天空の誓い

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 ぎい、という少しだけ木の軋む音がしたが、ほぼ抵抗なくその扉は開いた。封じ込められていた冷気が、少しでも温度の高い方へ逃げようとするかのように、扉を開けた少女の脇をすり抜け、廊下へと広がっていく。その、僅かな風に、少女はぶる、と体を震わせた。その後、意を決したようにその部屋へと入っていく。

 そこは、調度品の多い部屋だった。だが、やはりトラキア王国ゆえか、どこか質素な――だが華美であるよりよほど少女には好ましいと思えた――、そしてどこか荒々しさを感じる。
 窓は固く閉ざされているが、部屋にある暖炉には、もう何日も火を入れられた様子はない。窓の外から見える光景は、今も天から舞い降りる白き妖精達によって、白く染まっている。もう何日も降り続けているため、外の景色はほぼ白一色だった。少女の住んでいたターラでも、これほどの雪はほとんどなかったが、どうやらこれはトラキアでも極めて珍しいことらしい。ただ、そのおかげで少女の属する軍――解放軍は、この城で休息を取ることが出来ることになったのだ。 はぁ、と吐く息は、白い。 何日も使われていない部屋に暖をとるほど、さすがに余裕はない。
 この城は、特に王家の人間の居住区には部屋の隅に湯を通す金属製の管と溝があり、これが冬の間の暖を取る設備なのだが、この部屋のその設備は、停止させてしまっている。本当はこの部屋も解放軍の仕官が誰か使おうとしたのだが、これに頑なに反対したものがいたからだ。その、誰も使うことを許されなかった部屋に、今、少女はいる。

「ここにいたのか、リノアン」
 突然名を呼ばれた少女は、びっくりして振り返った。そこに立っているのは、長髪の青年騎士。
「ディーン」
 少女――リノアンは、少しだけ嬉しそうにその青年の名を呼んだ。ディーンと呼ばれた騎士は、ゆっくりと部屋に入ってくる。
「全部当時のまま、か」
「ええ。貴方が望んだように。アリオーン王子が、いつ戻られてもいいように」
 そうして、リノアンは、寝台の近くに置かれている肖像画を見遣った。そこには、ディーンに少しだけ似た髪の色の、長髪の貴公子が描かれている。
 トラキア王国第一王子アリオーン。十二神器の一つ天槍グングニルの継承者であり、このトラキア王国の正当な後継者。いや、実際には既に王であるトラバントが死去し、正式に天槍を継承している以上、トラキア王、といっても差し支えない。そして彼こそが、この部屋の本来の主でもある。

「不思議ね……」
 リノアンは、部屋に置いてある調度一つ一つを、愛しむように見つめる。
「何がだ?」
「私、いつかこの部屋に来ることになっていた。アリオーン様の妻として、あの方と共に、このトラキア王国を支えるはずだった」
 ターラの公女であったリノアンは、アリオーンの許婚だった。しかしそれは、ターラの陥落後、リノアンが解放軍に属してしまい、かなりうやむやになっていた。そして、先のトラキアでの最終決戦の前に、リノアンは正式にアリオーンから婚約の破棄を言い渡されている。
「でも、今私はここに貴方といる。アリオーン様ではなくて。こんなこと、想像もしていなかった」
 許婚を守るために、アリオーンが派遣した騎士。しかしリノアンは、その騎士を愛してしまった。しかしそれは、決して許されないはずの想い。そのはずだったのに。
「人生、どこで何があるか、分からないものね、ディーン」
「ああ……」
 アリオーンから正式に婚約破棄を言い渡されたリノアンだが、それでもまだ、ターラの公主としての立場は残る。一方のディーンは、壊滅したとはいえトラキアの竜騎士だ。その間には、まだ途方もない隔たりがあることは、お互いに分かっていた。

 先の戦いにおいて、アリオーン王子以下、最終決戦に参加した竜騎士は、突然出現した謎の少年――あとであれが、グランベルの魔皇子ユリウスだと聞いたが――によって連れ去られ、以後の行方はわかっていない。だが、全員がいなくなったわけでも、また、竜騎士が一人残らずいなくなったわけでもない。数は少ないとはいえ、まだ二十騎ほどの竜騎士は、王女アルテナに従って解放軍に協力することを誓約している。無論、ディーンもその一人である。
 ただ、二十騎もいれば、当然アルテナ以外に束ねるものが必要、ということで、その役目はディーンに回ってきた。
 元々ディーンは、ターラに派遣される前は竜騎士団の副長補佐を努めていた経歴を持っていたのだから、これは当然といえる。

 一方のリノアンは、ターラ奪還後、本当はターラに留まるはずだったのだが、ディーンに無理に頼んでトラキアに来てしまった。これは、アリオーンと解放軍の戦いを止めたい一心から来たのだが、結局無駄に終わっている。挙句にその後、大雪が降り始め、ディーンも伝令役としてあちこち飛び回ったため、リノアンをターラに送り返す時間がなかった。ただ、その間にリノアンはリーフ王子、セリス皇子に頼んで、この戦いに最後まで同行することにしたらしい。

「いつか再び、この部屋に本当の主が戻られる日、来るわよね?」
「もちろんだ。俺はその為に、今もここにいるのだから」
 アリオーン王子は、再び解放軍の前に現れる。それはもう、確信に近い。その時、アリオーン王子を説得できるのは、恐らくアルテナ王女かリノアンだけだろう。そして、トラキアに忠誠を誓っているディーンとしては、なんとしてもこれ以上の無駄な争いは回避したいのだ。
「この部屋の主が戻られた時……私は……」
 最後の声は、かすれそうなほど小さかった。『私は、どこにいるのだろう』という問い。それは恐すぎて、今のリノアンには発することが出来なかったのだ。
 アリオーンが帰ってくるとしたら、その時は恐らく戦争は終わっている。となれば、ディーンは当然トラキアに戻るだろうし、リノアンはターラの復興に尽力しなければならない。ターラとトラキアは、竜騎士であればさほど遠くない、と言っても、頻繁にくることの出来る距離ではない。それに、ターラの今後を考えるなら、リノアンの夫は、多分に政治的な配慮をした相手が選ばれることになるだろう。そこに、一介の竜騎士であるディーン名が挙がるはずはない。

「リノアン?」
「ううん。なんでもないわ。それより、この部屋一度、掃除してもらった方が良いですね。アリオーン王子が帰ってきたとき、埃の山に戻られるのは、あまりにもお可哀相ですし。ちょっと頼んできます」
 リノアンは、努めて明るく言うと、まるでその場から、ディーンから逃げるように立ち去っていった。そうしなければ、彼に抱きついて、泣いてしまいそうだったからである。




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