*カルテ17  00.6.4

       痛みを払うかのように傷ついた指先をヒラヒラと振りながら、
      アンジェリークが白衣のポケットを反対の手で探っていた。

      すちゃーん!

      取り出されたのは薄黄色の小さなチューブ入りの軟膏。
      「昔から、しょっちゅう小さなケガしてたから、私の常備薬なんですよ、これ。」
      オロ*インH軟膏を手に、得意げな微笑み。これで安心して怪我できますと言わんばかりに。
      「おまえ、それ‥‥‥万能薬とか思ってんじゃねーか?」
      「え?んー‥‥‥擦り傷切り傷、しもやけとか虫さされとか‥‥そうですね、
      とりあえず塗っておけば安心かな、って。」
      小さなアンジェリークの膝小僧に、母親が丸く擦り込む白い軟膏‥‥心暖まる情景、ではある。

      「それの成分、知ってっか?」
      想像の子供アンジェに頬を緩めながら、薬棚から1本の四角い瓶をつまみ上げ軽く振りかざしてみせる。
      診療室でアンジェリークも使い慣れている消毒薬だ。
      ヒビテングルコネート。アンジェリークの手中の軟膏と、成分は同じグルコン酸クロルヘキシジン。
      「え?じゃあ、オロ*インって、消毒薬なんですか?ヒビテンと一緒?えーっ??」
      「ついでに言うと、学校の保健室で綿花に染み込ませて置いてあるピンクの液な、
      あれもヒビテン。」
      「あ!あの、しば漬けの汁みたいな?」
      ――――しば漬けって‥‥‥
      先日アンジェリークに出された茄子のピクルスが、そんな名前だったか。
      いつもながら、彼女の思考はゼフェルの思いもよらない方向へと飛躍する。ラグビーボールのごとく。
      「私、子供の頃に一度、クラスの保健委員やった事あるんですよ。当番になるとね、
      朝保健室に行って、そのピンクの消毒のカット綿を作るの。へえー、これと一緒なんだ。
      懐かしい‥‥‥。」
      金属の蓋がついたガラスの瓶と、ピンク色したカット綿。白いカーテン、白いベッドリネン。
      保健室の、脚付き鍵付きの収納棚。
      あのガラス扉の向こうには、秘密のアイテムと癒しの魔法がきっと入っている。
      「それで、その委員やってる時に‥‥」
      くすくす笑い。突然、指先の傷ついた右の掌で右目を覆い、左指で空を示し始めるアンジェリーク。
      右・左斜め下・上・下・左
      「何だそれ?」
      「視力表の、一番下の行、左から順に丸暗記しちゃったんです。ずっと忘れてたけど。
      あ、でもね、検診の時は、ズルしないでちゃんと見えた通りに言いましたよ。」
      今は、ちょっと近視だからもうズルも出来ませんけど――――

      子供の頃の思い出話は、出会う前の彼女を教えてくれる。
      胸にまたひとつ積み重なる愛しい気持ちと、その頃の彼女をも一人占めしたい叶わぬ夢へのもどかしさ。

      「とりあえずしば漬けは置いといて、手出せ。」
      ゼフェルは技工室から愛用の工具箱を持ち出して、瞬間接着剤を取り出した。
      「え‥‥ま、まさか、それ、塗るんですか?ウソ、やだ、冗談ですよね?ね?」
      恐れをなして後ずさるアンジェリークに、ちょっとムッとする。
      「いーから、手ェ貸せ!‥‥‥オレが信じらんねえか?」
      「う‥‥‥そんなこと‥‥ないです。」
      逃げる右手を捕まえて、指先の傷にすばやく液を流した。
      「あれ?すごくしみると思ったのに、なんともない‥‥わあ、水ばんそうこうみたい。」
      一瞬で乾いて傷口を外部の細菌類からカバーしてしまう。瞬間接着剤の、裏技的使い方だ。
      水ばんそうこうのように塗った瞬間にしみる事もないし、あれよりも剥がれにくくて重宝する。
      (注:まれに体質により皮膚に合わない場合もあります)
      今度は傷が塞がった嬉しさに掌をひらひらさせるアンジェリークの
      その蝶々の羽ばたきを、体ごと引き寄せた。吐息を奪える距離まで。

      「さっき逃げた罰。」

      カウンターの上を転がっていた瞬間接着剤の黄色い筒が、向こうの方でコトリと落ちる音がした。

          カルテ18につづく  別科を受診する場合、服用中の薬を知らせ重複や飲み合わせの禁忌を避けましょう。



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