*

「お前、二ノに言わなかったのか?」
「何をだ」
「オレに言ったこと」
「……」
 一人地平線の向こうを見る少年に、ラガルトは軽い調子で話しかけた。探していた。だが、それを口にはしない。
「やっぱ言ってないのか。どうしてだ?」
「エルクは二ノが好きだ」
「二ノから聞いたのか」
「……見ていて、わかった」
「それで?  お前が一緒にいこうと言えば二ノだって……」
 少なくとも、先に言えば、うなずいたはずだ。
 ジャファルは、海上に揺らめく朱の太陽を見たまま、口の端を歪めた。
「オレには二ノを守る力はある」
「そうだな」
「だけどオレは明るいところで生きることはできない」
 ジャファルは己の手を見た。何人屠ったか、覚えてはいまい。それはラガルトにも言えることだった。
「二ノは太陽の下で笑っているのが似合う。一緒にいないほうがいい」
 ジャファルやラガルトの存在は黒い牙として知られている。
 陽の目を見られるような仕事には就けない。まともな生き方は知らない。できない。
 これまでの酬い。言ってしまえばそれまでだ。
 追うものから守ることはできても、追うものを根本から失くすことはできないのだ。

「……まあな」
 ラガルトも同じことを考えた。
 二ノは、元黒い牙の人間よりもエルクといたほうがいい。
 エルクの気持ちが本物で、相応の覚悟があるならば。

「あいつがニノを好きになった時、しめたと思った。あいつとなら普通の生き方ができる」
「普通に、生きられるかね」
 一時とはいえ、首領の娘だったニノ。ゼフィール王子暗殺を実行しようとしたニノ。彼女自身にどれだけの罪があろうか。無邪気に暗殺を幇助してきたこと。貴人の殺人を決行しようとしたこと。罪がないとは思わない。だが生涯闇に属さねばならぬほどの罪はないはずだ。しかし。
「ニノを連れていては、どう転ぶか。下手をすればあの坊やまで気の毒なことにならんかね」
  二人で平穏に生きるか、あるいは二人で堕ちるか。
「関係ない。あいつは今ニノを手に入れる。十分すぎるだろう」
 淡々と紡いだジャファルの言葉。もしエルクが聞いたなら頷いたに違いなかった。ニノが聞いたならば、自分にはそんな価値はないと否定の言葉を吐いただろう。

「なあ、ニノはゼフィール王子に顔を見られたか?」
「……わからない。視界の隅に入っていたかもしれない。声は聞かれた」
 ジャファル、と名を呼び、止める声を。
 『ジャファル』。敵に知られ、顔も見られた。もしもベルンに、王子暗殺未遂者としてジャファルが追われることになれば、ニノは己を責めるだろう。
 ニノ自身が狙われる可能性は、ジャファルやラガルトに較べて格段に低い。だが、ゼロではない。ゼフィール王子暗殺を企てたのはベルンの王。そして、リキアをはじめ他国に攻め入る隙を狙っているのもベルン王国。
 暗殺者は黒い牙の男女二人と知られているのだ。一緒にいれば、目に留まる可能性は高くなる。
 ジャファルは思い返す。
 利発な王子ゼフィールの瞳。彼の祈り。声。悪寒が走った。
 感情が消える一歩手前だと、理屈でなく勘がつげた。命令だからだけでなく、こいつは殺しておいたほうがいいと感じた。ニノが止めなければ、間違いないなくそうしていた。
 未来の闇に、身の毛がよだつ。
「お前は、それでいいのか?」
 ラガルトは問う。ジャファルは頷く。
 これでいい。
 この先、自身が闇の中でもがけばもがくほど、ニノを伴わなかったという現実を喜ぶことができる。悪くない。

 ラガルトは、口元が震えるジャファルを見ていた。考えてもいなかったことが、口をついて出てきた。
「なあ……オレと行かない?」
「……」
 ジャファルはようやっとラガルトを見た。瞳に戸惑いらしきものが揺れていた。
「おや、嫌か」
「……」
「おーい?」
 ラガルトは、ジャファルを扇ぐように手の平を振った。ジャファルの揺れが収まった。これだけ、言った。
「……行く」
 
 疾風と死神とて、共にあれば標的になる可能性は上がる。だが、自分の身くらいは自分で護れる。 何かが起こり、離れても引き摺ることはない。
 ラガルトはかつて、ネルガルの側にいた彼を仲間と認めたことはなかった。だが今のジャファルは、元黒い牙だった。ニノの先を按じた者の一人だ。もうしばらく共にあるのも悪くないと思った。
 ジャファルも近い感覚で承諾した。
 芽生えたばかりの感情が、独りは寂しいものと叩いている。ジャファルという器を、内側から、叩いてる。
 今しばらくは、誰かと、いたかった。

「どこへとは聞かないの?」
「……どこでもいい」
「そっか。まあ、そうだな」

 どこでも同じだった。二人には戻る場所はない。望みもない。

*

「ラガルトおじさん、少しいい?」
 船は陸に上がった。
 軍の者たちは、一旦オスティアに戻る。 だが、陸に上がってすぐの別れを選んだものもいた。
 例えば、陽の当たらぬ場所での生き方しか出来ぬもの。何かから追われるもの。何かを追うもの。あるいは、少しの時間も惜しむもの。
 ラガルトも、完全に日が落ちるのを待って姿を消すつもりだった。つかの間、仲間となったものたちと空間を共有する最後の夕暮れ、ニノが部屋を訪れた。

 彼女は笑っていた。だが、頬骨のあたりが震えていた。別れを予感した顔をしていた。
「まあ……いいけどよ。どうした」
 ニノは部屋の中を見る。旅立ちの荷は目につくような場には置いていない。だが、雰囲気で、状況で、察していた。探るように、ラガルトの背後を見る。
 乱れたままの布団と歪んだ枕。飾りとして置かれたテーブルの上の果実。ラガルトは、一人。いるかもしれない、いないような気がする、黒の姿はない。
「ね……ジャファル、知らない?」
「知らね……」
 嘘だった。落ち合う先は決めてあった。本当に会うかは、状況とジャファル次第だった。
「あたし、ちゃんとお別れも言ってないのに」
「お互い辛くなるだろ。ちゃんと言えんの? 永遠にばいばいってな」
「……そんなっ」
「そんなって何だ。まさか行き先を尋ねる気か? それとも一緒に行こうと?」
「……しちゃいけないのは、わかってる……けど。でも、いつか会えるかもしれないでしょ」
「まあな」
 ニノはしばし項垂れていた。別れの言葉も告げさせず、姿を消した大切な友だちを想う。ここで泣いたらいけないと言い聞かせる。
 前を向く。ラガルトを見る。ラガルトだけでも、最後に会えてよかったと考える。

「……ね、おじさん。あたし、本当にいいのかな」
「何がだ」
「一人、幸せになっても」
 ラガルトは肩を強張らせ、唾を飲み込んだ。
 ニノは前のめりになって言った。
「あ、あたし、初めての仕事はゼフィール王子の暗殺だったんだけど。失敗して、黒い牙として、直接誰も殺してないけど! あの時ね、目が合ったの、ゼフィール王子と」
  幼きニノは感情と理性が複合される過程にあった。もう少し無邪気ならば、殺していないから罪はないと捉えることができた。もっと思考が成熟していたなら、大国の王子暗殺未遂がこの先をどれだけ暗くするか、判ることもできた。
 半端だからこそ、惑うのだ。
「お前、エルクが好きか?」
「好きだよ」
「どうしてだ? いつからだ?」
「えーと……」
 ニノは、オスティアでエルクと交わした言葉を思い返す。
 誰も言ってくれなかった言葉をくれて、家族になろうと言ってくれて。額にだけどキスをしてくれて。額であったことを残念に感じて。
 エルクの傍にいると、ニノの心は穏やかな暖かさで満たされる。彼と行きたくて、その手をとった。
 一緒に行きたいくて、手を……? 違う、違う。好きだから、手をとった。
「エルクさんは優しいし、えーと、いろいろ話をしているうちに好きになったの。好きなの」
「オレや……ロイドやライナス、よりもか」
 ジャファルより。それを加えるのは酷な気がした。
 ジャファルにもエルクにも。何より、ニノに対して。
「え」
 ニノは強張り、言葉を詰まらせた。ラガルトは心の中で苦笑した。
 身の振り方を考えておいたほうがいい。そう言ったのはラガルトだった。
 恋人を見つけ、共に暮らす。それも事情を知る、だが自身に暗いところのない、才能ある魔道士と。元より理の才あるニノは、エルクと共に過ごし、自信と学ぶ機会を得ることで、能力を開花させていった。今のエルクには、ジャファルほどの力はない。だが彼はまだ成長途上であり、ニノも同様だ。エルクとならばもっともっと伸びていける。ニノはいずれ、護りを必要としない人間となれるだろう。
  上出来の、行き先だった。
「まあいいさ。とにかくお前さんはエルクを愛しちまったんだ」
「愛……う、ん」
 霧の中を手探りで進むニノ。差し伸べられたのは、夢中で掴んだのは、最良の手。
 ジャファルは、彼女へと伸びようとする手を抑えていた。
「だったら、信じてついていけばいいさ。愛したんだ」
 いいか、いいな。
 そのまま、道を歩け。後ろを振り返るな。疑念を抱くな。その手を放すな。
 それが、ジャファルとラガルト、そしてロイド、ライナス、ヤン……他の、ニノを愛しんだ人間全ての想いのはずだった。
「王子様は生きているんだ。気にするな。だが、そうだな。用心に越したことはないかもな」
 ラガルトは少女の短い髪を乱しながら言った。
「髪は伸ばせ。名も変えろ。都会では化粧をし、田舎では泥を塗れ。十年も立ってみろ、元黒い牙の少女二ノはどこにもいなくなる」
「ラガルトおじさん……」
「黒い牙のことは口にするな。忘れて、生きろ」
 ニノはまだ子供だ。それは、幸せを掴むための最大の武器だ。犯した罪の重さも、本当の愛も、大人になるにしたがって知ればいい。今ある仄かな想いを大事に育めばいい。全てはこれからなのだ。
「ありがとう。髪は伸ばすし、目立たないようにするよ。牙のことも口にしない。……でも、忘れない」
「そうか」
「あたし、絶対に忘れないんだから。大好きだった皆のこと!」
 忘れないように、ニノは大切な仲間を瞳に焼き付ける。ラガルトもニノを見る。

「ニノ……?」
 廊下から、 声がした。半開きの扉から遠慮がちに中を覗ったのは、エルクだった。
「お。お迎えだぞ、ニノ」
 ラガルトは頭から肩へと両手を下げ、少女の身体を反転させた。背中を押してやる。
 名残惜しそうにラガルトを振り返りつつ、ニノはエルクへと足を向ける。
「よ、エルクさん」
 片手を挙げたラガルトに、エルクは小さく頭を下げた。
「想像以上に手間のかかる娘っ子だが、まあ任せるわ。牙を代表して言うんだけどな」
 瞬間の硬直の後、意味を知る真摯な瞳が、頷いた。
「はい。貴方も、無事で」
「ああ、とりあえず無事にやってくさ」
 ラガルトは挙げたままの片手を左右に振った。エルクの隣で、ニノは言った。
「じゃあね。ラガルトおじさん。さ、さよならっ!」
  ニノの瞳は涙を溜めている。けれど、せいいっぱいに笑ってみせる。
「さよなら。達者でな」
  ラガルトも笑う。古き牙時代の顔で、最後に笑う。

 黒い牙は闇。太陽の光は刃となりて闇を刺す。明るい場では生きてゆけぬ。
 だから望む。ニノだけでも幸せを。ごく普通の、幸せを……。

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