教えなくては、正しく知らない
各地の成人式の様子をテレビで見ました。
これまでは、暴走する幼い20歳の事件ばかりをニュースで取り上げることが多いような気がしていましたが、今年は、立派に抱負を述べている若者の映像が多いように感じました。
話す内容もよかったのですが、話し方が上手だと思える人が、たくさんいました。
以前、暴れた者が、「小さい頃、荒れている成人式をテレビで見て、真似をしたかった」と言ったのをニュースで見ました。
残念なことですが、良し悪しは関係なく、人は真似の中から、自然に学んでいるのです。
先週、クラスに転入生が来ました。
転入生A君は、日本に来て、まだ4か月。
日本に来てから日本語を勉強したそうですが、もう平仮名が全部読み書きできます。
大変な努力をしたと思います。
とはいえ、きっと、まだ、わからないことばかりでしょう。
言葉一つから、日本の習慣まで、覚えなければいけないことが山盛りで、大変です。
そんなA君と、成人式のことを合わせて、ふと気づいたことがあります。
「素敵な言葉は、教えなくては使えないのではないか」ということです。
A君は、日本に来て、わずか4か月。
他の子は、というと、「日本に来て」、わずか10年です。
10年といっても、最初は赤ちゃんなのですから、実質は10年に満たないのです。
なのに、日本に生まれたのだから、子どもたちが日本語を「正しく」話せて当然のように、大人は勘違いしてしまいます。
24時間、日本語に囲まれているので、もちろん、子どもたちは日本語を吸収し、使えるようになっています。
ただし、そのすべてが、大人が望むような「正しい」日本語とは限りません。
そんな時、大人は、「その日本語は正しくない」と、いきなり怒ったりします。
自分が、「こういう場合は、こんな風に言うのが正しいのだよ」と教えていないのに、です。
学校現場でも、勘違いをする場合があります。
読む力がないから、読書をさせよう。
書く力がないから、作文の時間を増やそう。
話す力がないから、スピーチの時間を作ろう。
もちろん、これは、力を伸ばすためによいことですが、これだけでは、御飯の炊き方を知らない子に「ブランド米をあげるから、おいしいご飯を炊いてみなさい」と言っているのと同じことです。(それで、美味しく炊けなければ、いきなり怒って…)
子どもたちに方法を教えなくても、お米を与えて十分な時間を保証し限りない失敗を許せば、きっと、みんな、美味しいご飯の炊き方ができるようになるでしょう。
何度もの失敗を経て、力を身につけさせるのは、教育の本質と言ってもいいかもしれません。
しかし、言葉に関してはどうでしょう。
失敗をよしとせず、「時間を増やしたのに、読めない、書けない、言えない…」などと嘆いたり、教えていない話し方について、「その言い方は違う」などと怒ってはいないでしょうか。
言葉は、24時間、耳や目に入ってくるものなので、学校ではもちろん、家庭でも地域でも「正しいこと」を教えてやらなくてはいけないのではないかと思います。
最近、「正しい話し方、挨拶の仕方」や「正しい手紙やメールの書き方」について、お子さんと話す機会はありましたか。言葉について、教えていないことを、いきなり怒ったりしていませんか。
言葉は、人間だけが持つ素晴らしい道具です。
正しい話し方、書き方は、お子さんの人生を、いつか、きっと、救います。