっくり見て、ますます思った。大変な美少女だ。
「わ。わかったよ。ちょっとだけ。ちょっと手伝うだけだからね」
 マモルは思わずそう答えていた。
(ちょっとだけ。恩もあるし)
「よかった! さっそく行こう!」
 サヨさんはぼくの手を引っ張って、すごい力でズルズル引きずっていく。
「うわああ!? でもまだ授業中で!」
「国家体制すら転覆せしめんという我らが、何が授業中だ!」
「そんなの無茶だよ!」
 クラスのみんなが手をふり始めた。
「がんばってこいよー!」「行って来いよ! お前ならできる!」
「やっかい払いされた!」
「仲良くね!」「責任取れよ!」「男だろ!」
「仲良くって。責任て。男って。絶対勘違いしてるだろみんな!?」
「さあ行くぞ、無限の未来に向けて前進!」
 サヨがうれしそうに叫んで、マモルを引きずったまま教室を出る。
「なんでこうなるのー!?」
 よく流される男・マモルであった。
 
 3

 サヨはあたりをキョロキョロ見回しながら廊下を進んでいく。
 マモルはサヨを追いかけながら、
「ねえ、革命ってようするに何をするの?」
「よくぞ聞いてくれた。革命を説明するためにはまず唯物的史観を説明せねばなるまい。唯物史観とは青年ヘーゲル学派から生まれたもので、青年ヘーゲル学派とは十九世紀のプロイセンで……」
「もっと分かりやすく。サクッと一言で」
 サヨは眉を寄せて、
「……一言で言えば、正義の味方だ。苦しむ人民を助け、悪しき権力を粉砕する」
 と、そこで電撃に打たれたように肩を震わせて、立ち止まった。
「さっそく聞こえた! 助けを求める人民の声が!」
「電波を受信した!」
「電波じゃない。革命技一、革命イヤーだ。苦しむ人民を放置して、いかなる革命もあり得ない。助けに行くぞ!」
 マモルの手をつかんで走り出した。
「ここだ!」
 となりの教室だ。壁ごしに男性教師の声が聞こえる。
「……主人公の行動にどんな意味がこめられているのか、それを理解するには作者のテーマ性を……」
 国語の授業だろうか。イジメやケンカの気配は全くない。
「ここ? 別に何もないじゃん」
「人民の声は嘘をつかない。必ずここに、助けを求める者がいる。突撃せよ!」

 ズガン!

 戸を蹴り開けて、突入した。
「待ってー!」
 マモルもあわてて追う。
 生徒も教師も目を丸くしている。
「きみ、なんだね一体! 授業中……!」
 初老の教師が声をあらげる。
「革命を遂行中である! 黙りたまえ!」
「なっ……」
「革命イヤー、感度最大……むむむ……君だな!」
 サヨは、クラスの一角を指差す。
 日本人形を思わせる長い黒髪で、前髪を綺麗に切りそろえた、おとなしそうな女生徒だ。騒動が起こっているのにマモルたちを見ず、机の上のノートにじっと視線を落としている。
 ズダダッと走り寄って、
「わたしは革命戦士・赤星サヨ。人民よ、助けに来たぞ」
「え? あの……何のことですか?」
 女生徒は顔を上げた。サヨと対照的な垂れ眼に不安の色が浮かんでいる。細い眉をハの字にして、戸惑いの表情であたりを見まわす。ほっそりした体つきなのに、ブラウスの胸部分を大きな乳房が押し上げている。
「隠すことはない。あなたは苦しんでいるはずだ。わたしはあなたを助けるために来た!」
「サヨさん、迷惑がってるって」
「だが見ろ、この苦しそうな顔を」
 マモルは女の子を観察した。たしかに血の気が引いている。苦しそうに唇をかんでいる。華奢な肩が震えている。
「さあ答えてくれ。何を苦しんでいるのだ」
 女の子はうつむいて、蚊の鳴くような声でボソリボソリ。
 サヨはとっさに耳を寄せる。
「むっ、なるほど……」
「あの……あの……黙っていて……くだ……さい……」
「トイレに行くのを我慢しているだと!?」
 サヨはとびきりの大声で叫んだ。
「きゃっ」
 女の子は顔を手で覆った。
「さっさと行けばいいのに、なぜ理不尽な忍耐を? 恥ずかしい? もしかして大きいほうか? 返事がない……大きいほうのようだ。これは放置できんな」
 サヨは怒りの表情で拳を振り上げた。
「諸君! 彼女はいま、人として当然の権利である排便を行おうとしている!
 にもかかわらず行うことができない! 何故か! この教室、ひいては日本社会に、校内排便者に対する差別的視線が存在するからに他ならない!」
「あの……おねがい……やめて……」
「ちょっとサヨさんまずいって! 逆効果だって!」
 無視して、サヨはますます大声を張り上げる。勇ましく両腕を広げ、演説モード。
「わたしは、彼女の自然排便権を勝ち取るため、断固として戦う!」
 背中のリュックから紙の束を出した。
「革命技九十九、百烈ステ貼り! ハーッ!」
 サヨの手が目にも留まらない早さで動いた。紙が機関銃のスピードで次から次へと放り投げられる。何百枚という紙が空中を飛んで、壁に、窓に張りついていく。
 
 自然排便権 断固支持
 
 教室の壁が全部、この紙で埋まった。
 サヨは晴れがましく微笑み、女生徒の肩をポンと叩いた。
「もはや君をとがめるものはいない。安心して排……」
「でていってくださいー!」
「アホかーい!」
 女の子が泣き叫ぶのと、マモルがサヨのヘルメットをひっぱたくのは同時だった。
 
 4

「ごめんなさい! ごめんなさい!」
 マモルは何度も何度も謝り、サヨの手を引いて教室を飛び出した。
 サヨは握りしめた拳を見つめ、悲壮そのものの表情でうめいた。
「誰もが自由に排便できる世界……それは……果たし得ない夢だというのか……!?」
「なにカッコつけてんだよッ! 少しは空気を読んでよ!」
「空気ごときを気にして革命という大業が成し遂げられると思うか?」
「成し遂げなくていいから読んでー!」
 叫んだとき、廊下の掃除道具入れが目に入った。廊下のあちこちにゴミが散らばっていることに気づいた。
「人助けしたいなら、学校を掃除するとか、地味なことから始めたら? それなら喜んでもらえるよ」
 するとサヨは立ちどまり、笑顔でうなずいた。
「なるほど、小さな善行で人民の支持を得る作戦か。有効な作戦だな。『ゲリラとは民衆という海を泳ぐ魚のようなものだ』という言葉もある。理解したぞ」
「理解の仕方がとてつもなく不安だ」
「ではこれより構内美化による人心獲得工作を開始する。わたしはこの階を清掃する。マモルは上の階をやりたまえ」
「大丈夫かなあ。一人でできる? モノを壊したりしないよね」
「当然だ」
 マモルは上の階に行って、廊下を適当に掃きはじめた。
 本気でやるつもりはないので、水を飲んだりして適当に休みながら。
 しばらくすると、胸の中で嫌な予感が広がってくる。
(やっぱり気になる!)
 階段を駆け下り、サヨを探した。
「え!?」
 驚きに目を見張った。
「廊下が! 光ってる!」
 見渡す限り、ゴミ一つ、ホコリひとつ落ちていない。窓からの陽光を反射して、床も、壁も、まぶしくキラキラと!
(なんだ、これ……)
 数十メートル向こうでしゃがみこんでいるサヨを見つけた。
「サヨさーん! すごいじゃないか!」
「む? 同志マモルか」
「ここまで完璧にやるなんて! 見直したよ! すごいじゃない!」
「なに、簡単なことだ」
 顔を上げずに答え、サヨは作業を続ける。手に持ったアイスピックで廊下の床をガリガリと。
(え? アイスピック?)
 マモルは駆けよって、床をのぞきこんだ。
 絶句した。

革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命 革命革命命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革 命革命革命革命革命革命革命革命革革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革命革
 
 米粒くらいの字が、床一面にびっしり刻まれていた。よく見ると壁もだ。
「なんじゃこりゃー!」
 だから壁と床が光っていたのだ。
「不勉強だなマモル。サブリミリナル・メッセージを知らないのか? 掃除によって環境のストレスを下げ、生徒たちの心を開放状態にする。その隙を狙って無 意識下にメッセージを送りこむと、人々はいつのまにか革命を待望するようになるのだ。科学的社会主義と呼ぶにふさわしい完璧なプロパガンダ作戦であり、こ れはすなわち……」
 マモルは最後まで聴いていなかった。廊下をダッシュして近くの男子便所に飛びこみ、雑巾と研磨剤を取ってきた。

 ゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシッ

「何をするかー!」
「そりゃこっちの台詞だぁー!」
(この人から眼を離しちゃダメだ!)
 マモルは痛感した。

 5

 結局、ずっと掃除につきあった。
 授業に戻りたかったのだが、放っておいたら何をしでかすか恐ろしくて。
 放課後になった。
 ここは学校の屋上だ。
 マモルはホウキで屋上のゴミを集めていた。タイルとタイルの隙間にある土や草もほじくり返す。
 ざっと見回す。
「うん、だいたい終わったよ」
 うーん、と伸びをする。腰がバキバキ鳴った。腕が痛くて重い。
「こちらも終わった! われわれは遂に成し遂げたぞ! 学校の完全なる美化を!」
 サヨは相変わらず元気いっぱいだ。屋上の階段室の上にすっくと立って、身長の二倍はある赤旗を振り回す。 
 旗には白抜きで『美化』と書かれている。
「サヨさんはやたら高いところに上りたがるねえ」
「革命家だからな、高みにありて大局を見渡し、大衆を導かねば」
「どっちかっていうと、『ナントカと煙は高いところに登る』って感じだよ」
「ナントカ? 狙撃兵か!」
「そんな諺ないよ!」
「フィンランドでは日常的に使われている諺だ」
「ウソだー!」
「今日はここまでにするか。明日が楽しみだな……構内美化に感謝し、赤旗を振ってわたしを迎える生徒たちの姿! 恐れおののく教師たちの姿! フフフ……」
 サヨは目を閉じて、うっとりと恍惚の笑みを浮かべた。
「えー、お楽しみのところ悪いけど、ぼく帰るね」
「そうだな。今日はこのあたりにするか」
 マモルは拍子抜けした。
(「次は学校中にポスターを貼りまくるぞ!」とか言うかと思ったのに……)
 校舎内に降りた。自転車置き場まで二人で歩いて、サヨに軽く手を振った。
「それじゃ、さよなら」
 サヨは小首をかしげる。
「……さよなら? どういうことだ? 学校での活動が終わりなだけだ」
「ええー!? いや、あの、もう家に帰りたいんだけど。ほら、あの、マンガ描かないといけないし」
「知っている。だからついてゆくのだ」
「はあ? ぼくの家に?」
「そうだ。革命の同志をよく知るべきなのは当然だ。階級的に革命の担い手として適当か、革命思想を受け入れる余地はあるか、どの程度の訓練に耐えられるか……もちろん、君のマンガも見たい」
 女の子に「あなたの部屋に行きたいの」とか言われた。それもとびきりの美少女に。
 それなのに、ちっとも嬉しくなかった。
「いや、その、マンガは……ちょっと。まだ人に見せられる出来じゃないから! それじゃ!」
 自転車にまたがる。全力で走り出した。
 校門を飛び出して、学校前の、トレーラーがたくさん通る大きな国道を渡った。
「待て。いまの発言は敗北主義的である!」
 後ろからサヨの声。
 マモルはとっさに振り向いて、国道のずっと先を指差して叫んだ。
「あーっ! レーニン像がゴミ収集車で運ばれていくー!」
「同じ手に何度も引っかかると思うな! わたしは日々学習しているのだ」
 双眼鏡でキョロキョロしながら言ってもまったく説得力がない。
「まだマンガ下手なんだよ、他人に見せるのは恥ずかしい」
「それを敗北主義というのだ。マンガ家は他人の心を動かしたくてマンガを描いているはずだ。ならば他人の眼を恐れてはいけない」
「うう、すごい正論が。アレな人ってたまにまともなこと言うから恐いよな……」
「なにを言うか。わたしは真実と正論しか口にしないぞ」
 国道をわたり終えた二人は、住宅地を進む。
「疲れてるのぼくは! 家に帰って休みたいなーと思ってるの! 学校中を掃除したら疲れるに決まってるでしょ?」
「疲れたときは『革命しりとり』だ!」
「コミュニケーションが成立しないよこの人!」
 マモルは頭を抱えて嘆く。
 嘆きを無視してサヨは指を一本立て、まじめな顔で解説をはじめる。
「革命しりとりとは、革命に関係ある言葉のみで行われるしりとりだ。手本を見せよう。なにか言ってみてくれ」
「なんで高校生にもなってしりとりを? えーと『りんご』」
「『強欲な資本家階級』」
「ちょっと待ってよ!? それ単語じゃないよ。文章だよ。反則だ」
「ちがう。『強欲な資本家階級』で一つの概念、一つの単語なんだ」
「そ、そういうもんかなあ。じゃあ『う』だね? 『うさぎ』」
「『欺瞞に満ちた資本家階級』」
「なんだそりゃ!?」
「だから『欺瞞に満ちた資本家階級』という単語だ」
「そんな単語ないって。『う』だから『牛』」
「『死んだほうがいい資本家階級』」
「っていうか『し』だから、『資本家階級』でいいじゃん!? なんでデンジャラスな形容詞くっつけんの!?」
「きみは『革命しりとり』の真価が分かっていない。普通のしりとりは語彙の豊富さを競うものに過ぎないが、『革命しりとり』はまったく高次元のものだ。どんな単語でも革命に結びつけ、闘志を養うのが目的なのだ」
「そんな闘志いらないから普通の人は!」
 サヨは小首をかしげる。
「わたしは三、四歳の頃から毎日こうやって遊んでいたが」
「どんな子供だよ!」
 サヨは遠い目をした。柔らかそうな頬に微笑が浮かぶ。
「わたしは赤ん坊の頃、山の中で、革命仙人様という方に拾われた」
「革命仙人?」
「日本に共産主義革命を起こすため、山岳アジトで三十年以上も修行を続けている偉大な方だ。わたしは仙人様に育てられ、超英才教育を受けてきたのだ。来る 日も来る日も、来るべき革命の夜明けのために体と心を鍛えつづけた。仙人様の革命技を受け継ぎ、革命武装ラジカル☆ゲバロッドも託された」
「取り返しのつかない人生だ!」
「早くこの力を世界人民のため、戦いのために使いたかった。だが仙人様は言うのだ。『まだじゃ。まだ時が来ておらぬ』……
 わたしは仙人様の元を離れ、人里に降りてきた。降りてきてよかった。マモルのような同志に出会えたのだから」
 そう言って笑顔を向けてきた。キラキラと光る、黒く深い瞳でまっすぐにマモルを見つめる。
 マモルは照れてしまった。自分の頬が火照るのがわかった。
「ど、どうも……」
「君は子供の頃どうやって遊んでいたんだ?」
「え? ぼく? ぼくは……マンガとかアニメとか好きだったから。ノートにへタな絵描いたり、あとはゲームやったり、プラモつくったり。……サヨさんはガンダムとか見ないよね」
「いや、ガンダムなら先日見る機会があった。大変興奮した。『腐敗した官僚を粛清する』『宇宙市民の真の解放』すばらしい言葉だ」
 力強くうなずいた。
「……アニメの見方は人それぞれだからね……」
 ツッコミを入れるのも疲れてきた。
「楽しそうだな」
「え? とんでもない。ぼく困ってるよ?」
「だが、笑っているぞ?」
「え……」
 マモルは自分の顔に手をあてた。本当だった。笑っていた。
 自分の胸に手を当てた。トクントクンと、せわしげな鼓動。
 自転車をこいでるから? 違う。たしかに気分が高揚していた。
 この気持ちはなんだろう、と自分に問いかけた。
 お祭りみたいな気分だった。悪いことをしているドキドキもある。小学生のころ、ちょっとだるくて「風邪を引いた」と学校を休んだことがある。あのときの楽しさ。教師の目を盗んで授業中マンガを読むときの楽しさ。
「……うん、楽しいのかもしれない」
「では、革命クロスワードパズルはどうだ?」
「それは楽しくない!」

 6

 家についた。
 クリーム色で同じ形をした四階建ての団地がずらっと並んでいる。古い団地で、壁にはヒビが入って、ヒビ割れから茶色いシミが広がっている。自転車置き場の屋根はサビだらけだ。
 自転車を置き場に停めた。
「はい到着」
「到着……く、く、『苦難を乗り越え戦え革命家』」
「しりとりのネタはもう終わった!」
「ネタとか言うな!」
「とにかく、着いたよ」
 サヨはあたりを見回して喜びの声をあげる。
「すばらしい! いかにも労働者階級の住処といえるだろう! とくに壁のシミが生活感をかもしだしている。もし大きな一軒屋に住み、ガレージにはBMW、ゴールデン・レトリバーでも飼っていたらどうしようかと……本当によかった」
(犬飼ってたらどうするつもりだったんだろ……)
 怖くて訊けないマモルであった。
「家にくるのはいいけど、あんまり変なことを言わないで欲しいんだけど。母さんビックリするから。革命とか、国家転覆とか、シベリア送りとか」
 サヨは眉をひそめて大げさに首を振った。早口で喋りだす。
「わかっていないな君は。シベリア送りなど、我々が行うべき革命とはまったく関係がない。ロシア帝国時代の非民主的な体質の名残に過ぎないのだ。たしかに 革命後の世界においても退廃思想者や反動分子どもを処罰する施設は必要だが、無用の苦痛を与えるものではなく、あくまで自発的に革命の重要性を理解させ、 人民としての連帯を取り戻すための教化施設であるべきで……」
「だからそういうのがヤバイ発言なんだよ! 母さんの前では普通の女子高生っぽく振舞って。もちろんヘルメットも脱いで」
「断る」
「なんでさ」
「権力が襲撃してきたらどうするつもりだ」
「襲撃なんてないよ! だいたい六月にヘルメットって暑いでしょ? おでこに汗かいてるよ?」
「暑くなどない。砂漠でイスラエルの暴虐と戦うパレスチナ人民の気分になれる」
「ようするに暑いんじゃないか」
「屁理屈をいうな!」
「どっちがだよ!」
 などと言ってるうちに、階段をのぼって302号室、マモルの家まできた。
「ただいまー」
「あらマモルちゃん、おかえりなさーい」
 母の里香(ルビ りか)が玄関で出迎えてくれた。誰もが驚く、異常に若い母だ。小柄でエプロンをつけて、髪型は柔らかそうな三つ編みで、ふっくらした丸顔に、つぶらな瞳。丸眼鏡をかけているのでますます子供に見える。だが母親ひとりで懸命に働き、マモルを育ててくれた。
「あらあら、こちらの方はおともだち?」
 声もふわふわと柔らかい。
「はじめまして。わたしは……」
(サヨさん頼んだよ? ちゃんと自己紹介してよ、無難な奴を頼むよ?) 
「はじめまして。わたしは革命仙人様より七百七十七ツの革命技を授けられた女、赤星サヨです。マモルとともに革命の道を歩む同志です」
「なにその無難と正反対の発言!?」 
「あらあら、まあまあ! 彼女ができたのね! おめでとうマモルちゃん!」
「なにその超解釈!?」
「だって同じ道を歩むって……結婚を前提につきあってるってことでしょ?」
「なんでー!?」
「恥ずかしがっちゃ駄目よマモルちゃん。好きを好きと認めることが大事なの」
「コミュニケーション成立しない人がここにも!」  
「さあ、あがってあがって、赤星さん」
 ペコリと頭を下げ、家にあがるサヨ。
「ねえ母さん、『なんでへルメットかぶってるの?』とか気にしないの?」
 里香はにっこり微笑んだまま答える。
「そんなちっぽけなことを気にする母さんじゃないわよ。マモルちゃんが選んだ人なら間違いはないわ」
「そ、そうなんだ……まあ母さんがそれでいいなら……」
 サヨがマモルの耳に口を寄せてヒソヒソ話しかけてきた。
「きみの母さんはわりと大物だな……」
「……ぼくもそう思う」
 玄関から入ってすぐ右、台所と一体になった食堂に移動した。狭い空間を埋め尽くすように、テーブルがある。
「赤星さんはそこに座って待っていてくださいね。いまお茶いれますから。ホットケーキ焼きましょうか?」
「いただきます」
 サヨはへルメットを脱いで腰掛ける。戸惑いの表情だ。
「どうしたの赤星さん、変な顔して? ホットケーキきらいかしら?」
「いえ。なんでこれほど親切にされるのかと不思議に思って」
「当然じゃないですか、うちの子にはじめてできた彼女ですからー」
「いえ、別に彼女ではなくて革命の道を行く同志……」
「ロマンチックよね。おばさんもそんな恋がしたかったわ……マモルちゃんをよろしくね、赤星さん」
 一気にしゃべり終えると、里香は台所のコンロに向かった。
「るーるーるーふたりーは、れきしーのかわーのなかでいきーるーのーよー♪ るーるーるー♪」
 謎の鼻歌を歌いながらホットケーキを焼き始める。パチパチと油の爆ぜる音。
 サヨがポツリといった。
「……きみの母さんはかなりの大物だな」
「……ぼくもそう思う」

 7

 そのあと三人でホットケーキを食べた。紅茶を飲んだ。
 サヨの食べ方は下品だった。ろくに切りもせず頬張って、頬をパンパンにする。
「うまひ。しゅばらしひ味だ」
「呑みこんでからしゃべってよ……」
 こんな人間、マンガでしか見たことがない。
「おいしそうに食べてくれてうれしいわ」
「高級なものを食べる機会がないもので」
「あら、ホットケーキが高級? どういうことかしら」
「革命戦士は質素であるべきなのです。一時期は『店で野菜を買うのはブルジョア的行為ではないか』と考え、野草や木の芽などを食べていました。革命技六十九です」
「まあ、個性的な冗談ね」
「この人は本気だよ母さん!」 
「他には山岳ゲリラ訓練の一環として蛇などを食べました。肉が臭くてそのままでは食べられないのでカレー粉をかけました。革命技四十です」 
「そりゃ傭兵サバイバル術だ!」
「まあ、じゃあこんどおいしいカレーをご馳走しますね。ネパール風カレーって言うのを試してみたいの。レンズ豆を入れるのよ」
「なるほど。ネパールといえば毛沢東主義者(ルビ マオイスト)が政権すら獲りかねない勢いですね。まことに頼もしい」
「あら、赤星さんって外国のことに詳しいんですか?」
「革命のため、国際情勢には常に気を配っています」
「まあ、大きな夢があるってうらやましいわ」
 里香は平然と会話についてきた。大物すぎるとマモルは思った。
「ごちそうさまでした」
「うわ、サヨさんが普通に礼儀を守ってる。わりと意外」
「失敬な。わたしはマルクスの労働価値説に基づきすべての労働に敬意をあらわすのだ。調理もむろん労働だ」
「やっぱり普通じゃないや」
「ねえ赤星さん、晩ごはんも食べていきますか? おばさん腕によりを……」
「晩ごはんよりも、同志マモルとふたりで用事があります」
「あらあら、まあまあ!」
 里香は目を輝かせた。
「マモルちゃん頑張りなさいよ! 女の子が積極的なときは、男の子も怖じ気づいちゃ駄目よ。変なプライドにこだわったりすると女の子に恥をかかせることになるのよ」
「なにを早まってるんだ母さんは! いこうサヨさん」
 サヨを引きずるようにして自分の部屋に向かった。
 タタミ敷きの六畳間だ。
 本箱と勉強机がある。だが机の上には教科書よりマンガが多い。本箱もマンガばかりで、たまにある小説もマンガ絵のついたライトノベルばかりだ。壁にはアニメのポスターが貼ってあるし、本箱に入りきらなくなったマンガ本がそのへんに積み上げてある。
 恥ずかしさで体がすくむ。
(……オタクっぽいって思われるかな? 女の子が来るってわかってたならもう少し片付けたのに……)
「ふむ。勉強熱心はいいことだ」
「ごめんねサヨさん、いますぐ片づけるよ」
「いや気にする必要はない。君の描いたマンガというのは?」
「はい、一番新しいのがこれ」
 机の引き出しを開けてサヨに原稿を渡す。
「拝読させてもらう」
 サヨは原稿を受け取って椅子に腰かける。パラパラとページをめくりはじめる。
 こういうストーリーだ。

 『平凡なオタク少年の主人公は、買い物に出かけた秋葉原で金髪ツインテールの美少女に惚れられてしまう。
 その美少女がヨーロッパの小国、トリンシル公国のお姫様だったからさあ大変。
 家に連れ戻して政略結婚させるため、美少女ぞろいのメイド軍団がやってきて、あの手この手で二人を別れさせようとする。
 主人公は少女を守りきれるのか?』

 サヨの眉間にどんどんシワがよっていく。
 頬が痙攣した。目がつりあがる。どう見ても怒りの表情だ。
 ページをめくる手がどんどん早くなる。顔はひきつったままだ。
(怒ってる? 怒ってるの? なんで?)
 言葉遣いを敬語にして、おっかなびっくり話しかける。
「どうですか、絵はあんまりうまくないといわれるけどネームの作り方は本読んで勉強したからそれなりだと思うんですよ、漫画研究会の女の子達だって面白いっていってくれて……サヨさん? サヨさん?」
「……」
「あのーサヨさん、こういうのもあるんですけど、同人誌。これはぼくが考えた話じゃなくて既存のアニメとかのキャラクターを使った……」
「なんだこれはーっ!」
 突然、サヨは原稿を真っ二つに引き裂いた!
「なっ……」
 マモルは驚愕した。次の瞬間、怒りがわき起こった。だがマモルが怒るより早くサヨが立ち上がって、大きな瞳を怒りに燃やしてにらみつけてきた。
「あまりの退廃思想に体が拒絶反応を起こしてしまったぞ!」
「なんだよ退廃って!」
「これはなんだ」
 サヨは原稿の切れ端を一枚拾い、マモルの目の前に突きつけた。
 フリフリドレスにツインテールの金髪美少女が、主人公の少年に抱きついている。
「ああ、だから、主人公のオタク少年が秋葉原にいたら、謎の美少女に一目ぼれされて、その女の子がヨーロッパの小国のお姫様で……」
「王族という支配階級の人間が『純粋無垢な愛すべき存在』として描かれている。許されない!」
 サヨはドン! と机を叩いた。
「もっと重大な問題がある。この物語には階級対立が登場する! ならば物語は、ふたりを引き裂く真の敵、欺瞞に満ちた階級社会をこそ描くべきである! し かるに! 実際に描かれているのは個人レベルの葛藤とその解消、身分違いの恋というありきたりの悲劇にすぎない! 階級闘争というテーゼを放棄し、問題を 『個人の心の問題』へと矮小化した! これは革命に対する明白な裏切りである!」
 サヨの目はヤバイ感じにギラギラしていた。
「ちょっと待ってよ、マンガの描きかたはいろいろあっていいじゃない? ふつうに娯楽のマンガを描きたかっただけなんだよ、ぼくは」
「それが間違いなのだ。人の心を動かす力を持ちながら、正義を愛する心を持ちながら、なぜムダにするんだ! なぜ人民を啓蒙しうるマンガを描かない! なぜ正しい思想をこめない! 失望した! 実に失望した!」
 胸の中でモヤモヤと不快感が広がった。
 原稿を台無しにされた、というだけの怒りではない。
 サヨの視線を正面から受け止め、マモルは言った。
「サヨさんは、じゃあ、マンガって革命の道具でしかないの? 正しい思想がこもってないマンガには、価値がないの?」
「そこまでは言わない。しかしせっかくの能力が……」
「言ってるよ! そうとしか聞こえないよ! バカにしてるよ!」
 自分でも驚くほどの大声が出た。マンガというものを根底から馬鹿にされた、と思ったのだ。
(この人は変わらない。京弁院と、大して変わらない!)
 突如、サヨの表情から怒りが消えた。冷たくこわばった、思いつめたような顔になった。
(きっとケンカになる。でも、ぜったい納得できない。受けて立つぞ)
 ところがサヨは乗ってこなかった。さびしげに微笑んで、椅子にかけてあったへルメットをとり、床のリュックを背負った。
「邪魔したな」
 そっけなく言って、振りかえりもせずに部屋を出ていった。
 ドアの向こうから会話が聞こえてくる。
「あらあら、もうお帰りなの?」
「……ここはわたしのいるベき場所ではなかったのです」
(自分から押しかけてきたくせに)
 心の中で悪態をついた。床に散らばった原稿を集める。
 部屋の戸が開いて、里香が心配そうな顔をのぞかせた。
「マモルちゃん、赤星さん帰っちゃったわよ?」
「……だからなに?」
「フラれちゃったの? よく考えて、情熱を持って何度もアタックよ?」
「つきあってたとかじゃない。友達でもない気がする」
「え、でも同じ道を歩む仲間って」
「妄想みたいなもの。あいつの思いこみだよ」
 里香はとても真面目な顔になった。大きなクリクリの眼でマモルを見つめて、
「それでいいの?」
「いいんだよ……」
 自分に言い聞かせた。

 8

 次の日、マモルは学校をサボった。
 いつもどおりの時間に家を出た。でも学校には向かわず商店街をウロウロした。
 サヨに会うのがいやだった。
 喧嘩したことなど忘れて「革命革命!」って言われるんじゃないか、ウザったいなあと思った。
「なんとなく顔をあわせづらい」という気持ちもあった。
 あそこまでキツイ言い方することなかった。でも許す気にもなれない。
 要するに、どんな顔して何を話せばいいのかわからない。
 そんなわけで街をウロウロ……しかしやることがなかった。
 不良連中とのつきあいがない。学校をサボってどう遊べばいいのかわからなかった。
 本屋にいって、みんなの目を気にしながら本を立ち読みした。公園のべンチにすわってノートを広げ、マンガのシナリオを考え、でもさっぱり作業が進まなくて。胸の中のモヤモヤした気持ちがどんどん大きくなっていって。
 気がつくともう夕方。
 ゲームセンターに入った。なけなしの小遣いをガンシューティングにつぎこんだ。出てくるゾンビを撃って撃って撃ちまくった。だんだん頭の中が真っ白に なっていく。五十インチ大画面の中で襲ってくるゾンビと、軽いプラスチックの銃だけが世界のすべてになった。ガチンガチン、引き金を続けざまに絞ってゾン ビを倒す。すぐに画面外に銃口を向けて弾を補給。
 ステージクリア。命中率八十五パーセントと出てくる。
 額の汗をぬぐった。
「おい!」
 いきなり大声を浴びせられた。肩をつかまれた。
「なんですか?」
 振り向いた。すると夏なのに革ジャン姿で、ネズミのように細長い顔で出っ歯の、サングラスをかけた少年が立っていた。
 マモルは目を見開いた。
(あ、こいつは昨日のひったくり犯だ)
「やっぱりテメエか。こいつです、カイザー!」
(は? カイザー?)
 格闘ゲーム筐体の向こうから、巨大な影が姿をあらわした。
 二メートルはあろうかという巨体だ。肩幅も胸板の厚さもレスラー並だ。上半身は黒のタンクトップ一丁で、むきだしの肩の筋肉がコブのように盛り上がって いる。腕の太さはマモルの太股なみだ。髪の毛は金色に染めた長髪で、四角い顔。ゲジゲジ眉毛の下には猛獣のような鋭い眼がある。しかも目は血走っている。
 格闘ゲームのボスキャラが現実に出てきたようだ。カイザーと呼びたくなる気持ちがわかった。
「おう、どうした?」
「見つけましたカイザー、こいつの仲間にやられたんです」
「アレを貸せ」
「ハイッ」
 ネズミ顔が、カイザーに何かを渡した。
 センベイほどもある巨大な五百円玉だ。
 カイザーは巨大五百円玉をグローブのような手でつかんで、
「むむむむっ……ぬん!」
 指の力だけで折り曲げた。
「こっちに来い。逆らうとこうなるぜ!」
 怪力を見せつけるためにわざわざ用意したらしい。マモルはポカンと口を開けた。
「わかってねーようだなあ!」
 カイザーはマモルの首根っこをつかんで、片手だけで持ち上げた。息が苦しい。 
「いたっ、けっ警察ゲホッ!」
「ここじゃヤバいです。例の場所に行きましょう」
「おうよ」
 カイザーはマモルを吊るしたまま、ゲームセンターの駐車場まで運んでいく。
「もがっ、誰か助けっ!」
 大声を出したが、ネズミ顔が頬に平手を一発打ち込んできた。猿ぐつわをかませた。
「呼ばせねえよ!」
 大きなRV車の中に放りこまれた。目隠しもされた。
 恐ろしくて全身が震える。マモルを押しつぶすようにしてカイザーの巨体が乗ってきた。
「それじゃカイザー、出発します」
 クルマは走り出した。
「あなたたちとケンカしたのは女の子のほうでしょう? ぼくは関係ない」
「じゃあ、女はどこにいるんだよ?」
 ドスの利いた声が耳元で爆発する。
「し、知らない。学校じゃないですか」
「学校にいなかったから探してるんだ。女を呼び出せ」
「できません。携帯とか知らないんです。住んでいる場所とかもぜんぜん知らないんです」
「ちっ、使えねえ奴」
「だから解放してくださいってば」
「ボコれば思い出すんじゃねえか?」
 腹に一発、パンチを叩きこまれた。
「ぐえっ……」
 身体を折ってうめいた。激痛で胃袋がでんぐり返り、酸っぱいものがこみ上げてくる。
(うらむよサヨさん。完全にとばっちりじゃないか!)
 
 9

 クルマは走りつづけた。
(どこに連れて行かれるんだ……)
 不安で体が震える。
 目隠しで景色がまったく見えないので、ますます不安だ。
 加速減速がマモルの体を四方八方に揺さぶる。よほど荒っぽい運転をしているらしい。
 隣に座ったカイザーはマモルの首に太い腕を巻きつけたまま、なにやら携帯電話で話しはじめた。
「おう。オレだ。例の奴、男のほうを見つけた。女の居場所を吐かせるから、倉庫に集まれ」
「カイザーだ。仲間連れて倉庫に急げ」
「オレだ。そろってるな。倉庫に来い」
 どうやら手下をたくさん集めているらしい。
 十分ほど走っただろうか。
 やがて止まった。
「降りろ」
 下ろされて、引きずられていく。猿ぐつわと目隠しを、乱暴に剥ぎ取られた。

 ガシャン。

 背後で扉が閉まる。
 ここは薄暗い、大きな倉庫だ。埃が漂って空気に油の臭いが混ざっている。
 灯りはついていない。屋根の一部がプラスチックになっていて、そこからわずかに陽光が差し込んでいた。薄暗い中に、木箱がたくさん積みあがっている。地面がむき出しだ。
 そして、何十人もの『不良』たちが整然と並んでいた。
 ド派手な柄のシャツ、染めた長い髪、胸元や腕に銀のアクセサリーをつけた『いまどきの不良』がいた。
 真っ白い特攻服を身につけ、木刀とかチェーンを持った『暴走族』がいた。
 長い学ランに巨大なリーゼント、というクラシックスタイルの不良もいた。こんなのマンガでしか見たことない。ひったくり犯のもう片方、ゴリラ顔の男も革ジャンに身を固めて立っていた。
 マモルたちが入ってくると、不良たちはいっせいに背筋を伸ばし、挨拶をする。
「綾品極悪連合、全員集合しております!」
(なんだこいつら。この綾品にこんなたくさんの不良がいたのか)
 驚いているマモルに向かって、カイザーは両腕を広げて笑った。
「スゲエだろ。オレはこの綾品にいるすべての不良のボス! 言ってみればヤンキーカイザーなのさ! むん!」
 カイザーがガッツポーズを作る。腕や肩の筋肉が膨れ上がって、黒いタンクトップが破れた。振り向き、裸の背中を見せた。
 筋肉でゴツゴツした背中に、炎のような字体でタトゥーが彫られている。

 I AMU YANKII KAIZAA

(あれ? ぜんぜんスペリングがおかしいぞ)
「スペ……」
 ツッコもうとしたマモルの口を、不良の一人がふさいだ。耳元で囁かれた。
「黙ってろ! オレらもツッコめねえんだ。殺されちまう」
 不良も大変らしい。
「オレ様カイザーとしてはよ、弟分がメンツをつぶされたら黙っていられないわけよ。わかるか、うん?」
 腹が立った。
(犯罪者のくせに何がメンツだ。引ったくりなんてするからだろ?)
 だが言えなかった。何十人もの不良軍団が、暴力が恐ろしい。口の中がカラカラに乾いて、かすれた声が出ただけだ。膝が震えて、その場に崩れてしまいそうだ。
(ああ、リンチにかけられるんだ)
(サヨさんにかかわらなければ。あのとき犯人を追いかけなければ、平和な暮らしができたのに)
「覚悟はいいか?」
 カイザーがドスを効かせた声で言う。不良たちが動いた。チェーンや木刀を手に、マモルのまわりを取り囲む。
 そのとき。倉庫の外から、大音量の音楽が聞こえてきた。
 
 チャーンチャチャ チャッチャチャ♪
 チャーンチャチャ チャチャーン♪

 立て 飢えたる者よ! 今ぞ日は近し
 覚めよ 我が同胞(ルビ はらから) 暁は来ぬ
 
 安物のスピーカーを使っているらしく音が割れている。
「な、なんだっ!?」
 不良たちはうろたえた。
 マモルはあわてなかった。歌声の主を知っていたから。
 サヨだ。美しい声で、声をかぎりに歌っていた。
 この歌が何かは知らなかった。だが戦いの歌だということは分かった。
「おい外を見てこい!」
「誰もいません! でかいラジカセがあるだけです!」

 暴虐の鎖絶つ日 旗は血に燃えて
 海をへだてつ我ら 腕(ルビ かいな)むすびゆく
 いざ戦わん いざふるいたて いざ 
 ああインターナショナル われらがもの
 いざ戦わん いざふるいたて いざ 
 ああインターナショナル われらがもの

 歌がプツンと途切れた。

 バキバキッ

 頭上から破壊音が響いた。
「上か!」
 不良たちがとっさに見上げる。マモルも見上げる。
 数メートル頭上にあるトタン屋根の一部が、勢いよく引きはがされた。人間が通れるくらいの穴ができる。穴の向こうから真っ赤な夕日があふれた。赤い光の中、セーラー服にヘルメットの少女が身を乗り出してきた。
 サヨだった。先の曲がった黒い棍棒……バールのようなものをふりかざしている。
「ヘルメット女! こいつですカイザー!」
「サヨさん、なんでこの場所が?」
 サヨはマモルたちを見下ろして、高らかに叫んだ。
「革命仙人様より七百七十七ツの革命技を授けられた女、赤星サヨ!
 権力が腐敗し、人民が苦しみに泣くとき、わたしは現れる!
 同志マモルを返してもらおう!」
「やれるもんならやってみやがれっ!」
 サヨは即座に反応した。屋根の穴から、スカートをひるがえして降ってきた。
 不良の顔面に着地して、ガツン! と踏みつける。
「ぐべっ」
 ヒキガエルじみた悲鳴が上がる。すぐさま、そのとなりの不良の顔面にも蹴りをぶち込んだ。不良たちの頭上を素早く跳び回りながら、機関銃の勢いでキックの嵐。
「このやろっ」「テメーッ」「ウガァッ」
 木刀が振り回された。金属バットが唸った。チェーンが鈍く光って空気を裂いた。だがサヨは小さなジャンプを繰り返し、すべての攻撃を紙一重の差で避ける。避けながら不良の頭でステップを踏み、宙返り。
「ほっ! はっ! 革命技百二十一!」
 避けながら、不良たちの腕を打つ。顔面に叩きこむ。不良たちは悲鳴をあげて武器を取り落とす。鼻血を噴いて倒れこむ。
「お前ら広がれっ!」
 カイザーが焦った声で命令する。すぐに不良たちは散開した。サヨは床に降り立つ。不良たちが四方から殺到する。サヨの姿が不良集団に呑まれた。
 バールが骨を叩く重い音が、何度も何度も連続する。
「ぐあ!」「ぎえっ!」
 不良たちが次々に、みじめな悲鳴を上げる。やがて全員、床に崩れ落ちた。頭を押さえてうめいている者、泡を吹いて気絶している者……床を埋め尽くす数十人。
 サヨだけが無傷で立っている。バールをカイザーに向けて、にやりと笑う。
「残るはキサマひとりだ」
「使えねえ手下どもだ……だがオレは違うぜ!」
 床に転がっていた巨大な木刀を取る。ボートのオールのような形で、長さは人間の身長、太さは子供の腕ほどもあるバケモノだ。どう見ても重さは十キロ以上、人間の頭蓋骨など粉々にできるだろう。
 大上段に振りかぶって、サヨに突進する。
「オリャァァァァッ!」
 雄たけびとともに、巨大木刀が大気をつんざいた。

 ガインッ!

 マモルは目を見張った。
 巨大木刀は、サヨのかざしたバールで受け止められていた。
 腕の太さは大人と子供、体重は三倍ほど差があるだろう。だがサヨはよろめきもしない。
 ビシッ……
 木刀にヒビが入る。砕け散った。
「なっ……」
 カイザーが目をむいて、驚愕のうめきを漏らした。まさか受けられるとは思っていなかったのだろう。
「……こんなものか? ヌルいな。わたしは国家権力と戦うため、一トンの鉄球を受け止める訓練をやってきた!」
 サヨが叫んで、一歩踏み出す。
 カイザーは怯えた表情で、大きく後ずさった。だが倉庫の壁にぶつかる。ますます彼の顔がこわばった。
「革命技百五十、革命剣・三十八度線斬り!」
 サヨのバールが閃く。岩同士をぶつけあったような重い音がゴイン! と響く。
 カイザーの頭から血が噴出。
「この剣を受けた者は、民族が分断されたかのような痛みにのた打ち回る!」
「なんだ……そりゃあ」
 痙攣して、倒れた。
 マモルは口をポカンと開けた。
(全滅? 二、三十秒だよ!?)
 唖然とするマモルに、サヨは笑顔を向けて近づいてきた。
「たいせつな暴力を、私利私欲にしか使わない奴らなど……『武装せる人民』の敵ではないのだよ」
(え? たいせつな暴力?)
 ツッコむのはやめておいた。なんか怖いからだ。
「それにしても君は鍛え方が足りないな。立てるか?」
 そういってサヨは手を差し出してくる。
「うん、ありが……」
 ありがとう、と言おうとして、ためらった。
(だって、ぼくが拉致された原因はもともとサヨさんにあるんだぞ)
(感謝するのって、おかしくないか?)
(巻きこんでゴメン、くらいのことは言ってくれても……)
(原稿破ったことだって……)
 マモルが眉をひそめて黙っていると、サヨが突然、緊迫の表情で叫ぶ。
「マモル! 後ろ!」
(え?)
 振り向こうとした。
 遅かった。後ろから抱きつかれた。マモルの両腕の動きが封じられる。首を締められた。体をよじって、足をバタバタさせて逃げ出そうとした。だが相手の腕 力が強く、身動きが取れない。目の前に抜き身のサバイバルナイフが突きつけられた。ギザギザの刃が夕日で鈍く光った。耳元でドスのきいた声。
「動くんじゃねェッ! 動いたら喉をカッ切るぜッ!?」
 耳元の声は、ゼイゼイとあえいでいた。興奮している。ひったくり犯の片方、ネズミ顔の声だ。
「おい女ァ! おめぇも動くなよ! こいつの命が惜しいだろ? 武器を捨てろ!」
 サヨは目を一杯に見開き、顔をひきつらせていた。
「捨てろって言ってんだよコラァ!」
 サヨの手からバールが滑り落ちた。両手を上げる。
(え? サヨさんに人質が通用するなんて)
「そうだ、それでいい、最初からこうすればよかったぜ……フゥッ、フゥッ……」
「……小悪党め……」
 両手を挙げたまま、サヨがうめく。
「ああん? そんな口きいていいと思ってんの? ザックリやっちまうぞ」
 ナイフがマモルの喉ぼとけに押しつけられた。分厚い刃の感触。チクリと痛い。
(このまま刃を引けば、ぼくは死ぬんだ)
 マモルの体が恐怖で硬直した。
 サヨが苦痛の表情を浮かべて、うめく。
「彼を解放してくれ。恨んでいるのはわたしだろう、彼は関係ない」
「オメーにはさんざん恥をかかされたからよォ。タダでってわけには、いかねーなあ」
「どうすればいい」
「脱げ! いますぐスッ裸になれ!」
 サヨは一瞬もためらわなかった。セーラー服からスカーフをはずし、上着を脱ぎ捨て、ブラウスと、その下のTシャツを脱いで一枚一枚床に重ね、スカートをおろす。真紅のブルマも脱ぎ捨てた。そこで初めてヘルメットを落とす。
 ヘルメットはネズミ顔の方に転がってきた。ネズミ顔が思い切りヘルメットを蹴り飛ばす。サヨが苦しげに顔をゆがめた。
 もう下着姿だ。飾り気のない白パンツと、タンクトップの上半分のようなもの……スポーツブラを着けているだけ。膝が震えている。
 サヨの手がスポーツブラに触れて、止まった。
「スッ裸っていってんのが聞こえねーのかッ!」
「脱ーげ! 脱ーげ!」
 いつの間にか、他の不良も目を覚ましていた。大合唱になった。
「脱ーげ! 脱ーげ! 脱ーげ!」
 両腕を上げて、乱暴にスポーツブラを脱いで、床に落とした。
 露になったサヨの乳房は、とても小さい。乳首の周りがわずかに盛り上がっているだけだ。腰はくびれていない。尻も肉付きが薄く、手足も細い。まるで子供の体つきだ。不良軍団をなぎ倒した力強さが、まったく感じられない。
「ギャハハハッ、こいつ、スッゲー胸ちいせーぜ!」「ガキじゃね?」「へっへっ!」
 不良たちがはやし立てるたびに、サヨは電流を浴びたように裸身を震わせる。
「パンツが残ってんぞ、コラ!」
 サヨはたったひとつ残ったパンツに手をかけた。マモルは、パンツの前面に赤い星がプリントされているのに気づいた。滑稽なデザインだと思ったが、笑う気になれない。むしろ痛々しさを感じた。
 胸やパンツばかり見ているのがいやになって、マモルは眼をそらした。サヨの顔を見る。
 おびえていた。薄暗い倉庫の中でも分かるほど青ざめて、目線が空中をさまよっていた。
(そうだ。怖いにきまってるじゃないか、こんな強姦同然の目にあって恐くないわけがない)
(ぼくを無視すれば、この連中を片づけるのは簡単なのに)
「どうして……?」
 思わず声に出していた。
 サヨがマモルを見た。大きな目に涙がにじんでいた。泣きそうなのを必死にこらえていた。
「マモルは同志だ。捨てられない」
 その言葉をきいたとき、サヨへの怒りは跡形もなく消えていた。この人のせいで殴られた、なんて少しも考えていなかった。
 思わず叫んでいた。
「サヨさん! 大丈夫だから! ぼくのことは大丈夫だから! 気にしないで戦って!」
 サヨの表情が輝く。目に生気が戻り、叫ぶ。
「よく言った、同志!」
 パンツを一気に下げた。
(え!?)
 マモルは思わず目をつぶる。
 次の瞬間、世界が真っ白になった。目を閉じているのに眩しかった。ものすごい光が爆発したのだ。
「ぐえ!」
 背後で悲鳴が上がる。
(いまだ!)
 マモルは思いっきり頭を後ろに振った。
 ごすっ! 手ごたえあり。首を絞める腕がゆるんだ。もがいて逃げだして、目を開いた。
 閃光はもう消えていた。不良たちは目を押さえてヒイヒイうめいていた。
「よくやった、逃げるぞ!」
「いまのは何、サヨさん?」
「手製の閃光手榴弾だ」
「はあ?」
「最後の武器をパンツに入れておくのは革命戦士の常識である」
「知らない! そんな常識知らない!」
 そのときマモルは気づいた。サヨは何もない空中を手でひっかくような、奇妙な動作をしている。
「……なにやってんの」
「うっかりわたしも閃光を見てしまった。何も見えない」
「……まぬけ!?」
「うるさい、恥ずかしくて気が動転していただけだ!」
 叫ぶサヨの背後で、ゴリラ顔の不良が立ち上がる。
「逃がさねえぞ!」
 彼は、ちゃんと目が見えていた。いままで気絶していたのか、それともとっさに目を閉じたのか。
「革命家は何も恐れない! かかってくるがいい!」
 サヨはビシッと指差す。なにもない空間を。
「そっち誰もいないから! 見えてないから!」
 マモルはサヨの手を引いて逃げ出した。倉庫の戸を開けて飛び出した。
 すっかり夕暮れだった。丘の上の住宅地。綾品市の中心から離れているらしく、家と家の間にはネギ畑や竹林がある。二人で手をつないだまま、坂道を転がり落ちるように走った。
「テメーッ! 殺す殺す、コロスッ」
 すぐ後ろで怒声があがった。振り向いて驚いた。顔面血まみれで前歯の折れたゴリラ顔が、必死の形相でバットを振りかざして追いかけてくる。
 明らかにマモルより足が速く、どんどん近づいてくる。
「マモル! 革命技五百一、『人間アウフヘーベン』を使うぞ!」
「ど、どういうこと!?」
「アウフヘーベンとはヘーゲルが提唱した概念で、異なるもの・矛盾したものを融合させて発展させることだ。この考えはマルクスがさらに発展させ階級闘争の理論に……」
「単刀直入に!」
「わたしにおぶさるんだ! わたしの目になってくれ!」
 そう言いながらサヨは体を傾け、小さな、子供のように未発達な尻を後ろに突き出す。
「えっ……」
 マモルはためらった。
(え、ハダカの女の子に抱きつくの?)
 しかし他に手がなかった。サヨの小さな背中にとびついた。
 両腕で首にしがみついた。手のひらに、ぎっちり硬い筋肉の感触。汗の感触。とても意外だ。女の子の体はもっと柔らかいものだと思っていた。両足でサヨの胴体をはさみこんだ。
 マモルが抱きついた瞬間、サヨは猛烈に加速する。
 上下に体が揺さぶられて、腕がずり落ちる。足も落ちる。あわてて、サヨの胸あたりを思いっきり抱きしめた。
「サ、サヨさん落ちる……もっと前かがみで走って!」
「十分に前傾している!」
「だって、どこにもつかまるところがなくて! ツルツルで!」
「きみもわたしの体型について何か言いたいのか!?」
「そういう意味じゃなくてー! あっ!」
 平らな胸をまさぐっていた掌が、小さな出っ張りをとらえた。反射的に、両方の手で思いっきりつかんだ。
「どっどっ、どこに触ってるー!」
(もしかして、いまの小さくて尖ってるものは、ち、ち、ちく……)
「あわわっ、そんなことより前! 歩行者!」
 ジャージ姿で犬を連れた中年女性に出くわした。二人の姿を見て目を丸くしている。
「えいっ!」
 サヨは疾走しながら体を急に傾けて旋回、女性をよけた。
「つぎ、右に曲がって!」
「よし!」
「左!」
「よし!」
 次々に角を曲がり、新聞配達のスーパーカブをよけて、駆け下りる。
(どうかな、振りきれたかな!?)
 マモルは後ろを振り向いた。ゴリラ顔はまだ追いかけてくる。石を投げれば届く距離だ。手足をむちゃくちゃに動かして息をゼエゼエハアハア、血まみれの顔を怒りに歪めている。
「待てやコラッ、殺す殺す犯すバラすっ!」
「まだ来るよ!」
「くっ、おぶった状態ではこれ以上スピードが出せん!」
(どうすればいい。追いつかれたらほんとに殺されちゃう。でもサヨさんは戦えない)
(ぼくがやるしかない)
(こいつのスケベぶりなら、うまくいくかも……)
 サヨの耳元でささやいた。
「ごにょごにょっ」
「……そ、そんなことができるかっ」
「革命家は何も恐れないんでしょ」
「むうう……仕方あるまいっ!」
 サヨはマモルを振り落とした。
 急に止まって、その場に座りこんだ。小さな胸をもみながら足を大きく開いて、
「あーん。(棒読み)うっふーん。(棒読み)どうにでもしてー。(棒読み)」
(いや、その誘惑はどうよ……)
 しかし効果はあった。ゴリラ顔は立ち止まった。バットを持った腕を下げた。「ぐへへっ」という感じで鼻の下を伸ばした。
 彼が無防備になったその瞬間!
「えーい!」
 マモルは突進し、全力のパンチを顔面に打ちこんだ。拳に衝撃が伝わってくる。
 顔がひんまがって、そのまま後ろに倒れて、起き上がってこなかった。
「やった! やったよ!」 
「見るなっ」
「ごめん……」
 マモルはあわててサヨに背を向けた。
「サヨさんはどこかに隠れてて。ぼくが服を買ってくる……」
 そこまで言ったとき、背後から大声が浴びせられた。
「なにをしているッ!」
 焦った男の声だ。
「え?」
 マモルが声のほうを見ると、自転車に乗った中年の警官がいた。険しい表情で、腰の警棒に手をかけている。
(女の子が全裸で大股開き……そりゃ捕まるだろ……)
「ち、ちがうんですこれは……」
 両腕を広げて、事情を説明しようと試みるマモル。
「逃げるぞッ!」
 サヨが立ちあがって、走り出した。
「革命家が捕まってよいのは国家を震撼させた場合のみ! 具体的には内乱罪!」
「サヨさん、そっち塀!」
 グシャッ
「ぐはっ」
 捕まった。

 10

 警察署に連れていかれた。
「きみたちは学生か?」
「革命戦モガモガッ」
「はい学生ですっ」
「なにをやっていたんだ?」
「革命戦モガモガッ」
「はいっ不良にからまれて……」
 サヨが変なことを言うたびに口をふさいで、事情聴取を受けた。
 罪には問われなかったが、猛烈に説教を食らった。
 二人して疲れ果てて、国道沿いの警察署から出てきた。
 すっかり夜だ。闇の中に、ファミレスやガソリンスタンドの看板が浮かびあがっている。
 国道を行き交うクルマを見ながらマモルはため息をついた。
「……母さん心配してるだろうな。サヨさん、大丈夫?」
 振り向いてサヨに声をかけた。
 いまサヨは警察から借りたジャージ姿で、ヘルメットもかぶっていない。解放されてから様子が変だ。恥ずかしそうに内股で歩いて、あちこちをキョロキョロしたり、しきりにジャージのすそをつまんで直したり……
「どうしたの?」
「なんというか……ヘルメットがないと心細くて……いつ攻撃されるかわからないのに……それに権力側の服を着ていると心が汚染されるようで……」
 うつむいてボソボソ答える。
「サヨさんらしいなあ。……ところで警察ではおとなしかったね。暴れるかと思ったのに」
「あそこで暴れたらマモルに迷惑がかかるからな」
「え?」
 意外な言葉だ。マモルが驚いていると、サヨは背筋をピンと伸ばし、マモルの目を見つめた。
 恥ずかしさと緊張の混ざった表情だった。
「感謝している。助けてくれてありがとう。それから漫画の件は……済まなかった。大切なものを傷つけられる人間の気持ちが、わかっていなかったのだ。やっとわかった。わたしがやったのは、カイザーたちと大差ない愚かな行為だ」
 サヨの顔まで、距離はたった五十センチ。大きな瞳が不安げに輝いていた。サヨの瞳がどんなに澄んでいるか、よくわかった。
「わたしに対し、総括援助を行え」
「なにそれ?」
「わたしが反省できるように、思い切りぶん殴ってくれ」
 マモルはとっさに首を振る。
「む、無理だってそんな、女の子を……できるわけないよ!」
「頼む。革命を前進させるための重要な儀式なのだ。こうやってケジメをつけないと戦士の正当性が保たれないのだ」
 そう言って目を閉じる。腕をだらんと垂らして棒立ちになる。額には一筋の汗が流れていた。緊張している。
 マモルはどうしようか考えた。二、三秒間、その場で立ち止まって、拳を振り上げ……
 サヨのおでこの前まで持ってきて、パチンと指を弾く。デコピンだ。
「えっ……?」
 目を見開くサヨ。
「お、怒っていないのか? もっと思い切り……」
「いいよ、これで」
 もう怒りはなかった。
(この人は純粋なんだ。純粋だから、いろいろ見えなくなって、怒るんだよね……)
「……気にしてないよ」
「そうなのか……」
 サヨは小さくうなずいた。眉間にかわいらしい小さなシワを寄せて、愛の告白でもするかのように思いつめた表情になる。
「も、も……もしよかったら、これからも、わた、わたしの革命闘争に協力してくれ」
 緊張もあらわに、言った。
 マモルが黙っていると、視線をあちこちさまよわせて、しどろもどろになる。
「いや、その、イヤだというなら仕方ないんだ。しかし君は、その、あの、漫画を描くという能力があり、ナイフを恐れない勇気があって、せっかくの能力がもったいないのではないかと。その、あの」
「やるよ。つきあうよ」
「ほんとうか!?」
 サヨの顔がパッと輝いた。恥ずかしさも不安も全部吹っ飛んだ笑顔になる。
(これからも喧嘩はするかもしれないけど……)

 こうしてマモルはサヨの『革命』に参加することになったのである。

 第2話に続く 

 
 

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