テレビ禁止令

  テレビ禁止令発令です。

 社会科は、資料集や自分で集めた多くの資料があるので、国語の時間に比べると、教科書を朗読する時間は多くありません。昨日、江戸時代の学習に入るにあたり、みんなで教科書を読んでみることにしました。少し気になることがあったからです。

 不安は的中しました。心配だったのは、「もしかしたらこの子たちは、教科書を読めないのではないか」ということでした。半年、歴史のいろいろな場面において問題を作り考える学習をしてきたのですが、発想はなかなか良いのに、資料を元にして発言することがうまくありませんでした。それで、もしかしたら、資料の文が読めないのではないかと心配していたのです。

 国語の教科書は、参観デーでも見ていただいたとおり、なかなかうまく読めるようになりました。フレーズを一目でつかむ技術も進歩してきました。でも、社会科の本はまだまだです。社会科の本がすらすら読めない、内容がつかめないことの第一の原因は、ボキャブラリーの不足です。

 最近の子供のボキャブラリー不足の原因のその多くは、テレビやテレビゲームのやり過ぎにあります。コミュニケーションのない一方的な情報。しかも、ビジュアルによって言葉がマスキングされてしまうテレビやテレビゲームでは、言葉を増やすことはできません。ですから一人きりで見るテレビは、子供の学習の敵です。

 しかし、前にも書いたと思いますが、テレビそのものは悪者ではありません。子供が一人きりで見た場合に限って、その悪の部分は強調されます。例えば、おじいさん、おばあさんと一緒に『水戸黄門』を見たとします。それを見ている1時間の間に、おじいさん、おばあさんからいろいろな話が聞けるでしょう。「あれは何だろう」と思ったらすぐに聞ける人が隣にいれば、たった1時間でも江戸時代についての知識は、ぐんと増えるはずです。ところが一人きりで見ていたのでは、わからないものはわからないまま。わからないことさえ気づかない。無駄どころか、疲れるだけのマイナスの時間になってしまうのです。

 いろいろなメディアが発達して、本や活字という情報媒体がいかにも古いという印象を受けるこの頃です。しかし、だまされてはいけません。言葉に頼る学習は、まだまだこれから先も続くのです。言葉や文章を十分に理解し、正確に使用することのできない人は、6歳以降の学習はできないのです。エヴァンゲリオンのように、感覚だけで操縦できる機械は、この子たちが生きている間はまだ一般化しないでしょう。

 『テレビ、及びテレビゲームを禁止する。ただし、家族と一緒に楽しむときを除く』

この禁止令には、罰則はありません。もっと良くなりたいという強い意志を持ったものだけが人生の成功をつかむという結末が待っているだけです。

迫力

 先月は読書週間ということで、その活動の一つとして、公民館で読書推進の活動をなさっているAさんに来ていただき、本の朗読を聞きました。子供たちが感想を書いてAさんに送ったところ、お返事をいただきました。

                 
 6年2組の皆様へ
 お手紙ありがとうございました。皆さんのお手紙を読んでいると、一生懸命お話を聞いてくれた皆さんの顔が目に浮かんで来てとても幸せでした。
 お手紙の内容も様々でしたが、「今まで、あまり本を読まなかったけれど、お話が面白かったので色々な本を読もうと思います。」というお手紙が何通かあり、感動しました。特に『ニルスの冒険』を読みたいというお便りもたくさんありました。ぜひぜひ読んで下さい!
 想像力、空想力というものは、人間にしかないものです。それも子供の間に考えたり想像したりしなければ、一生身につくものではありません。たくさんの本を読み、想像力や人を思いやる気持ちを養い、人生を豊かなものにして下さい。
 お元気で!                                   
                 

 子供たちはテレビを通じて『耳なし芳一』よりもっとわくわくする話をたくさん知っているはずです。しかし、あの時、子供たちは真剣な眼差しで小早川さんの朗読に聞き入っていました。小早川さんの高い技術や情熱がそうさせたのはもちろんですが、その他に、“生の迫力”というものが、彼らをとらえているのではないかと私は感じました。

 私が子供のころはまだ町には、紙芝居のおじさんがいました。テレビもあったのに、おじさんがくると、近所の子供たちは、みんな紙芝居の自転車のまわりに集まりました。きっとそこには、生でしか出せない音(声)の迫力や、聞いている子供を離さない技術があったのだと思います。

 テレビが無かった頃、大人が生の迫力をもって“お話”の醍醐味を教えてくれた。それが、今でも何とか活字を読む気力を、その頃育ててくれたのではないか、と最近思うようになりました。父親として、少し反省している今日この頃です。

 生の迫力について、少し付け加えておきます。テレビなどと違い、目の前で話して聞かせる効用は、大きく二つあります。

 一つ目は、聞いている人とのやり取りをしながら進めるということです。優秀な演じ手は、観客の呼吸を読み取って演じていくと言われます。観客が息を飲む瞬間を見逃さずに、自分の最高の演技を見せるそうです。名役者とまではいかないまでも、人前で演じたり、人に読んで聞かせることの経験を積んだ人は、相手の気持ちに合わせて読んだり演じたりできるようになるそうです。

 普通の人でも、自分の子供に対しては、名演者になれそうです。お子さんが小さなころ、寝る前の布団の中で“お話”を聞かせたときのことを思い出して下さい。お子さんの息遣いから、お子さんの興奮度を感じながらお話していたのではないでしょうか。お子さんが面白がっているか、眠たがっているか、それに応じて読む強さや速さ、時には物語の結末まで変えていった経験はありませんか。

 読む人(語る人、演じる人)と、聞く人(観る人)が一体となったとき、1+1=2以上の力が発揮されるのです。一方的に情報が送られるテレビでは、こうはいきません。

 二つ目は、以前お話したかと思いますが、テレビのような機械を通した音には、機械の性能上限界があるということです。一番重要だと思われるのが、周波数の限界です。

 音波には、人の耳が感じない高い周波数のものや低い周波数のものがあります。聞こえない音波というのは想像がつきにくいのですが、実はその聞こえない部分が脳や心に大きな影響を与えるようなのです。

 20年ほど前に『大地震』という映画がありました。その映画では、地震の轟音に、人には聞こえない低い周波数の音波を混ぜて、恐怖感を出すことに少しだけ成功していました。しかし、普通のテレビではこの音波は出せません。

 モンゴルには、ホーミーという歌唱法があります。ホーミーが心を癒すのは、耳に聞こえない周波数が脳波に影響を与えているからではないかということがわかってきました。残念ながら、これもテレビでは出せません。

 人の生の声や自然の音には、こうした普通に音としては感じられない成分の音波が含まれているようです。この聞こえない成分の持つ意味は、まだはっきりと科学では解明されていませんが、大変重要ではないかと私は感じています。

 特にお父さん、お母さんの声は、お子さんと発する音質が似ている、小さいころから聞き馴れている、という点で、お子さんには見えない(聞こえない)部分で、よい影響があると思われます。ですから、親子の会話を増やしてたくさん言葉のやり取りをすることは、家庭内を暖かくすると同時に、お子さんの国語の力も伸ばすのだろうと思われます。

 いまさら、などと思わずに、“布団のお話”から(算数でやったように)登り直してみるのも、お子さんを伸ばす一つの方法かもしれません。

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