ふたり
本読みカードの「田中正造」は、順調に進んでいますか。もし、これがすらすら読めないとなると、卒業する実力も怪しいものだといえます。
田中正造は、なぜ、こんなにしてまで人のためにがんばろうとしたのか。授業でこんな疑問が出ました。しかし、教科書には、その理由は、はっきり書いてありません。この教科書の段階では想像するほかありません。本田宗一郎さんを道徳の授業で取り上げた時のように興味を持った人はぜひ調べてみるとよいと思います。
では、田中さんは、幸せな気持ちで死んでいったのでしょうか。教室の意見は真っ二つに分かれました。苦しむ人達を完全に幸せにできなかったから、幸せではなかった。やれるだけのことをすべてして、それが何万人もの人の心に届いたのだから、きっと幸せだったと思う。死ぬ間際まで前者のように考えられるのは、よほど強靭な心を持った人でしょう。もしかしたら、田中さんは、そういう人だったかもしれません。しかしこれも、直接田中さんに聞いてみなければわかりません。
一つだけ確かなのは、田中さんは、自分一人の幸せでは満足できない人だったということです。
何人の人と一緒に幸せになろうとするか。人それぞれ違うでしょう。そして、その輪の大きさがその人の人生を決定します。
独りよがりの人を見て、「もっと人のことを考えた方がいいのに」と思う人は、独りよがりよりも大きな幸せを目指している人です。
仲良しの仲間以外の人を疎外するグループを見て、「もっと多くの人と友達になればいいのに、あの人たちはかわいそうだ」と言う人は、さらに大きな幸せの輪のために頑張る覚悟のある人です。震災の復旧に飛んでいって、会ったこともない人を助けようとする人は、もっと大きな・・・。
どの程度の幸せの輪が良いだとか、どの大きさの人を目指せなどということは、私には言えません。目指す輪の大きさが、その人の、人としての器の大きさだろうし、どの大きさの輪を目指しても、喜びと苦しさの相殺の結果である幸せの量は、さほど変わらないような気がします。
でも、ひとつだけこの子たちに伝えたかったことがあります。それは、自分一人だけが幸せになることだけを望んでいくことは、人間として失格だということです。
昆虫のほとんどは、親を知らないし、子を愛することも知りません。個体としての自分が幸せに生き延びることだけを願います。(個体ではなく種族として生き延びる行為も多いという研究も発表されていますが。)でも、人は違います。子を産んで育てる、すなわち、愛するという行為を心の糧として生きる権利を持っているのです。ですから、それができなければ、人に産まれてきた甲斐がないでしょう。
「ふたり」は、愛の最小単位です。きちんと誰かを愛することが、人間であるための条件です。他の哺乳類も家族という制度を持っているものが多いので、人間であるためには、友達など、家族以上の大きな輪の中の人の幸せを自分の幸せと感じることをめざしたいものです。
「人」の幸せは、たった一人では作れない。幸せの輪は、自分の努力で広がる。こんなことを考えてほしくて、今年の学級便りのタイトルを「ふたり」としました。