「こんな子、まだガキじゃないか。ただ同然で抱けるさ」
「いやあ、お前は抱きたくなるぜ」
片目を瞑ってジョンは言う。お前のことは何でも知っているといわんばかりだった。
ジョンはして、クリスの好みを熟知していた。クリスもまたジョンの好みならば女、酒、食、賭博のくせまで知っている。
「こういう子、好きだろうが。あげるよ」
ジョンに背を押され、少女へと近づいた。怯えたベトナム人の少女。手を出したらいけない。横目にしながら過ぎる彼女の隣。哀しげ、恐怖、そう言ったものの中に埋もれるように光っていたものが、背中に張り付いた。振り返ってしまう。彼女の前に、戻ってしまった。
店内の明かりが薄くなる。サックスの音が暗い室内に流れる。ムードを高めるために存在する時間。今だけの恋人として仮初の愛を囁くものがいれば、その場でただ欲を発しているものもいる。
クリスは少女と身体を密着させ、音楽に乗った。技術など必要のないダンスだったけれど、彼女は上手とはいえなかった。足の動きは固く、背中に回された手は震えていた。
「名前はキム。好きよ、クリス」
俯いたままキムと名乗った少女は、硬質な声で言った。
「やめろよ!」
「わたし、何かした?」
不思議そうに、首を傾げる無垢な娘キム。彼女はまだ娼婦ではない。娼婦の顔ではないと思った。娼婦でなければ何だ。そうだ、ベトナム人だ。米兵はベトナム人を護るために三年前の休戦後も、サイゴンに居残った。クリスはキムを護らなければいけなかった。
「君はこんなところにいちゃいけないんだ!」
10ドル紙幣を3枚握らせた。当面食べていくにはこれで十分ははずだ。いいことをしている。彼女の震えは止み、子供らしい笑顔で、自分に感謝すると思っていた。
しかし期待していた通りにはならなかった。
キムの体は動きを止めて、手の中の金と自分を見比べた。
わけが判らない。彼女の小さな顔にいっぱいに、そう描いてあった。自分の顔にも同じものが描かれていたかもしれない。
逃げるべきなのに、何故逃げない。……逃げたくないのか?
密着した体は柔らかい。成熟した女の身体とは言いがたかったが、十分に男を迎えられる体だった。今夜がはじめてといっても、この店では初めてなのかもしれない。あどけない顔も演技なのかもしれない。一度疑念が浮かぶと、彼女の無邪気な表情ですら、偽りに思えてくる。GIさん。もっと、もっと。もっと金を。GIさん。
そう言って寄ってくるサイゴン市民と大差なく見える。
少女とてベトナム人だ。クリスに期待するものは、金。そして、アメリカ。そのはずだ。
だけど少女は金を欲しなかった。
「どうした、いいだろ?」
探るようにキムを見ていると、その間に、目鼻立ちは整っているが表情が小汚い。そんな顔が割り込んだ。エンジニアだ。
彼は慣れた手つきで、キムから金をとりあげた。
「ああ、いい娘だ」
「いい人……」
キムは熱を帯びた瞳でクリスを見つめた。彼女は、GIの誰かでなくクリスを見ているように思えた。
「さあ行け」
エンジニアに促され、本来の職務を思い出したのであろう。キムはクリスの手を掴んだ。
彼女の手は力強く、足はまっすぐに行くべき場所へと向かっていた。
「……私と、何も言わずに」
彼女の横顔は凛としていた。はじめてならば当然あるはずの、迷いや、恐れは見えなかった。
まっすぐに向かう先は、寝台。服を脱ぎ、自ら横たわるキムは、夢見る子供ではなかった。すでに女であるように見えた。これから仕事をするだけの娼婦なのだと、クリスは自らに聞かせる。
偽の愛の言葉は寄こしても、心はくれない。そんな女たちと同じ存在。
それならば、アメリカ人が抱いても構わない。一度の情事で、何も変わることなどないから。
クリスはジョンから奢られた美酒に口をつけた。
*
望む対応を探ったり、押し寄せたであろう苦痛や快楽を押し殺したり、そういった態度のひとつひとつが幼い。深いくちづけ一つ、満足にできない。
……これらも、巧妙なる技なのではないか。今夜が初めてだという触れ込みも嘘で、シーツに滲む血も、嘘で。
嘘であって欲しかった。彼女の未来を暗くする罪に落したのが自分でなどありたくなかった。
クリスは、はじめて娼婦と過ごしたわけではなかった。自称はじめての相手と寝たことはあったが、生娘の身体は知らなかった。初めてではなかったと、考えていたかった。
気温の高いサイゴンであっても、隙間風の入る室内に布からはみ出した滑る白肩は寒々しかった。彼女のまとった柑橘の香水も、場の冷たさを増長された。ぬくもりが欲しくて、ぬくもりを与えたくて、キムを掻き抱いた。キムは閉じようとする瞼を擦りつつ、子供の顔で笑った。
人の肌は、何故もこんなに暖かいのか。やすらげるのか。男はいかなる状況にあっても女を欲してしまうのか。交わりを、心地よいと感じてしまうのか。
直視しても苦しいだけで意味がないことは、忘れるのが一番いい。女はそのための手段だった。今夜だけは特別だったと言うつもりはない。
ただ一つだけ、違いはある。罪の意識だ。忘れていたいことと絡み合った罪の、事実。
「ごめんなさい、先に寝入ってしまったわ」
「いいよ、気にしないで。キム」
キムは、密着した裸の胸と胸を見た。自らを再び抱き寄せた手に、手を重ねた。
「……ちゃんと起きてますから、あの、どうぞ……」
健気に笑い、クリスの肩に腕を回した。一筋の雫が頬を伝っているのに、彼女は気がついていなかった。クリスはその涙を拭うように頬にくちづけると、身体を反転された。
「もう十分だ、おやすみ」
不憫な少女を見たくなかった。彼女に可哀想なことをした事実を、見たくなかった。
夜の帳が降り、朝の光が差し込む。
キムの額に滲む水を拭ってやる。明るい場所で見る彼女は、子供以外の何ものでもなかった。
チップにしては多い金額を残し、一夜を過ごした部屋を出た。
サイゴンの朝は早い。そして皆、働き者だ。クリス、いやGIの姿を認めると我先にと群がる。
数日前までは、小金を渡せばそれで笑顔と感謝を受けられた。だけど今はそこで止まらなかった。金を毟り取っても、彼らの要求は続く。
大使館に話を、アメリカ行きのビザを、家族だけでも国外へ。
英語も満足に話せない貧しい人たち。向こうに保護するものもいない。彼らが渡米して、何が得られるのだろう。アメリカには富と平穏が待っていると信じ、ベトコンは災厄をもたらす存在だと思い込んでいる。実際のところ、アメリカと深くは関わらず、抵抗もしない貧民に対して、ベトコンは手荒な真似はしないだろう。知人や親族を当たれば、ベトコンに走った者の一人や二人いるはずだ。保護を求めるべきは、近くベトナムを捨るGIではなく、国の未来を牽引するベトコン……いやザイフォン<解放者>たちなのだ。彼らは間違っている。もっともそのように世論を導いたのは南ベトナム政府であり、アメリカ軍なのだから、彼らの愚かさを責めることなどできない。
貧困から抜け出したい。この国を抜け出したい。期待と共に寄せられる黒い手が多すぎて、重すぎて、逃げることしかできない。
今アメリカを求めるのは、彼らにとって良い道ではないから、逃げるだけ。
キムの近くにアメリカ人がいるのは、彼女にとって不利益だから、逃げただけ。
置き去りにした少女との一夜が蘇る。
『好きよ、クリス』
たどたどしい言葉が、仕事上の台詞なのはわかっていた。だけどくすぐったかった。
潤んだ瞳に映っているのはクリスだけだった。想いを伴ってのことのはずはなかった。
子供だった。はじめてだということが嘘でないという確証などなかった。それでも一晩の慰めのために抱いてしまった。そうしたかったからだ。
自らの弱さゆえに、普通のベトナム少女を『GI相手に商売をした女』にしてしまった。
その罪は、本当に金だけで償えるものなのだろうか。彼女は残された金を見てどう思うのだろうか。
後悔で、泣く? 得られたものを喜ぶ? 今を生きるために次の客に向かう?
仕事と割り切り、金を喜んでくれればキムへの罪の意識は薄れる。一娼婦との一晩として、忘れられる。次から次にGIと寝てくれれば、クリスだけの罪ではなくなる。クリスは喜ぶキムの姿を見たいと思った。夕べは仕事に慣れていなかったから、咄嗟に対応できなかっただけ。今ならば生命の源に変換できる紙を有り難がるだろう。その姿を見たならば、この期に及んでのささやかな罪は頭から消えていくに違いない。
部屋に戻ると、キムはまだ子供の顔で眠っていた。
そっとカーテンを開け、すりガラスの向こうにあるサイゴンの街を見る。赤い川と土も、笠と草履姿で自転車に乗る人々も、近く見納めになる。生涯、二度と見ることはないだろう光景だと思うと、感慨も深かまる。
ほどなくキムは目を覚ました。
「おはよう、キム」
「……おはよう」
軽く上体を傾けた後、気恥ずかしそうに掛け布で胸を隠した。クリスは白い肌に上着を掛けてやりつつ、努めて優しく金を差し出した。娼婦として受け取ってくれることを、切望していた。
「この金、あげるよ。もっと欲しい?」
「いえ、いらない。何も……」
だがキムは、またしても拒否する。
「どうして」
「はじめてなの……」
「嘘だろ……?」
クリスは咄嗟に返していた。何でそんなことを言う必要があるんだ。
初めてだというのが、嘘であればいいと思っていた。だが、心底疑っていたわけではなかった。
お金はいらない。その理由として、はじめてだから。
はじめての特別な夜だから、商売としての一夜にしたくないとでも言わんばかりだった。 彼女の、その言葉への切り返しだった。
「本当よ!」
信じて! 疑うなんて酷い。顔にも、声にも、想いが滲んでいた。初めて結ばれた恋人に、手ひどい言葉を浴びせられたように。恋の熱と先への不安に揺れる顔は初々しく愛らしかった。
「女は、ここから逃げたいからって、平気で嘘をつく……だから」
君だって、そうだよな?
キムだけを責めるつもりはなかったけれど、キムだけを信じるには彼女のことを知らなすぎた。
言外の想いを察したのか、キムは激しく頭を振った。
「わた、わたし……本当、よ。まだ、貴方だけ、だから」
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