<子供の特権>

 太陽の輝く日。
 雲もなく、風の存在を肌に感じることもない、素晴らしく晴れた日。
 少女は資材である杉の匂いと本に込められた歴史の匂いが鼻につく、薄暗い部屋にあった。

「リノアン、こんなところにいたのか。ティナが探していたぞ」
「……」
「リノアン?」

 ターラ城の一廓にある図書室で、リノアンは調べ物をしていた。つい半刻ほど前まで。
 今は、意識を夢の世界に飛ばしていた。

「ん。あ……ディーン……」
 目を擦りつつ顔を上げると、そこにはこの二年でもっとも馴染んだ竜騎士の顔があった。

「寝るなら寝台のほうがいいんじゃないか」
「やだ、わたしったら。眠るつもりはなかったのです」
 潤んだ瞳でディーンを見上げる。
「そりゃあ、寝るつもりで図書館に来る人間は少ないだろうが」
「ちょっと、うとうとしていただけ。この本、面白いです」
「居眠りするほどに、か?」
「……意地悪ね」
 唇を尖らせる。
 リノアンが読んでいた本は、トラキアの地理に関するものだった。ターラと隔てる山脈の気候や土の性質について。
「それで、何を読んでいたんだ」
 ディーンは高みから、開かれた本を覗いた。黒髪が、リノアンの首筋をくすぐる。遠慮なく想い人を見つめられる状況に、心が騒ぎ出す。
「これは、ルテキアか……?」
 ディーンはルテキア城の図像を指して言った。
「ええ」
「……何故、ルテキアを?」
「……知りたかったのです。ルテキアというより、トラキアを……」
 リノアンは本に栞を挟み、焼けて色味の薄くなった背表紙を見せる。南トラキアの文化史、と書かれている。

「わたしはターラ公主なのに、何も知らないから。隣の国のことも、支配している国のことも、何も……」
ターラが帝国に支配されている現状では、何を調べて、何を知ってもさして意味のないことだった。リノアンはただ知りたかったから、それを読んでいた。大切な人の愛する地のことを、少しでも知っておきたかったのだ。
「十にもならんうちに、公主の座に押し上げられたのでは、学ぶ時間などなかっただろう。これからゆっくり身に付けていけばいいさ。それまでは大人が助けてくれる」
「……大人がって、それではまるで、私が子供のようです」
「子供だろう」

 ディーンはリノアンの頭に手を乗せた。リノアンは可愛い唇を尖らせる。
「十一歳って、子供かしら」
「ああ、子供だ」
「……」

 頭に置かれたディーンの手を両手で外し、その大きな手を瞳の前に持ってくる。剣や槍を持つことで出来た蛸がある。帝国の刺客よりリノアンを庇った時に負った傷も、ある。いくつも。
 ディーンの手はリノアンに己の非力さを自覚させる。
 国どころか、自分の身すら満足に護れない弱さを、罪深いとすら感じてしまう。

「ねえ、ディーン……」
「うん?」
「子供ってどういうことでしょう。どうなれば、大人なのでしょう」
「は……?」
「私は無力な子供で、でもきっと、ディーンは大人なのよね」
「……まあ、子供ではないと思うが……」
「ねえ……貴方は、いつから大人になったの……?」
「……どうだろうな」
 曖昧な返答に、リノアンは頬を膨らめる。子供っぽい仕草だと自覚はある。他の人の前では、絶対に見せない顔。彼に子供だなんて思われなくないのに、彼にはこんな表情を見せてもいいと思う。変だ。

「だが、今、大人でよかったと思っているよ」
 ディーンは己の手を、リノアンの両手より引き出した。そうして腰に下げた剣に触れた。
「戦うことができるからな。己の力で、護りたいものを護ることができる」
 
 その言葉にリノアンの胸が上下する。締め付けるような痛みが、リノアンを疼かせる。

 今、ディーンはターラに……より正確に言うならばリノアンの傍らにあり、いつも彼女を守護している。
 だが、ディーンは本来、トラキアの竜騎士だ。王子アリオーンの信望厚い。リノアンはターラ城奪回の折、秘密裏の援助を申し出たアリオーンの口から聞いて、それを知っていた。
 リノアンは小さな息を吐いた。

「……あのね、ディーン。私ね……トラキアのことを知りたい。貴方は大人だもの、子供の私に教えてくれますよね?」
 見上げて言うと、ディーンは苦笑した。
「オレはその本に書いてあることより詳しいことなどわからないと思うぞ。歴史も、文化も、地理も、子供が知っている程度のことしか知らない」
「本に書いてないようなことが知りたいの。例えば、トラキアの子供たちはどんなことをして遊ぶの? 例えばね、一番のご馳走って言われるのは、どんな食事?」
 本に書いてあることではない。些細なことでいい。
 ただ、リノアンは、ディーンの目に映ったトラキアを知りたかった。
 彼が何より愛するものを、愛したかったから。
 愛したら、彼の心を占める国を、いずれ還ってしまう地を、憎まないでいられると思ったから。

「……そうだな、子供の頃は、子供同士、互いに竜に見立てて竜乗りごっこをしたり、そこいらの棒切れを拾ってきて、戦の真似事をしたりしたな……女の子は違ったかもしれんが、男は大抵……」
「ふふ。ディーンが竜の真似をして、人に跨れているところは想像できないわ」
「……オレは跨られる役が多かったぞ。くじ運が悪くてな」
「そうなのですか。あ、でも戦遊びは強かったでしょう」
「そうだな、負けたことはなかった。アリオーン殿下以外にはな」
「アリオーンさまとも遊ばれたのですか?」
「ああ。オレの母が殿下の乳母だったからな」
「……そうだったのですか」
 アリオーンがディーンに向けた瞳は柔らかかった。部下と主を超えた絆が見てとれた。そして、同じように。トラキアやアリオーンのことを話すディーンの目には優しい熱がある。声にも、輝きがある。

「貴方と王子は乳兄弟、ということですよね。幼い頃からずっとアリオーンさまの傍にいたのですね」
「恐れ多くもな」
「それでは、余計に……」

 離れているのは、辛いでしょう?
 貴方がその手で護りたいのは、本当は、トラキア王子その人なのだから。

 だが、声に出してそれを確認することは出来ない。彼の口から肯定の言葉を聞きたくなかった。
 リノアンは椅子の上に立ち、背伸びをした。そうしてディーンの視界に入るのが自分だけになるくらい、顔を近づけた。

「ね、ディーン。私トラキアが見たいわ。竜に乗って高く高く上がれば、見ることも適うのではない?」
「……見えるのは、トラキア山脈だけだ。それも天気のいい日にだけな」
「今日はどうでしょうか?」
「遠方を見るのにこれほど適した日も珍しいな」
「わあ。見たい……」
 ディーンの袖を掴み、首を傾げる。
「……お願い、できないでしょうか……?」
 ディーンはしばし思案する。
「まあ折角の天気だしな。こんな暗いところに閉じこもっているよりいいだろう」
「よいのですか? 本当に!?」 
 ディーンの裾口を軽く掴むと、リノアンはそのまま、ディーンの肩に身を寄せた。
「嬉しい……ディーン、大好きっ」

 彼を縛り付けたくはない、自由に生きて欲しい。それなのに、故郷に帰っては嫌だ、ずっと傍にいて欲しいと願ってしまう。
  どんなに好きでも、結ばれることはない相手だ。夜寝て、朝起きたら、好きという感情が消えていたらいいのにと思うことすらある。それでも、想いを伝えたいと思ってしまう。愛して欲しいと望んでしまう。
  深い思慕も相反する望みも、今ならばまだ罪ではない。

「好きよ、ディーン。好きだから……」
  大人だったら口にすることはできない。大人になるまでに消さなければならない。相手を困らせるだけの『好き』。それを、今のうちに存分に音にしておきたかった。
「大げさだな、リノアンは」
 ディーンはまんざらでもなさそうに笑い、リノアンの小さな身体を抱き上げた。
 そのまま薄暗い建物を出て、竜舎に向かって太陽が眩しい道を歩いていく。
 二人を見ても、眉をしかめるものはいない。

「空を飛ぶなんて初めてです。楽しみ」
「一刻後には、泣いてディーンなんて嫌いだと詰られるかもしれないな。俺の飛行は荒いらしいから」
「ええっ!?」
 危険なら空中散歩など最初から承諾しないとわかっていても、怯えてみせる。ささやかなやりとりが楽しい。
「不安ならやめるか?」
「いえ、た、多分、平気です……何事も経験ですから!」
「はは。案外逞しいな」
「ええ、わたし、なかなか逞しいんですよ。例えばね……」
 密着し、瞳を合わせて笑いあう。他愛もない話をする。

 暗さのない、明るい、明るい、輝きの時間。
 二人でいることをただ楽しいと感じられる幸福。
 リノアンにはわかっている。
 これは、子供の今だけのものであると。

創作部屋TOP