<私の死んだ日>


私は何より、ターラを愛しています。


 775年。今より2年も前。
 私、リノアンはターラの後継者として名乗りを上げました。
 ターラのために戦おうという者たちの旗印に……反帝国の象徴となったのです。

 それからおよそ1年と半年の間。
 多くの市民。ディーンやエダを始めとする傭兵たち。グレイド殿らレンスターの遺臣や、ターラの抵抗運動を秘密裏に援助してくださったアリオーンさま……。
 多くの人の助けを得て、戦いを続けました。帝国より、ターラを護るための戦いを。

 半年前、解放軍を率いて戦うリーフさまと再会を果たしました。喜ぶ間もなく、帝国の総攻撃が始まりました。
 帝国、闇司祭ベルクローゼン、その隙を抜ってターラを狙うトラキア……。
 解放軍とターラに残された僅かな兵力を足しても、これらを撥ね退けることはできませんでした。
 現在ターラは、トラキアの支配下にあります。アリオーンさまの保護下にある、という言い方が正しいのですが。
 アリオーンさまは信頼に足る方です。ターラを悪いようにはしない。むしろ、私が指導するよりよほどよい方向にターラを導いてくれる。そうは思います。

 だけど。私はターラに戻らなくてはいけません。
 私はターラを愛しているから。ターラも私を、愛してくれているからです……。


 今私は、マンスター城内にあります。
 マンスター王宮、そしてロプトの秘密神殿は、リーフ軍の手によって制圧されました。
 北トラキアを支配していた暗黒司祭ベルド、マンスターの領主レイドリックを倒し、ようやく北トラキアはロプトの楔より解放されたのです。

 皆が北トラキアの解放が成ったという喜びに浮かれています。勿論、私も嬉しいと思っています。
 コノートを経てこちらに向かっているというセリス皇子の軍が到着次第、大広間でささやかな祝勝会を開かれることになりました。
 祝勝会まで間を。
 皆は最後の戦いで負った傷の治療を行なったり、疲れた身体を休めたりという時間に充てています。私は、負傷者の手当てを手伝っていました。

 トラキアの竜騎士ディーンも傷を負った人間の一人でした。暗黒魔法の効果で、体内を毒が巡っていたのです。
 見た目には分からないのをいいことに、ロプトとの戦いで退くこともせず、治療も受けなかったそうです。自分で応急処置を施しただけで。
 彼らしいと言ってしまえばそれまでですが、もう少し、自分を労わって欲しいと思います。

 緊急の医務室となったサロンに客の姿が疎らになったころに。やはり、身体の具合が芳しくないと、ディーンは笑いながら入ってきました。私は彼に駆け寄りました。レプトの杖でもって、彼の身体を清浄しました。
「暗黒魔法を受けただなんて……苦しかったでしょうに。何故、もっと早くに言ってくださらなかったのですか」
「魔法を受けたと言っても掠ったくらいだ。大事ないと思った」
「闇の魔法には、ゆっくりと身体を蝕んでいくものもあります……お願いですから、無茶はしないでください」
「ああ……」
 彼は、短く言いました。
「助かった、リノアン」
 私は小さく笑って、言いました。
「……どういたしまして」

 治療を終えた彼は、上着を羽織りながら、立ち上がりました。
 私は、彼の立ち姿をただ見ていました。
 そのまま去ろうとする彼を、ただただ見ていました。
 ディーンは私の顔に視線を落としました。
「リノアン……?」
「はい」
「……何か……用でもあるのか?」
「用……ですか」
 考えてみたのですが、特に思い当たりません。私は力なく首を横に振りました。
「そうか」
 彼は苦く笑いました。
 もう一度、腰を降ろしました。
「少し、話をしても大丈夫か?」
「え、あ、はい……っ!」
 負傷兵の手当てはあらかた終わっていました。ですから、頷きました。


 そのまま。セリスさまの解放軍が到着するまで。
 私はディーンと話をしていました。 

 彼と出会ってから、2年の月日が流れました。
 近頃、彼と話をすると……話題は自然、過去のことへと向かっていきます。
 リーフ軍に同行してから。レンスターの奪回がなってから。
 北トラキアの未来に射し込む光が強くなるたび。闇が一つ、払われるたび。
 私たちは先のことを話さなくなりました。

 ターラにあって。どう足掻いても先には闇しかないのだと、帝国には敵わぬのだと……考えずにいられなかった時期。
 あの頃は、未来のことばかり話していました。
 未来の話というより、希望的な観測といったほうがしっくりくる内容だったかもしれません。リーフさまをお迎えする話。ターラから帝国が撤退する日の話。ターラが住人の手に戻った時の政治、経済の在り方。
 夢物語と言ってしまえばそれまでだった未来が現実味を帯びて。北トラキアから闇が払われて。今こそ、光ある未来について語るべき時なのに。……出来ません。

「リノアンを初めて見た時は……小さな娘だと思った」
 ディーンとの話は、出会った頃のことにまで遡りました。
「正直、こんな小さな娘がターラの代表として立つことになるのかとの危惧もあった。だが……よく頑張ったな」
「沢山の人が支えてくれましたから。だから私は、ターラのために頑張れたのです」
 私は、彼の黒瞳を見て言いました。
「リノアン……」
「これからも、ターラのためにできるだけのことをしたいと思っています……支えてくれた人のためにも」
「……いい顔になったな。もう、怯えていた子供ではないな」
 彼はどこまでも優しく微笑みました。
 私は苦笑しました。
「小さな娘に、怯えていた子供ですか。私のこと、そういう風に見ていたのですね……」
「……昔は、な」

 ディーンは床に置かれた手を、持ち上げました。
 私の顔と彼の胸の中間で、その手の動きは止まりました。そして、床に戻りました。私はただ、その動きを見ていました。
「そろそろ、時間だな……」
 そう言うと、彼は立ち上がりました。
 そうして私に、手を差し出してくれました。
 本当はずっと触れていたい、優しい手。
 私はその手を取り、立ち上がりました。


 私とディーンは、大広間に入りました。
 セリスさまの解放軍は入城されたようですが、まだ広間には見えていませんでした。
 祝勝会が始まるまでは、少し時間がありました。
 ですが、これまで共に戦ってきたリーフ軍の主だった人間は、すでに集まっていました。

 北トラキアの解放がなって。皆が一丸となって目指してきたことが成し遂げられて。光を求める戦いの中で絆を深めた仲間たちはそれぞれの戻るべき地に戻り、新たな目標に向けて尽力します。
 各々の未来に向かって、皆が歩き出すのです。

 私は隣に立つ人を、そっと見上げました。
 この人は、何時まで隣にいてくれるのだろう。
 彼の故郷はトラキア。彼はアリオーンさまの部下。そしてアリオーンさまの考えを、誰より理解する人……。
 私が彼の傍らに在りたいと願っても叶わないことです。願ってはいけないことです。
 ディーンがふいに視線を落としました。目が合いました。彼の口が、動きました。何かを言いかけたようでした。でも、何も言いませんでした。
 ……どちらともなく、視線を逸らしました。
 私たちの視線の先には、リーフさまの姿がありました。
 リーフさまは、皆に労いの言葉……ごく個人的な労いの言葉をかけて廻っているようでした。
 リーフさまは、私たちの姿を見つけてやってきました。

 それから……。
 リーフさまと今後のことについて、お話しました。
 ディーンとも……先のことについて、少しだけ、話をしました。


 その日の夜。
 マンスター城。私に充てられた一室。

 私は寝床に入りました。久々の柔らかい寝床に。
 ここ数日は、戦いの連続。身体は眠りを欲していました。
 でも、眠れませんでした。

 昼に口走ってしまったこと、何度も頭の中を巡ってしまい……。彼の言葉が、何度も耳に響いて……。

『ディーンが嫌なら、ターラに戻るのはあきらめます。だから、このまま一緒にいてください……』

 言うつもりはなかった。願ってはいけないと思っていた。
 全てを捨てても彼と一緒にいたい。
 昼には出てきてしまったのです。口から。心から……。
 北トラキア解放がなったことで、心の枷が外れてしまったのかもしれません。
 彼が傍にいて私を支えてくれる。その幸せが消える恐怖が、抑制していた想いを放ったのかもしれません。

 私はほんの少しの間。ターラ公女ではなく、ディーンの言うところの“小さな娘”“怯えていた子供”……ただのリノアンに戻ってしまったのです……。

 私は口を抑えて、その場にへたり込んでしまいました。
 ディーンはそんな情けない私を一喝してくれました。

『馬鹿なことをいうな、リノアン。お前らしくもないぞ!』

 表情は怒りを表すようなものではありませんでした。顔から読み取れるのは困惑と驚き、そして哀しみ、でした。

 ……だからこそ、余計に。
 私らしくない。その言葉、脳に入り込んだのかもしれません。
 私は彼を困らせたくも、失望させたくも、ないのです……。

 これからも、ターラのためにありたいと思う。
 彼に言った言葉。彼が優しい笑みを浮べて聞いてくれた言葉。これは真実です。
 真実のはずなのに、それでも。彼といたいと思ってしまったのです。彼の傍で、ターラ公女ではなくただのリノアンとして存在したいと思ってしまったのです。
 それも、私の真実なのかもしれません。
 でもそれは、ディーンやアリオーンさまを含めて、ターラ公女を支えてきてくれた人に対する裏切りの真実です。

 彼はずっと一緒にいたから。私がターラをどれだけ愛しているか。私がどれだけターラの民から愛され、必要とされてきたかを、知っている。
 ディーンは故郷を何より愛している。私のことも、同じだと思っている。故郷を一番大切に想っていると。
 だから彼は。私に、ターラ公女に寄せられた多くの想いを踏みにじるような言動を、してほしくなかったのでしょう。だから。厳しい言葉で私を窘めたのでしょう。ターラに戻るよりも彼に傍にいて欲しいと願う私の気持ち。それは一時の感傷なのだと気付くように。

 私も……大切な地を、人を……裏切りたくはない、です。

 彼がトラキアを愛するように、個を捨ててターラを愛せたらいい、そう思います。そうしなくてはいけないと思います。ディーンの言う“私らしい”私になりたいと思います。

 でも、本当の私が望むのは……。

 その続きは考えてはいけないことです。だから、考えません。考えたら、また口をついて出てくるかもしれません。そうしたら、また彼を困らせます。

 私はターラのためにあればいい。ターラのためにありたい。
 何度も繰り返しました。自らに聞かせるように、繰り返しました。
 ターラのためにあればいいのだと、ターラのためにありたいのだと。
 それだけを考えました。
 ターラを愛している。何より愛している。ターラを……。

 私はこうして。望みを望みで上書きしていきました。


 カーテンの隙間から、微かに射し込む薄い明かり。
 結局私は一睡もできぬまま、朝を迎えました。

 コツン。
 ガラスを鳴らす音がありました。
 気のせいかと思いました。

 コツン。
 もう一度、ありました。音。
 寝台より出て、窓辺に立ちました。

「ディーン……っ」
 ベランダに、ディーンの姿がありました。
 視界にディーンと……見慣れた彼の愛竜が入りました。

 竜は低空を飛行しています。そして、その胴には朝の空中散歩には相応しくない量の荷物が括りつけられていました。荷物と言っても、大半は武器、防具類なのですが……。

 外に出なくてはと思いました。
 ……錠を外す手が震えます。引き戸に掛ける手も震えました。
 私は何とか戸を開け、ベランダに出ました。

「朝早くにすまない。寝ていたか?」
 ディーンは言いました。私は首を振りました。
「……そうか」
 彼は短く言ったきり。黙ってしまいました。
 続く言葉の予想はついていました。
 私は……暫く言葉を待ちました。別れの宣告を。

 彼の視線の先には、私の目があります。おそらくは、赤みを帯びているだろう瞳に、腫れあがった瞼……。
 彼は、口を開きかけました。
 その口許は震えていました。瞳には翳りが見えました。

「ディーン」
 やはり私は、自分から切り出すことにしました。

 昨日。私はディーンに厳しい言葉を……無理に言わせてしまいました。
 彼は本当に優しい人だから、私を哀しませたくはなかったでしょう。
 それなのに、私を拒絶するかのような言い方をさせてしまいました。彼の言葉を哀しいと感じてしまいました。
 申し訳なく思っています。
 だから今度は。彼が安心して去れるように。ターラ公女の私を見せなくてはいけない、“私らしく”送り出さなくてはいけない。そう思ったのです。

「戻るのですね、貴方の故郷へ……」
「ああ……トラキアは俺の故郷だ。これ以上、ここにいることはできない」
「はい」
 私は微笑みました。少なくとも、微笑んだつもりです。
「セリスさまの解放軍は、これからトラキア王国の領地に入るそうです」
「知っている。リノアンも同行するのか?」
「はい。そのつもりでいます……」
「次に会うのは戦場かもしれないな。そうならないように尽力するつもりではいるが」

 トラキアはグランベル帝国と同盟を結んでいます。グランベルへと進攻する解放軍をやすやすと通すことはしないでしょう。このままいけば、戦いが起こるのは必至です。

「……私も、微力を尽すつもりです。無用な戦を回避するために」
「リノアンが1日も早くターラに戻ることが出来るよう、祈っている。ターラの平和的な返還がなるように」
「……ええ。アリオーンさまは約束してくださいました。帝国を討ってターラに戻ったらば、ターラをお返しくださると。私は……ターラを武力でもって奪い返すことが正しいことだとは……考えていません。進軍途上にあるといってトラキアと戦いを起こすことが正しいことだとも、思えません」
「その通りだ。トラキアはグランベルの唯一の同盟国だが、対等のものとは言い難い。戦わずに済む方法があるはずだ……」
「貴方はアリオーンさまの下で。私は、リーフさまと共にあって……」

 ディーンはトラキアに帰りアリオーンさまと共に、トラバント王の説得にあたるのでしょう。私はリーフさまと共に解放軍に身を置き、話し合いの場を設けるよう進言しようと思います。トラキアに占拠された国の代表として。

「互いの場所で、力を尽しましょう。傷つく人が一人でも減るように」
 私は、手を差し出しました。ターラ公女として。
「そうだな。出来るだけのことをしよう」

 ディーンは握り返してくれました。ターラ公女の手を。
 彼と対等の関係で手を握ったのは、初めてのことかもしれません。
 いつも、支えられていた。いつも、引いてもらっていた……。この優しく大きな手に。
 感謝しています。とても心地よかった。
 でもそろそろ、一人で立たなくてはいけない。自分に言い聞かせます。 

「元気でな」
「貴方も」
 彼の瞳に翳りの色が消え去った訳ではありませんでした。
 私の心に痛みがなかった訳でもありませんでした。

 それでも私たちは微笑を交わしました。

 一緒にいられないなら、せめて同じものを目指したい。同じく世界の光を目指しているから、別れなど辛くない。そう考えることくらいは許されるように思えました。彼も同じ考えだと嬉しいと思いました。
 そうとでも考えないと……一人で立つことができないのです。今はまだ。

「では、そろそろ行くな。皆が起きる前に」
「はい」

 ディーンは私に背を向けました。竜笛を吹き、竜を呼びます。
 彼の愛竜が、寄ってきました。別れが近づいてきました。

「あの……っ!」
 ディーンは、顔だけで振り返りました。
「私……」
 リノアンが、一緒に行きたいと言っています。再会の約束が欲しいと言っています。
 でも私は、何とか彼女を抑え込みました。
「貴方に感謝しています。これまで、本当にありがとうございました」
 言って、深く礼をしました。
 ディーンは私の全身を視界に入れていました。しばらくそうしていて、それから首を振りました。
「リノアンに会えてよかった」
 それだけ言って、優しく力強い笑みを最後にもくれました。

 これでよかったのです。

 私はターラを愛しているから、ここにあって、ターラに戻れるよう尽力しなくてはいけない。ディーンはトラキアを愛しているから今、トラキアに帰る……。
 別れは仕方のないことなのです。
 リノアンにそう言って聞かせます。

 いる場所は違えども、同じように誰もが傷つかない世界を目指しているのだから平気。別れを哀しむよりも、共に在れたこれまでを感謝したい……。
 私はそう思います。

 ディーンが竜に跨りました。手綱を繰りました。飛翔しました。

 広い薄青の中を翔びゆく蒼き勇者の姿。
 力強くどこまでも自由な、彼の飛翔する姿。
 消え去るまで、消え去っても。
 ……私はトラキアへと続く空を、見上げ続けました。

でも本当の私は、貴方といきたいって泣いていました。

FIN

 

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