ACT17

タイタニック・クロニクル(1)

とりあえず出来上がりました。
今後も、書籍や記録から、ありったけの情報を時系列でまとめていきます。

クロニクル色分け:タイタニック一般船員船客などタイタニック以外

 建造から出港まで 

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1850年 エドワード・ジョン・スミス、イギリス中西部スタッフォードシャー州ハンリーで誕生。
1863年 エドワード・ジョン・スミス、リバプールに出て船乗りとしての修行をはじめる。
1867年 J・ブルース・イズメイの父トーマスがホワイトスター・ライン社を手に入れ、すぐ
に汽船会社オーシャン・スチーム・ナビゲーションに再編する。
1871年 ホワイトスター・ライン社のアトランティック号、ハリファックスに向け航行中悪天候にあい座礁。船体は50度に傾き、救命ボートは飛散する。船はやがて二つに折れ船尾は沈んでいく。幸い陸地に近く200名が逃れ、残された船体から400名が助け出されるが、546名の命を奪う大惨事となった。
1887年 エドワード・ジョン・スミス、ホワイト・スター・ライン社で船長に昇格。
1893年 ホワイト・スター・ライン社の家畜運搬船ナローニック号が大西洋上で行方不明となる。
1899年 ホワイト・スター・ライン社のジャーマニック号沈没、その後リパリッグ号も沈没
1904年 エドワード・ジョン・スミス、ホワイト・スター・ライン社で首席船長に就任。
1907年 ロンドンのメイフェアでの夕食会でハーランド・アンド・ウルフ社の会長ピリー卿が「これまでのどんな船より大きくて豪華な船を3隻造ろう」と提案し、イズメイが同意する。
タイタニック号一等の客室係アニー・ロビンソンは、カナダのレイク・シャンプレーン号の客室係としても乗り込んでいたが、同号は氷山に衝突して沈没。どちらも命拾いしている。
キューナード汽船のモーリタニア号が進水する。
1909年 3月31日 ハーランド&ウルフ社の第401造船所にキールが設置され、タイタニック号の建造が始まる。
1911年 「カム・ジョセフィーヌ・イン・マイ・マシーン」この年の一大ヒットとなる。
5月 姉妹船オリンピック号、タイタニックに先んじて完成。
5月31日 タイタニック号の船体、10万人が見守る中、見事に進水。この時まだ煙突はなかった。
6月 姉妹船オリンピック号、ニューヨークに向けて処女航海の旅に出る。船長はE・J・スミス。
マンハッタン桟橋でタグボートを巻き込みそうになる。
7月 ホワイト・スター・ライン社とハーランド&ウルフ社によって、処女航海の最初の予定日が1912年3月20日に決まる。
9月20日 ホワイト・スター・ライン社の姉妹船「オリンピック号」が英国海軍の巡洋艦「ホーク」と衝突。この修理のため、人手と資材をとられて処女航海が延期される。この時の「オリンピック号」の船長はエドワード・J・スミス。
11月11日 ホワイト・スター・ライン社、ロンドンタイムスに処女航海を4月10日と発表。
1912年 1月 木製救命ボート16隻、折り畳み式救命ボート4隻が取り付けられる。
2月 オリンピック号、海中の障害物と接触してスクリューを落とす。オリンピック号がドックに入るため、タイタニック号はドックから追い出される。
3月25日 救命ボートのテストが行われる。
3月31日 ベルファストで商務局の役人達の前で試運転航海に合格。
4月1日 海上での試運転を予定していたが、強風の為延期する。
労働者のストライキも起きる。
第10石炭庫の右舷側にて火災発生、必死の消火活動もかなわず、沈没の1日前4月13日まで燃え続ける。
4月2日 海上での試運転を行う。1日で試験航海を終え、ベルファーストからサウザンプトン港へ向かう。
4月3日 真夜中過ぎにサウザンプトン港へ到着。
二等航海士ブレアー、タイタニック号を降りる。この際双眼鏡を自室にしまい込んでしまう。
4月6日 大多数の乗組員が召集される。大きな荷物の到着開始。最終的には合計559トン、11542個の荷物と石炭5892トンが積み込まれる。
4月7日 鉄道・海運王のジョージ・W・ヴァンダービルド夫妻乗船をキャンセルする。(タイタニック号への積み荷と召使いのフレデリック・ホイラーは海底に沈むことになる)
4月8日 生鮮食料品が積み込まれる。
ハーランド&ウルフ社のトーマス・アンドリュースが準備をチェックする。