エナン・ラ (2002年 金澤 健氏 )

 目標とした山は奥トルボにあるパンザン・コーラ右岸の支流、マイタ・コーラの奥にある一枚岩のスラブで三角形をした『フォラ・ヒョンゴン』と言う山であろう。その山頂には金の羊が安置されていて、地元のマイタ・ガオン(メ)の村人のみならず、テンキュー、シーメン、サルダン周辺の村人達(子供)も知っている名の通った山である。シーメンからコマへの峠でも、ポーターや子供に教えられて見えた。以前は山を一周する信仰上の風習があったが現在はすたれた。

(マイタ・コーラ出会のメンドゥーからマイタ・コーラ上流を望む)





岸壁を背に立つ、チョゾレ・ゴンパ


チョゾレ・ゴンパ内部




(マイタ・コーラを辿るとフォラヒョンゴンが見えてきた) (ポンゾウ・ラ付近からも見える)


 フォラ・ヒョンゴンからエナン・ラへは『真北』に向かう。南東に向えばマリム・ラの方へ、北西にも行けるので磁石が欲しい所である。慧海も『ただ磁石をたよりに、かねて聞いてある山の形を見ては、だんだん北へ、北へ進んで行った』と記している。南側が開けた沢なので慧海が目標とした山、フォラ・ヒョンゴンを見ながら北に向った。あたかも毘盧沙那(びるしゃな)大仏が虚空にわだかまっているような雪峰だと記された『ドーラギリー』も、天気が良ければ峠から望見出来る。

(泊まった所からエナン・ラを真北に見る。ここからエナン・ラまで1時間)


 エナン・ラからは慧海の記述通り、チベット側を『西北』に降りて行く。パンザン・コーラ右岸にある11個所のチベット側に抜ける国境峠で、峠から西北に降りて行くのはこの『エナン・ラしかない』。峠の西南にある岩山に登ると、チベット側へ『降りる方向』がわかる。そこが西蔵旅行記の『挿し絵』にそっくりである。

西蔵旅行記(上) 博文館 明治37年刊 『国境雪峰より西蔵内地を望む』の挿し絵
現在のエナン・ラ


峠からチベット側の『池は見えない』。チベット側の三つの池は上流から下流に『長池、丸池、瓢型池』と慧海の記述通り順番に並んでいて、それらの池の大きさは少し小さいが周囲2里、1里、半里のおおむね記述された通りの比率である。その下流にも大きなエンドモレーンの池があるが、遊牧民のテントに気をとられてか記載されていない。峠から3里程下ると、周囲2里程の大きな池があるのはここだけである。複数の馬方はチベットサイドの池すべてをエナン・ツォと呼んでいた。慧海はマナサロワル湖を池とも記している。

奥トルボ国境峠概念図


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記述の信憑性
 慧海は正確な日記を付けていて、その文章を割愛して西蔵旅行記を書いたように感じられる。マルバからこの峠までの20回近い記述で、その場所に実際行ってみても、また現在の地図と照らし合わせても、驚くほど正確に記している。このエナン・ラを通らず話だけを聞いて書いたにしては詳細で正確すぎる。前述したように、峠から西北に下っている事や三つ並んだ池の存在などに加え白岩窟の尊者『ゲロン・リンポチェ』の作ったセルシンゴンパはエナン・ラから馬で3日とシーメンの馬方から聞いているし、チベット側のゾンパでバッティをやっている親父からも実在すると聞いている。現在でも現地周辺で崇められているのは事実である。ゆえに慧海の記述は正確で、偽りが無いと理解している。よってネーユや白岩窟の記述も事実と推測される。

 ツァーランなどでチベットに抜ける間道を詮索した慧海は道の無い山の中を『三日路ほど』たどると北西原に抜けられると記している。ゴンパ・セー(シェーゴンパ)に立ち寄ったとして、サルダン→コマ→シーメン→マイタ・ガオン(メ)→エナン・ラのコースと仮定した場合、荷物持ちと別れ、越境するまでの4日間(実質3日と半日)で可能か、であるが同じ時節に、この逆コースを実際歩いた。推測ではあるが7月1日サルダンからコマ。2日コマからシーメンそして2時間でマイタ・ガオン(メ)のゴンパ。3日ゴンパから峠下。4日昼エナン・ラは『可能』とみる。このルートだとすれば『山はそれほど厳しくはなかった。突兀とした岩などは、まことに少なかったから、わりに楽だった』と記しているのも、うなずける。北側で曲がった袋小路になった日当たりの悪い、エナン・ラのチベット側に残雪があっても不思議ではない。またエナン・ラを越えるのは昔からシーメンの2家族だけで、他の家族はマリム・ラを越える。昔からほとんど、人が通らないない峠だと聞いている間道である。越境後、雪に足を取られた記述から人や動物が通った形跡が無いように読み取れるのも、こんな峠だからなのでしょう。これらの事柄からエナン・ラを慧海が越えた可能性が最も高いと思われます。

 慧海が約100年前にたった一人で外国人として初めてトルボに入域し、鎖国していたチベット内地へ日本人で初めて入った偉業を賞賛せずにはいられない。また、昔とほとんど変わらぬトルボの人々の生活と美しい花々にも感動した。
奥トルボの旅に誘っていただいた大阪山の会の大西保さん、沢山の資料とアドバイスを頂いた吉永定雄さんには、大変感謝しています。

慧海記述と問題点 マリユン・ラ説 クン・ラ説 エナン・ラ説
1 かねて聞いてある目標とした山 三角形の岩山 パチュンハム フォラ・ヒヨンゴン
2 目標とした山を見ながら ×
3 北へ、北へ、と進んで行った
4 峠から西北にチベット側を下る × ×
5 峠からチベット側の池は見えない × ×
6 チベット側には上流から長、丸、瓢型の池が並んで存在する × ×
7 峠から1里程の雪面と2里の石磧を下ると、周囲2里程の池がある × ×
8 峠からダウラギリが見える ×
9 「国境雪峰より西蔵内地を望む」の挿し絵に似ている 似ていない 記載なし そっくり
10 荷持ちと別れてから3日路を経て峠に到達 2日路
11 峠の通行量(人と動物) 行き来が多い 行き来が多い 二つの家族だけ
12 奇態だどうも、この辺にも人が住んで居るのか知らん、
遊牧民でも来て居るのか知らん
× ×
13 道のない所から出て来た × ×


1.『かねて聞いてある目標とした山』
 ツァーランで詮索したであろう目標とした山はその周辺で相当有名な山ではないかと思う。マリユン・ラ説ではパア―ル・チューの谷の奥地に聳立する、三角形をした端正な山容の岩山ではないかと記されているがこの地方はほとんどが岩山で見る方向により、三角形の端正な岩山が多い。非常に特異な山容ならば(例えば缶切り岩のようであれば)理解しますが、他に何かが有名な山でないと、聞きながらその山に向かうにも向えないのではと思う。

(サルダン〜ナムグン間より) (麓から見上げるフォラヒョンゴン)


2.『目標とした山を見ながら』
 進んで行く方向に見ながらなのか、左、右、背後に見ながらのかであるが、進んで行く方向にあるのなら相当高い山だろう。北(Three years in Tibetでは真北) に進んだと記されているので真南にその山があれば、さほど高度がなくても、峠まで見えていたはずである。パチュン・ハムだと、ナムグンからサルダンへの峠を越えてから後、クン・ラまでずっと見えない。

3.『北へ、北へ、と進んで行った』
 どの地点から『北へ』進んで行ったかと理解するかであるがマリユン・ラ説やエナン・ラ説はパンザン・コーラ右岸の支流を東に向い、奥の三俣にそれぞれ目標とした山が有り、そこから北へ行く。シェーゴンパ近くの何処かで桃源郷に行くふりをして荷持ちと別れたので、クン・ラ説ならば東(や西)に行くことがなく、忠実に北に進んで行く。

4.『峠から西北にチベット側を下る』
 河口慧海著 西蔵旅行記(明治37年博文館刊及び昭和16年山喜房佛書林刊)では峠から『西北』に下ったと記されている。Three years in Tibetでも『北西』 と有り、方角記述の誤植はないと思える。
「遥かなるチベット」根深誠著ではマリユン・ラからチベット側をどの方向に下っているか記されていないが、チベット側を『北東』に下っているので慧海記述と明らかに違う。クン・ラは『北北東』に降りている。『西北』に下るのはエナン・ラしかない。

エナン・ラ(1999年6月27日撮影))


5.『峠からチベット側の池は見えない』
 マリユン・ラとクン・ラからはチベット側の池は見える。エナン・ラから池は見えない。

6.『チベット側には上流から長、丸、瓢型の池が並んで存在する』
 エナン・ラからチベット側に下った池は上流から長、丸、瓢型の池3つが並んで現在もある。
マリユン・ラからは丸池とやや長い池(この池の方が大きい)が有り、3つ目の池は消滅し、湧き水だけになったとあるが100年前の慧海記述と違う。クン・ラからは手前の小さい池をはじめ大きな池も見えるが形、距離がまったくちがう。

7.『峠から1里程の雪面と2里程の石磧を下ると、周囲2里程の池がある』
 残雪があり難儀したと慧海は記述しています。マリユン・ラやクン・ラの往来の多い峠で人や動物のシュプールが無いのはおかしい。夏のトルボで降雪が有り積雪の事実が現在でもある。また越境した峠から3里程下った付近に周囲2里程の池があるのはエナン・ラしかない。ヘディンが言うように慧海は地理の専門家でないので、池の大きさなど誤差が大きいものもあるが、歩き旅が多かった当時の旅人の常として時計と磁石を見ながら1人で「歩いた距離」については、そう大きな誤差はないと考える。

8.『峠からダウラギリが見える』
 「北へ、北へ、と進む」ので、南側は開けた谷でマリユン・ラとエナン・ラからダウラギリは見える。クン・ラからは前山で見えない。

9.『「国境雪峰より西蔵内地を望む」の挿し絵に似ている』
 「遥かなるチベット」の巻末対談で江本嘉伸氏(読売新聞編集委員)が根深氏に(「チベット旅行記」の挿し絵を見せて)「こういう感じとは違うわけですか」の問いに対して『根深氏は違いますね。絵は別の人が描いているわけですね』の記述がある。エナン・ラは挿し絵にそっくりである。

10.『荷持ちと別れてから3日路を経て峠に到達』
 7月1日にゴンパ・セー(シェーゴンパ)近くのいずれかで荷持ちと別れて、7月4日の昼に峠に立てるかであるが、サルダン、コマ、シーメン、メ、エナン・ラのコースで3日と半日と仮定するならば、同じ時節に荷物が少なかったとはいえ、シーメンからエナン・ラまで1日と1時間。シーメンからサルダンまで逆コースであるが1日で計2日と1時間で歩いたので、不可能とは言えない。1956年のスネルグローヴはシーメンからサルダンまでコマでポーターチェンジに時間がかかりながらも1日で歩いているし、1958年の川喜田二郎隊の小方全弘氏らはシーメンからサルダンの上流ナムドゥまで1日のキャラバンで歩いている。
                                
11.『峠の通行量(人と動物)』
 エナン・ラを越えるのは昔からシーメンの2家族だけで、他はマリム(マリユン)・ラを越える。根深氏の本ではチベット僧達が亡命した峠はマリユン・ラの、西の峠と記されているし、最近(2000年7月12日〜8月3日)の記録でも、このマリユン・ラの往来の多さを記している。慧海が往来の多い峠を選んだとは思えない。クン・ラもスネルグローヴの記述にある通り、ナムグン地方の動物は寒い7〜8ヶ月間チベットサイドに預けていて、南の冬村カリブン付近に下る現在と違って往来が多かったと聞いている。1999年のエナン・ラで往来する人は全く見かけなかった。

12.『奇態だどうも、この辺にも人が住んで居るのか知らん、
遊牧民でも来て居るのか知らん』
 周到に調べたにもかかわらず、越境後のチベット側にテントが有り、「こんなはずではなかった」と驚いた感じを受ける。往来の多い峠からチベット側に下って行ったならばテントがあっても不思議とは思わないし、あっても、『奇態』と表現しないだろう。

13.『道のない所から出て来た』
 前述のデイビット・L・スネルグローヴ著「Himalayan Pilgrimage」(ヒマラヤ巡礼 吉永定雄訳白水社刊)で「パンザン」の項でも『彼らの生活のすべては、チベット抜きでは考えられないようである。冬の期間の放牧を、国境の北側の草原に頼っていることもその理由の一つである』とあり、昔も往来が多かったと思われれ、塩の輸送も今より盛んだった。往来の多い道を通ったとすれば、チベット側の老婆に「道のない所から出て来た」と怪しまれないかと、気遣いはしないだろう。

1999年カリガンダキから奥トルボを横断(エナン・ラからシェーゴンパまでをも踏査)し、ジュムラに出た。このエナン・ラ説だけ公にされたのが無かったので資料をいただいた。その要約である(UPに関して了解済み)。
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