N1を巡る「対立」

 N1ロケットの開発が開始された1960年代初頭、ソ連の宇宙開発は大きな転換期を迎えていました。それはコロリョフとグルシコというソ連の宇宙開発における最高の技術者の対立に端を発するものでした。この2人の対立はその後、ソ連の有人月着陸計画にずっとその暗い影を落とし続けることになります。


1 L3計画とN1

コロリョフが当初計画していた有人月着陸計画”L3”は地球軌道ランデブー方式と直接着陸方式を組み合わせたものであった。3機のN1によって地球軌道で宇宙船を組み立て、その宇宙船によって月へ直接着陸するのである。この計画通りであればN1には75tのペイロードをパーキング軌道に打ち上げる能力が必要であり、必要な推力は3,600tであった。コロリョフはこの大型ロケットをR7ロケットと同じ手法で実現しようと考えていた。すなわち、比較的小さなエンジンを多数束ね、大推力を得るのである。この方法では、ロケットの開発における最大の難所となりうるエンジンの大型化を避ける亊ができ、システムの冗長性を高めることができるという利点がある。だが一方、やり過ぎれば構造が複雑になり、多数のエンジンを制御するのが困難になり、部品点数が増えてかえって信頼性が低下するといった短所もあった。コロリョフはN1には推力約150tのエンジンを24基使用するつもりであった。

その後L3計画はアポロ計画との競争に勝つため、最も現実的な選択としてアポロ同様月軌道ランデブー方式に変更された。月軌道ランデブー方式を採用した場合の宇宙船の重量は95tに達するため、必要な推力は約4,500tとなった。コロリョフはこの推力の増加をエンジンを大きくすることではなく、数を増やすことで解決を図り、使用するエンジンは30基になった。第一段中央の6基はこの時に追加されたものである。


2 コロリョフの理想とグルシコの苦悩

コロリョフは尊敬するツィオルコフスキーの影響から、ロケットの推進剤として最も理想的な物は液体水素と液体酸素の組み合わせであると考えていた。液体水素と液体酸素の組み合わせの最大の特長は、他の推進剤に比べて圧倒的に比推力が大きいという事である。液体水素と液体酸素の組み合わせでの比推力は約450秒、液体酸素とケロシン、酸化窒素とヒドラジンの組み合わせの比推力はともに300秒前後、良くても330秒程度で、液体水素と液体酸素の組み合わせはその1.5倍近くであり、群を抜いて大きい。比推力が大きければ同じ重さのペイロードをより少ない推進剤で打ち上げることができ、逆に同じ量の推進剤でより重いペイロードを打ち上げることが可能になるのだ。欠点は液体水素は比重が極めて小さく、タンクが非常に大きくなってしまうという事(そのため大量の推進剤を消費する第1段には向かない)、極低温のため扱いが難しい事である。事実液体水素ロケットは当時のソ連ではまだ実用化されていなかった。

コロリョフはN1には、第1段に液酸・ケロシンエンジンを、第2段に液酸・液水エンジンを使用するつもりでいた。もっとも、液酸・液水エンジンの実用化はまだ先のことになると考え、初めのうちは上段にも液酸・ケロシンエンジンを使用する事にした。コロリョフはこれらのエンジンの開発をグルシコのOKB−456とクズネツォフのOKB−276に持ちかけた。

当時グルシコは液酸・ケロシンエンジンの開発に行き詰まりを感じていた。グルシコの設計したエンジンでもっともポピュラーなものはR7ロケットシリーズに使用されたRD−107・RD−108である。液酸・ケロシンを推進剤とするこのエンジンは、スプートニクの打ち上げに始まりウォストーク(ガガーリン)の打ち上げ、そして今日のソユースに至るまで、ソヴィエト・ロシヤの宇宙開発の栄光を支えてきたエンジンである。
このRD−107・RD−108の最大の特徴はその構造にある。エンジン1基につき燃焼室(ノズル)が4基あるのだ。R7ロケットはノズルが20基あるためにエンジンの数も20基のように見えるが、これら4つのノズルはターボポンプを共有しており、4基のノズル1組で1基のエンジンなのである。本来このエンジンは1基につき1基のノズルとなるはずであった。

燃焼室が4つに分割されたのは妥協の産物であった。液体酸素とケロシンの組み合わせによるエンジンは、振動と高い燃焼温度のため制御が難しく、エンジンの大型化に比例して制御はより困難になった。グルシコは燃焼室を4つに分割し、燃焼室1個当たりの大きさを小さくする事で解決を図ったのである。だがコロリョフはこの事をあまり気に入ってはいなかったようである。
グルシコはRD−107/108に続き、コロリョフの設計によるR9ロケット(ICBM)用にRD−111という液酸・ケロシンエンジンを開発したが、またしても燃焼温度と振動に悩まされた。

グルシコはこれらの経験から、コロリョフがN1用に求める推力150〜200tクラスの液酸・ケロシンエンジンの開発はさらなる困難を極めると考えていた。

グルシコは、コロリョフの要求する液酸・ケロシンエンジンの開発に苦戦していた頃、チェロメイ・ヤンゲリといった、コロリョフ以外のロケット・ICBM設計者にもロケットエンジンを供給し始めていた。液酸・ケロシンにこだわるコロリョフのロケットは液体酸素を使うため即時性に欠け、戦略ミサイルには向いていない。ここにチェロメイとヤンゲリの割り込む余地があった。チェロメイとヤンゲリは推進剤にNTO(4酸化2窒素)とUDMH(非対称ヂメチルヒドラジン)を使用したICBMを開発していた。NTOとUDMHは常温で液体であり、タンクを推進剤で満たしたままで長時間待機させておけるためICBMに適している。これは軍の要求を満たすものであり、彼らはコロリョフの独壇場であったロケット開発にその勢力を伸ばしつつあった。グルシコはチェロメイ・ヤンゲリにNTO/UDMHエンジンを供給していたのである。

グルシコにとって、NTO/UDMHのエンジンは液酸・ケロシンエンジンと比べ振動や燃焼温度に悩まされる事も無く、制御も容易であった。そのためグルシコは、N1ロケットには開発が難航する事が目に見えている液酸・ケロシンエンジンを使用するよりは、NTO/UDMHエンジンを使用するべきだとコロリョフに提案した。


3 コロリョフとグルシコの決別

コロリョフにとって、グルシコの提案は到底受け入れられるものではなかった。NTO/UDMHエンジンを採用する事は、理想である液酸・液水エンジンから後退してしまうことになる上、液酸・ケロシンエンジンを使用した場合と比べ打ち上げ能力が減少してしまう。コロリョフにとってこれらの事はNTO/UDMHエンジンの採用を拒否するに足る理由であったが、もう一つ、NTO/UDMHを採用したくない大きな理由があった。NTOとUDMHは共に強い毒性があるため、打ち上げの途中で事故が起これば周囲に毒物を撒き散らすことになる。ロケットの開発に打ち上げの失敗は常につきまとう問題であり、これまでがそうであったように失敗はあって当然である。N1クラスのロケットであればその搭載量は2,500t以上であり、あまりにも危険である。コロリョフはこの毒性を嫌ったのだ。コロリョフはグルシコの提案を断固として拒否し、液酸・ケロシンエンジンを開発するよう改めてグルシコに迫った。だがグルシコもまた、頑として首を縦には振らず、両者の主張は平行線をたどる一方であった。

グルシコがNTO/UDMHエンジンの使用をコロリョフに勧めたのはこれが初めてではなく、すでにR9ロケット(ICBM)の時にもNTO/UDMHエンジンを使うよう勧めていた。この時もコロリョフはグルシコの主張を却下しており、すでに互いに意地になっていたようである。また、グルシコはコロリョフをライバル視していたため、これまで通りコロリョフの要求に付き合っていたらいつまでたっても自分がコロリョフより下に見られてしまうと感じていたのかもしれない。

チェロメイとヤンゲリにNTO/UDMHのミサイルを開発するよう勧めたのはグルシコだという。この事からグルシコはロケットエンジンを通じてソ連のロケット開発を牛耳ろうとしていたのではないだろうか?グルシコにとってチェロメイとヤンゲリにエンジンを供給する事はコロリョフ一人が独占していたロケット開発の勢力図を塗り替え、自らの影響力を高める事になる。それはまた、フルシチョフら政府の思惑とも一致するところであった。ロケット開発の場においてコロリョフが一人独走しているのを政府は好ましく思わず、ライバルを育てて牽制しようと考えていたのである。
一方、グルシコが液酸・ケロシンエンジンの開発に難儀しているのに業を煮やしたコロリョフはグルシコに代わるエンジン開発者が必要であると感じ、クズネツォフに白羽の矢を立てた。クズネツォフはジェット・ターボプロップ等航空機エンジンを主に開発してきたが、コロリョフの協力によって液酸・ケロシンエンジンの開発に精力的に取り組んだ。この事からもコロリョフとグルシコの関係がますます悪化していることは明白であった。

コロリョフから見れば液酸・ケロシンエンジンの開発が困難だからと安易に推進剤の変更を求めるグルシコは、単に困難から逃げているだけだと映ったに違いない。コロリョフにとってグルシコはすでに軽蔑の対象ですらあり、その技術力をも疑っていたのではないだろうか。グルシコが他の設計者にエンジンを供給することもコロリョフにとってはグルシコの明らかな敵対行動に他ならなかった。

コロリョフには自身が1938年にスターリンの粛正にあい、でっち上げの罪状でNKVDに捕えられ、コルィマ鉱山の矯正(強制)労働施設送りになった原因は同じく当時逮捕されていたグルシコの告発によるものだとの確信があった。それがグルシコへの不信感の火種としてずっとくすぶり続けていたのだろう。この火種に一連のグルシコの行動が油を注ぐ事となった。コロリョフとグルシコの関係はもはや修復不可能なものとなってしまい、とても協力してプロジェクトに取り組めるような状態ではなくなってしまった。

フルシチョフは、この2人の確執を招く一因が自らにある事を自覚していたかは定かではないが、このソ連最高の頭脳である二人が争っているのはソ連の宇宙開発にとって大きな損失であると考え、彼等を夫婦そろって自らのダーチャに招き説得する等して何とか和解させようと考えた。だが、フルシチョフの願いもむなしく、二人の溝は深まるばかりであった。

結局グルシコはN1計画への参加を拒否してしまい、コロリョフはエンジンの開発をクズネツォフのOKB−276に一任することとなった。

その後、コロリョフとグルシコが共同してプロジェクトに取り組むことはなく、グルシコはチェロメイ・ヤンゲリの計画を積極的に支援し、逆にコロリョフの計画、即ちN1/L3計画を妨害することに注力することとなった。当時のソ連宇宙開発における最高の権威であるコロリョフとグルシコの対立は、有人月着陸計画にその最後まで悪影響を与え続けたのである。


参考文献
ロケットニュース(セルゲイ・コロリョフ:冨田信之氏著)
エアワールド1990年4月号
Encyclopedia Astronautica

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1999.11.6初版公開
2000.8.13第2版公開、