不合理な「競争」

 人類を月に送り込んだアポロ計画。この国家プロジェクトを推進するためにアメリカはNASAを中心として一丸となってこれにあたりました。その一方、ソ連はどの様な体制でアポロ計画に挑もうとしていたのでしょうか?ソ連には、アメリカとの競争以前に、勝利しなければならないもう一つの「競争」があったのです。


 御存知の通り、アポロ計画では有人月周回と有人月着陸は同じアポロ計画の中で行われた。アポロ8号・10号が月周回、11号以降が月着陸である。

 最終目標が月着陸である以上は月周回はあくまでも月着陸に至る通過点に過ぎず、月着陸計画があればわざわざ別の月周回計画を進める必要はない。また、月軌道ランデブー方式を採用する以上、わざわざ別々の宇宙船を開発する必要もない。当時の「1960年代の終わりまで」という時間的な目標もあったため、計画を一つに絞ったのは当然の事であり、それが合理的だったからだ。

 だがソ連の場合は事情が違っていた。ソ連政府は月着陸計画と月周回計画を全く別個に進めようとしていたのだ。ソ連にはNASAのような宇宙計画を一元的に管理する組織はなく、いわゆる「設計局」と呼ばれる組織が複数存在していた。これらは航空宇宙企業と研究組織を合わせたようなもので、それらが計画を発案し、政府の承認を得(または政府の要請によって)、協力あるいは競争しながら宇宙開発計画を推進していた。

 ヲスホート計画まではソ連の有人宇宙計画はコロリョフの率いる設計局「OKB−1」が独占していたが、有人月周回計画にはチェロメイ率いる設計局「OKB−52」が名乗りを上げた。ソ連政府はそれぞれの設計局同士で競争させ、より優れた計画を採用しようとしていた。

 コロリョフのOKB−1は月飛行計画としてL1・L2・L3・L4・L5を発案しており、これらのうちL1とL3が実際のL1とL3の原形とも言えるものだった。当初のL1は打ち上げロケットにはR7を用い、使用する宇宙船はソユーズであった。しかし、一度の打ち上げでソユーズ宇宙船を月周回軌道に投入することはR7の打ち上げ能力では到底不可能なため、複数のR7ロケットを用いる予定だった。地球低軌道に人が乗るソユーズ本体、月軌道投入のための推進モジュール、燃料補給用のタンカーモジュールを立て続けに打ち上げ、それらが地球低軌道上でドッキングし、月へ向かうのである。タンカーモジュールは全部で4機、推進モジュールとソユーズ本体を含めると、使用するR7は6機に達した。

 チェロメイ率いるOKB−52の有人月周回計画はLK1計画と呼ばれるもので、打ち上げにはOKB−52で開発していたUR−500K/プロトンロケットを使用し、使用する宇宙船もOKB−52の開発によるものを使用する予定だった。この宇宙船は後のサリュート計画においてサリュート7号にドッキングしていたTK−S宇宙船に発展したようだ。プロトンロケットはご存知の通り現在でも使用されているもので、その打ち上げ能力は一度の打ち上げで有人宇宙船を月周回軌道に送り込むのに十分なものであった。

 ソ連政府はこれら二つの計画のうち、月周回飛行にはLK1計画を、月着陸にはL3計画をもって達成するとの決定を下した。つまり有人月着陸計画はOKB−1、有人月周回計画はOKB−52がそれぞれ担当することになったのである。

 先に述べた通り、月着陸が最終的なゴールである以上、この決定はアメリカとの競争に勝つためには非常に不利だったはずである。にもかかわらずこのような決定が下されたのはなぜだったのか。
 原因の1つとして、ある人物の名前を挙げることができる。セルゲイ・フルシチョフ。彼はチェロメイの下で働く技術者であり、時のソ連首相、ニキタ・フルシチョフの息子である。情実とコネが支配していたというソ連の政府・官僚に対し、首相の息子である彼の存在はチェロメイのOKB−52にとって最高の宝だったに違いない。フルシチョフの親バカによってチェロメイは贔屓されていたのである。

 もちろんこれだけが政府の決定の原因ではなかっただろう。技術的な面から見れば、6機のR7ロケットを月へのロンチウインドーに合わせて立て続けに打ち上げるのはさすがに困難であり、さらに燃料補給のために何度もドッキングを繰り返さねばならないことも実現を困難と思わせるものだった。一度の打ち上げで有人宇宙船を月の軌道に送り込めるプロトンロケットを使ったLK−1計画の方が月周回飛行をはるかに容易に実現できるものと思われた。だが、打ち上げロケットにプロトンを用いるのは後の(実際の)L1計画がそうしたことから当然の成り行きだったとしても、計画を別々のチームに担当させ、宇宙船まで別々の設計にしたのは明らかに失策であった。

 コロリョフは月周回計画も自分のチームが担当する事を主張し、各方面に働き掛けていたが、思うようにはいかなかった。もはやコロリョフの敵はチェロメイだけではなかったのである。N1の設計をめぐって対立したグルシコがチェロメイを支持し、コロリョフのチームを妨害せんと各方面に働き掛けていたのだ。

 グルシコはチェロメイの設計によるロケット・UR−500K/プロトンのメインエンジンを設計していた。このエンジンは当初N1のエンジンとして開発されていたもので、コロリョフが採用を拒否したものだった。プロトンは推進剤にヒドラジン、酸化剤に四酸化二窒素を使用するロケットであり、チェロメイは主にICBMを設計してきた技術者である。常温保存可能なヒドラジンと四酸化二窒素の組み合わせはICBM用の液体プロペラントとして広く使われていたため、チェロメイはプロトンの推進剤として使い慣れた四酸化二窒素とヒドラジンを選択した。この亊は四酸化二窒素とヒドラジンにこだわるグルシコにとって好都合だった。

 グルシコはコロリョフが有人月飛行計画を統合しようとするのを妨害するだけにとどまらず、月着陸計画までもコロリョフから奪い去ろうとさえしていた。チェロメイは有人月着陸計画として直接着陸方式のLK−700計画を発案しており、グルシコはそれに使用するN1をも上回る超大型ブースターUR−700用に推力680tの四酸化二窒素・ヒドラジンのエンジン”RD−270”の開発を進めていた。グルシコはチェロメイのLK−700計画を積極的に支持し、月着陸はL3計画ではなく、LK−700計画によって行われるべきだと主張した。有人月飛行計画を統合するならそれは、コロリョフではなくチェロメイがやるべきだというのだ。

 グルシコは憎きコロリョフから月着陸計画を奪い去るべくチェロメイを焚き付け、各方面へのロビィ活動を精力的に行っていた。だが、1964年にフルシチョフが失脚するとチェロメイの政治力は低下し、コロリョフの努力が実を結び、有人月周回飛行計画はコロリョフのOKB−1が担当する事に決定した。これが実際に飛行したL1計画である。

 ようやく計画の統合を果たしたコロリョフだったが、すでに「ムーン・レース」は折り返し点までさしかかっていた。これまでの「余計な」争いに浪費した時間は取り返しのつかないもので、今にしてみればこの時点ですでに勝負の趨勢ははっきりしていたと言えるだろう。

 そしてその翌年、さらに取り返しのつかない「損失」が待っていたのである。

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1999.12.11公開
1999.12.20一部修正(フルシチョフの失脚した年、誤字)