夢醒めしときに

 

 アメリカがベトナムでしてきたことは代理戦争だった。
 共産党圏の広がりを抑えることを、南ベトナム単独でさせるべく、武器や人材を投入し、支援していた。だが、北ベトナムと北に指導されたベトコンによるゲリラ的攻撃に、米兵の命も多く奪われた。
 負傷者の増加、国内の反戦論により、近年はよき撤退の口実を探していた。
 1973年1月、停戦協定が調印され、アメリカ軍はベトナム共和国から撤退した。 クリスも、帰国することが叶った。
 だが、優しく迎え、讃えてくれるはずの故郷はどこまでも冷たかった。

 部屋の白いシーツは、清潔で柔らかい。食事も同じだ。柔らかくて暖かい。神経を楽にして、眠ることも、食べることもできる。
 時折天井だけを視界に入れながら、クリスは緑に覆われた謎の世界を想う。
 首を上げた弾が耳の端を掠める。不用意に一歩に進めば、地雷を踏む。体力を奪う熱気と、身にまとわりつく虫たち。雨期の、晴れていても暗い雲。突如体と耳を打ち付けるスコールは、予想していても、毎日驚いてしまう。ベトナムは、異世界。ベトコンは敵以外のものであってはならなかった。人ではない。敵だった。いくつの敵を屠ったかなど知らない。

 除隊される日を、指折り数えていた。生き残ることが最優先だった。
 だから、ベトナムにいる間、考えたことはなかった。考えるべきことではなかった。
 ベトナム戦争の意味。
 東南アジアを共産圏にしないために、社会主義の北ベトナムに侵されないよう、南を援護する。北を爆撃する。アメリカと北ベトナムではもとより武力が違う。少し権威をちらつかせれば、降伏すると当初は考えられていた。だが、そうはならなかった。北にソ連や中華人民共和国が肩入れしたこともある。互いに核を持つ国の冷戦。行き場のない炎は、東南アジアで燃え上がった。
 だが本当にベトナムでの戦いに、共産と民主を分かつだけの意味があったのだろうか。多くの同胞の命を捨てるだけの価値があったのだろうか。疑問視する声は後を絶たない。
 国のために、戦ったはずだ。そして、国の意向により撤退したはずだ。
 しかし帰国した兵たちに向ける人々の目はどこまでも冷たかった。
 いや、冷たいと感じただけかもしれない。
 北を焚きつけるだけ焚きつけて、南の人々を見捨てたこと。ベトコンを滅するため、罪なき村を焼いたこと。北の軍事施設以外の場所にも爆撃を落としていたという非公式の事実。誰が刺したのでもないナイフが、背中に突き刺さる。
 ともすれば考えてしまう、戦の意味。否定したくなる、命の危うい日々の意味。
 忘れたくて、体を動かす。考えたくなくて、眠りに落ちる。
 仕事と遊びと睡眠を繰り返す毎日を、クリスは一年以上続けた。そんなある日、辞令が下った。  
 再び、サイゴンへ行けと。

*

 南の首都サイゴンにて、大使館のドライバーを勤めること。それがクリスの新たな任務だった。  
 神経を張り詰めている必要はある。しかし、かつてカンボジア国境付近のジャングルで味わった生活とはかけ離れていた。いつ罠にかかるか、ベトコンに襲われるかわからぬ。一歩先に待つかもしれない死。想起を恐れるあまりに、あの空間と隣合わせの場にいるということを忘れるために、楽なことへと体と心を動かした。アメリカにいた時と、根本では変わらなかった。
 そして、月日だけが経過していった。
 べトコンがサイゴンに迫る。GIは近く引き上げる。何が起こってもおかしくない危険な時期が訪れた。辛さを忘れるため、最後の晩餐を楽しむため、米兵は夜毎街に繰り出す。クリスも倣う。街もそれを歓迎した。
 クリスがサイゴンにあって一番心地よいと感じる行為は、金を投げるように使うことだった。

 サイゴンは都会だ。そして、貪るようにドルを欲する。
 ベトナムとアメリカでは、1ドルの重みが違う。働いても、手に入れられる額が違う。
 アメリカでは日雇い労働で軽く稼げる額を、ひと月かけて懸命に得る。ひと月かけてでも得られれば、幸運な部類だ。それでもサイゴンでは田舎に較べれば金を得やすい。駐留する米兵の存在も一役かっている。彼らはベトナム通貨であるピアストルよりも安定して価値のあるドルを求めた。

 金と立場をちらつかせれば、女は喜んで体を開いた。男は常に地面に頭をつけんばかりだった。
 ギブ・アンド・テイク。互いに納得しての関係ならば、それでいいと思っていた。金を使うことで、皆が自分に感謝した。
 感謝を受けるのは、心地よかった。南ベトナムのためにここにいるのだと錯覚することができた。サイゴンには、国では誰も認めなかったクリスの価値を認めてくれる場があった。
 空虚の影が忍び寄るたび、金を使う。酒を呑み、薬を吸い、女と寝る。この繰り返し。周囲の仲間も、同じ。だから疑念など抱かない。抱くものかと、己に言い聞かせてきた。ほんの少しの疑念が浮かぶたび、がむしゃらに遊んで現実から目を背けた。
 だけどふとしたことで、白昼夢のごとき世界は薄くなる。変わって見ないほうが幸福な現実が浮かび上がる。

「なあジョン。おれたちのやってきたことって、何だろうなぁ」
 大使を待つ、2人だけの車内。突然のクリスの言葉に、ジョンは目を3度開閉させた。
「はあ?」
「……いや、だってさ……ああいうの見るとさ」

 ひと月ほど前、クリスとジョンは脱出用ヘリコプターの飛行テストのためサイゴン周辺を飛んだ。その時、一つの村の爆撃を目撃することになった。
「まだ気にしていたのか」
「当たり前だ!」
 ミトーの方角にある、小さな村だった。政府に確認したところ、ゲリラの巣窟になっているという情報を得て、ベトナム共和国の政府は自由爆撃地域に指定したということだ。ベトコンが多く潜んでいたのは事実だった。数でゲリラ的な戦いを進めるベトコンの支持者が増えることは望ましくない。村を火で焼き払えば、善良な住民は南ベトナムの保護下で生活することになる。実際には、保護などしないのに。
「それでこの頃、様子がおかしかったのか」
「……」
 その方法を仕込んだのはアメリカだ。 かつてはクリスも、多くの村を焼いた。
 蘇る、数々の死体。悲鳴。傷。殺生した手で差し出す、偽善の包帯。ベトナムでしてきた神の意思に背いた行為が浮かぶ。夢から覚醒したクリスを、容赦なく過去の記憶が責め立てる。
 それでも自分では、普通に振舞っていたつもりだった。ジャングルからの戦友であるジョンに気がつかれているとは思わなかった。一度でも口にすると、表面だけの平静すら容易に崩れてしまう。罪の重さに、頭を抱える。呼吸が荒くなる。胸が苦しい。

「……考えるな」
 ジョンは、クリスの腕と頭をかき抱いた。
「だけど」
「考えるんじゃない」
「……ああ、そうだな。すまない、ジョン」

 他者の疑念も、聞いてはいけない。いつ、己のそれが吹き出るかしれないから。さらに他者に伝染するかもしれないから。
 だから、友を中身のない方法で元気づける。友情が軽いからではない。今はそうすることしかできないのだ。

「よし、今日は女を奢ってやろうか。お前好みの、小さくて可愛い子!」
「いいよ、気分が乗らない」
「こんなに安い金で遊べるのは今のうちだけだ。後悔するぞ」

 女を奢り、奢られる。アメリカ軍では珍しくない行為だった。ベトナムの女とは、アメリカ兵にとってそういう存在だった。体と気持ちを意味なく高揚させるだけのもの。
 人でないという意味では、ベトコンも娼婦も大差ない。ベトナム人は、アメリカ人にとって人ではなかった。
 家を材料に燃え上がる炎。村から飛び出た小さな点。点。点。
 あれが人であったと認識してはいけないのだ。

*

 サイゴンは遠くないうちに陥落する。近く、国に戻ることになる。ベトコンが来たら撃たれると、サイゴン市民の間では、合言葉のようになっている。実際、アメリカに深く関わったものはそうなるだろう。
「おお、ムッシュ・クリス! ムッシュ・ジョン!!」
 赤い背広の、小柄な男が瞳を大きくあけ、貼り付けたような笑顔で迎えた。
「ねえ、ミス・サイゴン、当ててよ!」
 その夜、ジョンに連れられてクリスが来たのは、行きつけのドリームランドだった。
 ミス・サイゴンコンテスト。仏の血を持つベトナム人エンジニアが運営するバーで行われる、虚構の祭り。
 以前は先を争ってクジを買った。今はそのような気持ちにはなれなかった。

「今日はいい。それより、こいつに女を抱かせたいんだ」
 ジョンはクリスを指差した。
「ありがたいけど……ちょっと乗れないな」
「何言っているんだ。好きだろう。こういう時は甘えておけ。今後は滅多にないことだ」
「そうですぜ、ムッシュ・クリス。こういう時は甘えないとな」
 揉み手で笑む、エンジニア。
「おれはビールがいいんだ」
 クリスはそれだけ言って、席に着いた。女は自然に寄ってきた。
 何もかも安上がりの街で、皆が手持ちの金を使いつくさんばかりに豪遊した。女たちは、いつもよりさらに露出を高くし、男を刺激した。
 米兵に近しかった彼女たちは、ベトコンが来れば粛清される存在だ。逃れるには、アメリカに渡るしかない。熱っぽい瞳でしな垂れかかり、男を見つめるふりをして、アメリカを夢見ている。
 夢を見ていられるやつはまだ幸せだ。現実など、見ないほうがいい。せめて酒で忘れられないかとクリスはビールを煽った。

「十七歳よ。はじめて都会に逃げてきたの。夢があるから……」
 ふと顔を上げる。荒い男たちに囲まれて、一人、見慣れない少女がいた。
 物珍しげな目線と質問を浴びて、小さな娘は硬い笑顔で答えた。
 『初めて』と『夢』、二つの単語がクリスに触れた。
「あの子は、誰だ?」
「新入りだってよ」
 誰にでもなく呟いたら、仲間の誰かが答えた。
 馬鹿か。今のこの時期に……!
 口に出すのを、抑えた。  
 今サイゴンで米兵相手に商売をするというのが、どういう意味を持つのかわからないのだろうか。 自ら新しい国において罪人の側に渡るということだ。他に仕事がないにしても、今、この仕事は駄目だ。得るものより失うもののほうが大きい。夢もいいが、世間を知らないにもほどがある。アメリカ人は、彼女に近づいたらいけない。だから酔ったふりをして、彼女を抱き上げ擦り付けるGIを殴った。不幸にならずにすむ子を、不幸にする権利はない。ジョンに止められなければ、あと2、3発殴っていたかもしれない。
 少女は、驚きで口を開け、目で礼を言った。
 どうしたビール! という海兵の声に弾かれて、少女は奥へ駆けていった。
「あ……君」
  少し話をしたいと思ったが、話をしてどうするというのだろう。クリスは結局、呼び止めなかった。

 その様子を見ていたジョンが、エンジニアに言った。
「あのドレスの子が欲しいな」
「お、目が高いね旦那。名前はキム。おれのニュープリンセス。ためすかい?」
「僕じゃない、あのクリスにだ。元気付けたいんだ」
「あの子は今夜初めて、安くは手に入らないよっ。生娘だよ、生娘!」
 エンジニアに言われるまま、ジョンは金を払った。売買の交渉は成立した。
 少女はクリスのもとに寄せられた。改めて間近で見た新入りの娘は、想像以上に子供だった。あどけない表情の無垢な子供。肌は茹で卵のように光っている。ジョンの言う通り、抱いてみたいと思った。ビールよりも遥かに効きそうだった。だけど、手を出すべきではない。何故なら自分も、アメリカ人だからだ。

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