生涯のとき


 シレジアはセイレーン城。
 レプトールとランゴバルドの策略によりアグストリアを追われたシグルド軍は、シレジア王妃の好意により、この城に滞在していた。
 先にあるのは不安ばかり。
 だが軍の人間は一日一日を懸命に生きていた。 生き抜くために、次の戦いに向けての鍛錬や武器の手入れを怠らない。生きていくために、食料の確保のため農作物を育てる。健やかに生きるために、城の手入れをする。
 そして。生きていることを確認するように、人の絆を深めていく。友情を育み、恋しい人との結びつきを密にし、愛の成就によって生まれた子供に、新しい愛を注ぐ。  
 多くの恋人同士が神の祝福を望み、多くの恋人同士が次々と結婚という形をとっていった。それはささやかな幸福の連鎖。
 そんなの中で、出会ってからたった半年。恋人という状態になってからたった三月のフィンとティルテュも結婚という形を求めることになった。

 二人が出逢ったのは、アグストリアの北、ブラギの巡礼地として知られる離れ島だった。
「間に合うか……っ」
 真実を知るための祈りを捧げるためにブラギの塔に向かったエッダ家長と同行するフリージの公女が海賊団に襲われているという情報を斥候より得たフィンは手勢を率いて塔に向かった。
 海賊団は、7、80人ほどの部隊という。 槍騎士一個小隊で立ち向かうには、不安があった。先に村を襲う盗賊らと一戦を交えたばかりで、負傷者も抱えていた。だが、本体と合流する時間も惜しかった。天馬騎士にシグルドへの伝令を頼むと、フィンは西へと馬を走らせる。

「天と地、我との盟約に従い、その力を示せ……雷よ」
 ブラギの塔に到達した時、フィンの目に飛び込んだものは天からの光、雷だった。続いて、塔の細い入り口に寄せる屈強の男たちと、独り立ち、彼らを迎え撃つために雷を呼びつづける儚げな風貌の少女の姿だった。
「βροντη……っ!」
 フィンの部隊が海賊を包囲する形で塔に接近を果たした。海賊は耳にしていたほどの戦力ではなかった。賊の半数は、苦痛に呻き倒れ、あるいは、焼け焦げた死体と化していた。だから、包囲という形をとるのは難しくなかった。
 フィンが号令を出すと、槍騎士らは一斉にならず者にかかった。 もとより剣士としての基礎力が違う。海賊らは戦闘能力を失い倒れていく。あるものは、戦意を喪失し逃げ去る。あるものは、降参の意を示す。

「ティルテュ公女!」
 もはや敵ではない賊の合間を抜って、フィンはティルテュに接近した。
「こ……こないでよぉ……っ」
 精神と肉体、双方の疲労のためであろう、銀の少女は輝きのない瞳でフィンを見ている。

「βροντη……っ」
 彼女はフィンの姿を見てはいた。だがその映像は、意識には達しなかった。
 虚ろな思考状態の中で、フィンと敵とを判別できなかった。ティルテュは人工の雷をフィンに向けて発動させた。
「……っ!」
 不測の攻撃だった。フィンは手綱を繰り、馬に足と拳で扶助を与えた。
 フィンの迅速な判断により、雷の直撃を避けることはできた。雷の光は、馬の鼻先を掠っただけだった。……それは、馬の繊細な神経を撫でるには十分なものだった。
 馬の、悲鳴のような嘶きが、フィンの耳を裂いた。
 悲痛な大音がティルテュの耳と精神にも届く。無の瞳に魂が宿り、その顔に感情が湧く。
「あ……っ」
「ティルテュ公女でいらっしゃいますね! ご無事で何より……っ」
「貴方……誰」
「我々はシグルドさまの軍に所属するものです!」
「……シグ、ルドさまの……?」
「ええ! ですから、どうか魔道書をお納め下さい」
 フィンはどうにか馬を止め、姿勢を正し、常足でティルテュに近づいた。
 ティルテュは賊の残党を追い、捕らえる<騎士>らの姿を見ていた。そうしてフィンらを敵ではないとわかる。魔道書を持つ手を下げた。
「遅くなって申し訳ありません。ご無事で何よりです!」
 ティルテュの間近まで近づき、馬を降りる。
「シグルドさまの……シグルドさまの……」
「もう大丈夫ですよ」
 その言葉に弾かれたようにティルテュはフィンの瞳を見た。フィンもまた少女の瞳を見た。ティルテュの薄紫の瞳には水が滲んでいた。

 遠目に見た時は、勇ましい魔道士が劣勢の中、果敢にも戦っているようにフィンの目には映っていた。こうして目の前で少女を見ると、何故そう見えていたのか不思議なくらいだった。震える己が腕で抱きしめ佇む少女の姿はか細い。
 
「あたしたち、助かったんだぁ……」
「わ、ティルテュ公女!」
 ティルテュの肘が折れた。身体中の力という力が全て抜けたかのように、地に落ちゆく。フィンは細身を支える。
「あの、大丈夫ですか?」
「ご、ごめん〜〜〜〜〜。身体に力が入らない〜〜〜〜」
「ご立派でした……怖かったでしょうに」
「ううん、怖くなんてなかったよ……」
「そうですか……」
「うん。あたし、強いもん。でも……」
「でも……?」
「賊は次ぎから次ぎに来るし、神父さまは怪我しちゃうし……どうなるのかと……って、そうだ、神父さまはっ! 神父さまを助けて! 血がいっぱい出て……もう、どうしたら……」
「ティ、ティルテュ公女……」
 ティルテュは、ついに泣き出してしまった。フィンの胸に顔を埋めて。
 フィンはティルテュの背を撫でながら、肩から腕に掛けて傷を負ったクロードが二人の騎士によって塔の中から運び出され応急処置を施されているのを確認した。部下の一人を呼び、クロードの様態を聞いた。

 傷は残るかもしれないが、命や日常生活に残るような傷ではないとの報告に、ティルテュ共々、安堵の息を洩らした。
「よかったですね、ティルテュ公女……」
「……」
「ティルテュ公女……?」
 極度の緊張の中にあった彼女は、ようやく安心できたのだろう。フィンの中で、意識を失っていた。
「ゆっくり、おやすみなさい」

 途切れるまで、頑張りすぎる少女。
 それが、フィンの最初に抱いたティルテュの印象だった。

 ティルテュが最初に懐いたフィンの印象は、“素敵な騎士さま”。

 優しげで細身の騎士が、次々と襲いかかる賊を無駄のない槍の動きにより凪いでいくさまに、彼女は状況を忘れ掛けた。絵物語の騎士そのものの騎士をずっと見ていたい衝動に駆られた。
 安全が確保されたことに気が弛み、泣いてしまったティルテュに対して、フィンは不器用な優しさを見せた。ただ泣きじゃくる彼女の傍にいて、時折、背中を撫でてくれた。
 その時に。ティルテュはフィンを好きだと思った。漠然と、思ったのだ。
 一目惚れに、限りなく近い恋の始まりを、ティルテュは自覚していた。
 だから、頻繁にフィンに話しかけた。
 アグストリアからシレジアに逃れる船の中でも。セイレーン城でも。いつも、真っ直ぐに愛情の表現をした。フィンを好きだと口にし、好意的な眼差しで、彼を見詰め続けた。

「あ、フィンさん。今日はもう終いなの?」
 フィンがティルテュの気持ちを知ったのは、出会いよりひと月たった頃だった。
 それまでもティルテュは頻繁にフィンに話かけたし、傍にいようとした。
 だがフィンは、軍に参入したばかりの彼女には、話相手も少ないから寂しいのだろう。連れのクロードは多忙な身。だから、代わりとして自分に構うのだろう。フィンはそう考えていた。

 その日フィンはセイレーン城の西庭で、剣の形の稽古に励んでいた。ティルテュは横で、見学をしている。
「あの……ティルテュ公女。退屈ではありませんか?」
「なんで?」
「なんでって、槍の稽古の見学など、さして面白いものでもないでしょう」
「そんなことないよ、面白い」

 ティルテュは自然な笑みを浮べて言った。
「あたし、フィンさんのことなら、何時間見ていても厭きないから」
「はあ……」
 フィンは、返答に窮した。ただ暇だから、ティルテュは自分の傍にいるのだろうと思っていた。好きだという言葉も、近頃、彼女が自分に向ける言葉や視線は、違う種類のものなのではないかと、思うようになってはいた。そうであったら嬉しいとも……。
  だが、そんなはずはない、と確かめもせずに否定してしまっていた。
 フィンはこれまで、色恋沙汰とは無縁であった。勿論、人並みに恋に対する憧れはあったし、女性に好意を抱くこともあった。だが、周囲の人間のように女性の話題で盛り上がったり、胸に芽生えた淡い想いを育て、実らせようとしたこともなかった。よって、個人的に親しい同年代の女性はいなかった。

 ティルテュは可愛い。
 清楚な美少女という響きが似合う顔立ちに、感情の起伏とともに生き生きと動く表情。透明感のある声。明るく前向きな……だけど、本当は寂しがり屋な、性格。
 ティルテュから好意を向けられて、悪い気のする男などいないだろう。その反面、もっと相応しい相手などいくらでもいる彼女が自分を恋愛の対象にするとも思えなかった。レンスターでは名門に類されるの生まれのフィンであるが、六公家の令嬢と釣り合うほどの身分はない。

「もしかして、気が散る?」
「そんなことはありませんが……」
「よかった……ぁ。あたし、フィンさんの迷惑にはなりたくないもんっ」
「はあ……」

 彼女のまっすぐな表現は、嬉しい。
 ただ、やはり対応には困る。彼が異性に好意を寄せられたのは、はじめてのこと……正確にははじめてのことだと思っていた……だったために言葉一つ、表情一つを、迷ってしまう。
「“はあ”って、フィンさん、そればっかり。煮え切らないなぁ」
「すみません……」
「謝らないでよぉ。それより、はっきり聞きたいっ! フィンさんの気持ちっ!!」
「は? 気持ち……?」
「だから、フィンさんがあたしのことどう思っているのか、はっきり聞きたいの! 迷惑なら、もっと迷惑掛けちゃう前に、いさぎよく身を引くから」

 ティルテュのひたむきな目線。真剣そのもの。
フィンは答えなくてはいけないと思った。強い想いに。
「あたしはフィンさんが大好きなの!」
「ティルテュ公女……」
「あたしのこと、嫌い……?」
「いえ、そんな、嫌いなど、とんでもありませんっ!」
「じゃあ……えっと……あの……好き?」
「……好き、です……」

 小さな声で答える。勢いに押された。それは自分への言い訳。出会って間もない相手と想いを交わすことへの。フリージ公女である相手の身分も、レンスター騎士としての立場も考えずに返答してしまったことへの。
 フィンは、答えたかったのだ。彼女の想いに。最初から。
 ティルテュに傍にいて欲しかったのだ。他の誰でもない彼女に。ずっと。  

 結婚を決めたことにしても、同じように流れだった。

「ね、結婚、しちゃわない……?」
 唐突、だった。結婚、の前に話をしていたのは、その日の夕飯の献立について、だったというくらいに、脈略もない会話の流れだった。
「え……っ」
 息を呑み、フィンは恋人ティルテュの顔を凝視した。
 彼女は口許に笑みを浮べていた。けれど、フィンを見詰め返す真っ直ぐな瞳は、ぎこちなく揺れていた。 フィンの手を握る小さな手は、微か、震えていた。

 雪の街に出た、帰り道。
 空は赤く、吐く息は白い。だが、彼女の震えが、シレジアの寒さがもたらしたものでないことは、容易に想像がついた。
 ティルテュとの結婚。仲間の結婚式を何度となく参列する中、考えたことがなかったといえば嘘になる。ただ、踏み込めなかっただけだ。出会ってから、たった2か月。そして、戦争の只中。身分も違う……。

「やっぱり……駄目?」
 ティルテュは言って、悪戯っぽく首を傾げた。
 掠れる声から、不安が漂う。
「駄目じゃあないよ、結婚しよう」
「え、ほ、本当に? いいのっ!?」
 大きな瞳が、さらに、大きなものとなった。
 愛らしい笑顔に釣られるように、フィンの口許にも、自然に微笑みが浮かんだ。
 ティルテュに哀しい顔をさせたくはない。喜んでくれることが、何より嬉しい。
「はい」
 これまで長く一緒にいたわけではない。これから先も、長く一緒にはいられないだろう。結婚。その形をとることに、憂いがないわけではなかった。
「結婚しましょう、ティルテュ……」
「嬉しい……フィンさん、大好き」
 それでも。
 ……それでも。
 フィンはティルテュの気持ちに応えたいと思った。彼女の笑顔の輝きを、一時でも曇らせたくはなかった。
 だから、頷いた。彼女を幸福にしたくて、フィンはティルテュとの結婚を決めたのだ。  

「父さまは、母さまと出逢ってから、半年で結ばれたのですって?」
「だれから聞いたのだ、そんな話……」
「グランベルに訪問した折に、オイフェさんから」
「オイフェ殿も余計なことを」
 可愛らしい声で笑う銀の少女。
 若き日の妻に、よく似た少女。二年半前再会した時、すぐに娘ティニーであるとわかった。
 ティニー。彼女の存在は、知っていた。ティルテュがアルスターで囚人のような生活を強いられていたことも、若くして死を遂げたことも、知っていた。フィンは同じく北トラキアで生存していた。噂を聞くことはあった。だが妻と娘を迎えに行くことはできなかった。彼が連れるは北トラキアの希望。リーフを連れ、フリージ中枢に近づくなどできようはずがなかった。レンスターの未来を消す、そんな危険を冒すことはできなかった。
 目を凝らせば、レンスター城に掲げられたノヴァの旗を見ることができる。行動に間違いでなかったことは知っていた。だけど、後悔がなかったといえば嘘になる。
「ティルテュ母さまが、かなり積極的だったのですってね。少しだけ、意外でした」

 聖なる戦争を生き抜いた親子は二人、アルスターの片隅にある墓地を訪れていた。公族が眠るとは思えぬ粗末な墓石。そこに刻まれたティルテュの名……。
 こみ上げる想いを振り切り、二人は故人のことを話す。
「ではティニーは、私のほうが積極的だと思っていたのかい?」
「そう言われますと……お母さまは、物静かで、どこか寂しげな方でしたから……あ、だけどお父さまもそうですしね……うーん」
「物静か、か……」
 フィンの知る妻は、いつも元気いっぱい。内面の哀しさも不安も押し殺して、笑顔でいる。そんな女性だった。
 ……二年の間しか、ともにあれなかったけれど。心の底から愛していた。あの笑顔を、護りたかった。……できなかった。
 若き日の無念が、胸を苛む。
「父さま……?」
 ティニーはフィンの頬に手を延ばす。その指に雫が流れる。
「でも……そういえば、母さま、出逢ってすぐに父さまに夢中になったって言っていましたわ」
「夢中になったのは、私も同じだった。はじめて逢った瞬間から芽生える恋もあるのだよ」
「素敵な話ですね……」  
「ずっと一緒にいたいと思っていたよ。ティルテュとも、アーサーとも、ティニーとも……。近くにいたのに、迎えにいけなくてすまなかった」
 本当は、亡き妻へあてた言葉。娘は首を振る。
「母さまは、父さまのことはあまりお話してくださらなかった。逢いたいけど、逢えない人。逢ったら、いけない人なのだとしか……。叔父さまや叔母さまに詰問されても答えなかった。多分、わたしたちを人質にして、父さまとリーフさまに害を成すことを……何より恐れていたのでしょうね」
「そうか……彼女らしい」
 迷惑を掛けたくない……若き日に妻が口にした言葉を思い出す。
 彼女を迷惑に感じたことなど、ただの一度もなかったのに。
「父さま……ありがとうございます」
「え?」
「生きていてくれて。今、隣にいてくれて。……それから、夫を護ってくれて」
 優しい微笑みを浮かべ、膨らみはじめた腹に触れるティニー。 出会った頃はか弱い少女だと思った。今は、強くて優しい娘だと思う。妻へのものとは正反対の印象の変化。

「お前も……ティニーだけでも……生きていてくれてよかった。幸福になってくれて……」
 父親は隣で花を捧げる娘を抱き寄せた。娘は、父の肩に頬擦りをする。
「父さまは今でも母さまのこと、愛してらっしゃるの?」
「ああ……愛している」
「……わたしたちに遠慮せず、他の人を娶ってもいいのですよ?」
 不安げに揺れる紫の瞳と、震える手が、亡き妻を想起させる。根源ではよく似た母子。 あどけない彼女も来春には母親となる。フリージで暮らす息子夫婦も、いずれは子を授かるだろう。無形の恋の証は血という形で続いていく。

「父さまは、まだお若いし、娘から見ても素敵ですもの。いくらでもお相手は……」
「……」
 フィンは横へと首を振る。

 二十年前。静かに雪降る地シレジアでの、束の間の平穏。
 それは生きるということを凝縮したような時間だった。生きること、愛すること。全てを懸けた時であった。ともにあれなかったことを悔しいとは思う。しかし、恋への後悔は微塵もない。
 ティルテュはフィンを愛し、フィンもまたティルテュを愛した。そうして生涯変わらぬ愛を、神に誓ったのだ。

「……私の妻は、生涯ティルテュ一人だよ」
  二年の恋は一生の愛となって、今でもフィンの中にある……。

 

FE創作の部屋