痛みを払うかのように傷ついた指先をヒラヒラと振りながら、
アンジェリークが白衣のポケットを反対の手で探っていた。
すちゃーん!
取り出されたのは薄黄色の小さなチューブ入りの軟膏。
「昔から、しょっちゅう小さなケガしてたから、私の常備薬なんですよ、これ。」
オロ*インH軟膏を手に、得意げな微笑み。これで安心して怪我できますと言わんばかりに。
「おまえ、それ‥‥‥万能薬とか思ってんじゃねーか?」
「え?んー‥‥‥擦り傷切り傷、しもやけとか虫さされとか‥‥そうですね、
とりあえず塗っておけば安心かな、って。」
小さなアンジェリークの膝小僧に、母親が丸く擦り込む白い軟膏‥‥心暖まる情景、ではある。
「それの成分、知ってっか?」
想像の子供アンジェに頬を緩めながら、薬棚から1本の四角い瓶をつまみ上げ軽く振りかざしてみせる。
診療室でアンジェリークも使い慣れている消毒薬だ。
ヒビテングルコネート。アンジェリークの手中の軟膏と、成分は同じグルコン酸クロルヘキシジン。
「え?じゃあ、オロ*インって、消毒薬なんですか?ヒビテンと一緒?えーっ??」
「ついでに言うと、学校の保健室で綿花に染み込ませて置いてあるピンクの液な、
あれもヒビテン。」
「あ!あの、しば漬けの汁みたいな?」
――――しば漬けって‥‥‥
先日アンジェリークに出された茄子のピクルスが、そんな名前だったか。
いつもながら、彼女の思考はゼフェルの思いもよらない方向へと飛躍する。ラグビーボールのごとく。
「私、子供の頃に一度、クラスの保健委員やった事あるんですよ。当番になるとね、
朝保健室に行って、そのピンクの消毒のカット綿を作るの。へえー、これと一緒なんだ。
懐かしい‥‥‥。」
金属の蓋がついたガラスの瓶と、ピンク色したカット綿。白いカーテン、白いベッドリネン。
保健室の、脚付き鍵付きの収納棚。
あのガラス扉の向こうには、秘密のアイテムと癒しの魔法がきっと入っている。
「それで、その委員やってる時に‥‥」
くすくす笑い。突然、指先の傷ついた右の掌で右目を覆い、左指で空を示し始めるアンジェリーク。
右・左斜め下・上・下・左
「何だそれ?」
「視力表の、一番下の行、左から順に丸暗記しちゃったんです。ずっと忘れてたけど。
あ、でもね、検診の時は、ズルしないでちゃんと見えた通りに言いましたよ。」
今は、ちょっと近視だからもうズルも出来ませんけど――――
子供の頃の思い出話は、出会う前の彼女を教えてくれる。
胸にまたひとつ積み重なる愛しい気持ちと、その頃の彼女をも一人占めしたい叶わぬ夢へのもどかしさ。
「とりあえずしば漬けは置いといて、手出せ。」
ゼフェルは技工室から愛用の工具箱を持ち出して、瞬間接着剤を取り出した。
「え‥‥ま、まさか、それ、塗るんですか?ウソ、やだ、冗談ですよね?ね?」
恐れをなして後ずさるアンジェリークに、ちょっとムッとする。
「いーから、手ェ貸せ!‥‥‥オレが信じらんねえか?」
「う‥‥‥そんなこと‥‥ないです。」
逃げる右手を捕まえて、指先の傷にすばやく液を流した。
「あれ?すごくしみると思ったのに、なんともない‥‥わあ、水ばんそうこうみたい。」
一瞬で乾いて傷口を外部の細菌類からカバーしてしまう。瞬間接着剤の、裏技的使い方だ。
水ばんそうこうのように塗った瞬間にしみる事もないし、あれよりも剥がれにくくて重宝する。
(注:まれに体質により皮膚に合わない場合もあります)
今度は傷が塞がった嬉しさに掌をひらひらさせるアンジェリークの
その蝶々の羽ばたきを、体ごと引き寄せた。吐息を奪える距離まで。
「さっき逃げた罰。」
カウンターの上を転がっていた瞬間接着剤の黄色い筒が、向こうの方でコトリと落ちる音がした。
カルテ18につづく 別科を受診する場合、服用中の薬を知らせ重複や飲み合わせの禁忌を避けましょう。