ここへおいで



  市場にあふれる声
  ゆりかもめは波を越え
  見上げれば
  高草山の二月の雪が春を呼ぶ だから
  ここへおいで どんなときも
  やいづの町 元気だから
  君のために どんなときも
  ずっと ずっと 温かいから



 客席で聞いてくれている人の顔がよく見えた。

見知らぬ人もいたけれど、懐かしい顔も多い。

私が歌うことを知って、わざわざ駆けつけてくれたのだと思ったら、うれしくて、声も言葉もスムーズに唇から離れていくのがわかった。



 昭和通り、ヤマカワ菓子店前。

商店街の特設ステージから見上げると、アーケードがまだ半分残っていた。

ここで育ったから、私は歌をまだ作っている。ここで歌えたから、私は今も歌っている。



 この商店街の路地裏で生まれ、このアーケードの下で育った。

私の遊び場は、野原でも川原でもなく、レコード店「アルハ」と書店、それにたくさんのスチル写真が毎週入れ変わる映画館の前だった。

私が自分で歌を作って歌うようになったのは、この遊び場が私を育んでくれたからだ。



 小学生の時のアイドルは、加山雄三さん。

それまで怪獣映画に夢中だった私の前に、突然現れた銀幕のスターだ。



 当時、映画といえば、二本立て、三本立てが普通で、入れ替えなしで一日中劇場にいられた。

普通は、子ども向けなら子ども向けばかりの映画を二本、三本と上映する。

ところがその週は、なぜか一本目が怪獣映画「サンダ対ガイラ」そして二本目が「海の若大将」。

若大将のファンである大人が怪獣映画を観たいわけがない。

怪獣映画を目当てに行った子どもに、若大将の九十分は耐えられない。

今考えても不釣り合いの二本立てだ。

この二本立てを企画した人は、きっと興行成績不振で叱られたに違いない。



 しかし、「サンダ対ガイラ」を観に行った小学校四年生の私は、その日から若大将に夢中になった。

やることなすことすべてがかっこいい若大将。

劇場を出る頃には「サンダ対ガイラ」のことなどすっかり忘れて、「お嫁においで」を歌いながら家に帰った。



 今の映画館は、一度封切りされ興行成績が悪いと、たちまち上映が終わる。

有料テレビやレンタルビデオですぐに見られるのだけれど、一度見逃したら劇場で観られる可能性はゼロに近い。

ところが、当時は人気のある映画が何度も繰り返し上映されたから、「大学の若大将」「エレキの若大将」…いつでも劇場前の写真や大きなスクリーンから若大将が私を手招きしていた。



 テレビが「家に来た」のは、私が幼稚園を卒園する頃だったので、それまでは、毎晩のように映画館に連れて行ってもらっていた。

小学校三年生までは、親か、親の信頼している人と一緒でなければ劇場に行ってはいけないという家庭の約束があったが、小学校四年生になった時ついに解禁。

一人で観に行って良いことになった。

その最初の記念すべき作品が「サンダ対ガイラ」と「海の若大将」。

若大将に夢中になったのは、一人で劇場に行くという何だか大人びた行為と、若大将の大人の世界がぴったり合っていたからかもしれない。

 

「アルハ」で、加山雄三のレコードを買った私は、本当にすり切れるほど聞きまくり、箒を持って「エレキの若大将」のまねをした。

自分も加山さんのように歌を作って歌う人になりたいと思った。



 中学生になると、箒が叔父さんのくれたギターに代わった。

叔父さんが使っていた古いクラシックギターで、加山雄三のエレキギターでもなく、当時台頭著しい吉田拓郎が持っていたようなフォークギターでもなかったけれど、大学に入ってしばらく経つまで、ずっと私の相棒でいてくれた。



 ギターは手に入れたものの、どうすればいいか皆目見当もつかない。

まず、昭和通りの書店で「ギターの弾き方」という本を買った。

ドレミを覚え、CやG7のコードも知った。

でも、Fに手こずったので、ギターの練習もそこそこに、さっそく歌を作り始めた。自分でFのない歌を作れば、Fが押さえられなくてもギターの弾き語りができる。



 大学に入って、初めてギターを買った。

三七五00円。

三十五年以上経った今も、私はこのギターで歌っている。学生の時には、フォークソングのサークルに入り、Fもしっかり押さえられるようになったので、作る歌も増えた。

人前で歌うチャンスもたくさんいただいた。

今でもみなさんに聞いてもらっている「卒業」は、この頃作った歌だ。



 しかし、就職してしまうと、人前で歌うことは全くなくなった。

仕事を覚えるのに必死で、自分の音楽のことを考える時間がない。

真夜中に、ふと詞やメロディが浮かんで眠れなくなることがあったから、睡眠時間を削って歌は作り続けてきた。

けれど、仕事は、日々自分を進化させていかなければやっていけないし、娘と息子にも恵まれた。

人前で歌うための時間を作ることは無理だった。



 人前で歌うことをやめて、あっという間に二十五年。

気づいたら、娘が高校を卒業し、子育てが一段落していた。

そんなある日、まるでこの時のために用意されたような新聞記事が目の前に現れた。



 「昭和通りで歌ってみませんか」



 いつもは見ることのない紙面のほんの小さな記事だったから、どうしてこの記事に出会えたのか、今でも不思議だ。



 自分の故郷で歌える。

すぐに事務局に電話をした。

まだ出演の枠が残っていますとの返事。

二十五年ぶりのライブ。

しっかり歌えるかなあ、誰かに聞いてもらえるかなあ、何を話せばいいだろう、曲順は…。

練習を始めた。

どきどきしたけれど、わくわくもしていた。



 曲目を考えているうちに、せっかく故郷で歌うのに、故郷の歌を作っていないことに気づいた。

それで新曲を一所懸命書いた。

「ここへおいで」。

誰も知らない歌だから、せめて手拍子をもらえるようにと、明るい曲調に決めた。



 あのヤマカワ菓子店前のライブから八年。

いろいろな場所で、「ここへおいで」を歌わせてもらった。

覚えて一緒に歌ってくれる人も増えてきた。

昨年発足した「焼津フォーク村」では、歌う機会をたくさんいただいた。



 昨年は「ここへおいで」を文化センターで歌った。

昭和通りのことも歌いたくて、その時は、「デイドリームビリーバー」のメロディにのせて桃花園や映画館の思い出も歌った。

客席には、「ここへおいで」をいっしょに口ずさんでくれる人がいて、「デイドリームビリーバー」の歌詞に、にっこり笑ってくれる人がいた。



 歌うことが楽しい。

聞いてもらい、一緒に歌ってもらうことに、この上ない幸せを感じる。

今、こんなに幸せなのは、僕を育ててくれた町があって、支えてくれる人がいるからだと、心から思う。

自分が歌うことは誰の役にも立たないのだけれど、もし許されるのなら、ずっとずっと歌っていきたい。



  ならいの風が吹いて
  雨が降り時化る日も
  港は世界に向けて
  両手をいつも広げてる だから
  ここへおいで どんなときも
  やいづの町 元気だから
  君のために どんなときも
  ずっと ずっと 温かいから


   『文芸やいづ』第23号(平成24年)   奨励賞

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