誰かが僕を蹴りました
体育で、遊具を使ったトレーニングを終えたA君が、擦りむいた膝小僧を見せながら、私に言いました。
「誰かが僕を蹴りました」
そこで、詳しく聞いていくと、「誰かの足が自分の足にからんで転んでしまったが、誰とそうなったのか、それが故意に行われたのかは、よくわからない」という内容に変わっていきました。
ここで、はっきりしたのは、A君が誰かの足によって転んだという事実があったこと。
そして、それが故意に行われたのかどうかというのは、それが事実かもしれないし、事実ではないかもしれない、ということです。
A君が転んだ真の原因は、まだわかりませんが、まだわからないこの時点でのA君の発言は、「喧嘩の火種」になるおそれがあります。
これは、A君にとって「損なこと」です。
長い人生の中では、本気で闘わなければいけない事態が起こりうることがあるとは思いますが、もしそれが、ただの勘違いで、喧嘩や戦争が起こるとしたら、馬鹿らしい話です。
誰かの足が自分の足にからんで転んでしまった時、
A 誰かが僕を蹴った
B 誰かと足が絡んで転んでしまった
C 自分は誰かを蹴飛ばしてしまったかもしれない
など、どんなふうに感じ、どんなことを口にするかで、それからの事態は180度変わります。
たとえ事実がどうであっても、
Aなら、喧嘩が起こるだろうし
Bなら、周りも落ち着いて事実をつきとめてくれるだろうし、
Cなら、後々、応援してくれる人が多い人生を歩むでしょう。
コップの中に水が半分ある時、「まだ半分ある」と言うか、「もう半分しかない」と言うか、という設問は有名です。
事実は、思い方一つで180度違うものになるのであり、その思い方は、自分の使う言葉一つで変わるのだということを、子どものうちに理解していってほしいと願っています。
お子さんは、ある事実に対して、どんな言い方の癖を持っていますか。