*カルテ18  01.8.29

       昨夜はカルテ整理で忙しく、久々に診療室奥の自室に泊まり込んだ。
      地下室は 朝日の妨害を受ける事なく安眠できて良い。
      今日は休診日だから、このままゆっくりしていようか‥‥‥

      ――――――

      アパートのダイニングに慣れた今となっては
      この部屋の机はかなり手狭に感じる。
      それでもなんとか 積み上げた書類を隅に追いやってスペースを確保すると、
      アンジェリークが食事を運んできた。

      「ここのキッチンで作るものだから、今日は簡単なメニューで許して下さいね。」
      冷蔵庫にもロクな材料を入れていなかったのだから、当然の事であるし、
      それ以前に、彼女の手料理だ。ゼフェルに何の文句があろうか。
      運ばれてきたのは蓋付きのカップ。
      開けると湯気が立ち登り、ぷるんと揺れる卵色。
      「なんか、ちょっとスが入っちゃったみたい‥‥
      うーん、まだまだ修行が足りませんね、私。」
      縁の方に出来た小泡をスプーンでつつきながら、アンジェリークはやや不満気だ。
      「いや‥‥‥ンな事‥‥‥ねぇ。」
      ――いつも美味しいゴハンをありがとう、カンシャしてます愛してます――
      とは口が裂けても言えないゼフェルには、これが精一杯だった。
      ふわっ、と。
      黄色い微笑みが広がったので、今の技には「有効」判定が出たけれども。

      「茶わんむしって、簡単なようでいて火加減調整するの難しいんですよねえ。」
      何か、こう、温度と時間をピタッと設定できるようなのがあれば‥‥‥
      ぐるりと視線を巡らせて、開いたドアの向こうの診療室の一角、消毒コーナーで止まる。
      「ゼフェル様、ねえねえ、いい事思い付いちゃった!オートクレーブ(高圧蒸気滅菌器)って
      温度90度で15分とかって設定も出来ますよね!」
      出来ない事はない。
      ないが、患者の口の中に入れる器具の類いを卵臭くするわけには‥‥

      「あっ、いけない。そろそろ茹で上がってる。」
      パタパタとオートクレーブ横のシュンメルブッシュ(煮沸消毒器)に向かって走るアンジェリーク。
      (おい、うちにシュンメルなんか置いてあったか?)
      ふんふんふ〜ん‥‥袋のまま茹でるだけぇ〜カンタン便利なハンバーグぅ〜
      一緒に茹でたとおぼしき つけあわせの野菜と共に、妙な鼻歌まじりで運ばれて来たハンバーグは、
      診療器具を置く金属トレイに乗って、御丁寧に手用メスとフォーク代わりの鉗子が添えてあった。
      もしもし、アンジェリークさん、オレに「これを」「これで」食えと?
      誰か嘘だと言ってくれ。じっとりと脂汗が滲むのを自覚しつつ祈るゼフェル、ピンチである。
      「今、コーヒー煎れますね!」
      るんたった。
      おい。
      なんでそこでアルコールランプやらビーカーやらが出て来るんだー!

      ―――――うぁぁあっ!―――――

      「あっ、ごめんなさい、起こしちゃいましたか?おはようございます!ゼフェル様。」

      うう‥‥‥夢か。

      「顔色悪いです‥‥大丈夫ですか?何か、恐い夢でも?」
      「ん‥‥いや、何でもねえ。それは?」
      アンジェリークの手にした角盆には、小さなカスタードプディングのカップがずらっと乗っていた。
      甘ったるい卵とカラメルの匂い。
      「小さいお客さん達が‥‥」
      「アンジェー!プリンまだ〜〜?」「プリンー!プリンー!」
      近所のガキどもか。

      適当に顔を洗ってから、はみがきコーナーに陣取っている一団の輪に片手で挨拶を投げる。
      最近は子供達もすっかり慣れて、もはやアンジェリークは彼等の一員の扱いである。
      茶色いクセっ毛を捕まえてひと睨み。
      「お姉さん。」
      「いてて、いいじゃんアンジェでー!」
      「許さん。アンジェリークおねーさん、だ。」
      「うう、わかったよー、ゼフェルのケチ、横暴。おねーさん、ボクにもプリンちょうだい。」
      当然だろ。と、ゼフェルは思う。アンジェって呼んでいいのはオレだけだ。
      子供相手に心の狭い男、ではある。
      そんな胸の内を知ってか知らずか、アンジェリークは微笑んでゼフェルの前にもカップを置いた。
      「はい。これは甘く無いですよ。」

      泡(ス、とか言ったか)ひとつない、
      綺麗な茶わんむし。
       

          カルテ19につづく  受診中は携帯電話の電源を切るかマナーモードに。鳴っても出られないのは考えれば分かりますよね。



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