ACT15

リアル・タイタニック

 

映画では語られなかった真実

 

ホワイトスター・ライン社の3隻建造計画
キューナード社に負けじと、巨大で豪華な客船が3隻計画される。ひとつは「オリンピック号」そして、「タイタニック号」その後には、「ジャイガンティック号」が控えていた。しかし、タイタニック号の沈没により「ブリタニック号」に改名されている。この名前からは格式の高さは感じられても、船の巨大さはイメージできない。ホワイトスター社はタイタニック号の事故を契機に神に挑むことをやめたようだ。このブリタニック号の運命もまた短く、1914年に進水式を迎えた2年後、第一次世界大戦で病院船として徴用されていたがドイツの魚雷攻撃をうけて撃沈させられている。

事故だらけのホワイトスター・ライン社
タイタニック以前から、事故・惨事・不正の宝庫だったホワイトスター・ライン社。以下にその事実を紹介します。
・1871年 アトランティック号、ハリファックスに向け航行中悪天候にあい座礁。船体は50度に傾き、救命ボートは飛散する。船はやがて二つに折れ船尾は沈んでいく。幸い陸地に近く200名が逃れるが、残された船体から400名が助け出されるが、546名の命を奪う大惨事となった。

・1893年 家畜運搬船ナローニック号が大西洋上で行方不明となる。

・1899年 ジャーマニック号ニューヨーク港で水面に張った氷の重みで沈没

・1906年 フロリダ号に衝突されるが、36時間沈まずに持ちこたえ、衝突時の死者だけで済んだ。

・1907年 スウェヴィック号イギリス沖で座礁

・1909年 リバプール号マサチューセッツ州沖で衝突沈没

重労働リベット打ち
当時は溶接という技術がなかった時代なので、鉄板と鉄板を重ね合わせてリベットで接続するという方法が採られていた。竜骨や骨組みは油圧式のものでリベット止めがなされていたが、船の外板は手作業でおこなわれていた。このリベット打ちは1チームが1日にどれだけ打てるかの出来高制で賃金が支払われていた。ちなみにそのチーム構成は以下の4人。
「ヒーターボーイ」・・・リベットをコークス炉で真っ赤になるまで焼く係。
「キャッチボーイ」・・・ヒーターボーイの投げた焼けたリベットを木の箱で受け取り、鋼板の穴に火ばさみで差し込む。
「ホルダーアップ」・・・リベットの頭にハンマーをあてがう係。
「バシャー」・・・・・・ホルダーアップとは鋼板を挟んだ反対側から打ち込んで穴を埋める係。

3つのスクリューとエンジン
タイタニック号には2つのレシプロエンジンで左右のスクリューをまわし、センタースクリューはひとつの低圧タービンで稼働させた。蒸気は二つのレシプロエンジンからの排気を利用して、各エンジンの第4シリンダーから放出され、センターシャフトを稼働させる低圧タービンへと送られる。
一方でキューナード社のルシタニア号とモーリタニア号はイギリス海軍の協力を受けて、最新式のタービンエンジンを使用。巡航速度で24ノットを出し、5年後に進水したオリンピック号、6年後のタイタニック号はスピードでは足下にも及ばなかった。
なお、タイタニックのタービンエンジンはキューナードのものほど最新式ではなかったが、設計も完璧で振動も少なく、効率もよかった。両側のレシプロエンジンは互いに反対方向にまわし振動を相殺している。しかし、センタータービンは逆転出来ないという欠点があった。ということはルシタニア号とモーリタニア号は後進用のタービンが備え付けられていたそうです。

タイタニック号の煙突4本のうち一番後ろはダミーだった
タイタニックの姿が優美なのはひとえに煙突のおかげです。でも一番後方のは飾りであって煙は少ししか噴きません。イラストでもくもく描かれているものもあるようですが間違いです。
ちなみにシェルブール停泊中のタイタニックから少し立ち上っている煙は厨房からのものらしいです。

地味な進水式
オリンピック号は3姉妹の最初の船と言うことでそれなりの祝賀をしたのだろうか?ブラスバンドの演奏、装飾用の旗を飾り、ハーランド&ウォルフ社とホワイトスター汽船のスピーチでオリンピック号の進水を祝った。
対する翌年のタイタニック号の進水式は地味なもので、鳴り物入りの宣伝は必要なく、船自体が宣伝の役割を果たしたようだ。ハーランド&ウォルフ社は洗礼式(シャンペンやワイン、グレープジュース、または海水の入ったボトルを船首で割る儀式)を好まなかった。映画「SOS!タイタニック(原題名:忘れえぬ夜)」の冒頭はシャンペンによる洗礼式で進水するタイタニックが描かれているが事実ではないようだ。

炭坑ストライキがタイタニックを沈めさせた?
炭坑労働者の労働条件の悪さ、過酷さ、賃金の低さによって大規模な炭坑ストライキが発生。この時代、特にイギリス経済は石炭に頼っており、そのなかでも海運業界が一番影響を受けた。ストライキは4月3日に終結したが、石炭不足が緩和されるまで2週間がかかった。
しかし、ホワイトスター汽船はタイタニックの処女航海を最優先にし、他のホワイトスター汽船のオセアニック号とアドリアティック号は運航をキャンセルし、このうちタイタニックに乗り込むことになった乗客も多い。
このような事が原因で石炭の積み込みは4月10日の午前中、まさにギリギリに完了。本来発火しやすい石炭を湿らせて積み込むのだが、その余裕がなかった。結果、第6ボイラー室の右舷燃料庫からぼやが出てしまい、航海中ずっとくすぶり続けていた。この石炭火災がタイタニックの外壁や隔壁を弱くしたという説もあるくらいなので、炭坑ストライキが無ければタイタニックは沈まずに済んだかも知れない。また、タイタニックに乗り換えざるを得なかった人は不運だったとしか言いようがない。

出港時ニアミスを起こしていた
サウザンプトン港で貨物船ニューヨーク号と1.2mの差で衝突を避ける。このおかげで出発が1時間遅れて大クレームになったらしいが、衝突していればあの惨事は免れたかも。

カメラを意識するスミス船長
サウザンプトン港の波止場を離れ、サザンプトン湾を半速で進むタイタニック。ソレントの錨地ではアマチュアの海洋写真家フランク・ベケンが小さな無甲板船でタイタニックが近づくのを待っていた。スミス船長はこの青年に気付くとタイタニックの汽笛を4回鳴らして彼に合図を送った。実際スミス船長はこのベケンにはソレントの錨地で会っており、写真の腕前も知っていた。汽笛での合図などスミス船長らしいが、タイタニックの最高の写真を撮るべく待っていたベケンにとっては生涯忘れられぬ出来事となった。

威信を懸けたスピード競争
イズメイがスミス船長を脅したように、スピードを上げることはタイタニック号の使命であった。
まず、予定通りにニューヨークに着くこと。遅れる船という汚名は着せられない。
また、同ホワイト・スター・ライン社のオリンピック号のうち立てた22.75ノットという記録を破ることも、当たり前の使命であり、氷山に衝突した日4/14の昼間には22.5ノットまで出ていて、翌日には記録更新は間違いなかったと言われる。(イルカのシーンでは21ノットだとマードックさんが船長に報告してましたね。)
大西洋横断の最高記録をつくった船に贈られる「ブルー・リボン賞」はモーリタニア号へ。なんと29ノットも出ていたので、タイタニックは沈まなくても記録は更新できなかった。ただし、姉妹船オリンピック号に勝ることが使命だったようです。

消えた双眼鏡
見張り番のフリートとリーが「氷の匂いがわかる」といった会話をしていたが、肝心の双眼鏡は途中サウザンプトンで下船した2等航海士デビット・ブレアーが船室にしまったらしい。そのため見張りは目視で行われていた。双眼鏡はニューヨークで補充するつもりでいたらしい。しかし、目視の方がむしろ見やすかったかもしれないので、双眼鏡の有無が沈没につながったかどうかは断定できない。

氷山との衝突によって生じたのはわずかな裂け目だった
キールの上4.5mに90mに渡る大きな穴が開いたためと、沈没後の海難審判委員会で証言され信じられてきた。
実際にはナディア号に搭載された潜水艇ノーティル号が、泥に沈み込んだ船首下部を調べ上げ、船体鋼板の歪みとわずかな裂け目を発見。全てを合わせても人の体の表面積程度(1平方メートル)しか裂け目が開いていなかった。
穴が開いたわけではなく、鋼板が歪みつなぎ目のリベットを瞬時に外していったための裂け目である。

低温に弱い船底の素材
零度以下の海水は、タイタニックに使われていた船底の鉄の強度を弱めた。
タイタニックの船体鋼板は精錬技術が低く、品質が悪かった。硫化マンガンを含んでおり低温で極度に強度が低下する材質だった。ただ、決してタイタニックの建造費用をけちったわけではなく、当時の技術的問題だったらしいです。

もしも・・・だったら
タイタニック号の沈没ははさに不運の固まり、「神様に沈められた」といっても過言ではないほど、あらゆる運から見放されていた。
”もしも・・・だったら、沈没はなかった、もしくは最小限の犠牲者ですんだ”を列挙します。
1)カリフォルニアン号のギブソンからの無線による氷山の警告への対応で「うるさい!今レース岬と交信中だ、邪魔をするな」と一方的に無線を切られた。救難信号に気付いた時点に無線で確認をとったであろうが、この2時間前に邪険にされたことが引っかかって、無線をする事自体しつこく思われるのが嫌だったのであろう。もしも確認の無線を入れられればカリフォルニアン号は救助に迎えたであろう。
2)もし防水隔壁があと1デッキ分高かったら、次の船室に海水が溢れ出ることはなかったであろうか?
3)もし双眼鏡がブレアー航海士の自室にしまわれずに見張りに渡されていればどうだったであろうか?こればかりは双眼鏡があったら衝突はなかったとは言い切れない。むしろ肉眼の方が捉えやすいとも思えるからだ。
4)もしもこの夜月が出ていたら、もっと早くに氷山は発見出来ただろう。
5)もしも少しでも波が立っていたら”光のまわりのほお髭”と呼ばれるさざ波を確認できただろう。
6)もしも回避が数秒遅れて正面衝突していたならば、第一、第二隔壁までの浸水程度で済み、アメリカでの査問会のときにはニューヨーク港に停泊していただろう。ただし、衝突の衝撃による死者は免れなかっただろうが。
7)もしも回避が数秒早ければ、氷山はかわせたであろう。
8)もしも、予定の搭載救命ボート数がイズメイに却下されなければ最初の予定の64隻を積んで全員が助かったであろう。
9)当初タイタニックが沈没するという運命を知っていたのは船長、アンドリュース、イズメイだけだった。もしももっと早くにこの事実を航海士他に知らせていたならば、最初に降ろされた救命ボートも満杯になっていただろう。
10)もしも逆進をかけなければ、旋回はよりスムーズにいったかもしれない。
11)カリフォルニアン号の無線は23:30に切られている。最初にタイタニックからCQDが発信されたのは0:10なので、あと40分スイッチを切らないでいてくれたら、無線を傍受出来たであろう。

スミス船長のとった行動
衝突から25分後、船長は船員に対して乗客の避難活動を行うよう指示を出す。沈没を知ったにも関わらずスミス船長は無線室に行く前に、なんと!ジョン・ジェイコブ・アスター他1等客に挨拶周りをしている。
まあこれは被害状況が把握される前のことになりますが。

タイタニック号の乗員乗客を救えた船が3隻いた!
沈みゆくタイタニック号上の人々は近くに見える明かりや船影に救助を期待していた。その明かりの正体は?

カリフォルニアン号タイタニックから北に16〜37kmという、双方の明かりが確認できる浮氷原の入り口で、エンジンを停止させ停泊していた。しかし、なぜ救助にこられなかったのか。
1.タイタニック号が通り過ぎていく際に、カリフォルニアン号の乗員は明かりで、「随分大きな船が通過するんだな」と確認している。その直後、タイタニック号は氷山を避けるために向きを変える。カリフォルニアン号からは真後ろが見える死角の状態なので、夜間なので照明を落とし、とうに去っていったと勘違いする。
2.カリフォルニアン号は貨物船であり無線技師は一人しか乗り込んでいない。そして無線機械は電源を元から切られていた。
3.カリフォルニアン号の乗員がタイタニックからの信号灯が上がるのを確認している者がいた。しかしロード船長はそれを無視した。

マウント・テンプル号カリフォルニアン号よりさらに近かったと言われるのがマウント・テンプル号。その距離19〜26km。タイタニック号の2度にわたる爆発音も確認しておきながら、ムーア船長は氷を恐れたのか、タイタニック号に気付かれないように照明を消して停船してしまった。そう!まさに見殺しであった。

謎の帆船orスクーナー船事故から14年後、ノルウェー人のヘンドリックス・ネイスが死の直前に証言した内容はこうである。彼は1912年当時、木製の帆船サムソン号の一等航海士だったという。このサムソン号、アザラシの密猟をしていたところ、近くの大型客船から信号灯が上がるのを確認した。しかしそれが意味するところがわからず去っていってしまう。そして、後のニュースで沈没の事実を知ったと...。

鍵付き扉の本当の理由
3等船客とその他の乗船客を隔てた最大の理由が、3等船客の伝染性の強い病気からの感染の予防。特に失明の危険すらあるトラコーマの症状を徹底して調べ上げられた。映画では3等客の乗船時、髭や髪の毛のシラミ探しを検疫官がおこなっていたが、実際はまぶたをひっくり返す検査が中心だった。

後進でカリフォルニアン号に近づけ!
事故後海事のシロウトが、タイタニックから見えた未知の船(カリフォルニアン号)に向かって船を進めたらどうだっただろうかという提案をした。しかし、ルシタニア号はドイツの魚雷を受けた後18ノットで前進したが、ますます被害を早め20分で沈没してしまったという。前進の勢いで舳先が沈没していってしまったわけだ。
これを逆手にとって後進をかけたらどうだったであろうか?少なくとも裂けた船体傷口への海水の流入を促進することにはならないはず。わずか10数海里しか離れていなかったカリフォルニアン号への距離を半分にでも詰められれば、カリフォルニアン号の3等航海士グローブスや2等航海士のストーンが明らかに沈没だと確認できたのではないだろうか?(こう考えたのは私だけだろうか?)
ただし、これは後に事実関係を知っていれば、出来た行動であって、もしも微速でも進んでいるなら、救命ボートを海面に降ろすことは不可能だったわけなので、乗員・乗客が全滅した恐れもありますね。

救命ボートの数
当初は64隻の搭載予定が、デッキが見苦しくなるという理由で(これは映画の中でも出てきましたね)32隻、さらには20隻に減ってしまった

楽団が最後に奏でた曲
長年、タイタニック号の楽士団が最後に演奏した曲は「秋 Autumn」か「秋の夢 Songe d'Autumn」であると言われてきたが、これはたった一人ハロルド・ブライトによるものだ。その上、どちらも1912年用のホワイトスター汽船の曲集には見あたらないので、大変疑わしい。
「主よ御元に近づかん」は楽団長ウイリアム・ハートリーのお気に入り曲としても知られており、数年前まだモーリタニア号に乗っていた頃に「もしも沈没する船のデッキにいたらどうするか」という質問に対し、「船の楽団員を集めて、『主よ御元に近づかん』か『すぎにし昔も、きたる代々も』を演奏する。」といったという。

タイタニック号は3つに分断
映画では持ち上がる後尾の重量に耐えきれず、真ん中ほどで2つに折れたが、実際には3つに分かれている。
船首部分、中央部分(ここは18m程度の長さ)、そして後尾部分。海底では船首と部分と後尾部分は600mも離れて海底に眠っている。

裂けたのは映画通り海面上の位置
船体が裂けるとき、大きな力が船体中央に集まる。裂けた場所は2基のエンジン間の真ん中で起きており、そのうち一基は粉々になってしまう。周囲のワイヤーやパイプはぐしゃぐしゃになる。このあたりの壊れかたに規則性はなく、船首側に歪んでいるところもあれば船尾側に歪んでいるところもあるという。
生存者の多くは、この時の鋼鉄の裂ける音を聞いている。

衝撃で多くの人が死亡
船体が2つに割れて、船体後部が海にたたきつけられるシーンで、ジャックとローズはなんとか手摺りに掴まっていましたが、本当はもっと衝撃が強かったらしく、あの瞬間に多数の人が亡くなっているそうです。

定員未満の救命ボート
64名が乗れる救命ボート、なぜ半分にも満たない乗員で済ませたのか?
ワイヤーやクレーンがその重量に耐えられるかどうか不安であり、もし耐えられなければ14〜15mの高さから冷たい海に乗客を落下させるかも知れないという、船員の認識不足があった。
また、タイタニックが沈没するという情報が船員に確実に伝わっていたわけではない。仮に定員で乗せていれば500名がさらに助かった事になる。

タイタニック号が裂けたという証言が消えた
映画「タイタニック」では沈没前の部分が裂けました。この時の生存者の多くがこの事実を証言しました。でもライトラー2等航海士ひとりが「断じて裂けなかった」と証言したため、1985年の発見まで艦首から斜めに海中に滑り込んでいったとされていました。

カルパチア号のキューナード社
タイタニック号、オリンピック号を共に建造したホワイト・スター・ライン社のライバル会社になる。モーリタニア号、キャロニア号、船名を「ia」で終わらせている。クイーン・エリザベス二世号はこのキューナード社の所有。
ホワイト・スター・汽船社はキューナード社に対抗して「ic」で終わらせる船名にしている。他にもバルティック号、オーシャニック号などがある。
会社の違いは天と地との差がある。
まず、会社のモットーはタイタニック号はホワイト・スター・ライン社が「豪華さ」に対し、キューナード社は「安全性」に重点を置く。
ホワイト・スター・ライン社はタイタニックの沈没時間を持って、乗員の給与支払いを止めているのに対して、キューナード社はタイタニックの乗員・乗客の救助費用や損害をホワイト・スター・ライン社から受け取っていない。それどころか最終的には経営の悪化したホワイト・スター・ライン社を損を覚悟で吸収している。

カルパチア号ロストロン船長の判断
705名の遭難者を乗せたカルパチア号でしたが、ホワイト・スター・ライン社のオリンピック号から「なぜタイタニック号の遭難者をオリンピック号に移さないのか」と連絡が入る。しかし、カルパチア号のロストロン船長は乗客を移す際に今一度海上で乗り換えさせねばならないこと、そして忌まわしい「タイタニック号」そっくりの姉妹船「オリンピック号」に乗せねばならないことを考えて拒否をしました。

沈没と同時に止められた給料
タイタニックの沈没の瞬間にタイタニックの乗員は、ホワイトスターライン社から給料をストップさせられている。「それでは船員達が気の毒ではないか!」と思いませんか? 沈没で損害を受けた船会社が、船員分の給料をケチったとお思いでしょうか?
実はこれ、航海士も船員も当然乗客の安全を守る義務を持っているわけですが、乗員である前に一個の人間であるとして、いざというときは自分自身の命を守るために職を解いているわけです。

コズモ卿と夫人の軽率な行動
コズモ・ゴードン卿は1号艇で救出された。この1号艇の船員達が自分たちの財産を無くしたことを聞くと、「よろしい、君たちに5ポンドずつ差し上げよう」と言いだし、そして約束を守った。しかし、のちに同じ1号艇に乗る船員が「溺れる者を救いに行こう」という提案をしているが、それをコズモ・ゴードン卿と夫人が払いのけている事実が明らかになると、この5ポンドが買収工作にとられるようになってくる。(これが買収工作だったのかは定かではない)
また、ニューヨーク到着後に同じ救命ボートに乗っていた乗客や乗員と記念撮影をしたが、ご丁寧にも救命帯を着用して、笑顔で写真を撮ったりするなど、全く持って軽率な行動をとっている。

衝突した氷山???
「ダニエル・アレン・バトラー著 不沈 実業之日本社」では写真入りで”これはほぼタイタニックが間違いなく衝突した氷山だ。プリンス・アデルバート号が4月15日の朝、沈没地点から南に数キロの海上で発見し、首席客室係が撮影した。そしてその氷山の基部には赤い塗料が付着していた。”とあり、本のカバーには堂々と赤い塗料の付着した氷山が描かれている。
片や「平川陽一著作 タイタニック伝説 廣済堂文庫」では”話題になろうとでっち上げ写真もいくつか出回った。衝突は海中で起こったのだから、氷山の海面辺りに赤い塗料が付着しているのはおかしい”と否定をしている。

●タイタニックの沈没現場の検証
沈没から海底着床に至るまで、以下のような経緯をたどったらしい。
先に沈んだ船首は、すでに内部は海水で満たされており安定していた。頭を下に向け、やや傾きながら海底の泥の起伏に突っ込む。
その時の衝撃は左舷中程に集中し損傷を及ぼすものの、かなり原型を留めている。
後から沈んだ船尾側には内部が空の部分が多く、沈む最中に水圧がかかり内部で炸裂する。やがて固い泥に衝突して海底でバラバラになる。
船首と船尾の中央には18mの中央部分と、遺品が沢山散らばっている。
沈没現場の地図作りが進んでいるが、広さ26平方kmに全てが散らばっている。

海底のタイタニックも不運だった
長年の間、海洋学者たちによるとタイタニックの沈ん深海は凍結温度の1〜2度ほど上なだけの低温で、タイタニック自体ほぼ凍結状態で、木で出来た部分や織物調度は沈没時のままに保存されていると思われていた。しかしロバート・バラード博士は1985年にタイタニックを発見し、翌1986年に再度潜ったときに、船体外部や内部をつぶさに調べてその状態に驚いた。この地点の海底は、深度の割に酸素と塩分濃度、そして水温が高く、普通は棲息していない木材穿孔虫によって甲板などの木材部分は食べ尽くされ、船体全体が錆つららに覆われていた。他の場所に沈没したなら、今なお完全な姿で沈んでいたかも知れない。

タイタニックはやがて崩壊し、消え去る
沈没から80年以上たった今、船首部分の20%は微生物に分解されてしまっている。やがては崩壊して完全に分解されていくといわれている。

タイタニック号の遺品引き揚げ
沈没現場から引き揚げられた遺品は5000点にも及ぶ。悲劇のドラマがつまったその遺品達は保存処理が施され、世界中で開かれる遺品展で公開されている。

さらに詳しいタイタニックに関してのタイムテーブルは
act10 Titanic Chronicleで紹介しています。