テーブルを拭く人
二列置いた斜め前方の席に一人の男性が座っている。
見たところ三十代、営業マンの風情だ。
ここは新東名のサービスエリア。
開通当初は駐車場に入りきれない車の列が本線まで溢れていたこともあったが、今はそれも落ち着き、夕食の時間帯にもかかわらず、フードコートでは心地よい静けさの中、ゆったりと食事ができる。
男性がすっと立ち上がった。
注文したものができあがった合図があったようだ。彼のことが特に気になったわけではないが、彼の姿を目で追ってしまう。
何を注文したのか知りたいという気持ちが心の底にあるのかと、自分の品性の低さに少しがっかりしながらも、見ていない振りをして最後まで見てしまう。
男性がお盆に載せてきたのはラーメンの類らしい。
この人は忙しい営業マンだから、ここで軽くラーメンをすすり小腹を満たして、また仕事に出かけるのだろうなどと勝手な想像に自分で満足して私は自分の食事を再開した。
ふと見ると、さすが忙しい営業マン(かどうかは私の想像でしかないのだが)、あっという間に麺を食べ終わったようで、お盆を持って立ち上がろうとしている。
颯爽と返却口に向かった彼はすぐに踵を返して席に戻っていく、と思っていたら、彼は自分の席を通り越し給湯器に向かって歩いていった。
給湯器からは、冷水、白湯、緑茶が用意されている。静岡の人間は水と同じ感覚で緑茶を飲むが、他県の人にとって緑茶はコーヒーに近い嗜好品であることも多いようだ。
私には、緑茶は好き嫌いを越えたものだが、緑茶はあまり好きではないという人も以外に多い事に気づき驚いたことがある。
彼は静岡の人だろうか。
もしそうでないのなら、忙しいだろうがこの機会に静岡のお茶をゆっくり楽しんでほしい、などと思っていたら、彼は給湯器には行かず、その脇に積んであった台拭きを手に取り、自分の席に戻っていった。
席に戻った男性はテーブルをきれいに拭いて、さわやかにフードコートを去っていった。
彼の意外な行動に心が温かくなる。
「意外な」行動とは、男性に大変失礼な言い方だった。
彼は、食べ終わったら次の人のためにテーブルを拭くことを当然と考える良識とか思いやりのある人なのであり、意外と感じたのは自分の方に「非」がある。
私の方が、良識や思いやりなどというものを失っていたのだろう。
そもそも、大人の良識とか思いやりとは、いったい何だろう。
生まれたばかりの赤ちゃんには、もちろん大人の良識はないし、思いやりもない。
お腹がすいたり眠くなったりすれば辺り構わず大声で泣く。
お母さんにどんな都合があろうが、自分の希望が叶うまで泣き続ける。
ところがしばらく経つと、赤ちゃんは笑うことを覚える。
最初は自分の気分で笑うだけだが、相手を喜ばせるために笑うこともできるようになるらしい。
相手を喜ばせれば優しくされるという利己的な行動であったとしても、人間が初めて自分の周りを意識する行為だ。
視野が広がった瞬間である。
やがて赤ちゃんは幼児となり、隣の子とおもちゃを取り合ったりしながら、視野を広げ、自分の周りに大きな世界があることを理解していく。
そして、自分の行為で周りの人が喜べば自分自身も幸せになれるのだと知り、人に優しく接し、思いやりのある行動がとれるようになる。
視野の広がりは空間的なことばかりではない。
幼稚園児は明日の遠足を楽しみに眠り、小学生ともなれば、一ヶ月後の運動会に向けて練習をする。
こんなふうに時間的な視野も広がってくる。
この時間的視野の広がりも思いやりと大きな関わりがある。このテーブルはみんなで使うということがわかる空間的視野。
次の人が使うということを想像できる時間的視野。
この二つの視野の広がりがあって、大人の良識ある行為、思いやりのある行動ができるようになるからだ。
以前、ある公民館を訪れた時、トイレのスリッパがあちこちに散らかっているのを見てショックを受けたことがある。
公共の場所のトイレのスリッパはみんなで使うものであり、次に使う人のことを考えれば、トイレを出る時にきちんと揃えておくのは、大人の良識として当然の行動であるはずだ。
小学生でも、このくらいの空間的、時間的な視野は持っている。
現に、この公民館の前にある小学校のトイレのスリッパは、いつ見てもきれいに揃えられていた。
小学生にさえできるはずの、食後にフードコートのテーブルを拭く男性の行為を「意外」だと感じた自分は、もう一度小学校の教室で学び直さなければいけないのかもしれない。
「文芸やいづ」第25号 奨励賞
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