物語を読む
読者の方からのお便り***************************************
子供たちと共通の本を読めるようになったので、狭いリビングに本棚を買い、家族の本を集めました。
結構ありびっくりしました。
息子と娘なので、買う本のジャンルも違い、ちょとした図書コーナーです。
まだ主人が参加していないので、また違う種類が増えると思うと、わくわくします。
本棚の前で本を選んでいる子供たち、好きです。
話題も増えました。ちなみに私は今度は「もしドラ」を読む予定です。
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素敵なリビングになりましたね。
「もしドラ」は6年生くらいだったら理解できそうです。
3学期、授業に余裕が出たら、教室で「もしドラ」の朗読会をやりたいなあと思っています。
さて、読書ですが、本の読み方は本来個人の自由で、それぞれに楽しみ感動すればいいのですが、国語の授業では、読み方の一端を、みんなで学習します。
国語の教科書の読み物は、主に「物語文」と「説明文」に分けて考えます。
どちらも、内容を読み取り自分なりの感想や意見を持つ、というのが最終目的です。
しかし、決められた授業時間では、なかなか完全にそこまでいかないので、読み方の一部をクローズアップして取り扱います。
「川とノリオ」という物語文を学習しました。
本当なら、戦争の背景を知り、物語の場面を読み取り、感動の上に作者の真意を読み取る、というところまで行きたいのですが、今回は、徹底的に、言葉に注目する読み方にしました。
「今回は、分からない言葉、ではなく、ここを掘ったら宝が出てきそうな怪しい言葉を見つけて掘り起こそう」と呼びかけました。
「怪しい言葉に印をつけよう」という呼びかけに、子ども達は、本当にたくさんの印を教科書につけました。
たとえば、色です。
この物語には、「青」「白」「銀色」などの色に関する言葉が、少し多めに出てきます。
「色がたくさん出ているような気がする」ふと、そう思った子は、色を表す言葉全部に印をつけます。
これだけでも、「怪しい言葉」探しは、充分です。
作者が意図的に、その色の名を使っているところもあるし、無意識に使っているだろうと思われるところもあります。
ですから、それをすべて正確に読み取る必要はありません。
全く違う場面に、違うものを表すために使われている「青」という言葉が、もしかしたら、悲しみなどの同じ感情を表すために使われているのではないか、と想像するだけでいいのです。
1回目に読んだ時は気づかなかったことを、2回目に読んだ時、自分が発見してしまったということもあります。
この喜びも大事です。
作者の意図と全く違う解釈をしてしまうのは、さすがに問題がありますが、作者にしても、微に入り細に入り、すべての言葉に仕掛けをしてあるわけではないし、逆に、作者が意図しなかった部分で、読者に深い解釈をしてもらえるのは、作者としてもうれしいことです。
ただ、子どもが読む場合、解釈には、大人に手伝ってもらわなければいけない部分もあります。
「川とノリオ」の中で、ノリオのお父さんとお母さんが亡くなってしまうのですが、その時のおじいさんの悲しみの描写については、知識が必要です。
おかあさんが亡くなった時には、おじいさんの顔が「ヘイケガニ」のようにぎゅっとゆがみます。
これはわかりにくいのですが、教科書にはヒントが脚注に書かれています。
お父さんが亡くなった時には、おじいさんは、煙管をぎゅっと噛み、うっ、うっと声を出します。煙管の仕組みを詳しく説明したら、子ども達は「想像していたおじいさんの様子と違った」と口々に言いました。
ここから「お父さんが亡くなった時とお母さんが亡くなった時のおじいさんの様子は、どうして違うのだろう」と考える子も出てきます。
「怪しい言葉」はどれでもいいのです。
優秀な文学作品は、すべての言葉が「怪しい」と思っても間違いではありません。
大事なのは、怪しい言葉を見つける喜び、怪しい言葉を見つける意欲、そして、怪しい言葉を共有してくれる人が周りにいるかどうか、です。
個人の読書を豊かにしてくれるのも、やはり「人との関係」なのです。
「川とノリオ」という作品が持つ魅力をすべて捉えられたわけではありませんが、授業がすべて終わったとき、ある子が「こんなに詳しく読んだことはない。面白かった」と言いました。
家で読書を楽しむ時は、こんな読み方をする必要はありませんが、親子で同じ本を読んだ後には、「この言葉、すてきだね」と、ちょっとだけ話すだけでも、物語文をより深く味わうきっかけになると思います。