家族になりたい

「だって、母さんが……」
 母親から見下されて育ったゆえに、己を蔑まずにいられない少女。
「ありがとう……ありが……とう……」
 自分のことを認めてくれたのが嬉しい。
 そう言って突然に泣いた少女。

 エルクは、彼女のことがよくわからなかった。
 わからないけど、わからないからこそ、知りたかった。
 二ノのことを、もっと深く……。

「やあ、ニノ」
「あ、エルクさんだ」
「こんなところで何をしているんだい」
「ん、本を読んでいたの。これだよ」
 笑うニノの手には、エルクが渡した絵本があった。
 変わらぬ彼女の姿。いつもと変わらず声を掛けられたことに安堵する。

  ところはオスティアの城下街。最終決戦に向けて、買出しのための資金と休息を与えられたエルクは暇を持て余してしまい、与えられた部屋から裏庭を見ていた。いつもならば、空いた時間はほんのわずかの時であっても自己研鑽に充てた。だがここ数日は、そうしていなかった。何をしてもいまひとつ身が入らなかった。原因はわかっていた。二ノとのことだ。

『僕の言うことだけを信じていればいいだろうっ!?』
 二日ほど前、会話の流れの中でつい口を突いて出てしまった。
 エルクは彼女と別れてから、己の台詞を頭の中で何度となく反芻し、一人頬を赤らめていた。
 感情のままに声を荒げてしまったことも、小さな女の子に厳しい言い方をしてしまったことも、恥ずかしかった。何より、恋の告白ととれないこともない言葉だということが恥ずかしかった。この二日、城の中で彼女を見かけても、話ができなかった。周囲に人がいて、声を掛けにくかったというのを理由にして。
 
 今、ニノは一人でいた。木に背を預け、本を読んでいた。より正確に言えば、本を見ていた。ニノは字がほとんど読めず、そもそもその本には文章が存在しないはずだった。窓から彼女の姿を見たエルクは、しばしの逡巡ののち薄暗い部屋を出、偶然通りかかった振りをして二ノに話しかけた。

「……その本、面白いかい?」
「うんっ」
「物語も何もない本だよ」
「あるよ、物語。とっても面白いよ」
 ニノは、まず雲の多い空を差して、ページを捲った。花々と女の子を指す。
「この子はね、雨が降ったら困るんだよ。傘がないから。でも、この子たちは、雨を待っているの。でね、次のページには太陽があるでしょ? 女の子は、男の子と嬉しそうに遊んでいるし、花も緑も生き生きして見えるけど……でも本当は、雨になればよかったなぁって思っているんじゃないかなぁ、とか……色々とお話が見えてくる」
「本当に、君には驚かされるな」
「え?」
「読解力も感受性も、人一倍だ。すごいと思うよ」
「……」
 ニノは顔を伏せた。唇に手をあて、何かを考えている。
 桜色の唇は、また己を否定する言葉を紡ぐのだろう。エルクは予想をする。
 そうなったら、何度でも否定してあげようと思う。百の母親の言葉を消すには、千の自分の言葉があればいいはずだった。

「……ありがとう」
 だが、ニノの言葉はよい意味で予想を裏切るものだった。
「エルクさんにそう言ってもらえると、とても嬉しい」
 戸惑いがちな微笑みが何とも愛らしい。エルクを見上げる目線が、何ともか弱げで、思わず抱きしめたくなる。
 この気持ちが、恋というものなのだろうか。
 ニノは女の子だ。そして自分は、彼女より少し年上の男だ。そしてニノがとても好きだ。
 そうなのだろうか。パントとルイーズの間にあるような甘い関係を、ニノと築きたいのだろうか。ともすればニノの柔らかな頬へと伸びそうになる己が手を見ながらエルクは考える。
「エルクさん?」
 不安げな声に、エルクは思考を中断させる。そして、苦笑する。

 まだ理屈で考えようとしている。
 ニノが大事、それだけは事実なのに、その感情に明確な言葉をつけようとしてしまう。

『エルク、人を大事に思うのは、理屈ではないのよ。貴方は私たちにとってかけがえのない存在』

 それは、先日ルイーズがくれた言葉だった。
 その言葉の意味は、3年前のエルクにはわからないものだったろう。理屈でないことが、理屈でわからなかったはずだ。だけど、今ならわかる。
 パントとルイーズとともに暮らし、家族として生活をして、ようやくわかるようになったのだ。人に必要とされることの喜び。一緒にいるだけで安らげるということ。他者を大事に想うこと。
 ただ……わかるようになって日が浅いから、その種類を分類することはよくわからない。
 友情とか、家族愛とか、男女の愛とか、簡単に区別できる人もいるけれど、自分にはできなくて、それが歯がゆい。

『出会って、ともに暮らし……家族になったの』

 だけど、もしも。

 『それでは、答えにならない?』

 彼女と一緒に暮らしたら、わかるようになる気がする。
 ニノがとても愛しい。この想いが何なのか、わかる気がする。

「ニノ」
「ん」
「二ノ……」
「はーい?」
「ああ、もうっ……二ノ!」
「……」

 エルクは、視線をニノから空に移した。青く澄んでいる、とは言い難い空を見る。ニノも釣られるように上を向いた。
「ニノは、雨と晴れ、どっちが好きだい?」
「……へ? あ、うん……そうだね」
 会話に詰まった時は、無難に天気の話をするのが一番と本で読んだことがある。
 エルクは咄嗟に、本当に告げたい言葉から逃げてしまった。
「どっちも好きだけど、どちらかと言えば、雨かなぁ」
「それは、どうして?」
「食物も人間も動物も水を必要としていて、その必要なものを天が恵んでくれる。だから感謝しなきゃって思うの」
「なるほどね。だけど、濡れるのは嫌だろ。風邪をひくかもしれない」
「でも雨はいつか晴れるでしょ。運がよければ、虹を見ることもできるでしょ」
 ニノの答えは前向きだった。にこにこ。実に楽しそうに話す。
 何故、雨の良いところを見つけるのは上手なのに、自分のよいところを見つけるのは下手なのだろう。触れれば触れただけ、知れば知っただけ、二ノに対する不思議が芽生える。

「そうだね。そういう考え方もあるね。虹かぁ……」
「うん、虹、好きなんだ」
 絶妙な七色のスペクタルは、確かに綺麗なものだと言える。
「それに、お母さんが、太陽ってあんまり好きでなかったから……」
 ニノは呟くように言ってから口を抑え、エルクの顔を覗った。
 エルクはニノの頭に手を乗せた。
「だから、雨を好きになるようにしたんだね」
「そうかも。暑い日はお母さん、機嫌よくないこと多かったし」
 彼女だって、母親から押し込められて、縮こまっているだけじゃなかった。
 自分が傷つかないように、好きなものを見つけようとしていた。
 笑っていられるように、いつだって努力していた。

「でも、虹は本当に綺麗だと思う」
 それでも、自分を認めることはできなかった。己の力だけでは、できなかった。幼い頃より母に刻まれ続けた傷を癒すことは。
「そうだね、綺麗だね」
 エルクは、決意を固める。空の青から、ニノの瞳の青に目線を移す。
 深呼吸をひとつ、する。
「ニノ」
「ん?」
「戦いが終わったら、一緒に暮らさないか」

 ニノの素晴らしさなら、いくらでも説明してやれる。先日のように、感情的にならずに、ちゃんと教えてやれる。死してなお彼女を捉えつづける母親より身近な存在となって、心の傷を完全に消し去ってやりたい。ゆっくりと、確実に。
 エルクの背中を押したのは、そんな想いだった。

「……えっ……え!?」
 ニノは小さく言って、言葉を失った。
 エルクの真意を測りかねるように、瞳が揺れている。

「一緒にエトルリアに行こう。パント様とルイーズ様のところで暮らそう。ニノは才能あるから、きっとパント様は喜ぶよ。僕がニノの分も働くし。だから……」
「で、でも、あたし、何にもできないし。いっぱい迷惑かけるよ」
「僕も以前は、同じように考えていたよ。パント様とルイーズ様に迷惑だけをかけているって。だけどそれだけじゃないって今は思えるようになった」
「あたしにはもう帰るところはないし、パント様もルーイズ様もよい方で、だから、そうできたらどんなにかいいかって思うけど……」
「それならさ」
 ニノの目線が、エルクと地面を行き来する。
 やがて地面に固定され、左右に振られた。
「……僕とは、行きたくないの?」
 それとも他に一緒に行きたい人がいるの?
 怖くて聞けなかった。
「ち、違うよ! そうじゃないよ!」
「じゃあ……」  
「ううん。駄目。やっぱり、エトルリアにはいけない。だってあたしは、ゼフィール王子を暗殺しようとした」
「実際には、してないじゃないか」
 していないけど。
 ゼフィール王子はおそらく、ニノの顔を見ている。魔道軍将であるパントの重荷になるだけでなく、万が一にもベルン王国がエトルリアと戦を始めたいとなれば、口実となってしまう危険性がある。
 確かに、ニノをエトルリアの中枢に連れては行けない。連れて行かないほうがいい。それならば。

「じゃあ、どこか、田舎の片隅に家を借りて、二人で暮らそう」
「……二人だけで……?」
「うん」
「パント様とルイーズ様の傍を離れなきゃいけなくなるよ?」
「これまでだって、ずっと一緒だったわけじゃないよ。僕は頻繁に修業の旅に出ていたし、パント様とルイーズ様もあの通りの方だから、一度邸を出たきり数ヶ月と戻らないことが多かった。時々会いに行ければ、それで十分だよ。あの方たちとは、もう家族だからね。離れても」
「家族……血は繋がっていなくても、家族なんだ。いいな。あたしとお母さんも、そうなれたらよかったのに。多分兄ちゃんたちとは、そうだったんだよね。もういないけど……」
 彼女の義兄ライナスはエリウッド軍との戦闘の後何者かに……おそらくは二ノの義母ソーニャかその手のものだろう……に殺害され、ロイドはエリウッド軍との戦いで散った。二ノの言葉は、彼を動かさなかった。彼女にはもう家族は1人もいなかった。家族がいないことから生まれる空虚は、エルクも知っているものだった。

「……本当の家族は、今、どうしているの?」
「あたしの本当の家族はリキア貴族で……皆、お母さんが殺したんだって……」
「……!?」
 なぜ、実の親を殺した人間と家族になりたかったなんて思えるのだろう。
 ますますもってニノがわからなかった。
 わかりたかった。もっと深く、わかりたかった。
「これが本当の家族よ」
 二ノは首に掛けていた銀のロケットをエルクに向けた。エルクはそれを手にとった。
 中に描かれていたのは家族の肖像。緑の髪の利発そうな女性と品のよい男性。そして2人の赤ん坊。彼女に相応しい、平穏で幸福な空間だった。

「よければ……リキアに行ってみないか?」
「あたしの故郷?」
「そう」
「リキアで、一緒に暮らすの?」
「君がいいなら」
「……」
「今度は、君と家族になりたいんだ。駄目かな」
 エルクがパントとルイーズとそうであったように、血の繋がらない家族に。
 ニノが兄たちとそうであったように、だけど母親とはそうなれなかった、家族に。

「家族……エルクさんと……」
 己の気持ちを確認するように、ニノは胸に左手を当てる。
 それから、未来を予言するかのように、腹部にいく。手はやがて膝に落ち、エルクの与えた本に添えられる。
「家族……」
「そう、家族に」
「……家族……」
 二ノはエルクの手を、その手中に収められた家族の像を、見ていた。
 やがて顔を上げ、エルクを見た。まっすぐに。
「……あたし、エルクさんと一緒にいきたい……んだと思う」
 もとよりか細い声が、戸惑いを含んで、二ノは言う。
「今までエルクさんみたいに言ってくれる人いなかったし、ずっと言ってもらいたかった」
「うん、二ノ」
「きゃ」
 エルクは二ノの肩を揺すった。
「いくらでも言ってあげる。二ノは才能がある、二ノはすごい、二ノは可愛い」
「……可愛いっていうのは、初めて言ってもらった」
「そうだっけか」
「うん」
「……二ノは、可愛い……本当に、そう思うよ」
「あ、ありがとう……」
 
 二ノの瞳は潤み、あどけなさを残す頬はほのかどころでなく紅くなっていた。
 大きな瞳も、白い肌も、ピンクの唇も、ずっと、可愛いと思っていた。ずっと、触れたいと思っていた。

 エルクはその頬に手を添えた。彼女に触れたかったから。
 それからゆっくりと二ノに顔を近づけた。もっと二ノを見たかったから。
「え……あ……」
「……」
 二ノは瞳をひとたび大きく開いて、緩やかに閉ざした。
 エルクはさらに二ノに近づいて……、

 小さな額にひとつ、くちづけを落とした。

*

「ところでね、エルク。あたし、多分肝心なことを言ってもらってないんじゃないかなぁ……って時々思うんだけど」
「え? な、何を??」
 戦いを終えて、皆がそれぞれの故郷に帰っていった。
 エルクと二ノはリキア地方に残ることを選んだ。周囲は驚きはしたが反対はしなかった。
 ただ、パント夫妻には月に一度以上の手紙と半年に一度は顔を出すことを約束させられた。
 二ノは元黒い牙の人間と別れを惜しんだ。行き先は訊ねても答えなかったという。
 彼はエルクに、元黒い牙の娘に伴う危険を警告して去っていった。
「……どうして、一緒に暮らしたいって思ったのか」
「どうしてって、そりゃあ……」
「……」
「僕はね、ニノのことが……その、多分……」
「ちょ、ちょっと待って、ここまで来て多分なの!? 式だって挙げるんでしょ!?」
 エルクと二ノは今馬車に揺られている。向かうのは二人で住む家。
 キアランとフェレの狭間にある山村に、かつては裕福だった家の別荘があり、安く譲り受けることができた。数ヶ月過ごした街中の共同住宅よりも二ノにとっていいはずだと決めた。まだ見ぬ新居に着くには地方都市を二つほど通過する。エリミーヌ教会もあるはずだから、そこで神の祝福を受けようという話もしていた。
「えーと……いや、もう多分じゃないよ……」
「もう……エルクって時々わからないなあ、突然だと思えば煮え切らないし……」
「僕も二ノのこと、わからないって思うこと多いよ」
「えー、あたしみたいにわかりやすい人間そういないと思うけど」
「わかりそうで、わからない」
「そうなの?」
「うん」
 エルクにとって二ノほどわからない存在はない。半年以上も近しい存在として傍にいたのに、もっともっと彼女のことを知りたいと思うくらいだった。
「そういえばあたしもはっきりは言ってないよね。エルクと一緒行くって決めた理由」
「それ聞きたいよ、言ってよ」
「……えー、だって改めて言うのは恥ずかしい」
「それは僕だって同じだよ」
「そうねえ、じゃあねぇ」
 二ノが指を一本立てて、提案する。
「いっせいのせ、で同時に言うってどう?」
「……そうしようか。ズルはなしだよ」
「そっちこそ。じゃあ……いっせいのせ!」
「僕はね、二ノのことを」
「あたし、エルクのことを」
 二ノのことは、今でも、わからないことばかり。
 だけど、彼女を深く知りたいと望む理由はいまや明白だった。

 『愛したから』

 だから、二ノをもっと知りたい。
 だから、家族になりたい……。


 エルニノです。
 自分の気持ちに戸惑いながら、ゆっくり確実に想いを育てていく……はずが、何故かかっとばして一緒に暮らそうになってる(笑)。そこはそれ、ほらパントさまとルイーズさまのご家族だから、加減がね(待て)。手を出すのも意外と早いとみた(こら)。まあそう遠くないうちには生まれるワケだしね。私がエルニノ好きな理由のひとつとして、エルクが双子のパパというのがいいなーっていうのがね、あるのですよ。封印後、幸せに4人で暮らすっていうのはありうるのかなー。エルクも二ノも、どっかで生きているといいけど……。砂漠で石になってて、とか?(笑)いっそ、竜の国への扉を潜ってあちらに……てのはどーでしょうかね。
  二ノは黒い牙の残党として追われるワケですが、ソーニャの娘として黒い牙の中枢にいたことやゼフィール暗殺未遂のことを考えると、ありえない話でもないかなぁと思います。家族を想って出て行くのも二ノならやりそーです。幸せに暮らしたのは数年だったけど、その数年は幸薄い二ノにとってもっとも輝いていた時間だったんじゃないかなぁ。

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