生きてる限りはどこまでも
「生きてるゥ限りはァどこォまァでェも」
何十年も歌ったことのない歌の歌詞がよどみなく出てくる。
何とも不思議な感覚。
テレビ番組で対談していた吉田拓郎さんと沢田研二さんの話の中から突然出てきた「骨まで愛して」というタイトル。
タイトルを聞いただけで、脳の奥の方にしまわれていた歌詞とメロディが正確に出てくるのだから面白い。
調べてみると、この歌は昭和四十一年のヒット曲。
自分が小学生の時に流行った曲だ。
こんな歌を小学生が歌ってもよいものかと思えるような歌詞から考えても、世紀を超えて歌い継がれる名曲というわけにはいかないだろう。
そんな、四十年以上は歌ったことがない歌をしっかりと覚えている。
多分、私の世代以上でこの歌のことをまったく知らない人はいないのではないかと思う。
今年のヒット曲は何だろう。
日本人の何パーセントの人が、その歌を歌えるだろうか。
アイドルたちの歌を「大人」は歌えるだろうか。
演歌のヒット曲を小学生が声を合わせて歌うことはあるのだろうか。
半世紀前は、今と違ってヒット曲というものは、老若男女みんなが共有していた。
小学生が「生きてる限りは…」と演歌も歌い、逆に「忘れられないの…」とおじさんやおばさんがアイドルの歌を歌う。
エレキギターは不良の持ち物などと言われながら、「大人」も「森と泉に…」とパーティーで大合唱していた。
家族みんなで歌える歌ばかりか、ご近所のみなさんと歌える歌がたくさんヒットしていた。
どうしてこんな状態だったかと言えば、その理由のひとつに、情報量の圧倒的な少なさが考えられる。
今はインターネットを使ってデータをダウンロードする入手法が主流になりつつある。
それによって世界中のあらゆる曲が安価で、しかも高音質で手に入る。
テレビ・ラジオも数えきれないチャンネル数の中から好きなものだけを選ぶことができる。
だから、曲は、一人一人が選んで、それを大事にすればいい。
若者たちは自分の大好きな歌を町へ連れ出すようになったが、そのサウンドは一人一人の耳の奥に埋められたイヤフォーンによってわずかに響くだけで、音楽を乗せてくる風が吹くことはごく少なくなってしまった。
ところが半世紀前、新しい曲は、ラジオ・テレビから流れてくるものがすべてだった。
昭和通りのレコード店アルハには、美川憲一さんなどがキャンペーンで来たのを見に行った記憶があるが、そんなことは稀で、レコードも手軽に買えるような値段ではなかった。
テレビもラジオもNHKと静岡放送だけ。
しかも、テレビもラジオも一家に一台あるかないかという時代だから、家族で同じ番組を見るしかない。
家にテレビが無かった頃は、ご近所が集まって同じ番組を見ていた。
このような状況では、ひとつのヒット曲は必然的にみんなが共有する歌になる。
当時テレビは教育を危うくするものとして、多くの番組が批判された。
確かにテレビは小中学生が使い方を間違えると大変危険なものである。
テレビとは何かを知っている大人にとってはただの道具にすぎないが、小学生には危険が多すぎる道具だ。
アルコールにたとえるとわかりやすい。
ただ、テレビが普及を始めた半世紀前は、台数も番組数も少なく、テレビはみんなで見るものであったがゆえに、それなりの効用があった。
ご近所にテレビがあることが珍しい時は、テレビを目当てにご近所のみなさんが集まる。
一家に一台しかないテレビは、どの番組を見るかを、個人ではなく「家族」が決定した。
家庭用ビデオなどはないから、その一回きりの放送を真剣に見たし、チャンネル数が少ないから、「昨日の番組」が学校や職場での潤滑油になっていた時期もある。
当時のテレビは、まだ不完全であるがゆえに、人間の本来あるべき幸せを作るための道具の一つでありえたのだ。
今のテレビはチャンネル数が数えきれないほどあるし、録画機能を使えば好きな時に好きなものが見られる。
一家に複数台あることも稀ではないだろうから、「家族で見る」という制約も消えつつある。
それに加えてインターネットの環境も個人レベルになりつつある。この究極の便利さの中では、家族もご近所も友達も無理に寄り添う必要はなくなっている。
ならば、人と触れ合わない「個人主義」とでもいえる状況が、人間の望む姿かというとそうでもなくて、人とつながっていたいという本能は、インターネットや携帯電話といういびつな形で存在している。
人間は便利さを求めて進化してきた。
もっと楽な暮らしをしよう、もっと便利な世の中にしようという意欲が進化のエネルギー源だ。
しかし、このテレビやインターネット環境の進歩がもたらした例のように、便利になった分失ったことも多い。
今書いているこの原稿も、パソコンのワープロソフトで書いているので、書き間違いはすぐに直せる。
構成も後で自由自在に変えられるから、思いつくまま書いていくことができる。
大変便利なのだが、その代わり、慎重に頭の中で構成する力がなくなり、漢字が思い出せないことが多くなった。
元々字は上手ではないが、さらに字を書く勇気がなくなり、いざ自筆の手紙を書かなければならない時には、本当に困る。
交通機関が発達すればするほど、人の足腰は弱っていく。
移動する必要がないのにウォーキングの時間をわざわざ作り、肉体労働をする必要がないのに、わざわざジムで体をいじめなければ、健康な体を維持できなくなってきている。
食べ物の口当たりが良くなればなるほど、人の顎は細り体調が崩れやすくなっている。
子どもたちの噛む力は衰え、それが脳の発達にも影響していると聞く。
小さくなったあごには全部の歯が整列できず、矯正治療にお金をかけざるをえない。最近は親不知の生えない人もいるという。これは進化なのだろうか。
また、今の日本は世界に誇る清潔な国だ。
半世紀前の日本とも全然違う。
ただ、清潔を極めることが虚弱な体質の子供を創りだしているとしたら、このいたちごっこは、やがて人類に何をもたらすのだろう。
今、新曲を覚えようとする時は、CDを買ってもいいし、メモリーやハードディスクに録音したものを繰り返し聞いてもいい。
少しでもインターネットが使えたら、小学生でも無料で歌を際限なく聞くことができる。
自分が小学生だった頃は、カセットオーディオテープさえ一般には普及していなかったので、テレビ・ラジオから一度だけ流れてくるのを心待ちにし、雑誌の付録の歌本の歌詞をにらみつけながら必死に覚えた。
それだけで覚えられたのだから、不便さとか必死さというものは、人間の能力を存分に引き出せるものだともいえる。
「骨まで愛して」が今、さっと口をついて出てくるのは、このことに関係があるのかもしれない。
人間は、便利さを求めて進化していくことと引き換えに、自らの能力を失いつつあると危惧するのは考えすぎだろうか。
二○一二年のヒットチャートベストテンをすべて埋めてしまったAKB48と嵐の歌は半世紀後の中年の人々の口をついてすらすら出てくるのだろうか。
便利さを果てしなく追求することは、これからも人類の進化を支えていく重要なエネルギーだ。
ただ、一人一人が、生きてる限りどこまでも探し求めるものは、便利さの陰で失われかねない人間の本来の幸せの姿でなければならない。
『文芸やいづ』第24号(平成25年) 掲載
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