食事を教える
2月に、1年生の教室に、給食を食べに行きました。
1年間、鍛えられただけあって、支度から片づけまで、手伝わなくても自分たちだけで、できていました。
とはいえ、一人一人の様子を見ると、いろいろと違いが見えてきます。
支度から片づけまで率先してやる子、自分のことだけをやってモリモリ食べる子、食べるのに精いっぱいの子…。同じ場所で同じ1年を過ごしているのに、「力」の差は、はっきりと出ています。
違いが出てくる原因は、主に2つあります。
一つ目は、好き嫌いに対する考え方です。
好き嫌いがなくて何でも美味しく食べられる子は理想的ですが、嫌いなものがあるのは当然で、好き嫌いがあっても良いのではないかと、私は思います。
好き嫌いがあるというのは、味に敏感であるという見方もできるからです。
問題は、ここから先で、嫌いな食べ物について、どう躾けられたかで、大きく差が出ます。
嫌いなものは食べなくてもよいと躾けられて育ってきた子は、食べることで精一杯になってしまいます。
嫌いなものを食べないと、家庭と違って、学校では周りの子どもから色々な声がかかります。
そんな声に対応していたり、それが嫌で、無理に食べようとすると食べるのが遅くなったり、体調が悪くなったりします。
こうなると、もう、自分のことしか見えない子になってしまいます。
一方、嫌いなものも食べるように躾けられてきた子は、そういう困ったことが起きません。
中には、みんなで食べたら楽しくて、嫌いだと思っていたものも美味しく感じられた、などという子も出てきます。
食べること、そのもので困らない子は、片づけまでてきぱきとでき、人の分まで手伝い、楽しい昼休みを待つことができます。
二つ目は、食事に対する考え方です。
食べることだけを「食事」と教わってきた子は、準備や片づけの時に気が回りません。
しかし、準備から片づけまでが「食事」であると教わってきた子は、準備や片づけの時に、自然に体が動きます。
準備というと、買い物や調理まで含んでしまいますが、この点が学校で役に立つのは5年生になってからのことが多いので、学校に入学してから、少しずつ体験させれば間に合います。
しかし、配膳から食器の片づけ位までは、「食事」という一つの行為であると入学前に教わってきた子と、そうでない子は、1年生でも大きく差が出ます。
食事の後、自然の行為として片づけの行動ができる子は、能力の高い子に見えます。
人の世話までできる子は、素晴らしいと評価されます。
働くという行為は、いうなれば、どれくらい他の人の役に立つか、ということで、これは一生を通じての課題ですから、学校においても、人の役に立てる子の評価は高いと思います。
学校は勉強をするところですが、学校生活の中の、こうした小さな一つ一つの場面で、力を認められ自信を持つことは、学力の伸びにも良い影響を与えます。