*
“情愛のない性格”
これは幼い頃に母親不在を体験した子供が、成長後に示す歪んだ性格を指す。
一見愛想がよく、うちとけやすいように見える。が、心から他人に愛情を持つ事がなく、盗癖や嘘、残忍などの性格的特徴を秘めている。
母親との触れ合いは子供の不安を和らげ、情緒の安定した性格を形成する上で重要な働きをする。
母親不在。これは実際に母親がいない場合と心理的な母親不在と両方を言う。そして前者よりも後者の方が、より問題となる。
母親が不在している子供が成長した場合。心の拠り所が確立できず、他人に愛情を抱けぬ性質になるということは十分に考えられる……。
*
フリージの女大公ティニーは本を閉じた。
大好きな従姉と別れて、五年が経った。
イシュタルのマンスター就任の約一年後。
ティニーはシレジアより迎えにきた兄の手をとり、旧フリージを離反した。
そうして、セリス皇子の解放軍に身を投じたのだった。
大好きな従姉と敵対することになると。全く考えなかったわけではなかった。
だけど。
わたしなんかが一人いなくなっても、姉様は平気だから。
姉様は優しいから、許してくれる。
言い訳をした。
解放軍の戦士として、雷神イシュタルとまみえることはあった。
時折表れていただけであった、感情のない表情。固定されていた。
無感情の、口許だけの微笑みを浮べ。彼女は抑揚のない声でティニーを罵った。
裏切り者、見損なった、と。
その時ティニーは、どれだけ自分がイシュタルを傷つけたのか知った。
自分が従姉にとってどれほどに大切な存在であったのか、分かってしまった。
離れたことを後悔する。
同時に。早くに気が付かなくてよかったとも思った。
もしイシュタルと共にある時に知っていたら、今の自分はなかった。
おそらく、旧フリージ家と命運を共にしていた。
兄の手をとることはできなかった。従姉自身に背を押されていても、きっとできなかった。
殆ど初対面であった兄より、ずっと傍にいた姉にも等しい女性を選んだはず。
フリージを離れ、自由になりたいと望んでいた。心の奥で。ずっと。
そのために、大切な人であるイシュタルが自分を必要としていることは、知ってはならないことだった。
おそらくは気が付かないように、意識下で抑制していた。
例えば、聡いイシュタルが、心の奥を見せたくなかったとして。
推測の手がかりとなるような本を、貸し与えたりするか。
母親の愛情を受けられなかったことを、嘆くような発言をするか。しないだろう。
彼女は、本当の自分を知ってもらおうと、努めていたのだ。自分にだけは。
思考が及びさえすれば、簡単に分かる事実だった。
従姉の心の真実より、ずっとずっと簡単な事実だったのだ。
だが、イシュタルに……フリージに縛られたままでありたくなかったがために、気が付かないようにしていた。
大好きな従姉のことを知りたいと思っていた。
省かれた頁についても訊ねようと、何度か思った。
だけど。心の何処かで本気ではなかった。
従姉妹同士として、最後に話をした日。
イシュタルは貸した本について触れた。欠けた本について、言及してくれと言わんばかりに。
訊ねるなら、今だと思った。と同時に、訊ねたら駄目だという意識が強く働いた。
フリージを逃げ出す日のために。イシュタルの求める“何か”をわかってはいけないと、 ティニーの内部が感じていたように思う。
理解者を渇望する従姉を深く知ることは、彼女にとってなくてはならない人間になることを意味するから。
彼女と過ごした時間がなければ、今の自分ではありえなかった。感謝している。大好きだった。なのに、どうして……。
罪の意識に奮える。己の強欲さに、嫌気が指す。純粋な心が欲しい。
願う。なりたい自分を得ることの、なんという難しいことだろうかと、苦笑する。
「許して、姉様……」
胸元を飾る、紅石に手が伸びる。己の罪を確認するかのように、触れる。
雷神の最後を看取った風の勇者は、赤と黒の血で汚れた銀糸の束と銀の鎖に絡まれた紅石のペンダントを差し出して言った。
持ち出せたのはこれだけだった、と。
無理もないことだった。
バーハラ制圧直前。イシュタルは、ティニーらの前に塞がった。
風と雷、神魔法同士のぶつかりとなった。
ティニーは傍にいくことも許されなかった。
郊外にあるフリージ家の墓地、イシュタルの名の刻まれた重い石。その下には、遺体はない。銀の髪とペンダントのみが眠る。
イシュタルを捕らえていたペンダント。
それは今、ティニーの首に絡んでいる。
代わりに墓の下にあるのは、母ティルテュから譲り受けたティニーのペンダントだ。
両親の愛の証。母から娘への愛の証。
ティニーがフリージ家から離反し、兄の下へと移る切っ掛けになったもの。
おそらくは、従姉の欲しかったものが凝縮されたペンダントだ。
以前、従姉から借りた本。省かれた頁があった本は、三冊あった。
思想に関する本。劇の台本。そして人の心に関する文献。
思想の本は、既に手に入れていた。
省かれていた頁には、理性で情熱を制御し、禁欲し、感情や欲望に動かされずに生きることが幸福であり、生きる目的であるという思想が記述されていた。
無感念であることが、幸福だなんて考えられない。
感情が動かないということは、辛いことだ。
その想いがイシュタルに頁を破かせたのかと、情愛に対する文を読んだ今、思う。
演劇台本はとうとう手に入らなかった。
だが、元とした劇を見ることはできた。
捨て子だった少女が母親を求めて旅をし、幾多の苦難の末、再会を果たすというのが劇の大筋。
破かれていた頁は、第二幕の終盤。
第一幕のラストで再会を果たした母親とのエピソードだった。第三幕では、新天地に旅だっていた。母親のことには、触れられていなかった。ティニーは幸福な再会があったのだとばかり思っていた。
だが、違った。母親は上級娼婦の元締めであった。
しぶしぶ親子という事実を認めたが、娘として迎えようとはしなかった。それどころか客の求めに応じ少女を陥れ、無垢な身体を初老の貴族に汚させた。娘は母を恨み短刀をその胸に突きつけるが、結局刺すことができなかった。
望めども母の愛を得られなかった少女、立身の道具とされつつも母を恨みきれなかった憐れな少女。
イシュタルは主人公の少女を自分と重ねて、少女の母親をヒルダと重ねて、この話を読んだのだろうか。やり切れない想いに駆られて、頁を裂いたのだろうか。
イシュタルの中の欠けた本。
同じものを全て見つけ出すまで、三年もかかった。
帝国の圧政下、思想や心の解析など己を考える手段となるものは焚書の憂き目にあったからだ。
「情愛がない、性格……」
呟く。ようやく入手できた最後の一冊。
あの夜に、 イシュタルとユリウスの愛に疑問を抱いた夜に、読んでいた本だ。
かつて破れていて読み得なかった頁の内容を口に出す。
遠い日、イシュタルは言った。
愛されて育っていたならば、あるいは、と。
ティニーが母親から愛された育ったから自然に備え付けている、とも。
彼女は、母親から愛されることで得られる“何か”を欲していた。
“何か”。
情愛のことだったのだ。
心とは世に生まれ出た時、最初から構築されているものだけではない。だが、世に出た時、既に決まっているものによって形成されるところは大きい。
例えば、男や女か。例えば、長子か次子か。例えば、貴族か否か。
これらによって、社会的、常識的に、周囲の人間の接し方は違ってもこよう。
心ないし人格は、固定観念によって作られる部分も多いのだ。
何より、親から受ける影響。 物理的、あるいは心理的に、親が身近に存るか、否か。子供を写す鏡である親が、正しい人格を持ち得ているか、否か……。
ブルーム夫妻とイシュタルの関係はティニーの知る限り、親子らしいとはいえなかった。 情よりも利害関係で結ばれた、形式上の家族といった感があった。身近な家族だったとは言い難い。
支配的な母ヒルダが、人を道具のように扱う父ブルームが、正しい人格者だったとも思えない。
子供は、生まれるところを選べない。
いかに自身が、綺麗な心を持ちたい、他人を心より愛したいと願ったところで、成長の過程によっては、持ち得ないものとなろう。
幼少期の母親不在により、他人に真の愛情を抱けない。
イシュタルがこれに該当していたと、断定することはできない。真実を知るすべは、もはやない。
だけど、彼女が感情の一部が欠乏していると感じており、それを苦しんでいたこと。その主因が母親にあると考えていたこと。そして、ティニーに理解して欲しいと願っていたこと。
これは材料から導き出される、限りなく真実に近いことだった。
母親に愛されたいから、ユリウスを愛したいのだとティニーは解釈していた。
だけど、事実は逆だったのだ。
「愛したい。愛せたらどんなにいいか……そう思っているの」
仲のよい従姉として聞いた最後の言葉は、今もティニーの心に根付いていた。
人を愛したかったから、母親から愛されて育ちたかったのだ。
「……ユリウス様は愛していると、言ってくださるから」
ユリウスは、イシュタルに愛情を……物語のような愛の形を示していた。
愛を欲する彼女が、正しい愛情を受けたことのない彼女が。
真に愛されているのだと錯覚し、愛情で返したいと願ったところで、不思議はない。偽りの愛か真実の愛かは、較べる対象があってこそ判別できるものだろうから。
イシュタルは愛せたのだろうか。かの闇皇子を。
愛したのであって欲しい。欲していた愛情を知ったのであって欲しい。
「もう、遅いわ……いらない」
最後の最後に引き出した従姉の言葉。耳に残していても。
それでも、願う。愛したのだと、ユリウスを。
若くしてこの世を去った、優しき従姉。
多くの罪なき人をその手で殺めた、恐ろしき雷神。
せめて。彼女は愛した人のために破滅の道を歩んだのだと、考えていたかった。
*
吟遊詩人は謳う。重く儚い音に乗せて。
雷神イシュタルは。
愛に殉じた哀しい女性であったのだと……。
|