*カルテ16  00.5.21

       「‥‥‥ん?んだよ、これ。妙に黄色いじゃねーか。」
      開封したばかりのシリンジ入り抗生物質軟膏(ペリオ*リン:サンスター)のロットNo.を確かめる。
      「ったく、同じロットで何でこんな色が違うんだよ。」
      絞り出してみた所、変質などの異常ではなさそうなので、冷蔵庫内の所定の位置に置いて
      薬剤の整頓を続けていると、受付に電話が入った。

      Trrr......Trrrrr......
      「はい、ゼフェル歯科でございます。‥‥ハイ。‥‥‥え?え〜っと‥‥」
      受話器を手に、困惑ぎみの瞳を投げかけてくるアンジェリークに、
      カウンターの外からのゼフェルの返球は、助け船としては笹船程度のもので。
      「‥‥‥んだよ、またどっかのセールスだろ?とっとと切っちまえ。」
      「あの〜〜〜、そ、そういったご用件でしたら、申し訳ありませんけれど当方では
      現在のところ‥‥ぁんっ!」
      見込みがないと分かるや否や、相手が言葉を尽くして丁重に接していようがお構い無しで
      憎らしげに通話を叩き切る輩に遭遇する事は珍しくない。相手も別に好き好んで
      歓迎されないであろうセールストークを日がな振り撒いているわけではないのだろうから
      面白くないのは分かるけれども、だからといって自分から他人の時間に踏み込んでおいて
      カーペットにドロを塗りたくって走り去るというのはプロの職業人の所業ではない。
      ともかく、またしてもアンジェリークの鼓膜はそんな被害に遭遇してしまった。
      電話に出たのがゼフェルなら、それは相手に振りかかっていたであろう厄災であったが。

      感謝祭ウィークのあとは、半月をあけただけで年越しと迎春のバケーションに突入する。
      各社年末締めの決算の都合もあり、商戦が殊更盛んになる時期だ。
      それでなくとも、個人開業医には大抵それなりの稼ぎがあり、従業員・家族の慰安の為の
      南の島ツアーのご案内やら、税金対策の不動産やら、先物取り引き、廃棄貴金属の回収業者まで
      多種多様なご挨拶とお伺いの数々が日々繰り返されているのだった。
      昨今は業者からと判明した時点で門前払いを食らう事を見計らい、さも院長の個人的な
      友人か何かのような名乗りを上げて、何とか取り継ぎを、と姑息な手段に訴えるケースも多い。
      こと当院に於いては一瞬でそれと分かる嘘なので、逆効果なのだが。

      カウンターの上に、先程届いたダイレクトメールの数々。一番上の葉書には、
      オレンジに染まった海を背にシルエットの男女と、添えられたコピー
      「一緒に保険、入ろう」「それって、プロポーズ?」
      ―――――ケッ!

      やがて現実の夕日が路地を染め抜き、程なく夕闇が訪れた。
      一日の診療が済み、アンジェリークは受付で会計の精算をしている。
      一人、技工室で印象に石膏を注ぎながら、ゼフェルはふと、何気なく昼間のDMを思い出した。
      ―――――生命保険‥‥‥そういや、入ってねえな。
      女は苦手と日々公言して憚らない彼は、それに輪をかけてセールスのオバチャンが苦手で
      ロクに話を聞いた事もなかった。一度喰らい付かれたら引き剥がす難儀さは目に見えていたし。

      たとえば、オレがもし死んだら‥‥‥‥‥

      生きて、一緒にいる間はいい。何があったって、守ってやる。‥‥そう決めた。
      保険金が、残された者の幸福?それは何か違うんじゃねーか。―――――
      愛情が金に換算できるものだとは思わない。
      しかし、今までは資産やら何やらに余りに無頓着だったので、一体今、口座にどの程度備蓄があるかも
      じつはよく分かっていない。補充する歯科材料、器材のパーツ購入や開発の費用があればそれで良かったので。

      嫌な想像のせいか、万全の空調に逆らって足元からじわっと寒気が這い上がって来る気がした。
      一つ身震いした拍子に、経済学の教授の苦虫面が蘇った。
      やたら偉そうに大上段から説教ばかりたれ流すいけすかない野郎だったが、
      めずらしく横道に逸れた講議は「特許の申請の方法」で、
      特に興味があった訳ではないのだが何故かそれだけが記憶に残っていた。
      他にも、古典の授業で使ったプリントの妙な短編であるとか、子供の頃に着ていたセーターの肩口の釦とか、
      フォークの柄の陶器に描かれた柄とか、記憶の断片というのは用不要に関わりがない。

      ―――――特許、なぁ‥‥‥
      ゼフェルがかつて自作した歯科用の器材、手用器具の数々は、
      申請すればそれなりの額の特許料が入るらしい。前に訪ねて来たメーカーの奴が言っていた。
      その時は、めんどくせー、で終りにしてしまったが。

      手に積もったシリコンポイントの削り屑を、ふっと吹き払う。学生の頃だったか、誰かが言っていた。
      常に石膏や切削金属の粉塵の中に身を置く歯科技工士は、肺をやられて短命なんだ、と。
      実証された訳ではないのだろうが。

      ‥‥‥要は死ななきゃいいんだろ。

      ブリッジを研摩していたリューターを止め、
      無雑作に白衣のポケットに突っ込んだままだったマスクを掛けた。と、その時。

      「痛っ‥‥」
      診療室の向こうの方で微かにアンジェリークの上げた声に、ブリッジを放り出して技工室を飛び出した。

      「どうした!」
      「あ‥‥、ゴミ、捨てようと思って。紙でちょっと切っちゃっただけなんです。」
      私って、ホント、ドジで‥‥‥
      照れ笑いのアンジェリークの指先に赤い一筋を刻んだ凶器は、床に舞い落ちていた。
      忌ま忌ましげに拾い上げると、夕日の男が、まだプロポーズの最中。

      ――――ゼッテー保険にゃ入らねえ!!!

      役所関係が年末休みに入る前に特許の申請に行く事が、今ゼフェルの胸の内で決定された。

          カルテ17につづく  飲み残しの頓服薬は薬袋に日付けを記入し冷蔵庫に保管しましょう。



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