リーンに連れられてセティが辿りついたのは、城から徒歩で2刻半ほどかかる町だった。王都がトーヴェに移るまでは、過疎化が進んだ、年寄りばかりの村。自分たちの畑で作った野菜と、老女たちの手による工芸品を市で食物と交換することで、生活をしている。

 今では、王都にほど近い町ということで居住者も増えた。月に一度開催される、近隣の村の人だけが集まる細々とした市は、今ではシレジア中の商人や王都の人間が集うようになった。
 今日は市が開催される日であった。情報として知ってはいても、セティが実際、市に赴くのははじめてのことだった。

 今の空は、茜色。雲ひとつない空は、眩しいほどに赤い。真冬ならば、すでに紺に染め上がっているであろう時間帯である。
 遠方より訪れた商人の店はすでに片付けを終え、帰路についている。まだ残っている露店は、生活のために多く物を売らねばならず、かつ、持ち込む売り物の量を多くすることが可能で、帰りの心配のない人間……つまり、地元の人間のものだ。買い手の姿は、昼ほど多くはないが、夕刻には、売れ残った品を安く買えることが珍しくないためか、人の接触せずに前に進むことは難しい程の密度はあった。

 はぐれないように、という口実のもと、リーンとセティは手を繋いで歩いた。
 リーンはすでに町の人間とは顔なじみらしい。時折、気さくな挨拶の言葉が飛び交う。

「お、今日も踊ってくれるのかい?」
「うん、そのつもりよ。今日は星の下で踊りたいな、なんて」
「それは楽しみだねぇ。早く店片付けて、いい場所とらないと。場所はいつもの公園だろ」
「そのつもりよ。今日はナイトがいるから、ちょっと遅くまでいようかな」

「シルヴィちゃん。今日は恋人と一緒かい?」
「うん。えへへ。いいでしょ」
「仲良くやんなよ。それにしても、その彼、どっかで見た気がするんだけどなぁ……」
「き、気のせいよー。よくある顔だもんっ」

 だが、長く言葉を交わすことはない。踊るような足取りで、前に進んでいく。リーンにはすでに、目的の地があるようだった。何の気なしに発せられた単語の一つが、セティの意識を捕らえた。リーンを追いかけるように歩きながら、その疑問を口にした。

「……シルヴィ?」
「うん、そう名乗っている。お母さんの名前みたいでしょ」
「……私は、クロードと名乗るべきか……?」
「それじゃ、露骨すぎよー」
「それもそうか……」
 では何と名乗ればいいか。レヴィン、というのも、この国ではクロード以上に人の意識に止まりやすい名前であるし……。
 そんなことを真剣に考えていると、手から熱が伝わった。リーンが手に、力をこめたのだ。

「リーン……?」
「……あたしね……シルヴィって、自分から名乗ったんじゃないんだよ」
「え?」
「踊っているあたしを見て、シルヴィって言った人がいたの。咄嗟に頷いちゃって。で、本当の名前を言うわけにもいかないし、そのまま通しているの」
「シルヴィ……風の精霊という意味かな。グランベルの神話に出てくる」
「それかな、ってあたしも厚かましくも少し思ったけど、違うみたい。その人ね……あたしに似た、あたしと似た踊りを踊る人に、昔、会ったことがあるんだって……二十年くらい前……」
「……二十年前……」
 二十年ほど前。シグルド軍は、このシレジアで一年を過ごした。セティの両親、それから、 リーンの両親も、このシレジアにいた。リーンの母は、従軍していた踊り子で、名をシルヴィアといった。

「その人ね、戦いの途中で立ち寄ったこの町の広場で、踊ったんだって。長い内乱で、生きていくことすら難しくてって時で……レヴィンさまの応援をしたいけど、マイオス公の報復も怖いし、戦いにいかないと食料を貰えないから、徴兵に応じるつもりだったんだって。でもね、シルヴィ……さんの踊りを見て……勇気が出たんだって。不毛な戦いを拒む勇気が」
「それは、どんな英雄にも匹敵する功績だな……」
「うん……その時の踊りを忘れたことはないって人、たくさんいてね……二十年も前の話なのに」
「その人は、君の母のシルヴィア殿……?」
「わからないけど……お母さんな気がしている……」
「そうか……」

「あのね……踊りを見た人の中に、シルヴィさんに剣を贈った人がいたんだって……踊りのお礼にって」
 空いている手で、腰に吊るした剣に触れる。守りの剣と呼ばれるそれは、敵対心を持ったものと向かうと光の盾を作り、持ち手の身を守る。魔法剣の類。書物の中で見ることはあったが、実物はリーンの持つ物しか見たことがない。
「守りの剣と言ってね。戦うためではなく、身を守るためにある魔法剣。なんでもね、その人のうちの家宝だったんだって。だから見れば、きっとわかるだろうって。普段は山奥に住んでいて時々しか町にこないけど、市の時は確実に出てくるんだって……」
「そうか……それで今日、町に出たかったのか……」
 納得をする。楽しげに、街に出ていた理由も……。

「うん。あたしの踊りを見たいって言ってくれているらしいの……あたしが踊り子になったのは、お母さんを探すためだったって、話したことあったよね」
「ああ、聞いた。だが……君の母君はもう……」
「うん。レヴィンさんやフィンさんからお母さんの話を聞くことはできたし、弟にも会えた。結局お母さんとはもう会えないってことがわかっちゃった、とはいえね。でも、知ることができてよかったと思っている。ただそれは、踊りとは直接関係のないところで、だから……」
 人の波に何度となく踏みつけられた残雪が薄い氷となり、歩くにも注意を要する道となっている。小さな足音を立てて、二人は進む。リーンの声は二人の足が発する音よりも小さいくらいだった。人の波が生む、周囲の音に吹き消されてしまいそうな。だが、セティには、彼女の言葉は全て届いていた。
「踊り子になった目的は、まだ果たしていないの……」

  リーンの母シルヴィア。
 恐怖、憎悪、悲哀。あらゆる負の感情を忘れさせる光の申し子のような踊り手だったという。
 そして彼女は、戦いの中で出逢ったエッダ公主の妻となった。世界が平和だったなら、結ばれること……そもそも出会うことすらなかった二人はこのシレジアで結ばれ、二人の子を成した。
 どのような形で知ろうとも、事実は変わらない。だが事実を求める人にとって、事実を知る形というものは、軽いものなのだろうか。違うだろう。

「踊っていたから、母のことを知る人に会えて。母が踊ったから貰えた剣のことで、母のことがはっきりする。順番違っちゃって、お母さんのことある程度は知っているしあたしももう踊り子じゃあないけど、でもね……」

 いつ知るか。どのような形で知るか。どのような心の状態の時に知るか。それによって、事実の受け止め方は大きく変わる。
 
 踊り子であったがゆえの悲しい出来事も、一つや二つ、あったのだろう。それらに耐え、生きてきた意味はなかった。リーンがそう考えたところで、おかしなことではない。
 彼女が事実を知った時、前の恋人アレスと別れた直後だった。
  はじめて愛した人に選ばれなかったことを、客観的に見て不利とされる条件の所為にして、己の心を護ったのだろう。あるいは、そうすることで元恋人とその伴侶を憎むまいとしたのかもしれない。素性の知れない踊り子と騎士と王女の間に生まれた女騎士。較べれば誰だって、と。これは仕方がないことなのだ、と。それなら自分が踊り子でさえなかったら? 踊りとは関係のないところで、母のことを知った。踊り子になったことに、意味なんてなかったのに。踊り子になど、ならなければよかったんだ……。
 負の感情は、新たな負の感情を呼び起こすもの。リーンが踊りを否定するのは、当然の流れのようにも思える。実際リーンは、セティの想いを受け入れる少し前まで踊ることをやめていた。

「……ずっと心の奥に燻っていたことだから……知りたいの、踊り子だったっていうお母さんのこと。あたしが踊ることで、知りたいの。そうしたら、もっと、踊りのことも……今の自分のこと好きになれる気がする」

 ……順番は違えども、<踊り子になった目的>を果たせば、リーンの中で何かが変わるのかもしれない。リーンの中にはすでに、元恋人への甘い想いはない。あるのはただ、深く傷ついたという事実だけだ。
 セティは、現在のリーンを愛していた。不満などない。だが、リーンが変わりたいと望むなら、変わって欲しいと思っていた。古い恋の痕など完全に消し去り、見えない呪縛から解放されて欲しかった。

 リーンが前方を指差した。
 か細い指の先には、申し訳ない程度の武器と、鍬や鋤の農作業用品を並べた露店があった。
 「いつも教会近くに店を出しているっていう鍛冶屋さんって聞いたけど、あの人かな?」
 リーンの前へと動く足が、速まる。手で繋がれたセティも、引きずられるように前に行った。
 店の主人は、二人の人間の影に立ち上がった。大きく開かれたその目には、緑の髪の踊り子しか映っていない……。
 

 その夜。星が薄く姿を現す時から日付が変わるまで、リーンは踊った。
 かつてシレジアの全土を暗い闇が覆っていた時、緑の髪の少女がそうしたように。
 その合間に、亡き母の話を、存分に聞いた。踊りが大好きだといって笑う、とびきり明るい太陽の娘の話を。彼女の踊りが町にもたらしたものがいかに大きなものだったのかを。

 リーンの母シルヴィアは太陽の踊りでもって、厚く覆われた雲の隙間から、この町に一筋の光をもたらした。娘リーンは遮るもののない空の下、闇を払いし王の傍らで、光の舞を存分に踊ることができる。彼女の舞は、近い将来、シレジア王国そのものを照らすことだろう。

 リーンはもう踊りを拒むことはない。失われた恋の傷痕が、その笑顔を曇らせることもない。
 母を捜すために踊り子になる。その選択が間違っていなかったことを確信することで、踊りを否定することで目を逸らしていた現実に向き合うことになる。心の傷は、原因を直視することで治る方に向かうもの。かつて目を背けた原因は、今となっては大したことではない。そう。単に運命の相手ではなかったというだけのこと。他に結ばれるべき相手がいたというだけの話だ。新たな恋という包帯と時の流れによって十分に癒されたその傷痕は、合う薬さえ見つければ消し去ることのできるものだったのだ。

 砂漠の砦ダーナの踊り子リーン。
 彼女が舞う目的が果たされる場は遥か北にあった。
 彼女の行き着くべき場所は最初から、風の勇者の隣にあった。

FIN

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