赤星サヨの革命戦記! 
       
  第3話 「勉学要塞、攻略せよ!」 
       
 1 
       
 スーパーエリート教師・京弁院光。彼の朝は一杯の海藻ジュースから始まる。 
 その日曜も、彼は綾品駅近くにある高層マンションで六時きっかりに目を覚まし、冷蔵庫から取り出した「濃縮海藻ジュース スーパーはえる君」を一気に飲んだ。なお日々の努力に関わらずいまだ効果は現れていない。 
 飲んだ後はすぐさまシャワーを浴び、コーンフレークで簡単な朝食をとる。 
 その後のスケジュールは、まるでトレーナーがついているかのように規則正しいものだ。 
 ジョギングで体を慣らし、ジムでボクサーじみた肉体をさらに引き締め、もちろん家に帰ってからはノートパソコンを広げて授業の準備に余念がない。 
 二十二時、すべてが終わったとき、一日の仕上げを行う。 
 まるで出勤するかのようにスーツを着込み、髪を整えて、「その部屋」に入った。 
 異様な部屋だった。 
 壁と天井を全て埋め尽くして、額縁つきの写真が並んでいる。 
 その数は千を越えていた。 
 スーツ姿のものが多いが、中には白黒の写真で和服を着ているものもいた。 
 すべて、彼と同じ一族「京弁院」……すでに亡くなった、過去の京弁院一族である。 
 一族の遺影が並ぶ神聖な部屋で、彼はいつも一日を振り返る儀式を行う。 
 部屋の真ん中に正座し、人前では決してとらないカツラを外してピカピカの頭をさらし、背筋を伸ばして、凛とした声を発する。 
「わたくし、京弁院光は、本日もまた研鑽に励み、おのが肉体を節制し、翌日の教務に備えました。 
 明日もまた、わが一族に恥じぬよう、教務に邁進いたします。 
 本日の反省点……」 
 その時、写真だらけの壁が、左右に開いた。 
 現れたのは大きなモニターだ。モニターに、豊かな髭を生やしたスーツ姿の男が映った。 
「光よ」 
「はっ……!? 誠司朗(ルビ せいしろう)校長!」 
 現在、一族のリーダーを務める男からの通信である。 
「いったいどういったご用件で……」 
「とぼけるな。『赤星』という生徒についてだが」 
「それは……」 
 みるみる光の顔が青ざめ、額を汗が流れた。 
「なんでも、授業をメチャクチャにされて何の手も打てていないそうだが?」 
「しかし、それには事情があってですね……」 
「言い訳はいらん。クラス全体の成績も下がっているな? 果たして君が一族の人間としてふさわしいかどうか、考え直そうかと……」 
 光はハンサムな顔立ちを焦りに歪め、あえぐような声で言った。 
「わかりました。必ずや赤星を矯正します! 一族の名にかけて!」 
       
 2 
  
 二学期で最後の日。学校にて。 
 終業式が終わって、会場の体育館から生徒達が教室に戻ってきた。 
 みんなだらけていた。 
「あー。あちー」 
 ネクタイを外して、汗でべっとりのワイシャツをはだけるもの、 
「お前さー、八丈島いくんだろ。いいよなー。おれんとこは市民プールがやっとだよー」 
「彼女がいるお前のほうがずっといいさ」 
 などと談笑するもの…… 
 マモルだけは気を緩められなかった。 
 となりの席のサヨに、猛烈に説教されていたからだ。 
 サヨはマモルの席に身を乗り出して、不機嫌な顔でまくしたてる。 
「君は体力が足りなすぎるのだ! ハーフマラソンも走れずにゲリラ戦ができるか! 夏休みはすべて山岳ゲリラ戦の訓練に当てるので、覚悟してくれ。完全装備で一日六十キロ走れるまで鍛え上げる」 
「死んじゃうよ! 休みはマンガ描く絶好の機会なんだよ、描かせてよ!」  
「疲れたときはトウガラシドリンクで革命的エナジーをチャージするのだ。『トウガラシを飲まないと強い革命家になれない』と毛沢東主席も言っている」 
「会話が通じない!」 
 サヨは今日も相変わらずだった。制服がセーラーからリボン付きブラウス、この学校の制服に替わっただけだ。 
 その時、戸が開いて京弁院光が入ってきた。 
 眼鏡ごしの冷たい視線をクラス全体に振りまき、言った。 
「みなさん。1学期の学校生活、ご苦労様でした。……しかし!」 
 大声を張り上げた。クラスメートたちが雑談をやめて、光に目を向ける。 
「夏休みだから思いっきり遊ぼうとか、バイト三昧とか、そんなことを考えてもらっては困ります」 
 クラスのあちこちで「え?」「なんで?」と声が上がる。 
「……理由ですか? 簡単です。こないだの期末テストで、みなさんがろくな成績を取れなかったからです。中間テストより大幅に点の落ちているものが十名以上います!  
 愛川、井口、小野、柿原……下辺野…… 
 そんなみなさんには、特別講習を受けてもらいます! 
 他のクラスも合同です。学年の成績劣悪者は全員、参加してもらいます!  
 合宿みたいなものです。夏休みはこれで潰れると思ってください」 
「えー!?」 
 マモルが悲鳴を上げる。彼に触発されてクラスメート達が次々に抗議する。 
「ぶーぶー!」「横暴だー!」「デートが決まってるんだっての!」 
 昔は光のひとにらみで黙った彼らだったが、いまや光にまったく恐怖を感じていない。サヨがさんざん反抗してきたからだ。 
「お黙りなさい!」 
 教卓を両手で叩き、光はクラスメート全員をにらんで叫んだ。 
「バイトもデートもすべて潰して、必ず合宿に参加してもらいます。皆さんのご両親の了解は取ってあります。この合宿でどれだけの生徒が立ち直ってきたか、データを見せたら納得していただけました」 
「でも先生。バイトをするのも立派な社会勉強では……?」 
 マモルが小声で言う。 
「あなたは大学に落ちたときも、就職できなかったときもそうやって言い訳するのですか?」 
「それは……」 
 どう反論すればいいのかわからない。 
 すぐ目の前にいるサヨに目を向けた。 
(サヨさんがなんとかしてくれる。きっとそうだ) 
 サヨが立ち上がる。クラス全員の目がサヨに集中する。 
 他の連中も、サヨに期待を寄せていた。光を言い負かして欲しい、という目だった。 
 だがサヨはクラスの面々を冷たく一瞥した。 
 口から出た言葉も、ひどく冷たい。 
「いままでわたしの闘争を馬鹿にしておいて、いざ困ったときだけ助けて欲しいというのか? それは虫が良すぎるな。そういう人間をルンプロ、ルンペンプロレタリアートというのだ」 
「そんなあ!」 
「だが……」 
 サヨは薄い胸を精一杯張って、鋭い眼を光に向けた。 
「だが、その合宿とやらには興味がある。わたしも参加したい」 
「やっぱり助けてくれるんだ!」 
「助けるわけじゃない。教師どもの手の内を知りたいのだ。どんな生徒でも矯正されてしまう施設! 戦いたくてウズウズするな」 
「いいでしょう、では赤星さんも参加ということで。すべて計算どおり」 
 光は眼鏡のレンズを光らせ、余裕たっぷりに微笑んだ。 
  
 3 
       
 夏休みがやってきた。 
 日が昇りつつある海を、遊覧船のように小さな船がゆく。 
 ワイシャツにネクタイ、夏制服を着たマモルが、甲板に上がってきた。 
「うううっ……」 
 うめきながら、フラフラ歩く。顔は真っ青で、目の下には黒いクマがある。 
 船酔いがひどくて、ゆうべ眠れなかったのだ。 
「あれ?」 
 甲板に出てきて、気づいた。 
 甲板の一番前のところにサヨがいる。ヘルメットとゲバロッドは没収されてしまったので、いまはスカート・ブラウス・リボンという女子夏制服だけを身に着けている。ショートヘアが激しい風にかき乱されていた。サヨだけではない。優美子までいる。 
「サヨさんも起きてたんだ?」 
 となりまで行って声をかけた。 
「ああ。五時に起床した。十分に睡眠をとったぞ? 君は軟弱だな、この程度で船酔いか」 
 たしかにサヨは顔色もよく、目も輝いて、疲れがまったく見えない。 
「ボートで日本海を渡る訓練と比べれば、何ほどのこともない」 
 優美子は対照的に青ざめ、具合が悪そうだ。舳先の手すりにつかまって、やっと立っているように見える。 
「わたし……もうダメです……」 
「柔原さん、寝てたほうがいいんじゃない?」 
「それは違う、マモル。船酔いがひどい場合には外で風を浴びたほうがいい。遠くを見るのも有効だ、とわたしからアドバイスしたのだ」 
「ボートで日本海を渡る超人に、船酔いのことが分かるのかなあ……?」 
「おー、マモル! おはよー」 
 後ろから声をかけられた。波太郎の声だ。 
 波太郎はサヨに駆け寄ってきて、いきなり手を握る。もう片方の手を優美子の肩に乗せた。 
「おはようサヨちゃん、優美子ちゃん! 俺は嬉しいよ! 唯一の希望だよ! 夏休みが潰れても、美少女ふたりと一緒なら俺はぜんぜんオッケーだ、地獄の果てまで行っちゃうよ!」 
 優美子はうなだれた。 
「わたし、ますます目まいが……」 
「俺の肩を貸すよ!」 
 肩を貸すといいつつ、波太郎は優美子を背負った。 
「大丈夫かい?」 
「よっぽど女の子に触りたいんだね……」 
 そのとき、サヨが緊迫した声をあげた。 
「おい、見えてきたぞ!」 
「うん?」 
 マモルと波太郎は、サヨが指差すほうを見る。ちょうど日が昇る方角だ。 
 だが、朝日を浴びてきらめく海面しか見えない。 
「なにもないけど……」 
「よく見ろ!」 
 しばらく眼を凝らしていると、水平線に白い点が見えた。 
 船はまっしぐらにそちらへ向かっているらしい。だんだん大きくなってくる。 
 海の中に、窓が一つもない灰色の建物があった。 
 比較するものがないので大きさはつかみづらいが、海面のうねりと比べると、さしわたし数百メートル。高さも三、四十メートルはあるだろうか。 
 建物は四角く、まったく飾り気のないコンクリートの箱だ。箱の上に尖塔が突き出して見える。尖塔だけがエメラルド色に輝き、バルコニーつきの窓もあって、メルヘンチックなまでにカラフルだ。 
「なにこれ……城砦!? 刑務所!?」 
 マモルはうめいた。異様な姿に、胸の中で不安がムクムクと広がっていく。 
 背後で光の声がした。  
「あれこそ京弁院一族の誇り、御勉強島(ルビ おべんきょうじま)です。全国のダメ生徒五千人を収容、選び抜かれた教師陣が二十四時間指導する、勉学の最終防衛線! あなたたちは、必ずあの島で生まれ変わります」 
「御勉強島……」 
 島に近づいた。灰色のコンクリート壁が目の前にそびえ立ち、圧迫感がある。 
 灰色の壁に巨大な門があった。門の前にちっぽけな桟橋がある。 
 船が桟橋についた。 
 赤い目をこすりながら、船の中から生徒達が出てくる。 
 門が轟音とともに開いて、中から学ランの集団が走ってきた。全員、髪の毛を短く整えている。キビキビした動きでロープを使い、船を固定した。 
 マモルは首をかしげる。 
(どっかで見た連中だな?) 
 とくにリーダーの、熊のような巨体で四角い顔の男は。  
「……って、カイザー!」 
 そうだ。サヨと大立ち回りを演じた不良のリーダーだ。となりで忙しく働いているのは腰巾着のネズミ顔・ゴリラ顔だ。手下も全員そろっている。  
 カイザーと呼ばれても学ラン集団はまったく反応しない。昔のことはすべて忘れたように。  
「みなさん、降りてください」 
 マモルたちが船から降りる。ちっぽけな桟橋は、数十名の生徒で足の踏み場がない。 
 カイザーたち学ラン集団は、整然と並んだ。 声をそろえて叫ぶ。 
「我等、御勉強島特別講習生! 新しい仲間を歓迎します! ようこそ、御勉強島へ!」 
 光は満足げに微笑む。  
「出迎えご苦労です、甲斐三郎講習生」 
「はっ、自分ごときの名を覚えていただき、まことに光栄です!」 
 カイザーは直立不動のまま答える。 
(も、もしかして……甲斐三郎だからカイザーなの?) 
「ねえ先生。この人たちって不良グループですよね? なんでこんな……」 
「ほほう、よく知っていますね。たしかに彼らは札付きの不良でした。しかし検挙されて御勉強島で再教育を受け、真人間に生まれ変わったのです。講習の一環として、我々の下働きをやってもらっています。そうですね、甲斐三郎講習生?」 
「はいっ。我等は、先生方の有り難いご指導により救われました! 二度と非行には走りません」 
  おそるべき従順さだ。  
「お、俺たちもこんなふうになるの? まったくの別人に?」 
「こわい……わたし、とても耐えられる自信が……」 
 波太郎と優美子が不安の声をあげる。 
「ふふっ、それは君達の心がけしだいですね。甲斐講習生たちには特別な教育を行いました。少しばかり反抗的で、なかなか御勉強島の方針を理解してくれなかったものでね。フフフ」 
 口元が歪み、眼鏡がキラリと不気味に光った。 
「みなさんが素直に言うことをきくなら、何も心配はありません」 
「ひえええっ」 
「さてみなさん、この島ではブレスレットをつけてもらいます。甲斐講習生、用意を」 
「はっ」 
 カイザーが、持ってきた大きな箱から金属製のブレスレットを取り出した。 
「こちらに並んでください」 
「はい、右腕出して」 
 一人一人、ブレスレットを腕にはめられていく。 
 マモルはブレスレットを目に近づける。鉛色の金属で分厚く作られ、いかにも頑丈そうだ。小さな液晶画面がついている。 
『O.P 1208』 
 と表示されている。 
「オーピー? ってなんだ?」 
「『落ちこぼれポイント』の略ですよ。みなさんの成績、授業態度、部活動での実績、その他を考慮して、どれだけダメなのか、ダメっぽさを数値化したものです」 
「波太郎は?」 
「俺、1099だって」 
「なんでぼくのほうが悪いんだ? サヨさんとつるんでいるから?」 
「この『落ちこぼれポイント』はみなさんの行動によって刻一刻変化します。頑張って反抗心を捨て、成績を上げればだんだん減ってゆきます。ゼロになった時が、この島を出る時なのです」 
「これ、外せないの? 寝るときも? ひでーなあ」 
 波太郎が小声でつぶやく。光の目がスッと細められた。 
「教師に反抗的。南波太郎、ペナルティ1!」 
 バリッ! 
 光の声とともに、電撃の音が炸裂。波太郎が体を痙攣させる。 
「ぶげぇー!」 
 その場に膝を着いて座りこむ。ブレスレットのはめられた手首を押さえて、ブルブル震えている。 
 このブレスレットはスタンガン内蔵らしい。 
「すぐ立ちなさい、キビキビ行動しないと、さらにペナルティですよ!」 
「うひぃっ」 
 よろめきながら立ち上がった。まだ膝が笑っている。 
「というわけで、このようにヘマをするとブレスレットが電撃を発します」 
 マモルは恐怖に顔をこわばらせた。他の生徒もみんなそうしている。怒った顔の生徒もいるが、電撃が怖いのか、光から目をそらしている。 
「まずはみなさん、整列! 気をつけ!」 
 恐怖の表情のまま整列する。カイザーたちと向かい合った。 
「復唱してください。『我々はこの御勉強島で、清く正しく賢い生徒に生まれ変わります』」 
「わ、我々は、この御勉強島で……清く正しく……」 
 マモルは復唱しながら、となりのサヨを横目で見た。 
 ぎょっとした。 
 サヨは『気をつけ』もせず、偉そうに腕組みしている。もちろん口はむっつり閉じたまま。 
「赤星、さっそく反抗心あらわですね? ペナルティ10!」 
 ばちっ、ばちっ、ばちっ、ばちっ……  
 電撃が連続するが、サヨは悲鳴ひとつ上げない。まるで涼しい顔だ。 
「肩こりがとれて嬉しいぞ。もっとやってくれ」 
 光が目をむいた。 
「……赤星さん、あなた……特別メニューが必要ですね。別行動をとってもらいます」 
「どうぞ。楽しみだ」  
 カイザーたちに連れられて、サヨはいち早く門の中に消えた。 
「他のみなさん、赤星さんのように子供じみた反抗心は捨ててくださいよ? 痛い目を見るだけですからね……この島を、私の授業と同じ程度に考えてもらっては困ります。 
 私など、京弁院一族の中では一番の小物。顔見せ興行にすぎません!」 
(威張るようなことか、それ……) 
 マモルはそう思ったが、もちろん口には出せない。 
 一緒に、無理やり笑顔を作って答えた。 
「はいっ!」 
  
 4 
       
  それからみんな、成績ごとに分けられた  
 マモル、波太郎、優美子は英語クラスだ。 
 カイザーたちに、校舎の中に連れて行かれた。 
 どうやら、まわりを囲んでいる灰色の建物が「生徒棟 東西南北」らしい。 
(なんて殺風景……) 
 生徒棟の中はコンクリートむき出しで、窓にはゴツイ鉄格子がはまっている。窓は『島の内側』にしかない。鉄格子の向こうに見えるのは、やたらと広い校庭と、宮殿のように豪華な建物。この宮殿が教師棟だという。 
 そして廊下には、規則の書かれたプレートがずらり貼られている。 
       
『廊下は走るな ペナルティ10』 
『廊下は右側を歩け ペナルティ5』 
『教師に出会ったら礼を欠かすな ペナルティ15』 
       
(うわあ……) 
 マモルはめまいを感じた。このぶんでは、箸の上げ下げ、寝るときの布団のかぶり方まで指定されるのだろう。完全に刑務所だ。 
(でも、電撃はキツイしな……) 
 『英語第三教室』 
 と書かれた部屋にたどり着いた。 
「失礼します」 
 カイザーに先導されて、中に入る。 
(古臭い……) 
 壁も床も木。 
 長い机が並んでいる。いったい何十年前の学校だ。 
「席順はどうするんですか?」 
「すべて指示通りにお願いします」 
 カイザーが席順を書いた紙を配った。マモルたちはそのとおり座る。  
「では我々は講習に戻ります。みなさんの講習成功を祈っております」 
 最後まで背筋をピンと伸ばして、カイザーが去っていった。 
 マモルたちは座って、一言も言葉を発さずに待っていた。胸の中は不安で一杯だが、とても喋る気になれない。 
 不意に戸が開いて、教師がやってきた。 
「ハーイ!」 
 底抜けに明るい声で、大げさに手を振って登場した。シャツに英単語がプリントされた異様な男だ。金髪碧眼でワシ鼻、どう見ても外国人だ。 
「アイム、キョーベンイン・ジョージイイマース。キョーベンイン一族でもっともワールドワイドな男デス」 
 おかしな言葉遣い。思わずマモルはツッコんだ。 
「アイム?」 
「オーウ、よくコミックとかで自分のことをミーというデス。とってもおかしいデス。自分のことはアイというのが正しいデス。 
 トコロデ、みなサン。ミナサンの成績見たデス。ベリーベリー悲しいデース。イングリッシュをよく知りマセン、ラーニングが足りないデース」 
 大きく肩をすくめるジョージ。 
「まずはミナサン、イングリッシュに親しんでもらいマース。ボディを慣らしていくデース。そんなわけでミナサン、これから、イングリッシュだけを使ってもらいマース。オーケーデスカ?」 
「は、はい」 
 マモルがそう言った瞬間、手首で激痛が爆発した。焼け火箸を突きたてられたような熱い痛み。体全体の筋肉が勝手に痙攣。ガタガタ震えながらうめいた。 
「あ……がっ……うぇっ……」  
「オーウ! 信じられナーイ! 『ハイ』、イングリッシュじゃないデース! ちなみに、『イテッ!』 もイングリッシュじゃないデース。 イングリッシュなら、『アウチ!』 デース。だからワンモア、レッスンスタート、アーユーレディ、OK?」 
 マモルは涙をワイシャツの袖でぬぐいながら答えた。 
「お、おーけー」 
「ノーウ! 1ペナルティ!」 
 また電撃。 
「発音おかしいデース! ボイス小さいデース! そんなオドオドでワールドワイドな人生が送れるデースか!」 
「ひ、ひぃぃ! アイムソーリー! オーケー!」  
「オッケーデース。レッスンスタート!」 
「イエス!」 
 マモルだけでなく、クラスの全員が声を合わせて叫んだ。 
       
 5 
       
 それからしばらく、地獄の授業が続いた。 
 朝食もとらず、ひたすら英語漬け。 
 基本からやり直すということなのか、「ジス・イズ・ア・ペン!」から始まった。 
 最初のうちはついていけたが、すぐにわからなくなった。教科書を読むのも、教師からの指示もすべて英語。日本が一切禁止なので、分からなかったときに確認することもできない。 
 マモルは質問に答えられず、何度も電撃を食らって倒れた。 
 マモル以外にも、電撃で悲鳴をあげる生徒が続出した。 
「ノー! ヒアリングはベリー大事デス!」 
 バチバチッ! 
「なんですぐ答えられないデスか! タイムにルーズなのはバッドデス! ペナルティデス!」 
 バチバチッ! 
 いったい何時間が過ぎただろう。 
 そう思ってマモルは腕時計に視線を走らせた。 
 十三時! もう昼過ぎだ。 
 そういえば、胃が空腹を訴えている。きのうの夜から何も食べていないのだから当然だ。 
(昼ごはん、出ないの? なんて言えば食べさせてもらえる? 『空腹』は英語だとハングリーでいいと思うけど……単語だけじゃダメだよなあ) 
 黒板に英文を書きなぐるジョージをにらんだ。 
 ジョージは「ヘイ! ここはベリー大事デス、テストに出マス!」などと叫んで笑顔でチョークを走らせている。ノリノリで、まったく休みをとる気配はない。 
(我慢するしかないのかな……) 
 マモルが口を開くより早く、後ろの席で誰かが立ち上がった。 
「アイム……」 
 そちらのほうを見た。優美子だ。青ざめた顔で、肩が震えて、下半身をモジモジさせている。 
 一目見て、尿意を我慢しているのだとわかった。 
「アイウォント……エー、アー……」 
 『わたしはトイレに行きたい』を英語でどう言えばいいのか分からないのだろう。細い眉を苦しげに動かし、何度も口ごもりながら言葉をひねり出した。 
「アイウォント、ゴートゥー、トイレット。オーケー?」 
 ジョージは肩をすくめて大きく首を振った。 
「ノンノン! 発音悪すぎデス。特にトイレットが変デス」 
 バチッ! 
 優美子が体を痙攣させる。 
「あううっ……」 
 涙を流しながらうめいて、その場に膝を突く。机に捕まってなんとか立ち上がった。 
「アイウォント……」 
「まだ発音悪イデス!」 
 まだ電撃が発されてもいないのに、優美子は「ひっ!」と悲鳴をあげてその場にうずくまった。 
 波太郎がイスを蹴って立ち上がった。 
「ちゃんと通じてるじゃないか! 難癖つけるな!」 
「オウ、ジャパニーズ使ったデスね! 5ペナルティ! さらにティーチャーに歯向かったデスね、10ペナルティ!」 
 バチン!  
 波太郎が体をよじってその場に膝を折る。だが、すぐに立ち上がる。太い眉をあげ、唇をひきむすんでジョージを怒りの目でにらむ。優美子のところまで歩いていって、助け起こす。 
「大丈夫かい?」 
「ご、ごめんなさい……でも……今ので……」 
 優美子は大きな目を潤ませて、スカートの前を押さえる。 
 マモルは息を呑んだ。優美子の白い太ももを透明な液体が伝い落ちていく。 
「ガッデム! ホーリィなクラスで何てことするデスか! もう許せんデス!二人トモ20ペナルティ!」 
 両手の人差し指を優美子と波太郎に突きつける。 
 バチバチバチバチバチバチバチッ……激しい放電音が連続して響き、 
「きぃやあああっ!」「ぐえ!」 
 二人そろって悶絶した。手足をジタバタ、体を折って、イスと机を倒して、床に転がってのた打ち回る。 
 たっぷり十秒間、電撃は続いた。二人は白目をむいて横たわっていた。完全に気絶している。 
 マモルは恐怖に体がこわばって、何も言えなかった。他の生徒もそうらしく、呆然と座っている。 
「みんなもバッドボーイのままだと、こーなるデス」 
 笑顔で両腕を広げるジョージ。 
 一人の生徒が、とつぜん席を離れて教卓の前に行き、ジョージに向かって土下座した。 
「オウ! ドゲーザ! ジャパニーズ・ファンタスティック!」 
「アイムソーリー、アイムソーリー!」 
 必死に謝る生徒。 
「なにを謝るデースか?」 
「何でもするから、せめてご飯を食べさせてください。もう逆らいませんから! もう逆らいませんから!」 
 ほかの生徒たちも次々に続く。 
 ジョージの笑顔がニンマリと下品に歪んだ。 
「オーケー、オーケー! アイがミナサンのマスターだということをラーニングした、良い傾向デースね。少し処分を甘くするデース」 
「おお」 
 安堵の声を上げる生徒たち。 
 たちまち、他の生徒達も後を追う。一人、二人、十人。クラスの半分が教卓の前に、横に、ひざまずく。 
 マモルは小さく首を振った。 
(ぼくも……頭を下げたほうが……) 
 屈辱だった。こんな嫌な奴に土下座したくない。だが、恐怖のほうが強い。 
 もう教卓前の空間は一杯なので、マモルは机の下に潜りこんだ。床は木製で、あちこちに穴があって傷んでいる。そうとう古いもののようだ。 
 机の下で、どうしようか躊躇した。 
 ウーッ! ウーッ! 
 その時、サイレンが鳴り響いた。音の源は教室の外、廊下だ。 
「ホワッ!? エマージェンシーデース! なにがあったデースか!?」 
『緊急事態発生。大反省室より生徒が脱走。生徒の危険性、反抗性、きわめて大。全教員はただちに問題生徒を捜索、捕縛せよ』 
「なっ……グレート反省ルームからエスケイプデースか!? アリエマセーン!」 
 ジョージは目玉をむき出して慌てていた。 
『なお、問題生徒の外見的特徴は、綾品高校普通科、女子、身長百五十センチ前後、髪は短い黒髪、女子夏制服にヘルメットを着用。名前は赤星サヨ』 
(サヨさんだ!) 
 目を見開くマモル。 
 次の瞬間、目の前の床がバキバキッと音を立てた。 
 床板が押し開けられた。ヘルメットをかぶったサヨの頭が出てきた。 
 マモルと目が合った。 
「……お、同志マモルじゃないか」 
 顔は浅黒く汚れて、髪の毛は埃で真っ白。だが闘志を秘めた笑いを浮かべた。 
「サヨさん!」 
「なんだそのショボくれた顔は。たった半日で情けないぞ」 
「脱走してきたの?」 
「ああ。大反省室って、大したことなかったぞ。このとおりヘルメットも奪還できた」 
 床の穴から這い上がるサヨ。教室を見渡してつぶやく。 
「ひどい顔だな、みんな。どんな目に合わされた?」 
 ジョージは胸を張る。 
「イングリッシュのエリートが、トレーニングしただけデス!」 
「ほう、イングリッシュか。ごにょごにょ……」 
 サヨは意味不明の言葉を発した。外国語だろうか。マモルにはまったく聞き取れなかった。 
「な、なんデースか、いまのランゲージは?」 
「わからない? 英語だよ。ロンドン下町のコックニー訛りだ!」 
「オーウ! 確かにコックニーデース!」 
 ジョージは青い目をいっぱいに見開いて驚愕した。 
「この程度の英語も聞き取れないのか、英語エリート教師!」 
 ガクガクと大げさに首を振るジョージ。 
「ちょっとミステイクしただけデース! モンキーもツリーからフォーリンデース! もう間違えないデース!」 
「ほう。ではこれはどうだ。ごにょごにょ……」 
「ムゥ、わかったデース! そのクラシックなイントネーション、『thou』が入ってる……シェイクスピアデース!」 
「似ているが、これはクェーカー教徒の使う古式英語だ!」 
「し、しまったデース!」 
「英語エリートだと!? 笑わせてくれる!」 
 ジョージは顔面蒼白。ムンクの「叫び」の絵のように、両手で顔面を横から押さえつける。 
「ノオーッ! アイのプライドがブロークンデース! アイデンティティ・クライシース!」 
 裏返った声で絶叫し、その場に崩れ落ちた。気絶した。 
 クラス全員、水を打ったような沈黙。 
 次の瞬間、マモルは叫んでいた。クラス全員がいっせいに叫んでいた。 
「す、すごいっ!」「すげえっ!」 
「こうやって大反省室の連中を倒した。君達だって勝てる。鋼のように強靭な、戦う意思さえあれば」 
「でも、ブレスレットが」 
 サヨならともかく、マモルたち普通の生徒は電撃に耐えられない。 
「こんなもの簡単に無力化できる。わたしを時代遅れだと思っているだろうが、最新のデジタル技術にも通じているのだ。ちょっと貸してみろ」 
 サヨはマモルの手首を取ると、 
「『念』をこめて六十度の角度でチョップを入れれば電子回路は壊れる!」 
「めちゃアナログな気がするけど!」 
「はあああっ!」 
 ばきっ。 
 チョップを加えた瞬間、ブレスレットの表面を稲妻が走り、煙を吹いて真っ二つになった。 
「ありがとう!」 
「おれも! おれも戦う!」 
 生徒達はサヨのまわりに集まってきて、次々に声を上げた。 
「教師達がほんとうに怖くないのか? 大怪我をするかもしれない。ひどい成績をつけられて高校を卒業できなくなるかも知れない。親が泣くかも知れない」 
「それは怖いよ。でも」 
 マモルは、床に倒れたままの波太郎、優美子を見つめて言った。 
「でも。友達をこんなにされて黙ってはいられないよ!」 
「オレも! オレもだ! わたしも、仲間に入れてください!」 
 いつしかクラスの全員が、サヨに熱い視線を浴びせていた。 
 サヨは厳しい目つきで、クラスの全員を見渡す。 
「いいのだな、諸君! 階級的使命を自覚し、権力に対し戦いを挑むのだな?」 
 全員が、無言でうなずいた。 
 クラスの心はいまや一つだった。 
「よろしい。『覚醒せる人民』がここに誕生した! 我らは、『御勉強島解放軍』! 略して『オベ解』!」 
「ださっ! マジでださっ!」 
 またしてもクラスの心は一つになった。 
       
 7 
       
 まずその階を「解放」した。生徒たちは大喜びでオベ解に加わってくれた。 
 だが五分もしないうちにカイザーたちがやってきた。階段をバリケードで固めるヒマすらなかった。 
 生徒たちは階段の踊り場に立ち、カイザーたちを迎え撃つ。 
「うおーっ!」「いくぞーっ!」 
 声を張り上げ、手にはイスを持って武器にしてふりかざす。 
 だが、カイザーたちは数十人の隊列を組み、一糸乱れぬ動きで階段を駆け上り、身長ほどもあるサスマタを突き出す。 
「ぬん! ぬん! 指導! 教育!」 
「ぐへっ!」 
 間合いが違う。腕力の強さが違う。バシッバシッと乾いた音がして、生徒達は手を突かれ、激痛にうめいて、イスを取り落とす。顔面を打たれて鼻血を出して、涙声でうずくまる者もいた。 
「ぬん! ぬん!」 
「こんなもん!」 
 波太郎は盾にしてサスマタを払いのけた。二回、三回。だが次の瞬間、顔面に直撃を食らって倒れる。 
「くそーっ! マモル、消火器だ!」 
 波太郎の後ろにいたマモルが、消火器をカイザーたちに向けて噴射する。真っ白い粉末がビームとなってカイザーを直撃する。あたりに煙が充満する。 
 だがカイザーたちはまったく動じない。 
「これでもかっ!」 
 マモルはバケツに入ったガラス片をカイザーたちにぶちまける。窓ガラスを割って作った即席の武器だ。 
 何人かが額から血を流す。それでも動じない。怒声を張り上げてサスマタで突く、突きながら階段を上る。 
「ダメだっ! もっと武器を!」 
「そんなこと言ったって!」 
「突撃だ!」 
 カイザーが号令する。全員一斉に、サスマタを突き出したまま駆け上がってきた。 
「ぐふっ!」 
 体当たりを食らって、マモルはその場に崩れ落ちる。視界を真っ黒い学ランが埋めつくした。立ち上がろうと手を着いた瞬間、顔面を蹴り飛ばされた。激痛に
息が止まって、声を上げることもできずに引っくり返った。階段に後頭部をぶつけて倒れる。目の前にカイザーがいた。四角い顔にはまったく表情が浮かんでい
ない。ゲジゲジ眉毛の下にはガラス玉のような目がある。 
 不気味だと思った。暴力への恐怖とは別に、この男が人間に思えない。背筋を冷たい物が駆けた。 
「か、カイザー! 目を覚まして!」 
 思わずマモルの口から涙声が飛び出す。 
 カイザーは眉一つ動かさず、ただ足を持ち上げた。学生服の黒ズボンに覆われた足。服の上からでも、丸太のような太さがよく分かる。上履きの裏が見える。 
 マモルに向けて振り下ろされ…… 
 激痛を予感した。 
「そこまでだ!」 
 サヨの声が降ってきた。 
 赤い滴の弾丸がカイザーの顔面に飛び込んできた。 
「がああっ!」 
 カイザーはグローブのような手で顔を覆った。  
「革命技二百八、レッドホットスナイパーッ!」 
「ぐあ! 目がっ!」 
 カイザーたちがそろいもそろって顔を手で覆い、悲鳴を上げて階段を後退する。 
 マモルの視界がぽっかりと開けた。マモルは見た。見上げた先、階段を一階分上がった場所、サヨが手すりの上に立っている。 
 両手には小さな赤い瓶を持っている。 
 タバスコの瓶だ、とマモルは気づいた。 
 精密なコントロールでタバスコの液を飛ばし、目を狙い撃ったのだ。いっぺんに数十人の目を! 
「唐辛子を摂らないと強い革命家になれない、と毛沢東主席もおっしゃっている。革命の味、思い知ったか!」 
 そう叫んで、サヨは飛び降りてきた。 
「とうっ」 
 マモルの前に着地する。 
「遅いよ、サヨさん!」 
「武器を作っていた。すまないな」  
 そう言ってサヨは、夏服の背中に手を入れる。ズルズルと棒を引っ張り出す。 
 入るはずのない長い木の棒が出てきた。モップの柄だろうか。コードがグルグルと巻きついている。 
 その時カイザーがうなり声を上げた。 
「ぐうう……ひるむな、みんな……! 私達は生まれ変わったのだ!」 
 サヨに向かって武器を構えなおす。 
「最大級反逆生徒、赤星サヨ! 矯正する!」 
 真っ赤に充血した眼で、サヨをにらむ。 
「やれるものならやってみろっ!」 
 いっぺんに襲い掛かってくる。 
 サヨが木の棒を旋回させて、眼にも止まらない速さでカイザーたちの顔面を連続して打ち据える。 
 ばちっ! ばちっ! 
 棒が一閃するたびに青い火花が散って、カイザー軍団がもんどりうって倒れる。一瞬で五人。 
「きさまっ! それはスタンガン!」 
「そう! 君達のブレスレットを流用させてもらった! 敵の武器を使うのはゲリラの基本!」 
「ひるむなっ!」 
 カイザーの叱咤を受けて、倒れた仲間を踏み越えて新手が押し寄せる。 
 だが誰一人、サヨに振れることもできず倒れていった。 
 階段を、学ラン男が数十人、倒れて埋め尽していた。 
「あとはキサマだけだ、カイザー!」 
 カイザーは四角い顔に覚悟の表情を浮かべ、サスマタを放り投げて両の拳を構え、ファイティングポーズを取った。 
「矯正する」  
「洗脳された哀れな人民よ。権力の走狗に堕した者よ。解放してみせよう! 来いっ!」 
 次の瞬間、二人は動いた。サヨが階段を飛び降りながら棒を一閃。カイザーはその攻撃をかいくぐって突進し、 
 ばしぃっ! 
 乾いた、鋭い音が響く 
 サヨの電磁杖がカイザーの顔面をとらえた。 
 ばぢっ! 
 弾ける火花、だがカイザーは止まらない。そのまま踏み込んでサヨに向かって鉄拳を叩き込む。 
 サヨの動きはそれ以上に速かった。ほんの一瞬前に振り下ろしたはずの電磁杖を旋回させ、縦にかざして拳を受けとめる。 
 ばちっ。また放電の音。カイザーは飛びのいた。だが倒れない。眼をむいて怒りの形相で、 
「こんなものぉ!」 
 太い足を振り上げ、電磁杖にキックを打ち込んだ。上履き底のゴムが杖を捉える。 
 電気が流れるが、火花は散らない。上履きの底はゴム、絶縁されている。 
  カイザーのハイキックで、サヨの手から電磁杖が吹っ飛んだ。 
「やるなっ!」 
 サヨが笑顔をつくる。感嘆の声をあげる。 
 カイザーはすぐさま、 
「だああああああっ!」 
 雄たけびとともに、天高く振り上げた足を、極太の筋肉の棍棒を、重力プラス筋力で蹴り下ろす。 
 足の叩き落とされる先には、ヘルメットに守られていないサヨの脳天。カカト落としだ。 
 マモルは足が空気をつんざく音を確かに聞いた。こんな凄まじい蹴りを見るのは産まれて初めてだった。自分が向けられているわけでもないのに金縛りになった。冷や汗が吹きだした。 
       
 がきいっ! 
       
 マモルにはなにが起こったか分からなかった。カイザーが吹き飛んでいた。首を上に向け、のけぞりながら真上に吹っ飛んでいた。 
 百キロを越えるはずの筋骨たくましい肉体が軽々とすっ飛んで、上の階段の底部分にぶち当たった。跳ね返って降ってきて、頭から階段に叩きつけられ、そのままごろんごろんと転がり落ちてゆく。 
 階段を外れて、廊下の壁にぶつかってようやく止まった。白眼を剥いている。乱杭歯の覗く口が大きく開いて、ヨダレが垂れている。 
 ピクリとも動かない。 
 拳を高く突きあげていたサヨが、得意気な表情で呟く。 
「諸君、人民は勝利したのだ」 
 マモルは理解した。 
 カイザーのカカト落しよりも数倍早く、サヨがかわしながら飛び込んで、超人的なアッパーで吹き飛ばした。 
「すごい……」 
 思わず感嘆の声を漏らした。他のクラスメートたちも眼を見張っている。とても現実の技とは思えない。漫画か、格闘ゲームのキャラクターがそのまま抜け出してきたようだと思った。 
「どうした、何を見とれている?」 
「まるでヒーローみたいだな、と思って」 
「当然だ。わたしは革命前衛だからな。……さて、これからが本番だ」 
 サヨの眼が冷たく光った。階段に落ちていた電磁杖を拾い上げる。 
「え、なにをするの?」 
 電磁杖を、カイザーの口の中に突っ込んだ。 
 バチバチバチバチっ! 
「ふげええ!」 
 眼をむいて身もだえするカイザー。鼻から煙が出ている。 
「洗脳を解く。脳に強いショックを与えればいいはずだ」 
「えええ!?」 
「そんな顔をするなマモル。敵を吸収して仲間を増やすのもゲリラの基本!」 
 バチバチバチ! 
「一度やってみたかったのだよ!」 
「こんなヒーローいやだあ!」 
       
 8 
       
 数時間後。御勉強島の中央会議室。 
 部屋の中に四角いテーブルが置かれ、十数人のスーツ姿の男女がテーブルを囲んでいる。 
 壮年の男が立ち上がった。豊かな髭を蓄えて三つ揃えのスーツ姿で、『古風な上流階級』という風体だ。 
 御勉強島の校長、『京弁院一族でもっともエスタブリッシュメントな男』、京弁院誠史郎である。 
「諸君、状況は一刻を争う」 
 シルクの白手袋に包まれた指を、パチンと鳴らす。手袋をしたまま指を鳴らすなど、ほとんど神業である。 
 燕尾服を着た召使いが小走りで入ってきて、テーブルのボタンを押した。 
 壁の巨大ディスプレイに、御勉強島の立体図が現れる。 
 校舎の半分が赤くなっていた。残りは青いが、青の中にも赤い点滅がいくつもある。 
「この赤い部分が、反抗生徒の勢力下にある領域だ。ごらんの通り、すでに全校の六十パーセントに及んでいる」 
 画面がパッと切り変わった。 
 生徒たちと教師たちの戦いが映し出される。 
 階段を挟んで対峙する両者。木刀とバットで殴りあう両者。教師達を踏みつけて廊下を突進する生徒たち。屋上に『オベ解』の旗を立てる生徒たち。 
「我が方は体育教師、矯正済みの不良生徒などを投入して防戦につとめているが、きわめて劣勢だ」 
「フン……」 
 白衣姿で痩せた男が鼻を鳴らした。『京弁院一族でもっとも理系の男』、京弁院理人(ルビ りひと)だ。甲高い声で言った。 
「きみたち体育教師はつくづく頼りになりませんねぇ。自慢の腕っ節も、しょせんこの程度」 
 角刈りでジャージ姿の男が怒りもあらわに立ち上がった。『京弁院一族でもっとも筋肉質の男』、京弁院大介である。 
「聞き捨てならんぞ!」 
「本当の事じゃありませんか」 
「まあ待て、ふたりとも。紅茶でも飲んで落ち着きたまえ」 
 そう言って指を鳴らす。召し使いがまた入ってきて、銀盆に載った白滋のティーセットを差しだした。 
「ダージリンのセカンドフラッシュでございます」 
 ちなみに先ほどの召使いとは別人である。実に恐るべき人件費の無駄であった。 
「うむご苦労。みなもどうかね」 
「いらん!」「いりません!」「っていうかボタンくらい自分で押せよ!」 
「それはできん。わたしはエスタブリッシュメントな男であるゆえ。それはともかく、この事態にどう対処するべきかね、我々は?」 
「警察呼べよ。もう警察の出番だろ?」 
 大介が吐き捨てると、理人が鼻で笑う。 
「フフン。それはできませんよ。三百年にわたり日本の教育を担い続けた京弁院が、たかが学生の反抗に音を上げるなど。面子丸潰れではありませんか」 
「だが、ほかにどんな手がある! って言うか、お前が腕輪のスタンガンをちゃんと作んねーからだろ! 解除されねーヤツを作れよ!」 
「なんですと! あなた方体育教師がふがいないのが原因です!」 
「まあまあ、落ち着いて。お茶とスコーンでもいかがかね?」 
「だから、いらねえよ!」「結構です!」 
 その時、テーブルの端で、いままで黙っていた男が遠慮気味に声をあげた。 
「みなさん。わたしに提案があります」 
 百八十センチの長身を隙なくスーツに包んだ眼鏡の美形。京弁院光である。 
 教師たち全員の冷たい視線が、光に集中した。 
「なんだ光。そもそも赤星ってのはお前の受け持ち生徒だろうが。お前がちゃんと監督しないからこんなことになるんだぞ」 
「全くです。あなたは京弁院一族の面汚しだ、隅っこの方でテカテカ光っていればいいのです」 
 光は、端正な顔を屈辱に歪めながらも、言った。 
「『巌(ルビ いわお)先生』の封印を解いてはいかがでしょうか」 
 その場の空気が凍りついた。次の瞬間、教師たちはいっせいに首を振る。 
「冗談じゃねェ!」 
「本気で言っているのですか!」 
「アンビリーバボーデース! あのティーチャーはアンタッチャブルデース!」 
「ですが、他に手はありません。教師による対処を、あくまで貫徹するなら! 京弁院一族でもっとも恐ろしいと呼ばれたあの男なら、赤星サヨを倒せる!」 
 一同はまた沈黙した。その沈黙を破り、誠史郎が顎鬚を撫でさすりながら言う。 
「うむ。光の言う通りだ。わたしも賛成する。巌先生の封印を解こう」 
「わたくしの意見を認めてくださるのですね!」 
「もちろんだ。お前も立派な京弁院の一族だ。『京弁院一族でもっとも光輝く男』、京弁院光よ」 
「そ、その呼び方はやめてください!」 
       
 9 
       
 御勉強島の中央教師棟、その地下深く。狭く急な螺旋階段を下ること数十メートル。大反省室よりもさらに深い、闇の底に。 
 その存在は眠っていた。 
 六畳ほどしかない四角い部屋は、棺を納める玄室だ。 
 灯りは天井の裸電球のみ。数人の教師達が部屋に入って、棺を囲んでいる。 
 棺の中に横たわっているのは、白褌だけを身に着けた老人。体は痩せているが、皮膚の弛みは全くない。岩の塊にノミを入れたようないかつい顔立ちで、白い髪も髭も伸び放題だ。目を閉じて横たわっているだけだが、威圧感を周囲に振り撒いていた。 
 この男こそ、京弁院一族三百年の歴史が生んだ最強の教師、京弁院巌(ルビ いわお)。 
 老人の胸や額に電極が取り付けられていた。電極につながる機械を、白衣姿の京弁院理人が操作していた。この部屋はひんやりと涼しいのに、理人の額には玉の汗が浮いていた。 
「生体活性レベル千二百、千三百、千四百。心拍数、体温ともに上昇中。脳波に反応あり。脳波は、完璧なサインカーブを描いています。まさに教育的脳波だ。生体活性レベル二千突破! 脳波複雑化!」 
 教師達のひとり、誠史郎はイタリア製高級ハンカチーフで額の汗を拭いながら、こわばった声で言った。 
「目覚めるぞ。みな、ひざまづけ! ひざまづかない者は生命を保証できない」 
 そう言って、みずから石の床に這いつくばった。ボタン一つ押すのに召し使いを呼ぶ男が、ひざまづいたのだ。他の教師達も従う。 
       
 どんっ。 
       
 くぐもった爆発音がした。棺の中からたくさんのコードが飛び散った。老人の体に取りつけられたコードが、いっせいに吹き飛ばされたのだ。 
 棺の中から老人が身を起こす。ゆっくりとした動作。長い眠りから目覚めたばかりだというのに、顔には少しの戸惑いもない。口許は引き締まって、真っ白いゲジゲジ眉の間にはシワが刻まれている。目は吊りあがり、黒目がひどく小さい。 
 首を巡らせ、平伏している全員に冷たい視線を降らせた。 
「なんの用だ……末裔よ」 
 誠史郎が顔を上げる。 
「恥ずかしながら、手に負えない生徒が現れたのです」 
「またか。ふがいない子孫をもつと苦労するな。……少しばかり暴れるとするか」 
 歯をむき出し、笑った。 
 凄惨な笑顔。誰もが、心臓をわし掴みにされたような恐怖に凍りついた。 
       
 10 
       
 数分後、殺風景な校舎の中を、学ラン姿で体格のいい一団が歩く。 
 歌を歌いながら。 
  
 風よ知ってるか!? 俺たちを誰だか! 
 炎よ知ってるか!? 俺たちを誰だか! 
 俺たちゃ無敵の! 無敵のカイザー軍団! 
 GO! ファイト! マッスル! 
  
 知っている英語を全部ならべたと思える歌であった。 
 先頭で声を張り上げているのは、バットを肩にかついだカイザーこと甲斐三郎。 
 その後に手下が二十人ばかり続いて、一緒に歌っている。 
 いまや彼らはサヨによって洗脳を解かれ、不良の魂を取り戻していた。 
 しかし不良ファッションまで調達する暇がなかったので、みんな無改造の学ランをビシッと着こなし、髪の毛は短く切り揃えたままだ。ミスマッチな風体である。 
       
 燃やすぜ 魂のソウル! 
       
 魂とソウルは同じ意味です、と指摘できる人間は軍団の中にいない。  
 校舎内の廊下を進んでいく一行。廊下には誰もいない。左右を挟む教室も静まりかえっている。ただ、『汝勉学せよ』という標語の書かれた紙が散らばっている。 
       
 レディゴー! 
 カイザーナックルうなるぜデストロイ! 
       
 ちょっと電流が効きすぎたかもしれない。 
「カイザー、ちょっとカイザー」 
 カイザーの肩を、手下のひとり、ネズミ顔が叩いた。 
「あぁん? なんだ!」 
 歌を中断されて不機嫌そうだ。 
「なんか、誰もいねーですよ、カイザー」 
「オレたちカイザー軍団にビビッちまったのさ。あんな教師ども、屁でもねえぜ!」 
 そのとき、カイザーのポケットからヤンキー映画のテーマソングが鳴り響いた。携帯の着メロだ。 
「おう、カイザーだ」 
 電話の向こうで赤星サヨがため息をついた。 
「カイザーじゃない。わたしの考えた革命的コールサインはどうした」 
「あんな難しいもん覚えられるか! 全教科ヒトケタのカイザー様だぜ」 
「まったく。戦況はどうだ?」 
「もうすぐ一階を全部回り終えるけどよ、ひとっこ一人いやしねえよ。ビビッて逃げちまったんだよ、へへ、腰抜けだ」 
「ずいぶん強気だな。その腰抜けに負けて洗脳されたのは誰だね?」 
「て、てめえ」 
「まあいい。仲間割れしている場合ではない。各隊から同様の報告がある。どうやら敵部隊はいっせいに撤退したらしい。東西南北どの校舎にも敵はいない。外周校舎群はすべてオベ解の勢力下に入った」 
「す、スゲーじゃねえか! あとは真ん中だけだな。よーし、オレ様に任せやがれ!」 
「まてカイザー。罠の可能性がある」 
「そんなグダグダやってられっか!」 
 カイザーは電話を切った。 
「よーし、野郎ども、突っ込むぜ!」 
「おうっ!」 
 手下たちが蛮声を張り上げた。 
 廊下を走り出す。昇降口を見付けた。無人の下駄箱が並んでいる。その向こうには黒光りする重そうな戸がある。 
「カギがかかってます、カイザー!」 
「こんなもんじゃ俺を止めることはできねーぜ! うおお、カイザーナックルゥゥゥ!」 
 ただのパンチとどう違うのかは不明である。 
 ばきいいっ! 
 鉄拳を受けて、戸が勢い良く吹き飛ぶ。 
「おりゃー!」 
 カイザーを先頭に、軍団は飛び出していく。 
 その先には、赤い夕日に照らされた巨大な運動場が広がっていた。灰色の地面に、陸上競技のトラックが刻まれている。隅のほうにはサッカーのゴールもあった。 
 運動場の真ん中には、尖塔を持つヨーロッパ風の宮殿、中央教師棟がそびえて、夕日を浴びて屋根をエメラルド色に輝かせていた。 
 それだけだ。数百メートルもある運動場には、誰一人いない。 
「どうなってやがる?」 
 カイザーは目を白黒させた。大軍団が待ち構えていると思っていたのだ。 
「とにかく行くぜ!」 
「おうっ」 
 カイザー軍団が真正面の教師棟めがけて走り出す。 
「うおおおおっ!」 
 教師棟の入り口、重厚なデザインの扉まで、あと十メートル! 
 その時だ。 
       
 ずどぉぉぉん! 
       
 カイザー軍団の前に、大音響を立てて黒い影が落下した。 
 影は、人間だった。 
 和服に身を包んだ老人である。紺の袴に白い長着、武道家を思わせる風体だ。真っ白なザンバラ髪で、その顔立ちは険しい。鋭い眼光をカイザーたちに浴びせてきた。 
「ぬうっ!?」 
 眼光に射すくめられ、カイザーはうめいてしまった。 
「待たせてすまんな、餓鬼ども。少々、支度に手間取ってな」 
「だ、誰だ、てめえ」 
「名前を訊くなら、先に自分から名乗るものだ」 
「お、オレは甲斐三郎。通称カイザー。綾品の不良はすべてオレの子分だ!」 
「威勢が良いな。ワシは京弁院巌。史上最強の教師である。キサマらごとき跳ねっかえり、指一本触れずに片付けてくれる」 
「なんだとっ、やっちまえ!」 
 号令一下、軍団がいっせいに飛びかかる。 
 巌は両腕を広げ、無造作に回した。自分のまわりに大きな円を描いた。 
「御勉強術、無限円環地獄!」 
 クワッと目を見開いて叫ぶ。回した腕の軌跡が、光の輪となって輝く。 
 次の瞬間、カイザー軍団全員の頭に、落雷のような衝撃が走った。 
「うがあああっ!」  
 頭を抱えてしゃがみこんだ。頭の中に数字の列が浮かぶ。体が勝手に動いて、数字を暗唱する。 
「3.14159。はっ、俺は何を。3.14159 や、やめろっ」 
 どんなに立とう、戦おうとしても体が言うことをきかない。 
 グラウンドにうずくまって、汗をダラダラ流して円周率を唱え続ける男たち。 
 巌は彼らを見下ろして嘲りの笑みを浮かべた。 
「ワシは長年、やる気のない生徒にどうやって勉強をさせればよいのか苦心してきた。暴力も、報酬も、洗脳すら完璧とは言えぬ。最終的にたどり着いたのが、
この秘術。わが術を受けたものは、体が勝手に勉強するのだ! もはやキサマらは、円周率の暗唱以外のことは何一つ出来ん! 飢えて渇いて死ぬまで、何百時
間でも続けるのだ!」 
 カイザーが意志力を振り絞り、滝のような汗を流しながら、ヨロヨロと立ち上がった。 
「く、くそったれ、こんな催眠術くらいオレ様が、3.14っ。3.14っ、くそォ」  
「がっはっは。三ケタしか覚えておらんのか。ほれ、ワシが教えてやるわい。円周率は3.14159265358である! 言うてみい!」 
「い、いやだ。誰がテメエなんか、3.14159、に、265……」 
「はっはっは。ぐわっはっは! それでよい、今後とも勉学に励めよ!」 
 巌はそう叫ぶと、「もう何の興味もない」とばかりに回れ右して、カイザーたちに背を向けた。生徒たちのたてこもる外周校舎にむけて歩き出した。 
「3! 3! 3!」 
 一人だけ物覚えの悪い奴がいた。 
       
 11 
       
 サヨは視聴覚教室に陣取っていた。巨大なスクリーンがあって、戦況などを表示しやすいからだ。 
 いま教室のあちこちには革命スローガンを書いたポスターが張ってある。 
       
『人民の力を結集しよう!』 
『権力者を恐れるな! 己の臆病を恐れよ!』 
『世界は君達のものだ また、私達のものだ』 
       
 一番でかいのは、オベ解のポスターだ。 
       
『世界は我らを待っている! オベ解☆』 
       
 マモルによるイラストつきだ。リボンとフリルだらけのロリ美少女が血まみれのバールをふりかざして微笑んでいるという非常にシュールな絵だ。サヨが描けといったとおり描いた。 
「どういうことだ!」 
 サヨは改造携帯電話を手にして、電話の向こうの相手に怒鳴っている。  
「はい。すでに東校舎と南校舎が制圧されました。制圧されました。カイザー軍団だけでなく、すでに四つの部隊が全滅した模様で、う、うわーっ!」 
「おい、どうした!」 
 返事はない。 
 サヨは苦々しい表情で電話を切った。 
「行かなければ」 
 かたわらでポスター第2弾を描いていたマモルが、心配げに問いかけた。 
「だ、大丈夫? もっと情報を集めないと危険だよ」 
「たった数分で校舎の半分を奪回された。そんな悠長なことを言っている場合か? ゲリラが速度を失ったら、もはやゲリラ失格!」 
 サヨがそう叫んで椅子から立ち上がった、まさにその瞬間。 
       
 どがっ! 
       
 視聴覚室のいちばん後ろ、いちばん高いところにあるドアが吹き飛んだ。 
 老人が飛びこんでくる。灰色の長い髪を振り乱した、和服姿の老人。巌だ。 
 敵はもっと早かったのだ。 
 巌は視聴覚室を見渡すや、 
「喝っ!」 
 裂帛の気合いを込めて咆哮。 
「くっ」「ひっ」 
 マモルをはじめ、生徒たちは一瞬で金縛りにあった。ブレスレットの電撃より強烈で、手足がビクビク震えて、一歩も動けない。 
 サヨも小さな体を痙攣させたが、 
「むんっ!」 
 眉を上げ、歯を食い縛って気合一発! 体の自由を取り戻した。立ち上がり、巌をにらみつける。 
「がははっ、さすがに効かんか、こんな子供騙し。ワシは史上最強の教師、京弁院巌である。かかってこい小娘!」 
「言われるまでもないっ!」 
 サヨは跳躍し、イスの背もたれに飛び乗った。背もたれの上を素早く走り、巌のいる教室最後部へと駆け上がっていく。その素早さはコマ落としのようだ。 
 一瞬で距離を詰める。走りながらサヨは背中のリュックから一本の角材を引き抜いた。革命武装ラジカル☆ゲバロッドだ。 
「ゲバロッド、B(ルビ バールのようなもの)形態!」 
 角材を赤い光が包む。長さが伸びた。黒光りする重そうな金属棒になった。金属棒の先端がカギ爪のように曲がっている。 
 ラジカル☆ゲバロッド最強の形態、B(ルビ バールのようなもの)だ。 
「食らえ!」 
 サヨは背もたれから巌に向かって飛びかかる。跳びながらゲバロッドを振りかぶり、巌めがけてフルスイングする。一トンの鉄球を受け止められる、その力で。 
 ぶんっ! 
 ゲバロッドは空を切った。巌が首を軽く振って避けたのだ。 
「えっ!?」 
 マモルは驚愕の声をあげる。 
「くっ」 
 サヨも驚いて、すぐに二撃目、三撃目を繰り出した。 
 軽々と避けられた。 
 サヨはゲバロッドの攻撃にキックを混ぜた。目にも留まらない速さで下段、中段。かすりもしない。 
 避けながら、巌はサヨに冷ややかな言葉を浴びせる。 
「動きが雑だ。予備動作も大きすぎる。なにより単調極まりない。まったく解っておらん。攻撃の組み立てというものをな」 
「はぁっ」 
 サヨが大きく息を荒げ、足をふらつかせた。その隙を逃さず巌が踏み込む。ゲバロッドをかわしながら、掴みあいができる距離に。巌の手がひらめいた。 
 サヨはブラウスの胸ぐらを掴まれていた。 
 そのまま片手で、体を高く持ち上げられた。 
「あの男には遠くおよばぬ。よくこの程度の腕前でゲバロッドを譲ってもらえたものよ」 
「まさか知っているのか、革命仙人さまを!」 
「答える義務はない。眠れっ!」 
 巌はサヨを空中に放り出し、胸に張り手を叩きこんだ。サヨの体は木の葉のように軽々と吹っ飛ばされ、プラスチックの椅子をいくつもいくつも薙ぎ倒し、粉砕して、教室の一番前まで飛ぶ。 
 壁に激突して跳ねかえって、床に叩き付けられた。 
       
 ごっ! 
       
 巨大な岩同士をぶつけ合ったような、重い衝撃音。とても人間の体が出すとは思えない音。 
 サヨは仰向けで床に倒れ、そのまま動かない。 
「サ……サヨさん……?」 
 近くにいたマモルには、サヨの顔がよく見えた。 
 目を開けたまま、気絶していた。 
「う、うそだ……」 
 マモルはうめいていた。信じられなかった。あのサヨが、まったく相手にならず、一撃でやられた。 
 巌は視聴覚室を見渡し、笑みをうかべて言った。 
「キサマらもすぐ楽にしてやるぞ」 
「ひいっ」 
 生徒たちが絶望の声をあげた。だが声だけで、やはり誰一人動けない。 
「はあっ!」 
 巌は気合いのこもった雄叫びをあげ、勢いよく両手を打ち合わせた。 
 床を、壁を、天井を揺るがす、すさまじい大音響。 
       
 どおおおん! 
       
 音の塊を叩きつけられてマモルの体が浮いた。内臓が震え、頭に衝撃が走り、気絶した。 
  
 12 
       
 マモルは悪夢を見ていた。 
 腐った粘液の中に引きずりこまれる夢。 
 暗闇の中、足を何者かにつかまれ、すごい力で引っ張られて抵抗できない。胸まで粘液につかった。粘液の中に、細長くてヌルヌルした生き物がいる。足や腹を細長い生き物がかすめる。気持ちの悪さに震えた。 
「うわあっ!」 
 悲鳴をあげて、目を開いた。 
 自分は寝ているらしい。あたりは薄暗い。石の壁が見える。ずっと上のほうに小さな電球が一つだけ。 
 尻と背中に、濡れた床の生ぬるい感触。 
 服がない。自分はいま、裸だ。 
 腕を動かそうとしたら、ジャラジャラ鎖の音がして、もう片方の腕もついてきた。足も同じ。左右の手首が鎖でつながっている。 
(拘束されてる……) 
 腹筋の力で起き上がった。 
「うっ……」 
 暗い、円筒形で天井の高い部屋だった。つぼの中にでも入れられたようだ。そんな部屋に、びっちり並んで座りこんだ数十人。すべて裸だ。大部分が男子生徒だが、暗い表情で体育座りしている女子も二、三人いる。優美子の姿もあった。 
 みんな両手両足を鎖で拘束されていた。 
「これ……」 
 まるで牢獄以下だ。これが「大反省室」だろうか。 
「ようやく起きたか、マモル」 
 サヨの声に振り向いた。 
 心臓が跳ね上がる。息を呑む。 
 サヨは壁に磔状態だった。もちろん彼女も一糸まとわぬ姿だ。白い手足を「大」の字に伸ばして壁面に固定されていた。何千という鎖の輪によって拘束されていた。 
 普通の手枷では耐えられないと思ったのか、一つの環がドーナツほどもある極太鎖で、サヨの白い両腕はグルグル巻きにされている。鎖は複数の巨大な錠前で石壁に固定されている。 
 痛々しいと思った。眼を背けたい。でも裸身に目が吸い寄せられて離れない。 
 乳首の周りだけがわずかに盛り上がった、ごく控え目な乳房。細い腰にも、腕と同じ極太鎖が何十回も巻きついて締め上げていた。 
 腰の下まで来て、マモルの目は止まった。二本の足の付け根の暗闇に、目を凝らしてしまった。小さな裸電球一つの明かりだからよく見えない。 
 ごくり、と自分が唾を飲みこむ音で、我に返った。 
(なにを見てるんだ!) 
 顔が火照った。 
「あ、あのっ。ご、ごめんサヨさん。違うんだ、そんなつもりじゃ。いや見たのはホントだけど。綺麗だと思っただけだから! でも、ホントごめん、全部忘れるから!」 
 サヨは最初キョトンと目を見開いて、吹き出した。 
「ぷっ。こんな時に。君はいい奴だな。気にすることはない。こんな状況で女の裸に見とれるなんて大物の証拠だ。他のみんなを見ろ」 
 そう言われてマモルは、部屋を見渡す。 
 部屋にうずくまっている裸の少年少女たち数十人。大部分が無気力そうにうつむいていた。 
 ひときわ巨大で、筋肉がゴツゴツ盛り上がっているのはカイザーの背中だろう。まさに意気消沈という感じで背中を丸めている。 
 顔を上に向けている者もいた。スポーツ刈りで、太い眉毛。波太郎だ。 
 だが、なんという顔だ。 
 死んだ魚のような、まったく生気のない目。 
 諦めきっている。こんな目の波太郎は見たことがない。 
「おい、波太郎?」 
「あ……ああ。マモルじゃん……」 
 目だけ動かしてマモルを見た。かすれた弱々しい声。 
「どうしたんだよ……」 
(全員、絶望してる?) 
「みんな、こんなに……? なんで?」 
 驚くマモルに、サヨは言う。 
「みんな、自分の運命がわかっているのだ。つい半日前にも反省室に入ったが、あのときとは扱いがずいぶん違う。あの時は十人程度しか入れなかった。生徒よりたくさんの教師がやって来て、木刀持ってわたしたちを睨んでいた。無理矢理勉強させるのが目的なんだから」 
 そこでサヨは言葉を切った。その表情がいままで以上に引き締まる。 
「だが、今回はこれだけ詰め込んで、教師は来ない。 
 おそらく教師たちは、わたしたちを再教育するつもりなんかない。 
 始末するつもりだ」 
       
 13 
       
 会議室は純和風に模様替えされていた。 
 大きなテーブルは片付けられ、床に畳が敷かれ、額縁まで飾られている。 
 額縁の中身は、ついさっき巌が筆で書き上げた「文武両道」。 
 もちろん巌の指示で模様替えしたのだ。 
 誠史郎をはじめ十数人の教師たちが畳の上に正座していた。 
  ここまで和風なのに、壁面の巨大ディスプレイだけは変わらず、御勉強島の立体図を表示している。 
 正座した教師たちは、立体図の色が変わっていくのを固唾を呑んで見守っていた。 
 反抗生徒の勢力下を表す赤色はどんどん減っていき、教師勢力下の青色が校舎すべてを塗り潰しつつあった。 
 ついに、校舎の一角で点滅していた最後の赤い点が、消えた。 
「おおおっ!」 
 教師たちは一斉に歓喜の声をあげる。 
 いちばん後ろの列に座っていた光も、思わず笑みを浮かべ、膝の上で拳を握り締める。 
 いままでサヨに与えられた屈辱の数々が、脳裏に浮かんでは消える。 
(ですが、もう終わりです!) 
(さあ、どうやって反省してもらいましょうか!) 
(この島に連れてきて本当によかった!) 
 そのとき、ドアが開いて巌が室内に入ってくる。 
「片付けたぞ」 
 全員起立して、深々と頭を下げた。 
「お疲れ様でした、京弁院一族でもっとも恐ろしい男、京弁院巌先生!」 
「なあに、大したことはない。骨があるのはたった一人しかおらんかった」 
 巌は豪放に笑い、教師たちの前にどっかと腰を下ろした。 
 他の教師たちも座る。もちろん正座だ。 
「巌先生の指示通り、赤星サヨをはじめ、特に反抗的な生徒は大反省室に叩き込んでやりました」 
 誠史郎が立ち上がり、直立不動の姿勢で巌に告げる。 
「ああ。ご苦労」 
「彼らにはどんな指導をするべきでしょうか。我々の手にはもう負えないのです」 
「いらん」 
「は?」 
 誠史郎が目を見開いた。 
「だから、いらん。あの連中に、もはや指導も、教育も、拷問すら不要。……処刑する」 
「……本気なのですか、『京弁院一族でもっとも恐ろしい男』京弁院巌よ」 
「本気だとも。いろいろ考えたがな、再教育など時間の無駄ではないか。すでに奴らは学校からはみ出し、この御勉強島の救いすら拒んだ。どうあっても教師に従いたくないと。ならば道は一つ、殺すまで」 
 巌は笑った。目だけはまったく笑っていない。吊りあがった三白眼が冷酷きわまりない光を放っている。 
 教師たちの顔面が困惑と恐怖にこわばった。しかし誰も反論しない。巌の顔を直視することすらできずにいた。 
 たった一人、最後列の光だけが立ち上がる。 
「私は、反対です」 
 教師たちが光に驚きの目を向けた。 
「巌先生に指図する気か!」 
「お前ごときが、なんて口を叩くんだ!」 
 一気に騒然とする室内。 
 当の巌は真っ白い顎髭を撫でさすり、愉快そうに肩をゆすって笑う。 
「ぐわっはっは。こいつは面白い。光よ、サヨとやらに手を焼かされて、憎んでいたのではないか? 何故かばう?」 
 鋭い眼光を浴び、光の背筋を悪寒が走りぬけた。それでも目をそらさず、答える。 
「赤星をかばっているのではありません。教師としての誇りの問題です。教師とはなんのためにいるのですか。人を育てるためだと思います。ダメな生徒でも決
して見捨てず、あらゆる手段を尽して教えて、引っ張りあげる。それが教師ではないのですか。手の施しようがないからと言って殺してしまうなど、教師のやる
ことでは」 
「ますます面白い。末席の若僧が、教育のなんたるかを説教か」 
「おい光」 
 ジャージ姿で屈強な体育教師、大介が口を挟んできた。 
「オメェらしくもねぇ。いつも落ちこぼれの悪口ばかり言ってるじゃねぇか」 
「その通りです。ですが、殺してしまうのは、さすがに……」 
 ためらいながら言った。 
 自分でも、なぜ反対するのか分からない。いままで逆らうつもりなどなかった。だが今、心の奥底で、理屈を圧倒する何かが「絶対に嫌だ」と叫んでいる。 
(何故だ。私だって赤星を苦々しく思っていたのに。奴に出くわしてからというもの、貴重な頭髪がさらに三パーセントも減少したというのに。毎日、あきらめずに育毛を続けた頭髪が!) 
(……む、あきらめずに?) 
「巌先生。一つ質問があります。育てても育たないものは、諦めて殺してしまうべきだと?」 
「その通り。いくらやっても芽が出んものは時間の無駄だ」 
 光は理解した。なぜ、自分がこんなにも巌に反発を覚えているのか。 
       
 14 
       
 ざあああああっ 
       
 大反省室はいま、水浸しになろうとしていた。 
 天井の四隅に開いた換気口から、滝の勢いで海水がなだれ落ちて、飛沫を立てている。 
 すでに深さ一メートル。生徒たちはもう座っていられず、水の中に立っていた。みんな相変わらず暗い表情だ。 
「ぐぎぎぎぎぎっ」  
 サヨの懸命なうめき声。 
 がりっがりっ、固いもの同士がこすれ合う音。 
「サヨさん、もういいって。無理だよ!」 
 サヨは壁に縛りつけられたまま、マモルの手鎖を噛んでいた。 
「ぬぐっ、まだっ。まだやりぇりゅっ!」 
 サヨは必死の表情でそう答えて、鎖を噛み締めたアゴに力を入れた。 
 ごりっごりっ、ばきぃっ 
 重い破砕音。サヨは口の端から赤い塊を吐き棄てた。ぺっ。 
 折れた奥歯だ。 
「サヨさん、まさか今の!」 
「たいしたことないっ。あと少しでっ」 
 ばきん。いままでよりも甲高い金属音。 
「あっ!」 
 マモルが驚いて手を動かす。ちゃんと動く。両手首を繋いでいた鎖は、いま噛みきられた。 
「ふふん、どうだ!」 
 マモルはサヨのほうに振り向く。サヨの顔を見て胸が詰まった。 
 口から幾筋もの血が流れ落ちて、アゴや首筋にまで伝っている。 
 たった一本の鎖を切るために、ここまで自分を痛めつけたのだ。 
「す、すごいけどさ……」 
「さあマモル。足を上げろ。次は足だ。マモルのあとは他のやつらも解放するぞ」 
 生徒たちの一人が、突然叫んだ。 
「もうやめろよ!」 
「なに?」 
「無駄なんだよ。鎖一本切るのにどれだけかかってんだよ。間にあわねーよ溺死だよ。第一、鎖切ったってどうやって脱出するんだよ。どうやってあのジジイを倒すんだ?」 
「奴は確かに強敵だが、必ず倒す方法はある。大国アメリカがベトナム人民のあくなき抵抗の前に膝を屈したように。大丈夫、まだやれる」 
 しかしサヨの熱のこもった声はむなしく響いた。 
 裸の生徒たちは、みんな生気なく棒立ちで、冷たい、責める眼でサヨを見ていた。 
 サヨが目を細めた。感情を押し殺した声で、問う。 
「どうしても戦うのは嫌か? おとなしく殺された方がいいのか?」 
 誰も答えない。重い表情でみんな唇を結んでいる。 
「カイザーは? 君も同じ意見か?」 
 サヨに目線を向けられたカイザーは、四角くゴツイ顔に恥じらいの表情を浮かべた。 
「そりゃあよう……悔しいけどよう……」 
 そこで言葉が切れた。 
 サヨは苦々しく笑って、うなずいた。 
「いいだろう。人民が屈服を望むなら、仕方がない。助かる方法があるぞ」 
「おおっ!?」 
「いますぐわたしを殺せ」 
 空気が凍りついた。 
「おそらく教師たちはこの部屋を監視しているだろう。いますぐ、わたしの首を土産に、教師たちに謝るのだ。『もう二度と逆らわない、良い子になる』と。そうすれば免罪される可能性もゼロではない」 
「サヨさん! なにを言ってるのさ!?」  
 マモルはあわてて、サヨの前に立って両腕を広げた。サヨを守るつもりだ。 
 次の瞬間、生徒たちの冷たい目線がマモルを射抜いた。 
 お前うざいんだよ、何かっこつけてんだよ。そう言われた気がした。 
(でも。守らないと。ぼくが守らないと。手足が動くのはぼくだけだから!) 
 笑い出す膝に、力を入れて黙らせた。 
「駄目だからね!? みんなも駄目だからね!?」 
「マモル。必要ないぞ。わたしは革命戦士だ。人民のためなら、いつでも命を捧げる覚悟がある」 
「火に油そそがないでー!」 
 波太郎がマモルのとなりに立つ。無気力だった顔に怒りが浮かんでいた。 
「お前ら、いくらなんでもそれはねーだろ」 
「あ、波太郎……」 
「美少女ちゃんが殺されるってのに、黙っているのもな」 
 カイザーが動く。無言でサヨの前に立つ。 
「カイザーも!」 
 じゃりっ。 
 鎖の音がした。誰かがサヨに向かって歩み出したのだ。 
 その音をきっかけに、みんなが歩き出す。裸の男子生徒数十人が、鎖の音と水音を立てて迫ってくる。サヨを殺すために。 
 マモルとは、両腕を広げて彼らを遮ろうとする。波太郎とカイザーは腕が使えないが、それでもマモルと肩をぴったりくっつけて防壁になろうとする。 
「やめて!」「やめろってんだよ!」 
 だができない。裸の男たちが何十人もぶつかってきた。重圧で、立っていられない。押し倒されそうだ。 
「さあ来い。よく急所を狙えよ。人民よ、胸に刻め。『革命を諦める』とはこういうことだ!」 
 サヨだけが威勢のいい声を上げる。 
(もうだめだーっ!) 
 マモルが絶望に眼をつぶった、その時。 
 ガーッ! 
 岩のこすれ合うような、大きな音。 
「無事ですか!?助けに来ました!」 
 男の声が聞こえた。京弁院光の声だ。 
「え?」 
 マモルが驚いて眼を開ける。 
 壁のドアが開いて、ドアの向こうから光が現れた。殴られたのか、顔が腫れあがっている。 
 ザアザアと水の流れ出す音。ドアが開いたせいで水が逃げていくのだ。 
「何の用だ? トドメを刺したいのか?」 
「言ったでしょう、あなたたちを助けにきました」 
「ばかな、キサマだけはあり得ない」 
 さすがにサヨも驚愕を隠せない。 
「私もそう思っていました。あなたを助けるなんて真っ平です。ですが! それでも助けるのです! 私の魂のために、もっとも大切な物のために!」 
「髪の毛がどうかしたのか?」 
 一瞬で見抜かれた。 
「そんなことより、早く脱出を!」 
「あ、ごまかした」 
「うるさいですねっ」 
       
 15 
       
 みんなドアの外に飛び出した。上に螺旋階段が続いている。 
「これを着なさい、赤星!」 
 光がサヨにスーツの上着を手渡す。 
「あまりにはしたない格好、看過できません」 
「ありがとう、京弁院。だが他にも女子はいる。わたしはいらない」 
 サヨは答えて、後ろの優美子を指差した。 
 優美子が両手で股間を隠しながら、恥ずかしそうにうつむいていた。 
「あなたは飛び回るでしょうが! 見えてはならないものが見えやすい!」 
「そういうものか」 
 サヨは上着を受け取って羽織った。身長が三十センチも違うので、腰まですっぽり覆われる。 
「いくぞ!」 
 サヨは先頭に立って螺旋階段を駆けのぼる。そのあとに光が、マモルたち生徒が続く。 
 階段の上にはもちろん、武器を持った教師たちがずらりと並んでいて、襲い掛かってくる。 
「赤星、頼みましたよ!」 
「まかせておけ! 革命パンチ! 革命パンチ!」 
 サヨは教師たちのくりだす竹刀、木刀、サスマタを軽々とかわして階段を駆け上がる。パンチで教師たちを仕留めていく。教師は悲鳴を上げて階段を落っこちていく。 
「でもサヨさん、こんな雑魚いくら倒したって無駄だよ。あの和服の爺さんがでてきたら」 
「うん、たしかにヤツは強敵だ。京弁院、何か弱点はないのか」 
「他人任せですか! 巌先生は、ニセの用事を作って島の隅におびき出しました。しばらく時間が稼げるはずです」 
「さすが京弁院! ただのハゲではないな!」 
「髪は関係ないでしょう髪は!」  
 などと言いながら、一行は階段を登りきる。 
 上りきった先には、高さ三メートルはあろうかという、鉄の扉が一枚。 
 大扉は半開きになっている。扉の向こうからまぶしい光が漏れている。 
 そこから飛び出そうとしたサヨは、 
「むっ、殺気!」 
 急停止した。光とマモルがあいついで追突する。 
「むぎゅう。どうしたんだよ!」 
「このまま進んだら危険だ。何か囮になるもの……投げてもいいものはないか……」 
 サヨは一同を振り返るが、マモルたちはみんな全裸で、何も持っていない。 
「これならどうだ」 
 一瞬もためらわず、サヨは光の頭からカツラを奪って、扉の外に投げ捨てた。 
「ああっなんてことを!」 
 ガガガガガガガガッ! 
 扉の向こうで銃声が轟いた。白い煙が漂ってくる。バラバラになった髪の毛が飛び散る。 
「ああっ、わが身を引き裂かれるような!」 
「なにこれ、銃!?」 
「いや違うな……この煙、硝煙の臭いではない。これはチョークだな!」 
 扉の向こうから甲高い男の声。 
「ハハハハハッ。よくぞ気づきましたね。これぞ『京弁院一族でもっとも理系な男』、京弁院理人のチョーク銃! 一歩でも廊下に出てきたら穴だらけですよ!」 
「むう……」 
 サヨは額に手を当ててうなる。だが悩んでいたのは一瞬だ。 
「カイザー。君、筋肉には自信があるな?」 
 カイザーが顔色を変えた。 
「おいまさか、『人間の盾』とか言ってオレを盾にする気じゃ……」 
「違う! わたしをなんだと思ってるんだ。こうだ!」 
 サヨはしゃがんで、巨大扉の下に手を入れた。 
「むむむむっ……」 
 歯を食いしばってうなる。扉の蝶番がギシギシときしんだ。 
「カイザー、手伝え。外すんだ!」 
「お、おう」 
 カイザーは扉のフチをつかんで、思い切り引っ張った。肩の筋肉が盛り上がる。丸太のような腕に血管が何本も浮かび上がる。 
「うむむむむむむっ……ぐうううっ」 
「くううっ」 
 ばきん。 
 扉が壁から外れた。 
 サヨは、つかんだ扉を廊下に突き出した。 
 ガガガガガッ! 
 左右の廊下から銃弾が飛来して、扉にぶち当たる。白い煙が吹き上がる。だが扉には小さなヘコミができるだけだ。 
「よし、貫通しない!」 
「だめだサヨさん! 左右から撃ってくるのに、盾一枚じゃ防げないよ!」 
 マモルが言うと、サヨは眉をひそめた。 
「そんなこと百も承知。カイザー、そっちを持て、丸めるぞ」 
 サヨは扉を階段内に入れて、下の端を両手でつかんだ。カイザーが上の端を持つ。 
「うーんっ……」 
「ぬぐうううう!」 
 サヨとカイザー、ふたりが額に汗を流して筋力を振りしぼる。 
 だが扉はわずかに湾曲しただけだ。 
「うううんっ、みんな、力を貸してくれっ。マモルもだ」 
「え、ああ、うん……」 
 一体サヨが何をやろうとしているのかわからない。だがとにかく従った。マモルも、その隣の生徒も、そのまた隣の生徒も、扉の周りに集まった。 
「かけ声にあわせて曲げるぞ、『万歳』が合図だ。いくぞ、『せかい、かくめい、ばんざいっ!』」 
 マモルたちは同時に力をこめた。腕だけではなく、腰も足も背筋力も使って、骨をきしませながら、扉を上に曲げようとする。扉の反対側にも生徒が何人も組み付いて、歯を食いしばっていた。 
「ふんぎいいいいっ!」 
 男達のうなり声が混ざり合って、階段に響く。 
 廊下からはキンキンした男の声が聞こえる。 
「どうしました!? こちらから行きますよ!」 
「なんか言ってる……サヨさん……」 
「あんなの無視だ……もう少しで……これさえ出来れば……ぐううううっ!」 
 扉が変形を始めた。上下の両端がめくれ上がる。 
「もっと、もっとだ!」 
 全体が丸まって、円筒になった。 
「よし!」 
 サヨは、円筒化した鉄扉を一人で抱える。 
 顔面は真っ赤で、汗だくで、見るからに疲労困憊の表情。だが眼をギラギラ輝かせて、歯を見せて元気に笑った。 
「どうするの、それ……?」 
「こうだ。見るがいい」 
 サヨは円筒をすっぽりとかぶった。 
 身長が百五十センチしかないので、膝から上が全部隠れてしまう。 
「まさか!」 
「そのまさかだ。わたしは盾が欲しかったんじゃない。鎧が欲しかったんだ! 移動トーチカと呼んだほうが良いかな。名前をつけておこう。まさに人民の結束により生まれた、偉大なる革命武装! 『団結砦くん1号』!」 
「あ、相変わらずのネーミング……。っていうか、それ、敵が見えないじゃん」 
「え? なっ……それはその……見えるとも! 隙間がわずかに残っている。すべて計算済みだ」 
「いま本気でうろたえてなかった?」 
「うるさいっ! ……団結砦くん1号、出撃!」 
 階段を一気に駆け上がり、サヨは廊下に飛び出した。 
 ガガガガガガガガガガッ! 
「無駄だ! 団結砦くん1号は鋼の強度に加え、この曲面によって弾丸を滑らせるのだ!」 
「ひ、ひるむな撃て撃てー!」 
「その部屋かあっ! 革命ボディアタック! 革命ボディアタック! さらに革命ボディアタック!」 
「ぐええええ!」 
 甲高い悲鳴。サヨの声が遠ざかっていく。 
「そこにもいたか! ボディアタックボディアタック!」 
 サヨの叫び、敵の悲鳴、チョーク弾の炸裂するガガガガガッという音、壁が壊され、イスや机がひっくり返るガシャンガシャンという音。ひっきりなしに何十回も轟いた。 
 やがて静かになった。 
「終わったぞ、もう安全だ、みんな、来い」 
 サヨの声に呼ばれて、マモルたちは廊下にぞろぞろ出た。 
「うわあ……」 
 廊下は、生徒棟とは比較にならないほど金のかかった作りだった。五人並べるほど広さがあり、床にはフカフカの赤ジュウタンが敷かれている。壁には絵まで飾られている。 
 しかし今は、その豪華な廊下の壁はブチ破られ、床には教師達がゴロゴロ転がって、みんな白目をむいていた。一緒にチョーク銃も転がっている。鋼鉄円筒に入ったサヨが、生足を出して教師達を踏んづけている。 
「完全粉砕! 素晴らしいな、団結砦くん1号の力は! かっこいいだろう?」 
「かっこいい、っていうか……シュールな光景だ……」 
「先を急ぎましょう、武器も手に入ったことですし」 
 光の言葉に、サヨはうなずいた。筒ごと。 
「そうだな。よし、京弁院、教えてくれ。この学校の校長はどこにいるんだ?」 
「校長ですか? そうですね、教師棟の一番上、会議室に詰めているはずです」 
「よし、上だ! あの階段を!」 
 サヨを先頭に、みんな走り出す。 
 廊下の突き当たりにあった階段を駆け上る。 
 教師達が懲りずに襲ってきたが、 
「革命ローリングアタック!」 
「ぐえええー!」 
 サヨ(円筒)が回転しながら体当たりして教師達をまとめて吹き飛ばした。 
「ふふふふ、革命ボディアタックに回転を加えることで、さらに強力な技となるのだ!」 
 回転しながら、器用に飛び跳ねて階段を上っていく。 
「そりゃ悪役の技だ……しかも三流の……ところでサヨさん、校長見つけてどうするの?」 
「それは私も訊きたい。何か策があるのですか?」 
「一気に敵の中枢を叩く! 圧倒的劣勢をひっくり返すには、時間を稼いで援軍を呼ぶか、頭を叩くしかない! 巌を倒せればよいが、できないなら次善の策がある!」 
「おお、ちゃんと考えてる! 感心した!」 
「会議室に突入し、校長たちを人質にとる! それがわたしの作戦だ!」 
「感心して損した! テロリストじゃん!」 
 光もげっそりした表情で首を振る。 
「本当に味方して良かったのでしょうか……」 
「民衆の支持さえあれば、テロリストも立派な革命家だ」 
「わかったから!」 
 階段を登りきった。最後の数段、サヨは一気にジャンプした。 
「さあ、最上階だ!」 
 元気よく叫んだ。 
 最上階の廊下を走り出す。 
 そのとき悲鳴が響き渡った。 
『ぐあっ』『たすけっ、ひいっ』『いやあっ、いやあっ』 
 悲鳴は壁から、いや、壁に取り付けられた校内放送のスピーカーから流れている。 
「なんだ、これは!?」 
 サヨが緊張した声をいぶかしむ。クルンクルンと筒が回る。あたりを見回しているのだろう。 
『どすっ、ごすっ』『ばしっ』 
 スピーカーから聞こえてくるのは悲鳴だけではない。竹刀で叩く音、バットのような硬い物で殴る音まで聞こえてくる。何度も、何度も。 
 マモルは「拷問」という言葉を連想した。 
「なんのつもりだ……?」 
 サヨの声が怒りに震えている。 
「簡単なことだよ、赤星サヨ」 
 廊下の奥から、男達が姿を現した。 
 上質な三つ揃いのスーツに身を包んだヒゲの男。 
 校長、京弁院誠史郎その人だ。左右を数人の教師が固めている。 
「わざわざ出てくるかっ!」 
 サヨは歓喜の声を上げ、ダッシュ。 
 その時、誠史郎が叫んだ。 
「生徒達が死ぬぞ?」 
 サヨは立ち止まった。 
「我々が捕らえたのは君達だけではない。反乱生徒を大勢捕らえた。そして、彼らの運命を手中に収めている。抵抗すれば彼らを殺す。降伏すれば助けてやってもいい」 
「ひ、卑怯な!」 
「君もやろうとしたじゃん」 
「う、うるさいっ」 
「さて、どうするかね? 女子生徒などは体が弱いものもいる……打ち所が悪ければすぐにも死ぬかもしれんなぁ……バットで殴られて、何回耐えられるのか……」 
「や、やってみろ。お前達も全員道連れだっ。なっ、何の脅しにもならんなっ」 
「そうかね? じゃあ、君はなぜそんなに、声が震えているのだね?」 
「ううっ」 
 サヨはうめいた。 
「さあ、その被り物を脱ぐのだ。他生徒も武器を捨てて、両手を上げろ」 
 サヨはゆっくりと、「団結砦くん1号」を脱ぎ捨てて、そこらの床に叩きつけた。マモルも、光も、他の連中も続く。持っていたバットや木刀、チョーク銃をジュウタンの飢えに落とした。 
 すぐ後ろにいるマモルには、サヨの肩が悔しさに震えているのがはっきりわかった。 
 マモルはサヨに声をかけた。 
「サヨさん。気にせず抵抗したほうが……」 
(だって、ぼくたちを全員殺そうとする連中だよ? 降伏したって助けるなんて、信用ならないよ) 
「わかっている。頭ではわかっている。でも、動いたら、反抗したら、殺される人民がいる……」 
 サヨは背を向けたまま答えた。やはり、泣き出しそうに悔しげな声だ。 
 マモルはため息を漏らした。 
(ぼくの時と同じだ。自分なら平気でも、他人が死ぬことに耐えられない。人質を無視できない) 
「さあ。いつまでもは待てんよ。降伏するか? 制限時間はあと三十秒。三十、二十九、二十八」 
「う、ううっ」 
「二十七! さあ、どうした?」 
 そこに教師の一人が走ってきた。 
 誠史朗に耳打ちする。 
「ごにょごにょ……」 
「なにっ! この島の情報が!?」 
 誠史郎が青ざめて、上ずった声で叫ぶ。 
「はい! ネットとマスコミに完全公開されています。マスコミのヘリがさっきから島の周りを飛んでますよ!」 
 謎に包まれた教師一族とこの島に、マスコミは飛び付いたのだ。 
「どうしましょう。マスコミがいる状態では、さすがに殺害できません。揉み消しにも限度があります」 
「おのれいったい誰が! 引き下がってもらえ! わが一族がVIPの秘密を握ってきたのはこんなときのためだ!」 
「そ、それが……」 
 光が口を挟んだ。 
「ムダですよ。一族が集めてきた情報は、全てネットにバラまきました。いまごろファイル共有されて世界中をかけめぐっていますよ」 
 誠史朗が眼をむいた。口の下のヒゲがブルブルと震えた。 
「まさか、おまえが! 自分が何をやったのか分かっているか! 一族の権力の源を破壊したのだぞ!!」 
「ええ。秘密を全てばらした以上、一族は信頼を失うでしょうね」 
「それがわかっていながら、なぜ!」 
「それでも止めたかったのです。生徒の処刑を。一族の人間でなく、ひとりの教師として」 
 また別の教師が走ってくる。 
「大変です、各界から苦情が殺到しています!! いまの情報漏洩はなんなのかと!」 
「……大臣のスキャンダルも暴露されたため、政権が倒れる可能性があります。京弁院ブランドの信用低下にともない、グループの株価も急落……」 
「くっ、まさかこれほどの打撃を!」 
 誠史郎は憎悪の形相で光をにらんで、大きく首を振った。肩をわななかせて叫ぶ。 
「処刑は中止だ! この島の生徒も解放する! 一族の力を、この問題への対処に集中させる!」 
 この島の生徒を解放。 
 マモルは一瞬、その言葉の意味がわからず小首をかしげた。 
(それってつまり……帰れるってこと!?) 
「帰れるの!?」 
「帰れるんだ!」「イヤッホゥゥゥ!」 
 生徒達が歓声を上げた。 
「よかったね、サヨさん!」 
「わたしの力ではない。この男の功績だ」 
 サヨは微笑んで、光に向き直った。背筋を伸ばして、光を見上げた。 
 恐ろしく真摯な表情で、大きな吊り目に感謝の光を宿して。 
「京弁院光。感謝する。まさか一族を潰す覚悟で戦ってくれるとは。わたしはキサマの事を誤解していた。権威を振りかざすだけの男だ。弱いものいじめが趣味なのだと思っていた。違うのだな。信念を持ち、生徒の身を案じる立派な教育者だ。済まなかった。  
 ……もう二度と、ハゲと呼んだりはしない」 
 光はサヨの態度に面食らったらしく、一瞬だけ眉をひそめたが、素直に受け取ることに決めたらしく笑顔を作る。 
「わかってくれれば良いのです」 
 握手を求めて、手を差し出した。 
「敬意をもって、ヘア・ハンディキャッパーと呼ぼう」 
「わかってません! ハゲのほうがマシです!」 
「ヘア・チャレンジド・パーソン」 
「人権問題に発展させますよ!」 
「まあとにかく、終わった」 
 サヨは光の怒りを軽くスルーして、マモルに笑顔を向ける。 
「帰ろう、みんな」 
 うん、とマモルが明るく答えようとした瞬間。 
  
 ズガアアッ! 
       
「そうはさせん!」 
 雄たけびとともに、天井を突き破って人影が降ってきた。 
 真っ白い長髪を振り乱した和服の老人、巌だ。 
 天井と蛍光灯の破片が舞い散る中、巌は誠史朗に詰め寄る。 
「解放だと? 中止だと? 何をふざけたことを!」 
「先生! いえ、その、これには深いわけが……」 
「黙れ、軟弱者の風見鶏めが!」 
 巌の片腕が閃いた。誠史朗の顔面に張り手をぶち込んだ。誠史朗は廊下の端まで数十メートルも吹っ飛んでいって壁にめりこんだ。 
「ほげええっ!」 
「なに、マスコミ? ブンヤ風情のさえずりに恐れをなして糞餓鬼どもを放免か! わが一族も、つくづく堕ちたものよ」 
「では先生、どうするおつもりで」 
「知れたこと。ワシは一人でもやるぞ。外野がなにをほざこうが知ったことか」 
「おおっ」 
 教師達がざわめく。 
 たった今歓声をあげたばかりの生徒たちが、がっくり肩を落とす。青ざめて、巌から目をそらす。 
 サヨはおびえなかった。偉そうに腕組みして、力強くうなずいた。 
「やはりそう来たか」 
 サヨは巌の鋭い視線を受け止めた。 
「鼻息が荒いな小娘。結構なことだ」 
 巌はそう言って破顔一笑、左右の手を合わせて指を鳴らした。ボキンボキン。 
 臨戦態勢で、サヨへと歩み寄る。 
 二人の間にいる教師達が飛びのいた。 
 サヨの背中を見ながら、マモルは胸が詰まりそうな気分だった。 
(もともと実力差があるのに、いまのサヨさんは疲れてるはずだ。縛られてたんだから) 
(無茶だよ。やられるよ、殺される) 
 だから、口を開いた。 
「ど、どうせなら、最高の舞台でやりましょう!」 
「何のつもりだ、小僧?」 
 マモルは、天井に開いた穴を指差した。 
 穴の向こうには夜空が広がっている。バラバラとヘリの音が聞こえる。ちょうど今、穴の真上をヘリの小さな姿が通った。 
「いまここで、サヨさんたちを殺したってダメです。せっかくのマスコミを利用しましょう。朝になって、太陽の光の下で、みんなが見ている前で堂々と自分の正義を訴えて、サヨさんたちに勝てばいい。そうすれば日本中の不良が恐れおののくはずです。 
 それとも、できないんですか、大勢の人が見ている前では!」 
 声が恐怖にかすれてしまった。それをごまかそうと大声を張り上げた。 
 巌はマモルをにらみつけてきた。太い眉毛の下の三白眼が、突き刺さるような強烈な視線を放った。 
 マモルの心臓が恐怖に跳ねた。裸の皮膚から冷や汗がふきだした。 
 膝が笑い出す。あとずさってしまいそうになった。 
(ダメだっ!) 
 ありったけの意志力で、足に、体に号令をかける。 
(逃げるな!) 
(ここで逃げたらサヨさんが死ぬ!) 
 巌は笑った。片眉を上げて、興味深そうに。 
「なるほどそう来たか。それも一興。マスコミの前で、完膚なきまでに叩き潰してくれよう。それまで勝負は預けた。少し寿命が伸びたな、小娘! だが朝までだ、それ以上は待てんぞ!」 
 そう言うなり、巌は張り手で壁を破壊して、去っていった。 
 次の瞬間、マモルの中で緊張の糸が切れた。膝から力が抜けて、赤いジュウタンの上に崩れ落ちてしまう。 
「あうう……」 
「マモル! 君は……」 
 サヨに、きつく抱きしめられた。 
「うまくいってよかった。運が良かったよ」 
「君は。本当に大物だよ。これで体を休めることができる」 
(少しだけ勝てる確率が上がった。でも……) 
 前回は手も足も出なかったのだ。どうしても心配だ。 
 マモルの表情を読み取ったのか、サヨは明るい笑顔を浮かべる。 
「心配するな、同じ相手に二度も負けるものか。あの時わたしにトドメを差さなかったのがヤツの敗因だ!」 
       
 16 
       
 それから数時間。深夜。 
 生徒棟の、とある教室。机と椅子が片付けられ、マットレスが敷かれていた。 
 マットの上には、毛布をかぶったサヨが横たわっている。 
 部屋の明かりは消されて、光といえば格子窓から差しこむ星灯りだけだ。 
 何枚も壁を隔てて、男女のどなり声が聞こえてくる。マスコミの突撃取材陣と、教師たちが衝突しているのだろう。 
 並外れたサヨの聴覚は、言い争いの内容まではっきり聞き取った。 
「はあ、眠れない」 
 嘆息して、マットから体を起こす。 
 パジャマがわりのジャージ姿。教師たちから強奪したものだ。サイズが大きいのか、袖や裾がダブダブに余っている。 
 窓から、星空を見上げた。 
(寝て、体力を回復しないといけないのに) 
 とんとん。 
 ノックの音がした。 
「サヨさん、おきてる? 入るよ?」 
 戸が開いて、マモルが教室に入って来た。 
「サヨさんも眠れないの?」 
「君もか?」 
「うん。おかしいんだ。すごく疲れてるはずなのに、横になってると目が冴えちゃって」 
「不安なのだろう。少し話さないか、マモル。こっちに来い」 
 サヨが手招きすると、 
「えっ、布団の上に? ぼ、ぼく、そんなつもりじゃ……」 
「相変わらずいやらしいな、君は」 
 そう言われながらもマモルはサヨの隣に腰を下ろす。 
「なんの話をしようか。そうだ。わたしがこの御勉強島を解放したあとの話だ!」 
 サヨは元気よく、両腕を広げ、演説のような調子で喋りだした。 
「ここを解放すればたくさんの生徒が革命義勇兵として加わってくれることだろう。千人集まったと仮定する。この千人をうちの学校に転校させれば、おお! 学校の完全支配が可能になるではないか。更に、掌握した学校を拠点として、第二第三の……」 
「ねえサヨさん」 
 まくしたてるサヨに、マモルは口をはさんだ。 
「ごまかさないでサヨさん、あの先生に勝つ方法、見つかったの?」 
 サヨは、なぜか明後日の方角を向いて明るく笑う。 
「なに任せておけ!」 
「何で顔をそむけながら言うの?」 
「そ、それはその、実は……」 
 恥ずかしそうに肩を落とす。 
「実は、考えても考えても、全く方法が思いつかないんだ」 
 サヨは枕元に置いてあった分厚いファイルを手に取る。 
「これ、あの男のデータなんだ。 
 京弁院巌、明治元年に産まれる。武芸百般に通じ、各種学校で壮健な日本男児を育成。日露の戦役では陸軍に所属、将校の指導に多大な功績を…… 
 ずっとこの調子だ。ひたすらあの男の凄さだけが書かれている。あの男がいなければ明治の近代化も、日清日露戦争も違った結果になっていたかもしれない……」 
「じゃあ、あの人は百何十歳なの?」 
「戦争に負けた時、GHQに封印されて冬眠状態になったのだ。軍国主義を支えた人物として危険視されて」 
「凄すぎる。国家レベルの敵じゃないか!」 
「そうなのだ。学生運動の時代にも封印を解かれ、たった一人で七つの大学を奪還している」 
 そこでサヨはうつむいた。真っ暗闇のなかでマモルには顔がよく見えなかったが、すすり泣きが聞こえてきた。 
 マモルは驚愕した。いつもの強気なサヨからは想像もできない姿だ。これが、「さあ、わたしを殺せ」と胸を張った人間なのか。 
(そうか……みんなの前だから。『革命戦争の指導者』が泣くわけにいかないから、必死に虚勢を張っていたんだ) 
(今だから、ぼくしかいないから、泣けるんだ) 
「ぐすっ、わからないんだ。みんなが、マモルが、カイザーたちが、京弁院さえも、あれだけ頑張ってわたしにチャンスをくれたのに。わたしはっ、チャンスを活かすことができない! みんなに顔向けができない」 
 マモルはサヨを両腕で抱き寄せた。 
「あっ……」 
 涙声でサヨが驚く。耳元にささやきかけた。 
「あの。あの……なんていうか、わからないけど。でも、泣くことないよ。サヨさんが戦ってくれなかったら、ぼくたち全員、この島で家畜みたいになっていた。戦おう、という選択肢もなかった。それだけ凄いことをしてくれたんだよ」 
「しかし……抵抗せずにいたほうが、まだ良かったかもしれないんだ。生きてはいられる」 
「サヨさん。それが革命家の台詞かい? 心配しないで、ぼくは絶対にサヨさんを責めたりしない。精一杯戦ってくれれば、それだけで……うまく言葉がでてこないよ……」 
 どんな言葉ならサヨに届くだろう。マモルは暗闇の中で考え込んだ。 
「……あのさ。こないだ貸してくれた本、読んだよ。チェ・ゲバラの『ゲリラ戦争』。 
 あの本にはこう書いてあった。 
 『革命が成功するためには三つの条件がある。 
 民衆の献身的な協力。 
 安全に休息とか訓練ができる聖域。 
 外国の支援』 
 サヨさんには聖域が必要なんだと思う。ここが聖域だよ。ぼくがいま、聖域になるよ」 
「……そんなこと……言われても……本当にいいのか?」 
 マモルはもう言葉を返さなかった。行動で示した。サヨの薄い胸を、筋肉でゴツゴツとした背中を、くびれのない腰を、女性らしさを感じさせない小さな体を、力いっぱい抱きしめた。 
「あっ……?」 
  戸惑いの声。サヨのこわばっていた体から力が抜けた。マモルに体を預けるようにして、もたれかかってきた。 
「言うんじゃないぞ……わたしがこういうことをしたって、誰にも言うんじゃないぞ」 
 マモルはサヨの体を受け止めて、痛くないように、力を緩めて抱いた。 
 いつの間にか、マモルの腕の中から、安らかな寝息が聞こえてきた。 
       
 17 
       
 朝がきた。 
 格子窓からまぶしい陽光が射し込んでいた。 
「うーん……」 
 座ったままの姿勢でサヨを抱いていたマモルが、眠い目をこする。目が真っ赤に充血している。 
 マモルは結局、一睡もできなかったのだ。 
 その時、ガラガラと戸が開いて京弁院光が顔を出す。 
「赤星、もう七時……のわっ!?」 
 光は教室内を見て驚愕した。 
 マットレスの上にマモルとサヨが座っている。マモルはサヨを抱きしめ、サヨの頭はマモルの肩にあずけられている。 
 どこをどう見ても、睦み合う恋人たち。 
「な、なんと不純な! あなたたちは!」 
 猛烈に首を振るマモル。 
「ち、違うんですって! 本当です! なんにもやってませんっ!」 
 その時サヨが体をビクッと痙攣させて、目を開けた。 
「うーん、むうう……ああああっ!?」 
 サヨは自分の体の状況を見て、目を見開いて絶叫、マモルの腕を振りほどき体を突き飛ばして、座ったままズズズッと逃げた。 
「こ、これは? わたしとマモルはなんでこんなことに!?」 
「勘違いしないでサヨさん、よく思い出して! 寝る前に何があったか、克明に!」 
「む……そういえば。そうだ、なにもやましいことはしてないぞ! ありがとう、マモル。君のおかげでよく眠れた。戦いに集中できる」 
 サヨは立ち上がり、光の落とした荷物を脇に抱えた。 
「では、行って来る!」 
 胸を張って、元気よく手を振って、戸を開けて出て行った。 
「がんばってねー! ……ほら先生。いやらしいことなんてしてなかったでしょ?」 
「それはいいですが……」 
 光の声はまだ冷たい。 
「あなた、なんで、前かがみに立ってるんですか?」 
「それはその……男の生理現象だよ!」 
「やっぱり、やりたかったんではありませんか!」 
「『ダメだ、静まれ静まれ!』って一晩中我慢してたんだよ!」 
「ぷっ」 
「笑うなヘア・ハンディキャッパー!」 
       
 18 
       
 校庭に出るとすぐに、サヨはジャージを脱ぎすてた。ダブダブで動きにくいからだ。 
 体操着にブルマ姿、ヘルメットをかぶり、武器のスコップを手にしたサヨは、下駄箱を抜けて、昇降口の重い戸を開く。 
 まぶしい朝の光に照らされた、運動場がひろがっていた。 
 中央に小さな人影が見える。 
 そこまで歩いて近寄った。 
 巌が木刀を手にして立っていた。 
 木刀には「軍人精神注入棒」と刻まれている。 
 かたわらにはテレビカメラをかついだ男、マイクを持った女性レポーターもいる。 
「待ちくたびれたぞ、小娘。もうカメラの手配も済んでおる」 
 巌はそう言って、運動場を囲む校舎群を指し示した。 
 サヨが周囲を見ると、校舎の窓のあちこちにレンズが光っている。 
「あのう、本当にやるんですか?」 
 女性レポーターが困惑の表情で巌にたずねた。 
「決闘罪という罪があってですね……」 
「小賢しい法律など知ったことではないわい。やれ暴力だ児童虐待だと法律を持ち出すから、いまの学校は腐ってしまったのだ。糞餓鬼どもには、法律など無視した鉄槌を! 貴様らは、ワシの正しさを全国に知らしめてくれればそれでよい」 
「は、はあ」 
「始めるぞ小娘。場所はここでいいな?」 
「ああ」 
「武器はそれ一本か? 光り物や飛び道具を持ち出しても構わんのだぞ?」 
 いままで使っていたゲバロッドはもう捨てられたので、仕方なく普通のスコップを持っている。 
 だが、サヨはスコップを天高く掲げる。 
「かまわない。慣れ親しんだ武器だ」 
 巌は着物の袂から真っ白い手ぬぐいを取り出した。 
「これが落ちたときが、開始の合図とする! ……ゆくぞ!」 
 手ぬぐいを勢いよく天に投げた。 
 落ちてきて、まさに地面に着く瞬間、サヨが尻ポケットから瓶を取り出し、巌に投げつける。 
 栄養ドリンクほどの小さな、白い瓶。赤い瓶。わずかに時間差をつけて飛んでゆく。 
「ぬん!」 
 巌は「木刀=精神注入棒」を一振り、瓶を二つとも叩き割る。 
 白い瓶からは白い煙が噴出してあたりを包んだ。赤い瓶からは真っ赤な液体が飛び散って巌の白い和服にベッタリ降りかかった。 
「眼くらましのつもりか、くだらんな!」 
 巌はあざ笑った。あらゆる武芸を修めた彼は、たとえ視力を封じられても「気配」と「音」で敵の動きをすべて把握できる。 
「かかってこんか? ならばワシから行くぞ!」 
 精神注入棒を振りかぶり、稲妻の速さでサヨに向かって突進。 
 サヨは真っ白い煙の中、スコップを中段にかまえて立っていた。 
「ふんっ!」 
 精神注入棒がサヨに襲いかかる。 
 しかしサヨには見えていた。真っ白い煙の中に浮かび上がる、赤い巌の姿が。 
 とっさにステップを踏んでかわした。後ろに回りこもうと走り出す。 
「こしゃくな!」 
 巌が吼え、精神注入棒が超高速で真横に払われる。 
 うなりをあげて頭に飛んでくる精神棒を、サヨは上体を振って回避。 
「ほう?」 
 よけられるとは思っていなかったのか、巌は感嘆の声を上げる。 
 二度、三度と精神棒がうなる。薙ぎ払い、突き。サヨはすべての攻撃をよけて接近し、スコップの間合いに入る。反撃に転じた。こちらも巌が精神棒で弾いた。 
 二人は互角の打ち合いを続けた。 
「なるほど、色で視認性を上げたか!」 
 少しでも向こうの攻撃を狂わせて、こちらの攻撃を当てやすく出来ないか、そう考えての小細工だ。 
「……だがこんなもの! 喝ッ!」 
 大声を張り上げた。人間にこんな声が出せるのか、という大音声だ。サヨは脳天を殴られたようなショックに震えた。立ち込めていた白い煙が、またたくまに晴れていく。 
「こんなものよ、ははははっ。さあ、次はどう出る?」 
 サヨは無言で、相手をにらみながらスコップを構えなおす。 
「もうネタぎれかっ!」 
 巌が踏みこんできた。 
 精神棒が見えない! 速すぎる! サヨは勘だけでスコップを操り、精神棒を受け止めようとした。 
 思い衝撃が手に走った。手首がへし折れたか、という衝撃だ。 
「ぐうっ……」 
 スコップを取り落としてしまった。 
 拾う暇など与えてくれなかった。巌の精神棒が再び鎌首をもたげて、また動体視力の限界速度を超え、消えた。 
 肩に打ちこまれた。熱い激痛が弾ける。対応する間もなく次が来た。ヘルメットで防御されていない側頭部、こめかみのあたりに重い打撃。 
 意識が一瞬、飛んだ。今度は反対側の側頭部にも打撃が浴びせられた。 
 体から自然に力が抜け、溶けるように膝が折れ、腰が曲がり、体が回転しながら倒れた。 
 仰向けの状態だ。雲ひとつ無い青空が見えた。 
「つまらん。この程度か。女だから顔は殴らん、とでも思っておるのか?」  
 巌が蔑みの表情で見下ろしていた。 
 頭の激痛で意識が朦朧としていた。強い吐き気もあった。体を悪寒が包んでいた。 
(……怖い? そうだ、わたしはこわいんだ。やっぱり格が違う……) 
「これで終わりだ」  
 もう駄目か。サヨが観念して目をつぶった瞬間、耳に叫びがとびこんできた。 
「……負けるな! サヨさぁぁん!」 
 マモルの声だ。 
 心臓が跳ね上がった。とっさに目を見開く。 
 運動場に横たわるサヨには、上下逆になった校舎が見えた。 
 十階建てで、灰色でコンクリートむきだしで、鉄格子つきの窓が並ぶ建物。 
 数百の窓に、生徒たちの顔がびっちり並んでいた。カイザーがでかい顔を窓に貼り付かせていた。優美子が髪を振り乱していた。波太郎が「美少女ちゃんハアハア」と書かれたノボリを掲げていた。 
 そしてマモルが、ガラスを割って鉄格子を壊して、窓から身を乗り出して叫んでいた。 
 全員、目を見開いて眼下の光景を見守っている。その表情は緊張と、期待にこわばっている。 
 マモルの叫びに触発されたのか、彼らは一斉に叫んだ! 
「サヨぉーっ!」 
「あかほしぃぃぃっ!」 
「まけんなぁぁっ!」 
 たくさんの叫びがいりまじり、巨大などよめきとなってサヨの胸を打つ。 
(そうだ。わたしは!) 
 鉛のように冷たく重かった手足に、灼熱の熱さが宿る。 
 まさにその瞬間、視界を真っぷたつに叩き切って黒い影が、精神棒が襲いくる! 
「はっ!」 
 跳ね起きた。振り下ろされた精神棒は空を切り、サヨの頭の上を通過して、地面に叩きこまれる。 
 ドオッ! 吹き上がる砂煙。 
「こしゃくな!」  
 両腕を下ろしきった状態の巌に、一瞬だけ隙が生じた。 
 とっさに足が動いた。無防備な巌の顔面にハイキックを放つ。巌は後方に飛ぶが、間に合わない。 
 スニーカーを通して、鼻がつぶれる手応え。 
「おのれぇ!」 
 巌は精神棒を横になぎ払う。だがそのときサヨはもう、スコップをつかんで飛びのいている。 
 二人は数歩の距離を置いて、にらみあった。 
「やってくれたな」 
 巌の顔には驚きの色が濃い。まさか当てられるとは思っていなかったのだろう。 
「わたしも驚いている。これほどの力が眠っているとは」 
「ほざけっ!」 
 巌は再び、精神棒で打ちかかる。 
 サヨはよけない。真っしぐらに突っ込んでいく。 
 頭のてっぺんに重い衝撃。ヘルメットが割れて飛び散る。一瞬だけ視界に火花が散る。 
 だが意識ははっきりしている。勢いを殺さずにそのまま突進する。 
「むうん!」 
 巌が即座に精神棒で空中を払う。よけられない。脇腹に食らった。体をくの字に折って地面に転がる。 
「げほっ」 
 むせかえった。セキをしたら脇腹に重い痛みが爆発。だがすぐに飛び起きる。スコップも手放さない。 
「奇跡は二度おきん!」 
 巌はもう、反撃のチャンスなど与えてくれなかった。 
 矢継ぎばやに突き、払い、振り下ろされる精神棒。 
 すべて食らった。頭に食らって意識がフラッシュし、腹を突かれて身もだえする。 
 倒れた。だがすぐに立ち上がった。突進しては殴り倒され、またすぐに立ち上がる。 
 何度も、何度も、倒されても倒されてもすぐに立ち上がって、反撃に転じた。 
 もう、サヨの全身に無傷な場所はなかった。切れた額から流れた激しい血が、右目に流れ込んで視覚を奪っていた。肩と脇腹は明らかに折れていた。頭も、頬も腫れて、カッカと熱い。 
 だがそれでも体に力がみなぎっていた。 
 何十回目か、何百回目か、サヨは立った。青黒く腫れあがった足はしっかりと大地を踏みしめ、ふらつきはない。 
「来い、巌!」 
 スコップを構えて、叫ぶ。殴られて口の中が切れているので、発音は不明瞭だった。 
 巌が精神棒を振り上げようとして、止まった。 
 片方の眉が下がり、険しい顔立ちに狼狽の色が浮かんでいた。 
 全力の打ち込みを続けたからだろうか、肩が小刻に上下している。息を荒げているのだ。 
「なぜだ? なぜ立ち上がる? 不死身か、小娘」 
 サヨは無言。ハアハアと荒い息をして、相手をにらみつけるだけ。巌は首を振って、苦々しげに呟く。 
「思えばあの男もそうだった。バリケードを払い除け、学生どもをなぎ倒すのは簡単だった。だが奴は、何度倒されても笑って立ち上がった。そのたびに強さを増した。なぜだ」 
 そんなことは決まっている。 
「……支えてくれる人が、わたしの勝利を待ってくれる者がいるから! 
 人民の支持あるかぎり、革命家は決して屈しない。屈してはならない! 百回殴られれば二百回立ち上がる。三百回斬られれば四百回立ち上がる! 
 だがキサマには何もない! 生徒も! 教師も! キサマを見捨てた! 誰もキサマを支える者はいない!」 
「いるぞ。この国の歴史が、大日本帝国の忠勇なる臣民を育ててきたという事実が、ワシの支えだ! ならば決着をつけよう、次の一撃で! 最大の技をもって葬り去ってくれる!」 
 巌は精神棒を大上段に構える。そのいかつい顔が、極度の緊張にこわばった。額に青筋が浮かぶ。 
「むううんっ 教育勅語っ!」 
 彼の肉体から凄まじい殺気がほとばしった。風もないのに長い白髪が揺らぎ、着物がはためく。 
「朕おもうに、我が皇祖皇宗、國をはじむること宏遠(ルビ こうえん)に、徳を樹(ルビ た)つること深厚なり!」 
 巌が鬼気迫る形相で教育勅語を暗唱する。 
「我が臣民、よく忠によく孝に、億兆心を一にして、世々その美をなせるは、これ我が國体の精華にして、教育の淵源(ルビ えんげん)、また実にここに存す!」  
 巌の背後に、人の形が浮かび上がっていく。 
 はじめに浮かんだのは二ノ宮金次郎だ。次にギョロ眼の和服の男、大村益次郎が。明治天皇、乃木希典、東郷平八郎をはじめとする軍人達、日本の偉人たちが次々に現れる。 
 最後に現れたのは若かりし頃の昭和天皇だ。 
「義勇公に奉じ、もって天壌無窮(ルビ てんじょうむきゅう)の皇運を扶翼すべし! 
 受けてみよ! 御勉強術最終奥義!」 
 日本の偉人数十人を背負ったまま、巌は突進。 
 だがサヨには、彼の動きがスローモーションに見えた。 
 全身は痛いけれど、片目が熱くヌルヌルの血でふさがっているけれど。 
(……怖くない) 
(……負ける気が、しない!) 
(負けない。キサマの背負う死者どもに、わたしの人民は負けたりしない!) 
「ぬあああああっ! 革命武装ッ!」 
 負けじと気合をこめて絶叫、 
「らぁぁぁじかるぅぅ! ゲバァ! ロォッド!」 
 巌に向かって踏みこんで、ありったけの力でスコップを突き出した。ただの鉄器にすぎなかったはずのスコップに赤い光が宿り、光はまばゆいほどに膨れ上がる。 
 巌の一撃はサヨの顔面をかすめた。ごうっ、と風の塊がサヨの頬をえぐり、肉が裂けて血が噴出する。 
 輝くスコップの一撃は巌の喉を直撃、鉄のスコップが大きくひしゃげた。腕に衝撃が伝わってきた。 
 次の瞬間、二人はすれ違う。 
 まず巌が、驚愕のうめきをもらす。 
「ありえん……ゲホォッ」 
 その場に崩れ落ちた。 
 おおっ! 一斉にどよめく生徒達。 
 歓喜の声を耳がとらえた瞬間、緊張の糸が切れて膝が震え、手足から力が抜けて意識がぼやけていく。 
 最後の力を振り絞り、サヨはひしゃげたスコップを天に突き上げた。高らかに吼えた。 
「しょくん! 人民は勝利した!」 
 わあああああああっ。 
 薄れていく意識が、ますます高まる歓喜の声をとらえた。 
 そして、気絶した。 
       
 19 
       
 そのあとすぐ、本土から海上保安庁の救急隊が飛んできて、サヨを収容してヘリで飛び去った。 
 マモルたちは飛んでいくヘリに、「どうかサヨさんを助けて」と懇願した。 
 ついでマスコミたちが船やヘリでいっせいに押し寄せ、警察もやってきて教師達を次々に逮捕し、マモルたちもさんざん事情聴取を受けた。 
 疲れ果てて自分の家に帰ってきたのは三日もあとのことだ。 
 しばらく御勉強島のこと、そこで起こった戦いのことはテレビなどで取りざたされたが、次の週に大きな殺人事件が起こって人々の関心はそっちに向かってしまった。 
 一ヶ月たって、夏休みが終わろうとするころにはニュースで取り上げられることもなくなっていた。 
 そして。 
 いまだサヨは病院のベッドの上で眠り続けていた。 
       
 20 
       
 夏休み最後の日。 
 夕日が射し込む、綾品中央病院の病室。 
 ベッドの上には、点滴のチューブがつながれた、眠り続けるサヨ。パジャマ姿で、毛布を胸までかぶっている。 
 マモルはベッドそばのイスに腰掛け、医者と喋っていた。 
「……ほんとうに、原因はわからないんですか?」 
「はい……」 
 沈痛な面持ちで医者はうなずいた。 
「怪我そのものは治ってるんですよね?」 
「はい。うちに担ぎこまれたときは骨といい内臓といいグシャグシャで、生きているのが不思議なくらいだったんですが……たった一ヶ月で完璧に」 
「でも、目覚めない……」 
 マモルはつぶやいて、ベッドの上のサヨを見つめた。 
 腫れあがっていた顔面もいまでは無傷、真っ白で柔らかそうな頬、わずかに開いた唇、スウスウと寝息を立てている。 
 ただ寝ている、ようにしか見えない。だが看護士が服を着替えさせても、体を拭いても、マモルたちが何を話しかけてもまったくの無反応。日焼けしていた肌も、この一ヶ月の寝たきりで赤ん坊のように白くなってしまった。 
「まるで、あの戦いですべての力を使い果たしたみたいだ……」 
「とにかく、これからも検査は続けますので……」 
 気の毒そうな顔で医者は退室した。 
 マモルは立ち上がってサヨの枕元に立ち、置いてあった小さな机から文庫本を取った。パラフィン紙で包まれた、すっかり紙が黄色く変色した文庫本。サヨが肌身離さず持ち歩いていた本だ。 
 カール・マルクス「共産党宣言」。 
 最初のページを読み上げはじめた。 
「ヨーロッパを一匹の妖怪が徘徊している。共産主義という名の妖怪が。ヨーロッパの王たちはこの妖怪を退治するために神聖な同盟を結んだ……」 
 こうやって、眠るサヨにいろいろ読み聞かせるのが日課になっていた。 
 あるときは、サヨについて報道した雑誌の記事を。あるときはサヨに送られてきた感謝や応援の手紙を。あるときは革命の書を。 
「……今日に至るまで、すべての歴史は階級闘争の歴史である……」 
 静かな病院に、マモルの声は大きく響いた。 
「……彼らは鉄鎖のほか、何も失うものを持たない。獲得するものは全世界である。万国の労働者、団結せよ」 
 読み終えて、サヨの顔を見る。 
 相変わらず眠っている。だけど、ほんの少し、無表情が笑顔に近づいた気がする。 
 だから、マモルはいつも本を読むのだ。 
「……遅くなっちゃった! ごめんねマモルちゃん!」 
 背後のカーテンが開いて、里香がやってくる。 
「赤星さん、スイカもってきたのよ」 
 里香は、いつも通り若々しく、明るく笑って、風呂敷をといて大きなスイカを出す。 
「あ、ごめんね、マモルちゃんの役目だもんね」 
「なんだよ役目って?」 
「ほら、将来のお嫁さんだし。あーんさせて食べさせて。あー、若いっていいわー、ラブラブだわー」 
「ラブラブなのは母さんの脳だよ……」 
 そう言って苦笑しつつも、マモルはサヨの口をあけて、小さく切ったスイカを食べさせる。 
 しばらく、静かな時が流れた。 
「ねえ、マモルちゃん」 
 マモルのとなりにイスを置いて、里香が腰を下ろしてきた。 
 里香の横顔を見て、「疲れてるな……」と気づいた。ふっくら丸顔が微妙にやつれて見える。 
 サヨの入院費だって安くはないのだ。 
「うん?」 
「もう夏休み、終わりでしょ」 
「そうだけど……」 
「学校が始まったら、毎日来る必要なんてないのよ?」 
 夏休み中は毎日来ていた。 
 サヨの寝顔を見て、サヨに話しかけて、額や首筋をぬぐってあげて、スポーツドリンクを飲ませて。 
 それだけで、マモルの夏休みは終わってしまった。 
「……そうだけど……でも……」 
 サヨを放っておいて、自分だけ学校で楽しく過ごす? 
 新しく友達を作って?  
 そんな自分は想像できない。 
「……でも、ぼくはここにいるよ。サヨさんが目を覚まさなくても、何年も、ずっと世話を続けるよ」 
「それ、本気? プロポーズみたいなものよ?」 
 里香は恐ろしく真剣な顔でマモルを見つめていた。 
 マモルは膝の上で拳を握りしめ、考える。 
(あの暗い教室で、サヨさんを抱きしめて、この人を健気だと、守りたいと思った) 
(大切だと、思った) 
(そのときの気持ちは、嘘じゃない) 
 小さくうなずいて、言おうとした。 
「もちろんだ」と。 
「も……」 
 そのとき、何をやっても起きなかったサヨの目がパチリ。血相変えて跳ね起きる。 
「いかん、いかんぞー!」 
 マモルの体に抱きついて首を絞めた。寝たきりとは思えない怪力だ。 
 ばきばきっ 
「ぐえええー!?」 
 カエルのようにうめいた。見る見る顔が土気色になる。 
「革命戦士に立ち止まっている暇などない! 祈っている暇があるなら前進せよ! 屍に寄り添うな、踏み越えて進めっ!」 
「あ……赤星さん!? だ、だいじょうぶなの?」 
 母が目を丸くする。 
「むっ……」 
 サヨはそこで不審そうな顔になり、マモルを放り出してあたりを見回す。 
「わたしは……いったい何を……?」 
「あれ? 思い出せないの?」 
 マモルは不安に顔を曇らせた。 
 たしかに、これだけ眠っていれば記憶が変になる可能性もある。 
 眉根を寄せて、額に手をあてて考えこむサヨ。 
「たしか、わたしは京弁院によって、御勉強島とかいう学校に送り込まれて、そこでは教師による圧政が行われていて、わたしが指導して生徒たちが武装蜂起して……」 
「そうそう」 
「巌という強い奴がいたが、人民の力を結集してなんとか倒して……」 
「合ってる合ってる」 
「わたしの名は全国的に有名になり、わたしのもとに虐げられた人民が百万人結集、ついに革命軍が国家をも揺るがす勢力となり、国会議事堂を占拠ッ!」 
「そのへんは全部妄想」 
「そうか……遠いな……まだ」 
「なに悲しそうな顔してるのさ! サヨさんがたくさんの人間を救ったのは本当のことなんだよ?」 
「そうだな」 
 サヨはニカッと明るく笑った。ベッドから降り立つ。ふらついて壁の手すりをつかんだ。それでも懸命に胸を張る。 
「さあ、学校に戻ろう! わたしの革命はまだまだ続く!」 
 マモルはサヨに肩を貸して、力いっぱい元気に答えた。 
「うん!」 
 
 
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