天空の誓い

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 真っ暗だと思っていた部屋の中が、むしろ昼間より明るいのではないか、という錯覚を覚えて、リノアンはその正体が、窓から差し込む月明かりと、窓から見える月明かりを反射している雪面であることに気がついた。
 頼んだとおり掃除をしてくれたのだろう。昼間、埃を被っていたテーブルや椅子、床などはきれいに掃除されていた。
 恐る恐る進んで、露台へと通じる大きなガラス戸に触れる。一瞬、その木枠のあまりの冷たさに、一瞬手を引いてしまう。そしてゆっくりと押し開けると、ぎぎ、とまるで動かされることに抗議の声を上げるかのような音を立て、それでもゆっくりと開いていった。同時に、その開いた隙間から冷たい、底冷えする夜の風がリノアンを包み込む。

「寒いっ」
 露台の上は、当然だが雪が積もっていた。ただ、夜の冷気でほとんど固まってしまっていて、リノアンの軽い体では、雪に沈み込むことはない。
 リノアンはその上を、恐る恐る柵の近くへと歩み寄って行く。そこから見えた景色は、絶景だった。
 恐らく、雪が積もっていなくても、さぞ素晴らしい景色だろう。
 高く連なる鋭鋒、その下にある民家。その民家の明りが、まるで地上の星に、赤く光っている。そしてさらに、月明かりを反射(うつ)す、銀色の大地。まるで、宝石細工のように輝くその美しさに、リノアンは見惚れていた。
 そして今度は、天を見上げる。
 今日の夕方まで降り続けていた雪が、唐突に止んだのは陽がもう沈みかけた頃だった。しかしその後、トラキア上空を覆っていた雲が急速に晴れ、雲ひとつない美しい星空を見せていたのである。リノアンは、夜中にふと起きだして、その外の美しさに気付き、窓から見ていたのだが、露台があるこの部屋のことを思い出して、この部屋に来たのである。

「綺麗……」
 どこに目を転じても、光の雫が撒き散らされたかのような、美しい光景。
 本来、夜の闇は人々に恐怖を感じさせるもののはずだが、今、夜は美しい光を引き立てるためにのみ存在していた。
 惜しいな、と思えたのはここが城の露台であることだった。逆側の光景も見てみたいのだが、それは城が邪魔をしてしまう。
 どうせなら……と思いかけたとき、リノアンの耳に今まさに考えたものそのものの音が聞こえてきた。何かが、風を受けて羽ばたく音。それは、ペガサスの翼の音とはまた違う、もっと力強く、そして荒々しい音。
「ディーン!!」
 リノアンは露台に身を乗り出して呼びかけようとして、その手に触れた露台の冷たさに思わず手を引っ込めた。それから恐る恐るコート越しに触れ、身を乗り出す。そこには、思ったとおりのものが見えた。その巨大な翼をはためかせ、空中に滞空する竜騎士は、間違いなく自分が今一番愛しいと思う人だった。

「……リノアン?なぜ、そこに」
 この場合、驚いたのはどうやら相手のほうらしい。その、ちょっとびっくりしたような顔が面白くて、リノアンは小さく笑った。
「星が、綺麗だったから。ここの方が、私の部屋よりも……」
 言いかけてから、リノアンはもっと相応しい場所があることに気が付いた。
 それから、ちょっと悪戯心が芽生えてくる。
 よし、とリノアンは決心すると、ぴょん、と露台の柵の上に跳びのった。

「な、おい、リノアンっ!」
「ディーン、受け止めてっ」
 ディーンが止める間もなく、リノアンはそこから跳んだ。まっすぐに、ディーンのいる場所めがけて。
 その光景を、他に見ている者がいたら、悲鳴をあげるか、あるいは卒倒していただろう。どう見ても死ぬつもりで飛び降りたとしか思えないからだ。
 だが、リノアンがそのまま大地に叩きつけられるということはなく――リノアンはしっかりとディーンに受け止められて、飛竜の上にいた。
「な、いくらなんでも無茶すぎるぞ!!」
「あら、どうして?初めて貴方の飛竜に乗せてもらったときと、変わらないわよ?」
「………………」
 ディーンはその言葉に、二の句がない。
 確かに、まだ二人がターラにいた時――まだターラが、表向きだけは平和だった頃――に、リノアンを飛竜に乗せた事がある。その時、リノアンの部屋の露台から、彼女を飛竜の上に飛び降りさせたのは、確かに自分だ。

「……だが、無茶が過ぎるぞ。第一、風邪をひく」
 リノアンの着ているのは、冬用の厚手のコートだが、その下は寝間着の上に、毛織物を羽織っただけ。あとは靴だけという格好だ。
「いいわよ。その分、ディーンが暖かいから」
 リノアンはそう言って、ディーンのマント――防寒用の装備でもある――の下に潜り込むと、そのまま抱きついた。
「お、おい……」
「それより、もっと高いところまで行って欲しいの。もっと空の星が、近くなるように」
「……分かった」
 ディーンはそういうと、手綱を握りなおした。飛竜はそれに小さく嘶き、一度滑空してやや高度を落とした後、徐々に、旋回しつつその高度を上げていく。
 その一瞬ごとに、大地はどんどん遠くなり、そして天が近付いてきていた。




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