少し離れて、すわって、見る
「いきなりですか。」私の耳元でささやくと、息子は一人、歩き始めた。
ここは、静岡県立美術館。
展示室に入った途端、私が展示室中央の椅子にすわったものだから、私に「やる気」が足りないと、息子は勘違いしたようだ。
私は椅子に腰を落ち着け、展示物のガラスを覗き込む息子の背中を見つめた。
美術は得意分野ではない。五十年以上生きてきた中で、美術で賞をもらったのは一度だけ。
それも幼稚園の時だ。
漫画は好きで、小学生の頃は漫画家になりたいと思い、石森章太郎さんの『まんが家入門』という本を、ぼろぼろになるまで読みまくり、友達と漫画をたくさん描いた。
でも、絵の才能のなさは、その頃すでに自分で気づいていたようだ。
若い頃は、美術館に行く習慣がなかった。職場の旅行に美術館が組み込まれていると、みんなの後について館内を一周するという程度。
それも、作品そのもののよさはぴんと来ないので、解説ばかりを読んでいたような気がする。
そんな私だから、美術好きの人たちといっしょに美術館に入ると、いつも先に見終わってしまう。
若い頃は、それでもみなさんに合わせてうろうろしていたが、だんだん年をとるにつれて、早く座って、みなさんを待つようになった。
そうして座っているうちに、ある時、一枚の絵が輝いていることに気づいた。
残念ながら、誰の何という絵なのか覚える知識もなく説明もできないが、その絵は、数分前にその前を通った時は何も感じなかったのに、遠くからぼんやり眺めていたら、なんだか素敵な絵に見えてきたのだ。
とても色鮮やかなのに、心安らぐ絵だった。
美術館では、多くの人が、作品に顔を近づけて、何やら感心しながら作品を見ている。
そういう人たちは、筆のタッチがどうした、なんて細かいことがわかるのだろう。
若い頃、それが美術品を見る「かっこいい」見方だと思い、いつも真似をしていた。
「絵のわからない人」と思われたくない緊張もある。
若い時は、みんなそうして無理をする。
「おじさん、もう疲れちゃったんですか」などと言われても平気な年齢になった。
それが平気になると、美術館の絵も、座って遠くからのんびり眺められるようになった。
相変わらず、どの絵が素晴らしいか、などと人と話すことはできないけれど、絵を眺める時間が少しずつ好きになっているのが自分でわかる。
そんな私の頭の中など、想像もつかない息子は、一点一点、作品を丹念に見ながら、「お父さんはしょうがないなあ」と思っているのだろう。
でも、息子には、「離れて見れば、もっといいぞ」などと偉そうに言うことは、まだできない。
絵を見ているつもりでも、つい、その絵を見ている人のすがたを見てしまう。
人間って美しいなあと思う。
それでは人を表した彫刻はどうかというと、ロダンの「考える人」を見ていたら、その上の窓から見える緑と空がきれいだなあ、なんて思ってしまう。
何だか、美術品の前にいながら、いつも他のものを見ているようだ。
数年前、箱根彫刻の森美術館へ行った時、どの彫刻よりも、横に生えている木の形の方がすばらしいと感じたことを思い出した。
その美術館は、外に多くの作品が展示してある。
森の中、自然の中に作品が立っている構図だ。
もちろん、美術にうとい私だからこそ、こんなふうに思ったのだろうが、素晴らしいと感じた作品も、その隣りで生きている木の美しさに負けているような気がした。
色、大きさのバランス、そして、枝の伸びていく軌跡。
どれもが美しい。美術と同様、植物にも全く関心がなかった私が、この時、生まれて初めて、木を美しいと感じた。
人間の芸術は「神様」の芸術に、まだまだ及ばないのではないか、などと何だか偉そうに心の中で思った。
こんな私だから、芸術作品の本当の素晴らしさがわかるまでには、まだずいぶんと時間がかかりそうだ。
でも、美術館に行く時間が、自分の生きる楽しみの一つになり始めたのはうれしく思う。
だから、いつか、「少し離れて、すわって、見てごらん」と少しだけ自信を持って誰かに言える日が来るかもしれない。
「文芸やいづ 平成21年度 第20号」 掲載
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