痛みの錯覚     
 

 道徳の時間に、修学旅行のグループ活動で自分勝手な行動をして、友達に迷惑をかけてしまった男の子の話を読みました。その後、その男の子のように自分勝手な行動で友達に迷惑をかけてしまったことがないか考えようと、問いかけました。きっと忘れていることがあるはずだから、よく思い出してほしいとつけくわえました。

 数人の子が、自分にも同じような経験があると、自分の行動を反省する発表をしました。するとA君が、「自分のことではないけれど、人に迷惑をかけられたことがあるという話をしたい。きっとその人も忘れているから聞いてほしい。」と手を上げました。私は、それはやめるようにと言いました。理由はこうです。

 人に与えられた痛みというのは、誰でも長い間忘れないものです。忘れるどころか、小さな痛みだったはずのものが、時間を経るにしたがって、どんどん大きくなってくることも稀ではありません。しかし、人に与えた痛みというのは、忘れるのが早いものです。それどころか、人に痛みを与えたことに気づきさえしないことも多いのです。

 それでも、よく、「友達を傷つけてしまったあの事を、私は一生忘れない」と言い切る人もいます。もちろんそういう事もあるでしょうが、その人は、その時に感じた心の痛みと同じ強さの痛みを今でも本当に持っているでしょうか。

 多分、誰もそんなふうには生きられないでしょう。時間の経過と共に反省の重さは、自分に都合よく軽くなっているはずです。それを責めることはできません。なぜならそれは、生き物としての人間の生存本能だからです。

 人を傷つけてしまったときの焼けるような心の痛みをそのまま持ち続けていれば、いずれその痛みによって、その人の“精神”は死にます。自分はそのことをけして忘れないと思っていられるのは、“精神”がまだ生きている証拠です。ということは、今の痛みは、心を殺してしまわないくらいに程よく薄められているのです。

 こんなふうに自分を守るために薄らいでいく“人を傷つけた自分の心の痛み”に、もう一度自分の手でスポットを当てて、本当の自分を考えていくのも、道徳の授業の目的の一つです。

 ある中学校の先生が教えてくれました。道徳の時間に、題材になる話が、「道徳的な答えA」と「道徳的ではない答えB」のどちらかを選ぶかという場面になると、普通の子は「自分だったらどちらを選ぶだろう」と非常に悩むそうです。

 生活態度の乱れなどいわゆる問題のある子は、迷いなくAを選ぶことが多いそうです。「この子たちは、自分の心の揺れている部分を直視する勇気を持てるほどまだ成長していないのでしょう。」とその先生はおっしゃっていました。

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