マルジュが半年だけ年下の従妹と初めて会ったのは、邪神の祭壇だった。
 地上に戻る路、薄暗い通路。
  たいまつの炎だけが場を照らす光。

 レダ王女を除く巫女たちは、グエンカオスに拉致され一度は死んだ。いくら女神の力によって生き返り、世界と彼女たち巫女を脅かす存在が無くなったとはいえ、その事実は消えない。恐怖を内部から消し去ること、簡単にはできっこない。それでも。火の巫女カトリ、水の巫女エンテは、支えてくれる人の腕の中で、その時にできる精一杯の笑顔を見せていた。
 マルジュはその姿を、複雑な想いで見ていた。

 最初から。マルスの神殿で並ぶ二人見た時から。わかってはいた。初恋の人の想いが何処にあるのか。
 一年間、求めつづけた本当の彼女の姿、その笑顔を、リュナン軍では垣間見ることができた。エンテは最初から、リュナンしか見ていなかった。だから今、彼女は辛い経験に心を痛めるより、夢が叶ったことを悦ぶことができた。だから、笑うことができたのだ。他の人間に向けるものとは違う表情で、リュナンを見るエンテ。これまでの分を取り戻すかのように幸福になろうとする想い人は眩しかった。眩しくて、マルジュは見ていられなかった。意図せずとも、足が重くなり後方へと下がっていた。エンテとの距離をとっていた。そうして気がつけば、リュナン軍より後方を行くカナン王子セネトの軍と歩みを共にしていた。

 そういえば、カナンの王子と王女は、従兄妹にあたるんだよな。
 少し、話でもしてみようか?

 マルジュは二人の姿を知っていた。
 セネトとは、ノルゼリアの会談の時に。ネイファは……邪竜の祭壇で命を絶たれる場を、遠くから目にしていた。
 若草の王子セネトは、金茶の髪の娘……おそらくはレダの王女……と親しげに言葉を交わしていた。
 マルジュはその十歩ほど下がった場を歩く少女に声をかけることにした。先まで姉メルと話をしていた紫銀の少女。彼女が、従妹にあたるカナンの姫だろう。

「君がネイファ……だよね」
 確証はなかったので、語尾に力がない。
 下向きの目線が、目線だけが上がる。
「……」
「……あれ、ごめん。違った?」
「え、あ、はい……でなくて、えっと、いいえ、ネイファです」
 時折上擦る細い声が足音に混じる。俯きがちな頭部がマルジュの声によって上がり、紫銀の豊かな髪が揺れた。と、同時に、上体全てが揺れた。
「きゃっ」
「わ、おい」
 コケの生えた、湿り気の多い石段。ネイファは足を滑らせ、転びかけた。マルジュは慌てて、彼女の腕と腰を掴んだ。
「大丈夫か?」
「……あ、はい。ありがとうございます」
「ここ、歩きにくいだろ、気をつけろよ」
 体格に恵まれているとは言いがたいマルジュですら、支えることのできる、華奢で軽い身体を地面につけてやる。
「はい……」
「あの……すみません」
「は……?」
「あの、どなた……ですか?」
「ああ。僕はマルジュ。母はシルフィーゼ。どうやら君とは従兄にあたるらしいよ」
「そう、シルフィーゼ叔母さまの……マルジュさま……」

 従妹の顔に、感情の色は薄かった。
 飛竜ラキスとなりノルゼリアの街を焼き……捕らえられ、死を突きつけられた。
 元気でいろ、というほうが無理だろう。
 懸命にマルジュの目を見て、言葉を紡ぐ。
「お会いできて、嬉しいです」
 少しも、嬉しそうでない顔をしていた。いや、頬を上げ、瞳を細くして……笑おうとしているのはわかった。
 だけど、上手くできないようだった。大きな瞳は、潤んでいた。
 些細な感情の動きに心が反応して、涙が浮かんでしまう。
 本当に辛い時は、人間、そういうものかもしれない。あまりに痛々しくて、マルジュは言った。
「無理はしなくていいよ。僕たちは、一応、身内なんだから」
「身内……ですか」
 目を二度ほど開閉させる。
「そうだろ。従兄妹同士って近い縁だし……でも、はじめて会ったんだよな、僕たち……唐突かな」
 リュナン軍には、従兄妹同士という縁のものが多かった。
 リシュエル、メリエルとエンテもそうであったし、サーシャとマーテルら三姉妹もそうであった。他にも、全ては把握はできていないが、単なる友達とは違う親しさがある従兄妹たちが多くいた。そのため、従妹というとそれだけで仲良くなれるもののように漠然と思っていた。
 
「いえ……なんて言うか、心地のよい言葉です」
 喜んでいるのかもしれない。違うのかもしれない。
 その表情や抑揚のない声からは、わからない。もどかしい。
「そっか……まあ、それはともかく、よろしくな、ネイファ」
「はい……」
 ただ、心を開いてはいないことは分かってしまう。
 開きたくても開けない心の扉もあるということを、この時のマルジュは知っていた。
 エンテは、マルジュのことを弟のように大切に思ってくれていた。完全に打ち解けてくれないことを苛立ち、心にもない言葉をぶつけてしまってばかりだった。その都度、エンテは哀しそうな顔をした。自分のことしか考えられない子供だった。ネイファには、エンテにしたのと同じ接し方をしてはいけない。思った。直感的に。
  叶わなかった初恋と、初恋の人の幸福が、マルジュを少しだけ大人にしていた。

「君の兄君にも挨拶をしたいんだけどな」
「あ……はい。兄もきっと話をしたいと思います。でも今は……」
 ネイファは力なく首を横に振る。
「ふうん? 待ってれば、戻ってくるかな」
「そうですね……多分」
 曇りと澄みが混在している瞳には、深い哀しみが見えた。
 
 聖竜の巫女だからかもしれない、辿ったものの相似故かもしれないけど……エンテに似ているとマルジュは思った。彼女もいつの日が笑顔を取り戻せるといいなと、願わずにいられない。

「って、噂をすればだ。下ってくるの、君の兄上だろ?」
「えっ? あ、兄さま……」

 少し遅れて歩く彼女に気がつき、若草色の王子が息を切らせて段を下ってきた。
「ネイファ!」
「セネト兄さま……」
 兄と瞳を交わした瞬間、ネイファの閉ざした顔はつぼみが綻ぶように開いた。
 微かな笑みが浮かぶ。それはエンテがリュナンに、あるいはカトリがホームズに見せる笑顔に、よく似ていた。  
 
「ネイファ、ごめん。一人にして」
「そんな。もっと、ティーエさまとお話してきてよかったのに……折角の機会ですもの」
「……でも」
「心配のしすぎです、兄さまは。一人ではありませんでしたし……」
「……あ、君は?」
 隣でネイファを支えるように歩くマルジュの姿に、セネトはようやっと気がつく。
「シルフィーゼの子で、マルジュ」
「そうか、君がマルジュか! 話はメルから聞いているよ。ぜひ話をしたいと思っていたんだ!」
 王者の風格すら備えた英雄の一人は、 気さくな声と力強い笑顔を、マルジュに向けた。ネイファは兄の隣で微笑んでいる。
 漠然とであったけれど、マルジュはこの時すでに、ネイファの気持ちに気がついていた。
 異性として、なのか、兄への思慕、なのか。微妙だと思っていたが、詮索するつもりもなかった。 驚きはしたけれど、胸の奥に痛みはなかった。この時には。
  ただ、彼女の笑顔が自分にも引き出せたらいいのに、とだけ思っていた。
 ネイファの笑顔は、淡雪に化粧された薄紅の花のように、儚くも愛らしいものだったから。

* 

 戦が終わった当初、ネイファは見知らぬ人との交流を何より苦手としていた。二年の月日を経た今でも、得意ではないはずだ。それでも神殿の人間とは打ち解けていたし、外来の人間には巫女姫らしい自愛に満ちた表情を向けていた。

「まあ髪の話はよしにして……ネイファさ、何か用があったんじゃないの。僕にさ」
「え?」
「わざわざ、地下まで降りてきて……探してたんじゃないの?」
「あ、そうですっ」
「何」
「治癒院で使ういやしの杖が近く、なくなりそうです」
「確か、北の宮には在庫が結構あったな……」
「そうですか。ありがとうございます」

 ネイファは微笑みを浮べる。マルジュの胸に暖かさが広がる。
 今。彼女の笑顔は、セネトだけのものではないのだ。
 彼女は、普通に笑う。愛想として笑うこともあれば、楽しくて笑うこともある。
 多くの人がこの笑顔を見ることができるのだ。素晴らしいことだと思う。

「礼を言われるようなことじゃないよ。むしろ、管理者として僕が感謝しないといけないんだよなぁ」
「そんな! 神官長自ら杖の補充をするなんて、普通はしません」
「それを言ったら、巫女姫だってしないだろ?」
「……そ、そうかもしれません……ね」
 口許に手を充て、控えめに笑うネイファ。

 穏やかな生活とは、かくも偉大なものなのか。
 彼女のこれまでが、過酷すぎたのか。
 ……両方だろう。

「……ネイファ」
「はい?」
 ではそろそろ……と、小さく礼をして去ろうとするネイファを、マルジュは呼び止めてしまう。
「あ……えと」
 慌てて、用件を作る。
「一人で運ぶのは、大変だろ。僕も手伝うよ」
「いいのですか?」
「いいよ。変な神官長と巫女姫さまって言われるかもしれないけどね」
「言われてしまうかしら……」
「言われる、言われる。影でこっそりな。辛いなぁ、雑用までやる神官長って思われたら。今よりもっとこき使われるかもしれない」
「え、ええ!? あの、私一人でやりますっ。マルジュさまは瞑想を続けてくださいっ!」
「冗談だよ。たまにはいいだろ、杖運ぶくらい。ほら、行くぞ 」
 腕と腰の間に、三角を作る。ネイファはその腕を両の手で挟んだ。
「マルジュさまって、時々意地悪ですよね」
「そうかもなぁ」
 マルジュは口許を緩める。ネイファの目許は釣られるように柔らかくなった。二人の口許に、同時に笑みが浮かぶ。笑い声が上がる。マルジュと二人で笑う時のネイファは、巫女姫として微笑んでいる時よりもずっと楽しげで、自然で、愛らしかった。

「……暗いから足元に気をつけろよ」
「はい。……普段はこんなに優しい方ですのに……ね」
 呟くように漏らしながら、慎重に、最初の段へ足を掛ける。
「言っとくけど……ネイファは、特別なんだからな。皆に優しくできるワケじゃない」
  軽く言ったつもりだったが、微かに声が上擦るのまでは止められなかった。彼女に恋をしていることを、マルジュは自覚していた。
「……ネイファはトロいから、お兄さんは特別に心配しているんだっ」
「お兄さんって……殆ど同じ歳ではありませんか」
 ネイファは首を傾げる。
「今は同い歳だけど、この春を越せば僕はひとつ上になるよ」
「あら……それでは、マルジュお兄さまとお呼びしたほうがいいのかしら?」
 今は、兄でよかった。今の、ネイファとの関係が何より大事だった。彼女が幸せでいて、時折笑顔を見せてくれれば十分だった。……いずれは違う形で自分を見てくれれば嬉しいな、とは思うけれど。
「お兄さまかぁ…… うーん、それは僕としては望ましくない……かな」
 兄よりも従兄のほうが、成就する恋に近い関係のはずだった。

「よかったぁ。呼び方を変えるのって、案外難しい気がしますもの」
「ホントは呼び捨てのほうがいいんだけどなぁ。僕たちはどっちが上とか下とかないと思うしさ」
「社会的にはそうかもしれませんけど……私、マルジュさまって呼び方気に入っていますし。いつかは呼び捨てる日も来るかもしれません、けど……でも今は、マルジュさまのままがいいのです。なんとなく」
「なんとなくって……なんだよ、それ」
「なんとなく、は、なんとなくです」
「……ま、いっけどさぁ」

 談笑する声を交えつつ。
 緩慢で幸福な足音は、上へと昇っていく。

 二人だけの今を噛み締めるように、ゆっくりと、ゆっくりと……。

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