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ケンプフ<翠の月 25日>
昨日はひさびさにストレスを発散した。しかし今日は書類の山にかこまれて再びストレスマックス。とりあえずSドリンクを飲んでおいた。愛情一本Sドリンク、と無意味につぶやいてみる。
あいかわらずガキは容赦なく書類をもってくる。しかもきちんとまとめてあるのが小憎たらしい。たまには外で遊んでこいといったら不思議そうな顔をされた。子供は遊ぶものだ、といったらどうして? と尋ね返された。そういうへ理屈は大人になってから言え。
リノアン<翠の月 26日>
私は……土や植物の感触を忘れるくらい、外に出ていません。一人でターラ領事館を出ることは、許されていないのです。
それなのにプフケンさんは、外に出ていいと言ってくださいました。
私は、その言葉に甘えて、庭に出ました。それ以上は……勇気が出ませんでした。次に帝国の監査役が来た時に、酷い暴力を振るわれるに違いないから……。
久しぶりに触る緑の草や花は、柔らかくて冷たくて……触れていると、思考が痺れます。目のあたりが熱くなります。頬に生暖かな雫が伝います。……涙でした。泣いたら余計に哀しくなるから、泣いてはいけない。そうは思っても……止りませんでした。
一人で泣いていたら、柵ごしに男の人が声をかけてきました。
黒く長い髪が印象的な、とても大きな人でした。
その人は私を、割れた硝子細工を見るような目で見ていました。そして一言、言いました。
「もう少しの辛抱だから」
と。
どういうこと? 貴方は誰? 手で涙を拭って立ち上がり、問いかけようとした時には……彼はもう、そこに存在しませんでした。
不思議な出来事。夢だったのかもしれません。誰かに助けてもらいたいという私の希望が見せた、甘い幻……。
ケンプフ<翠の月 27日>
ガキを外に出したらまた上層部に怒られた。
監禁しておかなきゃいけないことをすっかり忘れていた。
例によってニカラフになぐられる。
しかし中に閉じ込めておけばそりゃかわいげもなくなるというものだ。少しだけ、同情してしまった。
ガキの目がなぜか赤かった。とりあえず目薬を渡してやったら目の前で泣かれてしまった。俺がなにをしたというのだろう(遠い目)。
とりあえず今日はニカラフに呪いをかけておいた。
少し明日への元気がわいてきた。
リノアン<翠の月 27日>
涙って、枯れ果てることはないのかもしれない。
昨日に続いて、今日もまた泣いてしまいました。プフケンさんの前で。
だって、私を外に出したことで怒られた後なのに、私にやつ当たりをするどころか、優しくしてくれたから。
明日は絶対に泣かないにしよう。
人の前でなんか絶対に泣かないようにしよう。
泣かないように、するんだから……。
だから、今だけ。今だけ、泣かせてください。
一人でいる今のうちに、沢山泣いておきたいの。
また明日から、ターラ公女として頑張るから。
ケンプフ<翠の月 28日>
下からしくしく辛気臭い泣き声がきこえてきて眠れない。
ついでだから呪いのわら人形を作って次の日にもっていってやった。「むかつく奴とか嫌なやつだと思ってたたいてやるんだ」とわら人形の使い方を教えてやったら大事そうに人形をうけとった。なんだかわら人形の使い方を理解してくれてなかったみたいだ。
その日の夜からぴたりと辛気臭い泣き声はきこえなくなって、よく眠れた。
リノアン<翠の月 28日>
今日はまた、プフケンさんに贈り物をいただいてしまいました。
わらで作ったお人形です。頭が大きすぎて、右と左の腕の長さも違って……。なんというか、不恰好な人形です。
「ご自分でお作りになられたのですか?」
と私が尋ねると、プフケンさんは困ったような、照れたような顔で笑って頷かれました。
私、手作りの贈り物をいただいたのは、はじめてでした。大事にしようと思います。私のことを気遣ってくれる人がいるって感じられるものが近くにあるというのは、とても幸せなことです。
やつあたりの道具にするようにってくださったものだけれど。折角ですから、部屋に飾らせていただくわ。
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ケンプフ<紅の月 6日>
今日はV型のシューターのテストの日だ。
ちょうどいい標的を発見したのでさっそくためそうと思ったら動かなかった。まだまだ改良の余地があるらしい。
しかしその標的というのがトラキアのアリオーン王子だった!
やばい。
動作していたら俺の首は文字どおり切られていたことだったろう。日頃の行いのせいか間一髪助かった。
あのガキの部屋にいったら例の人形がきれいにケースにいれられて飾られて唖然とした。
やっぱり使い方をわかってない。馬鹿だな。
リノアン<紅の月 7日>
アリオーン皇子がターラ領事館を訪問されました。
フリージがコノート方面の乱を鎮圧するのに、トラキアの傭兵を借りるという話は聞いていました。訪問は、それに関係する話をするためのものでした。
個人的に言葉を交わすことはできませんでしたが、懐かしい姿を見ることができてよかったと思います。お元気そうでした。
アリオーンさまには数人の竜騎士が従っていました。その中に、見覚えのある顔がありました。
懐かしいと感じるほど昔に会った人でもなければ、懐かしいと言えるほどに親しくもない、その人は。
先日、庭で泣いている時に……会った人でした。
ケンプフ<紅の月 7日>
さっきまで冷や汗をかいていたが、なんか今は眠くなってしまっている。寝るな、俺。つーか緊張感ないな……俺。
ガキはいっちょまえにアリオーン王子を相手にがんばっていた。とりあえず俺の分までがんばれガキ。
今日は早く寝よう……。
リノアン<紅の月 9日>
最近、プフケンさんは特にお疲れのようです。
今日もとても眠そうでした。だから、今日こそ言うのだと考えていたこと……言えませんでした。
トラキアとターラの国境には現在、高い関税がかけられています。それを引き下げていただけないかと。トラキアには食糧が不足しています。ターラは現在、北トラキア各国の壊滅により、近隣に、商業取引をする相手がありません。トラキアとは関係を密にするべきなのです。例え、帝国に牛耳られたターラであっても。
昔、フリージ上層部に進言した時には、トラキア王子に言い含められたか、所詮娘だと、嘲笑されました。
でも、プフケンさんならもしかして、聞き届けてくれるかもしれないって……思えるのです。
プフケンさんは、とても優しいから。
ケンプフ<紅の月 10日>
昨日は無理矢理寝ていたので今日はすっきりいい気分だ。
天気もいい。
こんな日に辛気くさい邸の中にいてはもったいない。
出かけるようと思ったらガキがなにか言いたそうな顔して待っていた。
何を言いたいのか知らないがなかなか言い出せないみたいだから、しびれを切らせて外に連れ出してしまった。監視していれば上層部も文句は言わないだろう。あのまま待っていたら日が暮れそうだ。
しかしやっぱりというかなんというか関税の話だった。外に出てまでこんな話かよ……。
リノアン<紅の月 10日>
今日はプフケンさんに外へ連れて行ってもらいました。
プフケンさんとわたしは、市で買い物をした後中央公園に立ち寄りました。市の開かれる日ということもあって多くの人が集った公園には、ちょっとした食べ物を売る屋台がいくつかありました。
プフケンさんは私に、
「肉は好きか?」
と尋ねました。
「嫌いではありません」
そう答えると、彼は甘くて香ばしい煙を放つ屋台へと走っていきました。私はベンチに腰掛けて、プフケンさんが戻るのを待っていました。
少しだけ一人になった、その時。またあの人に会いました。……アリオーンさまに従っていた、トラキアの竜騎士に。
「邸に戻ることはない、今なら逃げられる」
「……」
「オレはお前を助けたいと思う……」
アリオーンさまの部下です。それに……とても優しい目をした人でしたから、信じられるって思いました。一緒に行きたいと、思いました。
でも私は、首を横に振りました。
「今は……一緒に行くことはできません」
今、私がターラ領事館を出たら、関税の引き下げが実現されることはありませんし、何より……善意で私を連れ出してくれたプフケンさんに迷惑がかかります、から。
「……では、五日後の夜迎えにいく。その時は攫ってでも連れて行く」
彼はそう残して……人波の中に消えていきました。
その後、プフケンさんと関税の話をしました。プフケンさんが聞き入れてくれたのか、どうなのか。私には推し量ることができませんでした。
3回会っただけの人の……迎えにいくという言葉がわたしの思考の殆どを占めてしまい、洞察力を働かせることができなかったのです。
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