アナゴが草の上から
6年生の授業です。国語で「イナゴ」という詩を分析しました。
イナゴが草の葉の上から自分をじっと見ている、という詩です。
1時間いろいろな意見が出て、なかなかよい授業になりました。
翌日、次の詩に移ろうとしたら、あるグループの話し声が聞こえました。
「何かあるの」と聞くと、「この人が、イナゴってアナゴみたいなの?と聞いてくるんですけど」と子どもが答えました。
「イナゴってどういうのか、わかるよね」と、みんなに聞くと、ほとんどの子が大きくうなづきましたが、よく見ると、うなづいているのは全員ではありません。
ということは、前回の1時間、イナゴがどういうものかわからないまま、詩を読んでいた子がいたわけです。
イナゴとアナゴ、たしかに1文字違いです。
子どもたちの生活の中での認知度は、アナゴのほうが断然上です。
そういえば、解釈する中で、イナゴって食べられるんだよね、という意見も出ていました。
アナゴは食べ物として認知されているでしょうから、1時間の授業中、何人かの子はアナゴのような生物が草の上で、作者を見つめている図を想像しながら、みんなと話し合いをしていたわけです。
先日、「論」という新出漢字のテストで、「相対性理論と量子力学」という問題を出しましたが、正解の子はいませんでした。
どれも簡単な漢字です。
漢字ひとつひとつは書けるのに、言葉を知らないので書けません。
親より背の高くなった6年生といえども、まだこの世界に生きてたった12年。
文字を認識してからは6年ほどしか経っていないのです。
うっかりすると、大人びたことを話す6年生が何十年も生きている大人と同じくらいの量の言葉を知っていると錯覚してしまいます。
でも、彼らが知っている言葉は、大人の知っている言葉の何十分の一かであり、しかもそれぞれの生活環境によって偏りがあります。
それをいつも忘れずに、子どもに話しかける必要があります。
叱っている時、興奮して子どもが知らない言葉を使っていませんか。
子どもに話しかける時、子どもの語彙の少なさを意識して、内容がわかるように話すと同時に、子どもたちにたくさんの言葉を教えたいとも思います。
脳の発達段階を考えると、詰め込んだ方がいい時期と、そうでない時期があるように思います。
とりあえず、お父さん、お母さんが知っている言葉はみんな教えてください。
アナゴはどういうもので、イナゴはどういうものか。
イメージを添えることを忘れずに教えてくださいね。