私の教室
研究発表会が、私の勤める学校で行われました。
百人を超す先生方が、他の学校から参観にみえました。
子どもたちに、研究会の授業をする、と言うと、「それは大変だ」と、掃除を始めました。
いつも、掃除を真面目にやっていると褒められている彼らですが、今回は、いつも以上に張り切って掃除をしています。
私が気づかなかったところにまで手を入れて、教室のみならず、隣の学習室、その先の廊下、階段まで、休み時間を返上してやっている子もいて、驚きました。
おもてなしをするという心を持っていてくれることにも感動しましたが、それ以上に、この子たちに、「私の教室」「私の学校」という意識が芽生えていることが、うれしく思えました。
級友30人と暮らす部屋は、自分の部屋である。
こう感じている子は、30人分の心を見る視野を持っています。
400人で暮らすこの学校は、自分の学校である。
こう感じている子は、400人分の人の心を見る視野を身に着けたといえます。
自分以外にも人がいる、と理解した時から、すなわち自分以外の人が見える視野を持った時から、思いやりの心が誕生し始めます。
相手のことを、自分のことのように考える。
これが、思いやりの第1歩だからです。
その思いやりが、家族、友達、と広がることで、その分、大きな思いやりを持った人になります。
これが、成長することだと、私は考えています。
教室のごみを自然に拾えるようになった時、その子の視野は、学級という広さに広がったと言えます。
廊下や運動場に落ちているごみを自然に拾える子は、学校という大きさの視野をすでに持っています。
道に落ちているごみを自然に拾う子は、地域、いえ、もしかしたら、国、人類、地球くらい視野と意識が広がっているのかもしれません。
どこを一所懸命に掃除しているか、どこのごみを自然に拾っているかをみれば、その子の視野の広がり、すなわち人間として、どのくらい成長しているかがわかります。
お子さんは、家の中のごみ、家の周りのごみ、道路のごみ…、どんなごみを自然に拾っていますか。
負けた試合の後でさえ、ごみを綺麗に拾って帰るサッカーの日本のサポーターが世界で称賛されています。
その一方で、バイパスのインターチェンジにごみが散乱しているのを見たり、子どもたちのあこがれの野球のメジャーリーグの選手が使った球場のベンチがごみで汚れていたという話を聞いたりして、さみしくなったりもする今日この頃です。
読者からの感想********************
アメリカに住んでいた時、子供を現地校に通わせているお母さんに聞いた話を思い出しました。
子供がボランティアで公園のゴミ拾いをしようとしたら、それは公園で清掃している人の仕事を奪うことになるからと反対されたそうです。
アメリカの小学校では、掃除の時間がありませんでした。
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読者からの感想********************
海外で暮らすむすこたちは、教室の掃除さえしたことがありません。
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日本の掃除の基本は、ぞうきんがけです。
これは、人が捨てたごみを拾うのではなく、自然にたまる塵や埃を取り除くのが目的です。
日本では、人がごみを出すことを、もともと想定していないのです。
日本から、もっと視野を広げた時に、初めて日本のよさがわかりますね。