チャンス
市長と語る会が行われました。これは、市長が毎年1校ずつ小学校を回り、小学生とじかに話をするという企画です。市内には小学校が10校あるので、黒石小にその順番が回ってくるのは、10年に1度という訳です。
市長も、せっかく小学生の話をじかに聞けるのだから、ひとつは願いをかなえてやりたいという気持ちで来てくれているそうで、これは、かなりの幸運を彼らが持っているということでしょう。
さて、会の方は、前半が歓迎の意をこめての校技なわとびの披露と、車椅子の紹介を行いました。車椅子の紹介では、市長、教育長をはじめ、来賓のみなさんもいっしょになってアルミ缶をつぶしてくれました。
コンクリートの上でつぶす騒音と、ビールの残りが発する匂いは体験してもらうことができませんでしたが、子供達が毎日、福祉活動に励んでいることは、よく分かっていただけたようです。
後半は、いよいよ、話し合いです。いきなりでは、何を言っていいのか見当もつかない子も多いかと思い、先月、学年集会を開いて、こんなことを言ってもいい、あんなことも言っていい、といろいろと例を挙げたり、友達同士で言ってみたいことを聞きあっておきました。誰でも発言する自信がもてるようにしておきました。
さあ、本番です。
残念なことに、最初、手を上げる子は、一人もいませんでした。しばらく、何人かが遠慮がちに手を上げるという状態が続きました。規定の時間を半分も過ぎたころ、友達が発言するのを見て安心したのか、しだいに手を上げる勢いも増してきました。
しかし、もう後の祭り。一番言いたかった、近くに公園がほしいという要望は、とうとう、時間切れで出せずに終わってしまいました。
最初からどんどん発言していれば、もっと余裕が持てて、要望もたくさん出せたと思います。
日ごろ、社会を見つめる勉強をしています。相手に分かる発言はどうすればいいかという勉強も、授業1時間1時間の中で、毎日学習しているはずです。この会はその成果を発揮できる千載一遇のチャンスです。しかし、彼らの中で、このチャンスを生かして、進んで発言できたのは、ほんの一部です。
チャンスというのは、人生の中で何度も巡ってくるものですが、一度逃がしたから、すぐ次のチャンスが来ると思ったら大間違いです。一度逃がしたら、次にいつ来るのか分からないのがチャンスなのです。
チャンスを確実につかんで自分の人生の幸せの種にするために必要なのは、「日ごろ真剣に取り組んでいる」という自信です。大舞台では誰でもドキドキするものですが、それを乗り越えさせるのが「自分は毎日全力で取り組んできたのだ」という自信なのです。
日ごろ、予習も復習もしないで、授業で発言する準備をしてこないような子は、こういう大舞台で、意見を言えるはずはありません。
4月の初め「テストは嫌い」と全員が言っていましたが、多分今は、「テストは自分の実力を見せるチャンス」と思える子が増えてきていると思います。本当に日ごろ頑張っている子が増えているからです。
テストもチャンス。テストが嫌いなんて、よほど日ごろ勉強をサボっている子です。那覇のアクターズスクールで毎日懸命に頑張っている子の中に、オーディションは嫌だ、という子は、一人もいないでしょう。
幸運
世界中の何千万人というサッカープレーヤーのうち、ワールドカップへ出られるのはほんの一握りの人です。ほとんどの人が出られません。本大会のフィールドで活躍している選手より、もっと高い素質を持って生まれた人も大勢いるでしょう。同じ資質を持っていながら、結果に違いが出るのはどうしてでしょう。
運のせいにする人がいます。確かに運が良くなければいけません。では、成功しない人には、全く幸運の女神はほほ笑んでいないのでしょうか。私には、そうは思えません。大きい小さいの差こそあれ、誰にでも幸運の女神は、何度となく、すべての人の目の前を通っているのではないでしょうか。
幸運がやってきたとき、その運をつかんで花を咲かせる人。その運を上手につかめない人。それどころか、幸運が目の前にやってきたのに、それに気づきさえしない人。この違いが、人生を大きく分けるのではないかと、私は思っています。
生きているうちに何度かやってくるチャンス。これをつかまえるためには、準備万端にして待っている必要があります。
たとえば卒業文集。これまできちんと日記を続けてきた子は、苦労しながらも、すてきな内容で書き始めています。日記をやってこなかった子は、なかなか書き出せない、書き出しても文にミスが多い、また、書き上げても、本当にこれを6年間の最大の記録にしていいのかと疑問に思うような内容だったりします。
日頃、勉強を本気でやっている子がテストで良い点を取って、勉強をしていない子が良い点を取れない。これは当たり前のことです。テストというのは、自分の頑張りや実力を他の人に知ってもらう最大のチャンス(幸運)です。それが理解できるのは、毎日こつこつと本気で勉強をしている子。そうでない子は、テストがチャンス(幸運)だなんて、とても思えないのです。
2倍に使う
幸運を逃さずつかむ準備について、少し突っ込んで考えてみましょう。幸運をつかむために、人の2倍努力したいところですが、誰にでも1日は24時間。同じ長さしかありません。これ以上長くできないのなら、今よりも、その時間を太くしたり、濃くしたりするしかありません。
今日社会科で、最初は、「開国しないで江戸時代をそのまま続ける」という考えを持っていました。理由を自分で発表してみたり、友達の意見の発表を聞いた後も、その考えは変わりませんでした。
しかし、五箇条の御誓文を読んでみたら、「みんなの意見を聞く」とか「国民の一人一人の望みがかなえられるような世の中にしたい」という文があり、新しい時代もいいなと思い始めました。
そこで少し調べてみると、教科書の85ページに「農民は不満を持って怒っている」と書いてありました。それで、これは少しあやしいなと思えてきました。その後また少し考えてみましたが、これはあやしすぎるので、僕は最初の意見に戻りました。この先はどうなるかわからないけれど、新しい時代は無しにした方が良さそうです。
A君は、日記にこのように書いてきました。こうすると、文をうまくする練習ができると同時に、社会科の時間に考えたことも、脳の扉をノックして復習することができるのです。もちろん日記の宿題というノルマも果たせます。
こんなふうに、時間を2倍に濃くする工夫をしている子は、このクラスにたくさんいます。右の資料はBさんの宿題のノートです。ドリルをやってただ丸をつけてくるだけの子もいますが、Bさんをはじめとする何人かの子は、こうして自分の分析と対策を、宿題の中でやっています。
宿題をやるというノルマを果たす中で自分の実力を確実に伸ばすという“2倍”の勉強をしています。
以前お話しした書き取りのやり方を依然としてていねいに続けている子も少なくありません。明日の分の読み仮名を今日のうちに書いておくという方法です。
読み仮名を書いて漢字を書くという内容、量は、他の子と何ら変わりません。ただ、読み仮名だけを1日先行して書くことで、脳の扉が2回開かれるという現象がおきます。これも、同じ時間でありながら、この方法をとっていない子の2倍の濃さで勉強をしていると言えるでしょう。
その他、予定や本読みカードをローマ字で書くなど、工夫の仕方はまだまだたくさんあります。ただし、よく言う“ながら勉強”は、これには含まれません。“ながら勉強”をするといかにも2倍の情報量が入ってくるような気がしますが、これは、脳の構造上、無理なことです。
運転しながらラジオを聞いているとき、目の前の自転車を抜きたいのに抜けないなどと考えていると、ラジオの内容がよくわからなくなっているのを、運転したことのある人なら誰でも経験していると思います。“ながら”は同時に2倍の情報量を得られるのではなく、2つの情報を行ったり来たりするだけなので、時間を2倍の濃さにはできないのです。