<優しさのお茶会>

 

「リノアンさま」
「あら、サフィ」
 名を呼ぶ声に書きものをする手を止め、顔を上げる。
 紙と本に生め尽くされた机を隔てた向こうに。姉とも友とも慕う女性の姿があった。一心に書類に向かっていたため、リノアンは執務室に自分以外の人間が入ってきたことにすら、気が付いていなかった。
「何か用でも……?」
 サフィは年下の主の顔色を覗うように、言う。
「……少し、お時間を頂戴できませんか?」

 光の公子セリス率いる解放軍が帝国を討ち果たした。世界に平和が訪れ、リノアンらも故郷ターラに戻ることが叶った。
 聖戦終了より、早2年。リノアンは再び、ターラ市長の任につき、街の復興に力を尽していた。

 王リーフと妃ナンナを戴いたレンスター。アルテナを暫定的指導者として国家の形態を取り戻しつつある南トラキア。周囲との連携の甲斐あって、ターラ再興は順当に進んでいた。市長の仕事量も当然、日に日に増えていく。
 リノアンは陽の昇りかけた時間に床につき、朝一番に行なわれる会議に出席するという多忙な毎日を送っていた。

「あまり、長い時間はとれませんが。急を要する事ですか?」
「いえ……あの、大した用事ではないのですが……その」
「……?」
「最近ティナがお菓子作りに凝り出してしまって。今日も朝から、つい先まで作っていて……。それで、結構な量が出来上がってしまったのです。もしよければ、片付けるのを手伝っていただけないかと……」
「まあ、ティナが……」
「はい。すぐに厭きるのでしょうが……今はもう、お祈りの時間も忘れるほど夢中で。困ったものです」

 ティナが泡だて器や篩を相手に格闘しているところをリノアンは想像した。
 台所を散らかしたり、夕食の材料まで使ってしまったり、していそうだ。それでサフィにひどく叱られるのだ……。
 脳内に浮かび上がった情景に、笑みを零す。

「笑い事ではないのですが……」
「何かに熱中するのは、よいことだと思いますよ。趣味に時間を割けるのは、平和な証拠ですし」
「……それは、そうかもしれませんね」

 サフィは机の上で存在を主張する書類に目を向け、盛大な息を吐いた。

「リノアンさまも、ご趣味を見つけられたらよろしいのです。昔はお好きだった刺繍も、最近はされていませんよね。お上手でしたのに」
「……いつの話ですか、それは」

 机上に散らばる書類を整えながら、リノアンは小さく続ける。

「私に廻ってくる書類の量が半分になったら……他に楽しみを見つけようという気にもなるかもしれません」
「リノアンさま……」
「私、政務が嫌いではないのです。むしろ、好き。昔……帝国の支配下で傀儡の公主であった時、私はこうしたいと頭だけで思っていたことを……今は実行することができるのです。無理をしているわけではありません。そうね、仕事が趣味のようなものかしら」

 口にしたことは、嘘ではなかった。少なくともリノアンには、偽りを口にしたつもりはなかった。
 ターラの復興に力を注げること、そして、その成果が目に見えて現われること。それは喜ばしいことだった。今の自分はターラ公女として相応しい行動をとっているのだと、考えていられるから。

「これほど毎日が充実している期間なんて、生涯に、そう何度もないと思うの……私は今、幸せよ」
 リノアンは腰を浮かせ、椅子に深く腰掛け直した。微笑みの形を作ろうと、意識する。
「ですから、心配しないでくださいな」

 しかし、その笑みは口許を動かしただけに止まった。形だけの微笑みは、付き合いの長いサフィには通用しない。
「リノアンさま!!」
「……?」
 サフィが声を高くする。
 笑みを絶やさぬ穏やかな顔が、固く強張っていた。
「どうか、したのですか?」
 サフィは、リノアンの隣りに回り込み、その細腕を掴んだ。
「……外でお茶をしましょう!」
「え、あの、では……処理しかけの書類があるので、少し待って……」
「駄目です。待ちません」
「でも、あの……これ、今日中になんとかしないといけなくて……」

 空いている手で、紙の束を指差す。
 明日は南トラキアより使者が来る。鉱物資源の取引について重要な商談があるのだ。明日までに目を通さねばならぬ書類が、まだ残っていた。こうして話しをする時間さえ惜しいくらいだった。

「こんな暗い部屋で独り、紙と文字だけを見る生活を送っていたら……気がおかしくなります!」

 サフィは容赦なく腕を引いた。
 彼女の見た目からは想像もつかぬほど、強い力だった。リノアンは困惑する。怒っているようにしか見えない友の顔を見つめる。

「……?」
「どうして……そんな顔をして、幸せだなんて言葉が口に出来るのですか!」
「え?」
「忘れられないなら、忘れなくたっていいではありませんか……優しい想い出や大切な気持ちを、無理に消す必要なんて、どこにもないじゃないですか。自分を虐めるのはやめてください」
「サフィ……」
 リノアンの手から力が抜けた。握り締めていたペンが落ちる。

 逢いたい人に逢えない。逢いたいと願うこともできない。
 その事実は、リノアン一人のものではなかった。
 ターラに戻ったばかりのころ、サフィは哀しげな瞳でマンスターの方角に見ていた。故郷のために……伴に生きることを選べなかった恋しい人。その人との優しい記憶を求めるように最後の時間を過ごした土地へと視線をさ迷わせていたのだ。そう、リノアンと同じように。

「たまには、太陽の光を身体いっぱいに浴びましょう! 沢山、仕事とは関係のないお話をしましょう……! それこそが、前向きな気分転換です」

 サフィは現在、医療施設の増設、食料配備などの任に当たっている。リノアンの片腕として、ターラ復興に尽している。
 その一方、空いた時間には図書館に行く。そこで、子供たちに本の読み聴かせをしている。
 子供と触れ合うのは楽しい。児童書からは新鮮な発見がある。充実した余暇を過ごしていると、彼女は自然な笑顔で語る。
 今もサフィはマンスターを見る。その瞳は、過ごしてきた日々を愛しむものであっても、哀しみだけを湛えたものではない。リノアンが未だに燻っている処を、サフィはとうに乗り越えたのだ。

「もっと、楽しい時間を作りましょうよ! せっかく、平和になったのですもの……」

 哀しいという感情を消したければ、忙しさに身を浸すより、楽しい時間を作るべき。過去の哀しみを乗り越えるために必要なのは想いを押し込めることではなく、現在を楽しいものにする努力だ。
<先輩>サフィの言いたいことが、静かに、リノアンの中に染み入る。

「……そうね」

 遠い人に焦がれてしまう弱い自分が、リノアンは許せなかった。恋しい人のことを、考えたらいけないと思っていた。だから、考える時間を与えないようにしていた。余暇を求めようともしなかった。忙しくとも、多少の個人の時間くらいは捻出できたのだ。強く望んだならば。職務を補佐する人間は、大勢いるのだから。

 リノアンは頭部を軽く叩いた。後ろ向きな己を諌めるように。

「お茶の時間にしましょう。陽の光を体いっぱいに浴びて、沢山、楽しいお話をしましょう」

 書類の束に、未練がなかったわけではない。しかし、サフィに引かれるまま、立ち上がった。
 言葉にせずとも気持ちを理解してくれる友の存在が、何よりありがたかった。彼女にだけは、心配をさせたくなかった。彼女のように、強くならなくてはいけないとも思った。

「ティナのお菓子も、楽しみです」
「胃薬はちゃんと用意してありますから、遠慮なく食べてやってくださいな」
「まあ、サフィったら!」
「……正直なところ、見た目は、か、かなり悪いですが……で、でも! 食べられないほどのものではありませんからっ」
「サフィがそこまで言う……ティナのお菓子って」
「……」
「わ……私。やっぱり、仕事をしないと……」
「それは、駄目です。一緒に食べましょう」

 サフィは、友の腕を握る手に、力を込めた。
 サフィの真剣な瞳と、リノアンの戸惑いの瞳が、合う。

「……」
「……」

 2人はしばし無言で睨めっこをした。
 そして。どちらともなく笑い出した。
 2人の少女から零れた笑いが、重い執務室の空気を軽く柔らかなものに替えた。

 リノアンとサフィは子供のころのように手を握りあった。
 そうして。
 光射す庭へと足を向けたのだった。

 

FE創作の部屋