休み時間に手をつないでいっしょにトイレに行っても、本当の友達にはなれません。放課後いっしょにゲームをして遊んでも、本当の友達にはなれません。卒業して別の学校へ行ったら、いいえ、違うクラスになるだけで、心も離れ離れになるのがおちです。
心の底から尊敬できる相手に出会い、いっしょに何かを成し遂げる。そんな時の友達は、どんなに遠く離れても、どんなに時間が経っても、生きている限り友達でいられます。
ただ、そんなふうに友達でいるためには、相手も自分の存在を認めてくれなければいけません。願わくば、自分が相手を尊敬しているのと同じくらい、相手も自分を尊敬していてほしいものです。そこまでいかなくても、相手の持っていない何かを持っている必要はありそうです。
その魅力は、いろいろな形の物があるでしょう。勉強ができる。スポーツができる。これは誰もすぐに思い描ける魅力ですが、他にもたくさんあります。そうじがうまい。さわやかなあいさつができる。苦しいときも、笑顔でがんばれる。人の良い所を見つけるのが早い、うまい。・・・人の数だけ魅力の種類はあるはずです。
しかし、ただのんべんだらりと生きているだけでは、その魅力は輝きません。自分の持っている「魅力の種」に早く気づいて、すぐに磨きをかけるべきです。4月の参観日に見ていただきましたが、後ろの壁の花咲き山の封筒に入っている「種蒔きカード」の中には、たくさん魅力の種が入っています。自分では気づかなかったことを友達に見つけてもらって、自信を持てた子もいるようです。ぜひ、その魅力の種を膨らませてほしいと思います。
先日、このような話をしたところ、その日家に帰って自分の魅力の種は何かを考え、さっそくそれに磨きをかける何かをした子が十数人いました。
自信
もう一度、道徳の時間に、自分の種蒔きカードを読み返してみました。もらったカードの中で一番気に入ったものを1枚選びなさいと言うと、どの子も複数枚のカードを選びました。やはり、人から認められるのはうれしいことなのです。種蒔きカードを読み返した感想から、一部を紹介します。
種蒔きカードをやってから、性格が変わって、いろんなことがしゃべれるようになった。みんなとも一緒に話せるようになった。毎日学校が楽しくなった。友達と遊べるようになって、友達が増えた。
わたしのところへ来るカードに、このごろ「進んでやっている」「親切」「よく働く」という言葉が増えてきた。自分でも気づかないうちに、進んでやることができるようになったのかもしれない。
友達からこう思われていたんだ、と言う発見があると、うれしいと同時に、こう書いてくれたのだからもっとがんばろうと言う気持ちがわいてくる。
自分が得意にしていることを書いてもらえると、とてもうれしい。
自分の一所懸命やったことをみつけてもらって、とてもうれしかった。それに、自分が友達のいいところを見つけたときは、自分もみならってみようと思うようになった。とても進歩したと思う。
仲のよい友達でも、今まで知らなかった良いところがあることに、種蒔きカードをやり始めて、気づいた。
わたしは、種蒔きカードをみんなからもらえて、もっとよいことをしたいと思い、学級委員をやりました。学級委員をやったら、もっとカードをもらえるようになり、うれしくなりました。
「やさしいね」と何人からか同じ言葉が来てから、「みんな私を見ていてくれたんだ」と思い、そうじをすすんでやれるようになりました。
「明るくて、おもしろい」と書かれていました。自分では、自分が明るいとか、おもしろいとかは、よくわからないけれど、みんなからそう思われているととってもうれしいので、これからも明るい自分でいようと思います。カードを始めて変わった自分がうれしいです。
もらうたびに自分のことを発見できました。
種蒔き
種蒔きカードの第1の目的は、もらって自信を持つことではありません。もらって自信を持つことは、いわば副産物で、このカードにはもっと別の目的があります。それは、友達の良いところを見つける能力を高めることです。
人間は誰でも、相手の悪いところを最初に見つけてしまうのだそうです。相手を否定することによって、自分のアイデンティティーを確認するという、野生の生存本能がそうさせるのかもしれません。しかし、それでは、楽しい社会生活は営めません。
この学校では開校以来、ずっと「花咲き山」という活動をしてきました。これは、互いに善い行いを見つけ、認め合うという活動です。児童会を中心に、友達同士の小さな親切を見つけ合い、表彰を続けてきました。時には、お父さん、お母さんや、地域の皆さんからの推薦も受け、花咲き山に花を咲かせてきました。
約20年続いてきたわけですが、こういうシステムを持続させるのは、なかなか大変な部分もあります。最初は、本当に埋もれていた小さな親切の発掘ができますが、そのうち、(悪いことではありませんが)表彰目当ての行為も出てきがちです。また、続けているうちに、親切の内容がグレードアップしていかなければならないのではないかという、根拠のない強迫観念に襲われたりします。そうしていくと、次の親切の発見までに時間がかかり、活動自体の盛り上がりを欠くという事態もおこります。
そこで、花咲き山の花が枯れないように、ずっと咲かせ続けていくためにはどうすればいいかということが、毎年学校で話し合われます。その解決方法のひとつとして、昨年から自分のクラスで始めてみたのが「種蒔きカード」です。親切な行為というものには、なかなか遭遇しないものですが、日ごろ見ている友達の姿から、尊敬できる部分を探すことは、(一所懸命見さえすれば)それほど難しくはないはずです。
「友達のいいところを見つけるのがうまくなった」
「最初は書くのが恥ずかしかったけれど、今では、誰にでも出せるようになった」
「クラスのみんなのことがだんだんわかってきて、カードを書くのが早くなった」
「仲の良い友達でも、今まで自分の知らなかったいいところがあることが、種蒔きカードをやり始めてわかった」
「みんなのいいところがわかり、仲良くなれた」
「前から、いい人だと思っていた友達の、また別の良いところをみつけられるようになった」
はじめの1,2回は戸惑っていたようですが、子供達の、友達の良いところを見つける力は、日ごとに高まっているようです。
欠点、不足
私は、種蒔きカードを見て、すごくうれしくなりました。自分では見つけられない良いところを、いっぱい書いてもらえたからです。他の人のカードを見せてもらうと、私とは違う良いところがあって、私もこんなふうになってみたいと思います。
良いことの書いてあるカードもうれしいけれど、悪いところも教えてくれるカードも来ればいいなと思います。少しは傷つくかもしれないけれど、自分でも気が付いているいやな所もあるし、もっともっと自分を輝かせたいと思っているからです。悪いところを直し、良いところをもっと磨いて、自分を輝かせていきたいと思います。
良いところをほめられたから、悪いところも直してもっと良い人間になりたい。こう思うのは当然です。しかし、A子さんも書いているように、人から欠点を指摘されるのは、あまりいい気持ちのするものではありません。覚悟していたつもりでも、いざ本当に言われてしまうと、自分の手では押さえ切れないほど傷ついたりします。余程心酔している親友や師匠が言ってくれれば素直に心に染み入るでしょうが、なかなかそういう機会には恵まれないものです。そういう親友や師匠がいる人は、大変幸せです。
かといって、「裸の王様」のままでいればいいというわけではありません。自分の欠点はなるべく正確に把握し、その対処を考えるべきです。しかし、自分の欠点をノートに並べて書いてみるのも気が滅入るばかりです。良いやり方はいくつもあるでしょうが、とりあえずこんなふうにしましょうか。
まず、自分の大好きな人を頭の中に思い浮かべます。心底尊敬して、自分もこうなりたいと思っている人です。思い浮かべたら、その人の良いところをできるだけたくさん、できるだけ細かくノートに書きます。
次に自分のところに来た種蒔きカードを出します。(家の花咲き山ポストは元気ですか。)先程ノートに書いた尊敬する人の良いところと同じものが、種蒔きカードにもしあったら、ノートに書いた項目を消します。カードの項目と全部照らし合わせて消しても、ノートの項目は、たくさん残るはずです。自分の尊敬する、とてもすてきな人の良いところは、自分とは比べものにならないくらいたくさんあるからです。
このノートに残った項目が、自分に足りないところです。だから、これからこの項目が自分に身につくように頑張っていけば、自分はもっと良くなるというわけです。
「欠点」というと、「穴」とか「汚れ」とかいったマイナスのイメージを付随しがちです。しかし、こんなふうに、「まだ自分に足りないところ」と思えば、勇気も沸いてくるものです。